(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

"The Lerouge Case" Emile Gaboriau (『ルルージュ事件』 エミール・ガボリオ)

 古典ロマン長編の原点がここにある

 江戸川乱歩の古典ベストテンを読み続けている。実はこの乱歩の古典ベストテンの中には、乱歩曰く「そこまで優れている訳では無いが他に候補が無い」という事で選ばれているものが3作あって、そんな風に書かれてしまうとそれらは読むのを後回しにしたくなるのが人情である。既に5作は読んだのだが、その3作を除く残りの2作はガボリオとボアゴベイでどちらもフランス人作家の手に依るものである。日本語訳版をざっとkindleで探したのであるが、どうにも見当たらないので、仕方ない、英訳版で読んでみるか、という事でまず、ガボリオーの『ルルージュ事件』(1866年)の英訳版"The Lerouge Case"を読んでみた。

 この小説は前にも紹介した『月長石』の2年前に刊行されているのだが、『月長石』がイギリスの郊外に住む貴族の奇譚を描いているのに対し、こちらはフランスのパリに住む大貴族の一大奇譚を描いている。このお話の大掛かりな処、盛り上がりとその起伏は 『月長石』のややまったりとした雰囲気とはまるで違う。このガボリオの筆致は読んでいて、ああそうか、これがフランスの講談風味の冒険伝奇譚の原点の一つなのか、と感心した。このガボリオの『ルルージュ事件』に加えて、デュマの『三銃士』や『鉄仮面』そしてボアゴベイの幾つかの伝奇物が現在私がイメージするフランスの冒険活劇引いては涙香、南洋一郎、江戸川乱歩のあのお話し振りに繋がっているのだろう。

 『ルルージュ事件』の最大の舞台装置は赤子の取り替えである。只の取り替えでは無い。フランス屈指の貴族の正統な嫡子と愛人との間に出来た子供との入れ替えである。読者は当然、その赤子達の将来の境遇がまるで異なったモノになる事が容易に想像出来るであろう。そもそも、そんな身分違いの赤子の入れ替えなんか、使い古された陳腐なネタではないか、等と感じる人もあるかも知れない、が、しかし、恐らく、このガボリオの『ルルージュ事件』こそが陳腐化されるまでに濫用されたこの舞台装置の初期の活用例なのだろう。赤子の入れ替えネタ、そして身分違いの入れ替えネタの元祖はどれなのか現時点では分からないのだけれども、少なくともマーク・トウェインの有名な『王子と乞食』は1881年なので、それよりは確実に早くこの世に顕れている事は間違いない。入れ替えネタなんかは子供の頃になにかの推理探偵小説か巌窟王や鉄仮面等の子供向け翻案もので読んだ様な気がしていたのであるが、恐らく、それはこの『ルルージュ事件』を子供向けに翻案したものだったのだろう。ううむ、古典名作はやはりしっかりと読み直してみるのはかなり良い経験になるなと再確認した。

 しかし、この『ルルージュ事件』名場面のオンパレードである。

 まず、名探偵役のTirauclairこと老Tabaretは金持ちの有閑老人かつ素人探偵であるが、只の素人探偵ではなく、パリの警察にその鋭敏な推理を轟かせている老人であって、小説内に登場するや否や、ホームズ張りの冴え渡る推理を披露する。現場に残されている犯人の僅かな痕跡から背丈や年齢、煙草の銘柄、そして持ち物である手袋や傘に至るまで論理的に類推する。正にホームズそのものであるが、勿論この小説の方が圧倒的に早く世に出ているので、ホームズがデュパンや老Tabaretの一見手品風の推理、人をアッと言わせる遣り方を踏襲していると言うべきか。ここで老Tabaretはその明晰な推理の披露を以って、堅実なGevrol刑事を嘲るのであるが、このGevrol刑事はこれはこれで傑物なのである。天才型探偵の登場する小説で適当にあしらわれる無能警察とはこれまた違う。この堅実な猟犬型刑事がこの小説で描かれた犯罪を解決する鍵となる発見をする処が、現代の型にハマった天才探偵ワンマンショーと異なっていて面白い。実際、涙香小史の『無惨』はこの展開からもアイデアを得ている気がする。『無惨』を読んだ時には型にハマっていなくて面白いと思ったのだが、「型」というものは分野初期には存在しないのが当たり前と言えるかもかもしれない。

 天才型探偵と言う物は現代の推理小説においては滅多に失敗しないし、それ故に天才型探偵なのだろうけれども、昔の推理探偵小説ではしばしば苦戦するようだ。例えば、『月長石』のCuff巡査部長、そしてこの小説における老Tabaretである。この老Tabaretの蹉跌は現代刑事司法制度への懐疑と警鐘という形を以って小説内に現れてくる。昔の小説と言う物は娯楽の皮を被って色々と大きな問題提起をしてくるものである。黒岩涙香はこの『ルルージュ事件』を翻案した『人耶鬼耶』の前書きに於いて

余が此篇を譯述するは世の探偵に従事するものをして其職の難きを知らしめ又た世の裁判官たるものをして判決の苟しくもすべからざるを悟らしめんが為なり。之を切言すれば一は人権の貴きを示し一は法律の輕々しく用いべからざるを示さんと欲するなり。
-『人耶鬼耶』 黒岩涙香

と記し、世の警察検察機構のその職の簡単ではない事、権力の行使に慎重となるべき事を訴えている。

 物語の最初、自らの頭脳に絶対の自信を誇っていた老Tabaretは「ああ、こういう遅れは正義の遂行にとって致命的じゃよ!もしこの世が儂の思うままになるなら、悪党どもを罰するのにあんなに手間取らないのになあ。捕まえたら即吊るし首じゃ。」と言い放つが、やがて、己の不完全さを知るに至って無辜の人を罰する可能性の恐怖を知り、死刑廃止と冤罪救済の為に働く事を決意する*1。またDaburon判事は、現代で言う処の利益相反的立場に立ちつつ被疑者の取り調べを行う事に躊躇するが、実際それが事件の判断を誤る事に繋がり、彼も後悔して後に職を辞すのである。 

 この小説程ではないが、西洋の推理探偵小説に於いては刑事司法制度への懐疑的な視線がしばしば見られる。例えば、今までに紹介した小説であれば、ザングウィルの『ビッグ・ボウの殺人』やフリーマンの『オシリスの眼』、ヴァン・ダインの『カナリヤ殺人事件』に於いても刑事司法の仕組み上の問題が批判されている。この様に「お上」の決めた制度といえども簡単に全肯定しないという所が西洋らしいと言えば西洋らしく感じる。

  昔の小説を読むのは原点を探すという愉しみに加えて、昔の風俗を伺い知る事が出来るという点でも面白い。『月長石』に於いて貴族社会に於ける時代の変化を思い起こさせる叙述が幾らかあったが、この『ルルージュ事件』に於いてはその貴族社会の変化がより明白に描写されている。この小説には強烈な個性を持つ二人の貴族が登場する。d'Arlange侯爵夫人とCommarin伯爵である。彼等の発言を引用しておこう。

「ああ、なんて魅力的な若者でしょう!」夫人は言った。「繊細で思慮深くて!産まれてこなかったのがなんとも可哀想だわ」(彼女の言う処の「産まれる」とは貴族の血統という意味だが、貴族でない不幸な者たちも実際「産まれてきた」という事実を無視した言い様である。) (拙訳)

 d'Arlange侯爵夫人はこの様にDaburon判事に述べるのである。貴族でないものを生まれていない呼ばわりとは小説の中とはいえ中々の傲岸不遜振りであるし、それを通り越して滑稽ですらある。

「(前略)一昔前なら国王のところへ赴いて直接頼めば、我が子の立場を保証してくれた筈なのだが。今日では、国王は不満に充ちた臣民を治めるのに手を焼き、何も出来はしない。貴族はその権限を失ってしまったのだよ、そして上流階級は汚らしい農民なんかと一緒くたに扱われているのだ!(後略)」 (拙訳)

 Commarin伯爵のこの発言の意味する処は、詰まるところ、フランスは法治主義の国家と変貌し、人民は基本的には平等に法の支配を受ける事になったのである。その事に、Commarin伯爵は異議を唱えており、勿論これは創作であるのだが、法治国家を理解する事が困難であった貴族が実際に存在していたからこそのガボリオによる皮肉だろう。 このCommarin伯爵は貴族の没落の原因を理性的に語ったり、自由主義に貴族の血統の者がかぶれる事に嘆いたり、中々、旧弊貴族のカリカチュアとして描かれていて面白い。幾らか誇張して描かれているであろうにしても、この様な社会制度の変革の実情を知る事が出来るのはやはり古い小説ならではの魅力である。

 今回この『ルルージュ事件』は英訳版"The Lerouge Case"を読んだ。英語原著の小説を英語で読むならまだしも、仏語のモノの英訳版を読むとは我ながら無駄な事をしたものである。どうやらグーテンベルグプロジェクトの物である様ではあるが、これが良い訳であるかどうかも良く分からない。これというのも国書刊行会が『ルルージュ事件』を電子書籍化してくれていないのが全て悪い。早く全ての書籍がkindle版でも提供される時代になって欲しいものである。まあ英語版は価格的には破格の安値なので、お得に読みたい人には向いているかもしれないが、仏語版ならpubrlc domainで只である。仏語も勉強してみたい気持ちになってきた。

The Lerouge Case (English Edition)

The Lerouge Case (English Edition)

 

*1:死刑廃止の理論的根拠には様々なものが存在するが、冤罪が存在するという厳然たる事実もその根拠の一つ足り得るだろう。権力の無謬性を信ずる事は到底不可能である。