(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『見るまえに跳べ』 大江健三郎

 今迄もそしてこれからも跳ばない、跳べない

 ここの処、大江健三郎を少しずつ読み返しているのだけれども、大江健三郎は読めば読む程、癖のある面白い小説群を残している。この歳になって読むと不思議な事に一層面白く感じる。段々と自分の感覚が大江健三郎に近付いて来たのだろうか?

 新潮社刊の『見るまえに跳べ』は短編集『死者の奢り・飼育』や中編『仔撃ち芽むしり』と同時期に発表された初期短編集である。前に紹介した2冊の中に出てきたモチーフが繰り返し変奏されており、これらの作品群からは初期の大江健三郎に漂う現実社会への諦念や所謂インテリ層としての虚無感・無力感が強く伺える。

 大江健三郎はこの頃、サルトル的な実存を描く小説家と目されていた様だ、が、現代の私の視点から見ると、サルトル的な実存主義というよりもむしろ更にもっとペシミスティックなどんづまりの状況を描いている様に思える。個人的にはサルトルには大江健三郎の小説よりも強い自意識と動力を感じるし、連帯の意義を強く訴えかけていた点などで大江健三郎の書くものとは幾分か異なる方向を向いていたのではなかろうか。哲学者と小説家の違いというのもあるかもしれない。

 何にしてもこの初期短編集で繰り返し表出されるものは、上述した諦念、無力感、そして徒労に終わる行動である。この徒労感というものを執拗に描くという点から、大江健三郎が実存主義的作家と看做されたという事が今となっては分かる。この部分に関しては若い頃に読んだ時には余り良く分からなかったのだが、そこで描かれているものは、確かに徒労感の連続である。村上春樹の小説は読んだ事が無いのだけれども、しばしば「やれやれ」といった言葉が小説の登場人物の言葉として紹介されているのを見掛ける。この「やれやれ」は、むしろ大江健三郎の描く初期短編の世界にぴったりの言葉ではないかとも思う。というのも、正にこの「やれやれ」という言葉を呟く以外にどうにもならない様な出来事を体験するお話が繰り返されるのである。

 まず、最初に収録されているのが『奇妙な仕事』である。この短編は構造的にはほぼ『死者の奢り』と一致しているといって良い。『死者の奢り』に於いて、解剖用の死体を別な水槽に移す労働が徒労に終わったように、『奇妙な仕事』に於いても、実験用の犬を屠殺する苦労の多い作業は結局の処徒労に終わる。戯曲として書かれた『動物倉庫』や短編『運搬』に於いても登場人物達の労働や奮闘を待ち受けるのは無意味な結末である。

 これらの徒労の中でも、この短編集の表題作『見るまえに跳べ』(1958年)は当時の世の中のどうしようもない虚無感、倦怠感を遣る瀬無く描いている。

 登場する人物達は、主人公「僕」とその愛人の外国人専門娼婦である良重、そして良重のもう一人の情人であるアメリカ人のガブリエル、主人公が家庭教師をしやがて関係を持つ田川裕子である。

 世の中に倦んだ情熱を持たない主人公と外国人向け娼婦とその情人の外国人という組み合わせは、この『見るまえに跳べ』だけでなく、『戦いの今日』そして『われらの時代』でも見られる、この時期の大江健三郎が良く用いた構造である。ここに弟が入ってきたり、主人公と娼婦の関係が愛人関係か否か、等がそのバリエーシェンとなるのだが、大江健三郎はこの構造をよっぽど気に入っていたのだろう、この三作品は正に兄弟の様に感じられる。

 ここで大江が描く無力感虚脱感は明らかに、「皇国」の敗北とそれに伴うどうしようもない卓袱台返し、大江らの世代が味わった社会構造のドラスティックな変化、それらが齎した不条理性が反映されているのだろう。今まで存在したイデオロギーがいとも簡単に覆され、そして人々は以前に存在したイデオロギーを否定し、それを受け入れていた自分達がまるで存在しなかったかの様に振る舞って暮らしていく。理性のあるものには耐えられない状況だったのかもしれない。勿論、戦後の日本にアメリカから下賜された「民主主義」という枠組み自体は戦前の全体主義や半封建主義もどきの社会構造よりは妥当な物だと思えるが、人々がいとも簡単に社会構造を放擲し与えられたものを受け入れるのであれば、このアメリカから下賜された「民主主義」とやらがいつひっくり返されてもそれ程不思議ではないのである。

 敗戦後に外国人を専門にする娼婦という存在、そしてアメリカ人のガブリエルに辱められる娼婦という存在が、アメリカに支配されていた戦後間もない日本を暗示している事は容易に推察出来ると思う。「僕」はこの娼婦良重との生活に無力的に浸っている。恐らく、この辺りに、一部の人々から大江健三郎が嫌悪される理由があるのだろう。大江は余りにも露悪趣味的であり極端に走る処がある。しかし、この例えは上品な物では無いにしても、そう外れた物でも無い。「愛国心」故にこの表現に敵意を抱く人々が向けるべき敵意の先は、当時であれば間違いなく、占領米軍及びアメリカのシステムに組み込まれてしまった社会構造である。

 敗戦後の卓袱台返しに加え主人公の無力感を更に煽るのが、この小説の発表前に終結していた朝鮮戦争や発表当時その最中であったベトナム戦争・アルジェリア戦争であろう。日本から見て外国の人々が、彼等の自由の為に、彼等のイデオロギーを守るために、命を賭している。それに対して、日本の若者がやっている事はせいぜいデモを行う位であった*1。そしてそれらの活動がどれ程に効果があるのか? 熱狂していた人々以外には実際の処大いに疑問であったのは確かな筈である。ではどうすれば社会を変革出来るのか、出来たのか?それに対する答えは容易に見つかる筈がない。小説中でガブリエルが「僕」に向けて放った言葉「見るまえに跳べ」に、この無力感が凝集されている。

The sense of danger must not disappear:
The way is certainly both short and steep,
However gradual it looks from here;
Look if you like, but you will have to leap.
-"Leap Before You Look"(一部) W. H. Auden

 「僕」は裕子と関係を持ち裕子が妊娠した事によって、良重とのどんづまりの生活からの脱出、つまりその無力感虚無感からの脱出を図る。労働に精を出し、フランス文学を熱心に学ぶ姿は「僕」が暮らす世界のアメリカ的支配からの脱出を希求するかの様である。しかしフランスからの新思想はやはり借り物でしかないし、借り物で新たな主体化を行う事には相当な困難が予感されるのが当然であろう。裕子の妊娠は新たな国生みを示唆し、そこに新たな主体性が生まれ得ることを期待させるのだが、大江健三郎の小説の行先は誰もが知る処である。「僕」と裕子の淡い希望は無惨に潰え、そこに残されるものはやはり無力感と虚脱感である。

 新たな希望を失い、「僕」は「良重=屈辱の中に暮らす安寧」へと帰る。良重が日本人の客を揶揄して放つ言葉がどうしようもない。《つまんない、ちっぽけな日本人》。その言葉に引きずられる様に、「僕」は不能になっている事に気付く。徒労と喪失と無力感。希望を失った「僕」にはもはや何も残されていないのだ。 

 大江健三郎は、当時の日本にそして無力な自分自身に我慢がならなかった一部の人々の思潮の幾らかを具現化する事に成功している。この大江の描いた感覚は、若い人々には信じられないかもしれないが、三島由紀夫が抱いていた焦燥感とも根は同一である*2。「見るまえに跳べ」これは確かにそうなのだろう。だが何人が実際に跳ぶ事が出来るのか?大江の描く世界では「僕」は跳べなかったしこれからも跳ばないだろう。徒労とどんづまり。行き場など他にない。我々に残されているのは緩慢な死のみである。

 カミュは『シーシュポスの神話』やら『ペスト』やらに於いて、人生という徒労を肯定的に捉えその中で不条理に立ち向かうことを良しとしたが、実際問題として、弱き我々一般人がその様にこの世を捉える事は可能なのだろうか? 大江健三郎が描いたこのどうしようもない徒労、どんづまり、結末の無い運命、これらは現代日本に暮らす我々が正に直面している課題だと言えるし、カミュの説く強い意思に辿り着く前に我々が味わう課程であろう。そして、この課程の方に重要な全てが凝縮されているのではないか。そもそも、カミュの述べる処に万人が到達するとも限らないのである。むしろほとんどの人間がその様に成れないのが現実だろう。私自身、今迄もそしてこれからも跳ばないし跳べないだろうという確信に近い予感がある。この歳になって大江健三郎がなぜノーベル賞作家に選ばれたのかが朧げながら分かって来た様な気がする。

見るまえに跳べ(新潮文庫)

見るまえに跳べ(新潮文庫)

 

*1:勿論、武力闘争を行う事の方が立派等と言うつもりは毛頭無いが、大江健三郎は左翼活動を実際に行っていたからこそ、その当時の彼等の活動に無力感を感じていたのだろう。三島由紀夫など保守派が、当時の左翼活動を「安全な場所で子供染みた騒動を起こしているだけ」と批判していたのだが、大江としても一部痛い処を突かれている感はあったに違いない。

*2:とはいえ、彼等の採った政治的手法は全く異なる物であったのは言うまでもないだろう。三島由紀夫はある意味においては跳んだのである。それに意味があったかといえば、残念ながら意味はなかったと答えるしかないと思うのだが、そもそも生きる意味などは存在しないのである。大江の採った政治的活動は当時としては妥当な物であったと思うのだけれども、往々にして、政治的活動は本人の当初の意図からずれて迷走してしまうというのも現実だと思う。