(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

“The Greene Murder Case” S. S. Van Dine (『グリーン家殺人事件』 S・S・ヴァン・ダイン)

 陰鬱な館に潜む悪意

 相変わらず、江戸川乱歩の『悪人志願』を読んでいる、のだが、ネタバレのせいでヴァン・ダインに関する随筆が中々読めなかった。それが理由でまず“The ‘Canary’ Murder Case”を前回読み終えたのだが、実は、同じ随筆の中で“The Greene Murder Case”のネタバレも行われていて、これを読まずには前に進めない。と言う訳で“The ‘Canary’ Murder Case”に続くPhilo Vanceシリーズ第3作目の“The Greene Murder Case”(『グリーン家殺人事件』:1928年)を読んでみた。勿論、「乱歩の随筆をネタバレなく楽しむため」というのが本作を読んだ理由であったのだが、前作がかなり面白かったので期待して読んだ処もあり、実際期待を裏切る事の無い名作であった。

 Greene家で深夜、令嬢二人が銃で襲われ、一人は絶命、もう一人も銃創を負うという事件が起きた。Greene家の現在の当主、Chester Greeneはどうやら何かに勘付いている様で、Markham検事に直接事件捜査を依頼しに来る。偶然、同席したVanceは事件に嘴を突っ込み捜査に加わるのだが、彼の悪い予感通り、事件は一筋縄ではいかず、Greene家の人々が次々と何者かに葬られていく。さて、Vanceは犯人を特定する事が出来るのか?と言う、お話である。

 まず、読み終わったおかげで、ネタバレ回避の為に読まずに放置していた乱歩の随筆「ヴァン・ダインを読む」も読む事が出来た。そこでの乱歩の感想が、振っている。

 併し、既読二冊にて申せば、読後の不満は犯人が余りに早く推察されることです。
 「カナリヤ事件」では第一日の現場描写の所で、既に作者の隠している意図が分り、犯人が推定されるし、(但し、作者の示した手係りにて当然分るのではなく、作者の書き方にて、作者の意中が推察出来るのです。これは一層いけないことだと存じます)「グリイン事件」でも最初から作者の考えが分ります。これは大衆的興味からは寧ろいいことかも知れませんが、全体が非大衆的なのだから、この点も非大衆的であり度いと存じます。犯人が目星がついている為に、冗漫な部分が余計冗漫にも見える訳です。
-「ヴァン・ダインを読む」(『悪人志願』 江戸川乱歩)

 乱歩先生の流石の推理はもうまるで2サスを見ながら犯人アテをする暇人の如く、論理と懸け離れた推理探偵小説愛好家視線による狡い推理である*1。これは推理探偵小説の構造的な問題で、こういう読者の裏をかくためにクリスティーなんかが色々と引っ掛け紛いのトリックを産み出して、一部の推理小説作家がもうちょっと理知的な推理小説を称揚したいとか何とか言っていた訳だが、まあ乱歩先生に掛かっては仕方が無い。そもそもヴァン・ダインのお話なんかは乱歩が好む雰囲気重視物語重視の推理探偵モノであってクイーンだとかオースティン・フリーマンとかみたいな所謂の本格推理物でも無いのだ。

 ヴァン・ダインの雰囲気重視の推理探偵物語の中心に鎮座ましますのは名探偵かつ自由人のPhilo Vanceである。そして、Philo Vanceのその外連味溢れる活躍は今回も健在で、色々と自由気儘にかっ飛ばしている。前回同様“Bye-the-bye”とか“Markham old dear”とか色々とふざけた調子なのだが、それに輪を掛けて強烈なのが、蘊蓄披露であって、例えばこんな調子である。

“(前略)It’s a mistaken idea, don’t y’ know, to imagine that a murderer looks like a murderer. No murderer ever does. The only people who really look like murderers are quite harmless. Do you recall the mild and handsome features of the Reverend Richeson of Cambridge? Yet he gave his inamorata cyanide of potassium. The fact that Major Armstrong was a meek and gentlemanly looking chap did not deter him from feeding arsenic to his wife. Professor Webster of Harvard was not a criminal type; but the dismembered spirit of Doctor Parkman doubtless regards him as a brutal slayer. Doctor Lamson, with his philanthropic eyes and his benevolent beard, was highly regarded as a humanitarian; but he administered aconitine rather cold-bloodedly to his crippled brother-in-law. Then there was Doctor Neil Cream, who might easily have been mistaken for the deacon of a fashionable church; and the soft-spoken and amiable Doctor Waite. . . . And the women! Edith Thompson admitted putting powdered glass in her husband’s gruel, though she looked like a pious Sunday-school teacher. Madeleine Smith certainly had a most respectable countenance. And Constance Kent was rather a beauty—a nice girl with an engaging air; yet she cut her little brother’s throat in a thoroughly brutal manner. Gabrielle Bompard and Marie Boyer were anything but typical of the donna delinquente; but the one strangled her lover with the cord of her dressing-gown, and the other killed her mother with a cheese-knife. And what of Madame Fenayrou——?”
“Enough!” protested Markham. “Your lecture on criminal physiognomy can go over a while.(後略)”

  犯罪者は見掛けに依らないと言う事を述べる為にざーーーっと一見善良に思えた過去の犯罪者達*2を列挙する訳なのだが、この面倒臭い野郎な感じが堪らない。合いの手のMarkham検事の「もう十分だ!」という叫びが見事なコントである。

 勿論Vanceの蘊蓄脱線はこれだけに留まらない。物語終盤にて、写真と絵画の相違に関する芸術論を延々とぶちかまし、偶然に頼った犯罪と綿密に計画された犯罪をそれらになぞらえるのである。小説中これを聞かされているMarkham検事はうんざりとしている。そして、これには流石の乱歩もやや食傷気味だった様で、随筆「ヴァン・ダインを読む」中でやや腐している。まあ、とは言っても、このわざと鼻に付く感じに仕上げている処がVanceの魅力を倍倍倍に増幅しているのであって、これ無しにはPhilo Vanceモノとして物足りなくなってしまう。現状Vance中毒中の私としては、読んでいておおVance節大爆発だな、とやんや喝采したものである。

 さて、この様な蘊蓄振りを読んでいると、はて、これもどこかで見た事が読んだ事があるぞ、と、記憶の彼方から蘇って来るモノがある。前回、VanceがPatrick Janeを思い起こすと書いたけれども、この部分はJaneでは無い、そう、小栗虫太郎が生み出した、かの名探偵・法水麟太郎と彼を活躍?を描いた『黒死館殺人事件』である。この小説の最大の特徴は法水麟太郎の留まる処を知らない蘊蓄披露である事は、読んだ事のある人であれば異論の無い処であろう。その大量の衒学的知識が左程事件解決に役に立っていないのが『黒死館殺人事件』のある意味本当に素晴らしい処で、一応、知識がそれなりに役に立っている様にも思える“The Greene Murder Case”とはやや違うのだけれども、この小説に於ける蘊蓄がどんどん肥大していって行き着く先に黒死館が待っているのだろう。

 この怒涛の蘊蓄披露で『黒死館殺人事件』を連想した訳であるが、こうやって連想してみると、そこかしこに共通のモチーフが存在する事に気付いた*3。例えば、Greene家の人々は先代Tobiasの遺産を手に入れるためには遺された洋館に住み続ける事が義務付けられているのだが、これをもっと厳しい条件に変更した物が黒死館に於ける4人の楽士の立場となる訳である。そして、両事件に於ける真犯人の特徴がほぼ合致している処などは似過ぎていると言っても言い過ぎではないだろう。更に、名探偵役が連続殺人の抑止にまるで役に立たなかった処などはある種窮極の喜劇的な類似である。最初に『黒死館殺人事件』を読んだ時にはこんな不思議な迷走物語をどのようにして思い付いたのかと不思議に感じたものであったが、この“The Greene Murder Case”という跳躍台が存在しており、この跳躍台を以ってして小栗虫太郎はあの様な摩訶不思議な迷作を生み出す事が出来たのだと納得した。

 この小説が紛れもなく影響を及ぼした超傑作探偵小説が他にもある。それはかのクイーン(ロス)の名作『Yの悲劇』である。勿論、クイーンはそのまま種を利用した訳では無く、巧みに美味しく料理し直している訳であるけれども、本作の影響無しにあのお話を考え付いたとはとても思えない。上の方で書いた通り、ヴァン・ダインはトリック自体に凝るタイプでは無いので、本小説のトリックもそれ自体はそこまで良く出来たものではないし、乱歩もその既存のモノの組み合わせ感をやや批判しているが、『Yの悲劇』にも使われたこの設定はその批判を上手く躱す要素になっていると思う。やはりヴァン・ダインはプロットがずば抜けて巧い。

 ヴァン・ダインによるPhilo Vanceシリーズの3作目この“The Greene Murder Case”はVance節全快の素晴らしい傑作であった。プロットは勿論、屋敷の雰囲気作りも巧いし、脇役の個性も中々光っている。こうなってくると否応無しに次作『僧正殺人事件』への期待が高まってくる。今回この小説は下に示したkindleのVan Dine全集で読んだ。少なくともこの全集は図入りである。繰り返しになるが、図入りの物を探した方がお話をより楽しむ事が出来ると思う。

*1:因みに私もかつて横溝正史の『八つ墓村』の映画版を見ている時に最も有り得なさそうな人が犯人だろうと考えて予想した処、勘が当たった事がある。この手の推理はあんまり意味の無い犯人当てであるとは思うけれども、しばしば推理小説の犯人当てには上手く行ってしまう。

*2:これらの犯罪者達は調べた限り全て実在の犯罪者である。ヴァン・ダインの面倒臭い野郎感も伝わって来るのだが、それも又堪らなく良い。更にGreene家の開かずの間の図書室に於いて確認された犯罪学書のリストも小説内の注釈で列挙されている。はっきり言って相当語学力がないと、タイトルを追う事すら難しい。こちらも恐らく実在の書籍群であろう。ヴァン・ダインの知識披露欲ここに極まれりである。

*3:これを書いた後にwikiを閲覧してみたのだが、それによると『黒死館殺人事件』でこの“The Greene Murder Case”のネタバレがされているらしい。2回程読んだ筈なのだが、全く記憶に残っていなかった。記憶力が貧弱な事は推理探偵小説愛好家に取っては得な事が多いかもしれない。