(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『文学部唯野教授』 筒井康隆

 駄弁の効能(小説読み方談義4)

 イーグルトンの『文学とは何か』を訳したのは大橋洋一であるが、その大橋洋一の編集による『現代批評理論のすべて』という現代の批評理論を通覧するために便利な書籍がある。この書籍自体が膨大な文献紹介書みたいなモノなのだけれども、更に巻末に入門書ガイドが記されており、このガイドに最初に紹介されているのが『文学とは何か』で、その次に紹介されているのが、この筒井康隆による『文学部唯野教授』である。筒井康隆の小説だと、まあなんとなく変化球だろうなという気がしたのだけど、大橋洋一が薦めるのなら、という感じで読んでみた。

 この小説?はそれぞれの章が現代文学批評の各項目となっており、コメディ風味のドタバタ騒ぎの後に主人公唯野教授による文学講義が行われる。まず、一読してはっきり分かる事は、この文学講義の部分は完全にイーグルトンの『文学とは何か』のオマージュである。ははあ、成程、そういう意味に於いて大橋氏は文学批評の入門書の一つに本書を挙げたのだなと合点が行った。各章の題を列挙すると、「印象批評」、「新批評」、「ロシア・フォルマリズム」、「現象学」、「解釈学」、「受容理論」、「記号論」、「構造主義」そして「ポスト構造主義」となっている。『文学とは何か』で論じられている各現代批評理論の特徴や欠点がここでもそのままに論ぜられており、かつ、日本の作家を幾らか例に出しつつ解説している。読んでいて思ったのだけれども、最初の幾つかの唯野教授の講義は良くこなれていて、筒井康隆のモチベーションも高かったのだろうと感じるのだが、最後の方になるにつれて、段々とテンションが下がってきて、『文学とは何か』を単に縮約したような感じになって来てしまうのは結構残念である。「ポスト構造主義」の作中講義に於いて唯野教授は、「フェミニズム批評」、「精神分析批評」そして「マルクス主義批評」更に、唯野教授自身の批評理論について講義すると述べているのに、物語は「ポスト構造主義」の講義で終了してしまう。元々『文学とは何か』を下敷きにしているのだから、「マルクス主義批評」は『文学とは何か』から離れて書かねばならないし、唯野教授の方法論となるとこれは筒井康隆の方法論という事になるのかな?と期待していたので、これには落胆してしまった。これらの講義が結局物語として描かれなかったのはどういう訳なのだろうか? まあ身も蓋もない言い方をすれば筒井康隆が飽きてしまったのかもしれない。また連載ものだった様だから、何らかの出版業界的な事情もあったのかもしれない。この尻切れ蜻蛉になってしまっている処が本書の残念な処なのだけれども、大学の講義は大抵最終目的地に辿り着く前に一年が終わってしまうので*1、そんなもんと言えばそんなもんなのかもしれない。又、一つの物語が結末を迎えるとは限らないのが現代に於ける物語なのだと言われれば、それもそうかもな、と納得するしかない。

 この文学批評講義の部分の実際の効能に関しては、かるーく文学理論の雰囲気を掴むのにはまあ良いかもしれないが、実際に理論に興味を抱いた場合には直接『文学とは何か』を読んだ方が却って分かり易いかもしれないとも思った。結局短いスペースで説明しているので、どうにも理屈を追い切れない所が出て来ている。まあ、筒井康隆の書くものだからあんまり真面目になって受け止める物でも無いのだろう。

 大橋洋一が推薦しているから、文学理論の入門書的な使い方が出来るのかなと思って読んだのだけれども、予備知識無しに読んだ所為で、実際に衝撃的だったのは作中文学講義で無くて、それ以外のドタバタ喜劇の方であった。主人公唯野教授はやたらめったらに饒舌で喋りだすともう止まらない。次から次へと下らない事ばかり話しまくる。ある意味『吾輩は猫である』の迷亭先生みたいなもんなのだが、喋りのドライブ感が3段階くらいは速い。そのドライブ感で繰り出される駄弁と、小説内で描かれる大学という制度のどうしようもなさが絡み合って、社会から学問の聖地と看做されている大学という権威が木っ端微塵に叩き壊されるのである。唯野教授は大学内の出世争いに興味が薄いだけでなく、文学界の権威的賞にも無関心な姿が描かれている。小説内の主人公はひたすらに軽薄な表層を持ちつつも、大学界の制度にも文学界の制度にも迎合しない、ある意味超越した存在でもある。けれども、その様な超越者的な設定は、猛烈なお喋り、無駄口、冗談雑談、burble、banter、chatter、 chit-chat、chit-chat、dissension、 declamation、exclamations、 exaggerations、elephant talk、elephant talk、elephant talkに依って全て吹き飛んでしまう。

 Elephant talkはキンクリの名曲*2だけれども、そのグリグリとした異様さが歌詞の無意味さ言葉の上滑り感を出していて素晴らしく、その感覚がそのまま本小説の唯野教授によるelephant talkである。言葉遊びと無駄話。会話の機能は意味伝達では無くて会話その物にあるという言説が昔から散見されるが、この小説内に描出される会話のほとんどは正にその会話行為としての会話であるし、更に言えば、会話にすらなっていない一方的な独演の占める割合も相当に多いのである。唯野教授の饒舌は、意味を剥奪した発声、発話のための発話、空隙を埋めるための発語といった感じで、それこそ、言葉の異化作用を以ってして読者に迫ってくる。そしてその1フレーズごとの滑稽さが予想外の処から飛んで来るので、初読時には思わず何度か声を出して笑ってしまった。

 一つ引用しておこう。

「いやあ。これはすばらしい」唯野はのけぞって見せた。「ロマン主義的な女性観の原型が提示されております。セクシュアリティの分業による遊ぶ性としての女性。生殖から疎外された多くの近代主義的な女性の存在を日本人男性として否定すること。フェミニズムの真髄がここにあるんですよね。あたしゃもう、蟻巣川さんの男根を崇拝しちゃうんだから」何を言っているのか自分でもほとんどわからない。
-『文学部唯野教授』 筒井康隆

 ま、大体全部に渡ってこの調子である。

 筒井康隆は器用だなあと思うと同時に、この小説に関しては更に一周した不思議な体験を味わえる。確かに一読して面白い。抱腹絶倒という煽りが付いても良いかもしれない。一読して頗る面白いのだけれども、二度読めるかというと、ちょっと挑戦してみたところ今一つ面白く感じられない*3。ここの言葉遊びの消費の一回性と言うものが存在しているのかもしれない。言葉は案外に消費物なのである。一度読んでその逸脱の無軌道さを知ってしまうと、二度目にはその逸脱は逸脱では無く予想され得るものへと変容し、最早そこには初読時の衝撃は存在しなくなってしまう。一度経験しただけで言葉の作用がここまで変化するという事を認識できるという点で、本書は、文章の認知の不可思議さを味わうためにうってつけの書物である。その点で、もし本書を初めて読まれる方があれば、なるべくゆっくりと読まれる事をお薦めする。まあジャンクフードの如く一気にボリボリとやってしまうのも本書の適切な読み方かもしれないけれども。

 さて、ここでふと考えてみると、私の場合、同じ滑稽物語でも、北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』やら漱石の『吾輩は猫である』なんかは割と息長く笑えているので、この小説とその辺りとの違いはどこから来るのだろうと、ちょっと考えてしまった。答えはまだ思い付かない。まあ好みの問題なのかもしれない。何にしても、本小説、『文学部唯野教授』は文学理論に興味があってもなくても(興味があれば尚楽しいとは思うけれども)、ちょっと下品な笑いを消費したい時にお奨めの一冊である。

文学部唯野教授 (岩波現代文庫)

文学部唯野教授 (岩波現代文庫)

*1:まあ現代の大学に於ける講義はきっちりとカリキュラムを消化する講義が殆どになっているだろうけれども。

*2:Elephant talkに限らずこの時期のBelewの歌詞は適当喋りが多くて楽しい。例えば名盤“Discipline”の曲であれば、DisciplineやらThela hun jin jeetのフリートーク気味の熱唱は堪らない。と、ここまで書いて、唯野教授の喋りは、Adrian Belewのそれよりも、Zappaの下世話MCの方が近いような気もして来た。まあそれはそれと言う事で。

*3:この辺りは人に依るかもしれない。3回くらいは楽しめる人もいるかもしれない。