(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『殺人鬼』 浜尾四郎

 日本における本格推理長編の嚆矢

 こないだ、東西ミステリーベスト100に選ばれていた高木彬光の『刺青殺人事件』を読んだ処、やっぱり中々楽しめたので、また東西ミステリーベスト100のうち日本の作家の手に依る古い推理小説を、という事で、1931年に新聞連載された浜尾四郎の『殺人鬼』を読んでみた。

 大正の初めくらいの頃は小説家の中でも特に推理探偵小説を書く様な作家というものは随分とその地位が低かったようだ。江戸川乱歩が随筆『悪人志願』で「探偵小説と云えば子供や女の読物で、大人の齢すべきものでないとされ、外国物の下らない恋愛小説を見ても、探偵小説を読むものは大抵淫売婦と相場が極まっていて、探偵小説と云えば俗悪下劣の読物の代表物の如く見られていた。」と書いている。まだデビュー前の乱歩は探偵小説を取り巻く状況を苦々しく思っていた訳であるが、段々と探偵小説を愛好する人々は様々な層に広がって行って、文壇で言えば谷崎潤一郎だとか佐藤春夫、所謂、エスタブリッシュメント層からは東京帝大医学部卒で元東北帝大医学部教授の小酒井不木なんかも推理探偵小説を書き始めたのである。これらの事実が乱歩を勇気付けたし、実際、推理探偵小説の地位向上に繋がり、推理探偵小説の知的遊戯という側面が随分評価されるようになったようだ。この乱歩以降の大正の時期の推理小説作家は結構肩書が華々しい人々が多いのだけれども、その中でも今回読んだ『殺人鬼』の浜尾四郎は小酒井不木と並ぶいやむしろ不木を凌ぐ華々しい肩書の持ち主である。なんとまあこの浜尾四郎は東大総長・加藤弘之の孫でかつこれまた東大総長・浜尾新の養子なのである。浜尾四郎自身も東大法卒であり、元検事で後に議員にまでなっている。勿論エスタブリッシュメントだから偉い何て事を言う積りは毛頭ないが、こういう人達が推理小説作家となっていると推理小説が広く受け入れられる切欠になるというのもまた事実である。

 さて、この『殺人鬼』は中々の長編である。新聞連載されたにしてはしっかりと伏線が張り巡らせられ、そしてそれがきっちりと解決されている処などからは浜尾四郎の理知的な完璧主義を伺い知る事が出来る。荒筋はこんな感じである。辞め検の名探偵藤枝真太郎の元へ資産家・秋川駿三の娘ひろ子が訪れ、父親が脅迫されている事、家族に危機が迫っている予感がする事を告げ事件の捜査を依頼する。秋川駿三は駿三で別な名探偵林田に事件の捜査を依頼し、藤枝・林田の両名探偵が事件の解決に向けて奔走するのだが、秋川家の人々は次々と魔の手に殺められていくのであった......

  読めばすぐ分かる事なのだけれども、この小説は強烈にヴァン・ダインの作からの影響を受けている。犯罪を芸術になぞらえ、それを計画し実行した人間の性質をそこから推測する処なんかは正にファイロ・ヴァンスの受け売りであるし、そして小説内の登場人物が実際にヴァン・ダインの『グリーン家殺人事件』を読んでいるというオマケまで付いている*1。実際、ヴァン・ダインの日本の推理探偵小説家に与えた影響はとてつもなく強大であって、この『殺人鬼』に加えて小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』や高木彬光の『刺青殺人事件』やらも明確にヴァン・ダインの影響下にある。ヴァン・ダインの推理小説の特徴は基本的にはトリックに凝るのではなくて、心理的推理を重視するという建前と長大で重厚で無意味な蘊蓄の数々である。この蘊蓄の方は扱いが中々難しくて、あとまあ評判も結構悪いので、作家達が主に利用するのは心理云々の方なのだが、これも実際に使うとなると中々難しい。

 その点、本作に於ける心理トリックは中々巧みに仕組まれている。読んだ事のある人なら分かると思うのだけれども、『月長石』やら『リーヴェンワース事件』に於いて、善意の人間が、思い込みから誰かの罪を疑いその人物を庇う為に嘘を吐く事で捜査状況を混乱の極致に落とし込むという小説上の仕掛けがある。ヴァン・ダインの推理小説に於いてもしばしば、誰かを庇う為に登場人物達が嘘を吐く。ここで顕れる「善意の嘘」というものは、全て偶然の勘違いやら思い込みに依って、生じるのであるが、ここを一捻りしたのが本小説『殺人鬼』ひいては浜尾四郎の中々切れ味のある処である。どう一捻りしたのか? 実は犯人はこの誤解に依る「善意の嘘」が生じる条件を巧みに誘導し、かつ犯人自身も何食わぬ顔でその嘘の共犯者になる事で自らのアリバイを作成するという心理的荒業を駆使したトリックなのである。これは凄い、確かに良く出来ているし、ここ迄来るのであれば、心理的トリックと呼んでも差支えなさそうだ。只、まあ弱点は、証言者が何時までも嘘を吐き続けるとは限らない所にあって、ここに関しては致命的だとも言える。手品の強度という点に於いてはちょっと苦しい事は否めない。そうは言っても、これは中々良く出来ている物だと結構感心した。これに加えてもう一つ強いトリックがあれば、『殺人鬼』は現代でも話題に上る推理小説になっていたかも知れない。

  本格推理小説の肝であるトリックに関しては、上述の通り、かなりの工夫が見られるのであるけれども、同じく推理小説の肝の一つである犯人の動機面の描写がちょっと頂けない。解決編になってから「実はこんな因縁がありましてこれが動機です。」と突然説明されるのである。最後に、実はこれこれこうでした、という説明は推理小説では一番よろしくない説明の付け方である。というのもこれを許してしまうと、一見確定したかに見える事実が幾らでもひっくり返す事が可能になってしまう為、メタ的無限に裏の犯罪動機やら裏の犯人やら裏の証拠やらが生まれてきてしまう。勿論この小説の場合は犯人と目される人物が自白するかの様に自殺してしまうので、一応の処解決したかに見えるのだけれども、「実は──」の論理を持ち出してしまえば、実は単独犯では無く、別な犯人が裏でほくそ笑んでいるという可能性だとか、また更なる別な可能性だとかを否定出来なくなってしまう。であるからして、物語の「真実」の発散を避ける為にも本格を狙う推理小説に於いては、様々な可能性はなるべく中盤までに遅くとも物語の2/3までには読者が納得する形で全て提示され確定されている必要があるだろう。解決編に突入してから「実は──」というのは本当に頗る拙い。勿論、クイーンや島田荘司の様に神の一声で、現況確定を行いそこから後に裏は無いと宣言する遣り方なら、解決編突入ギリギリまで色々捻くり回しても構わない。この遣り方が本格推理小説にとっては一番問題の起きない遣り方かもしれない。

 苦しいながらも中々一捻りの利いた心理トリックに挑戦した美点と構成描写的に残念な処が同居したこの長編推理小説は、抜群の出来とは言いにくいけれども日本長編本格推理小説の最初期のものとして一読の価値はあると思う。推理小説的側面の問題点の他に、文章全般の淡白な処も人に依っては好みが分かれる処だろう。個人的にはややあっさりし過ぎている様な感を受けたが、まあ私の好みは怪奇寄りのコッテリしたものであるから一般的な感想とはずれているかもしれない。本書は今の所kindleの場合は青空文庫を変換したものでしか手に入らない様だ。紙媒体であれば、創元推理から出ている日本探偵小説全集の物が手に入り易くかつ浜尾氏の作品が良く纏まって収録されている様に思える。

殺人鬼

殺人鬼

 

 

*1:『グリーン家殺人事件』を小説中の人物が知っている、読んでいるというのはこの時期の推理小説にしばしば描写されるのだけれども、本小説に於いては単にメタ的に紹介されるのよりは意味のある小説内に於ける小説の登場である。一応読者への心理的トリックとなっている部分がある。