(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『バスカヴィル家の犬』 アーサー・コナン・ドイル / “Sherlock Holmes Was Wrong: Reopening the Case of The Hound of the Baskervilles” Pierre Bayard

 著者の意図を離れて-怪奇探偵小説と秘められた物語

 コナン・ドイルの『バスカヴィル家の犬』を久方ぶりに再読してみた。最後に読んだのはかれこれ20年以上前になると思うが、ルブランのルパン物と共に私の怪奇冒険探偵小説体験の原点と言える小説である。今から思えばこの小説が、私の怪奇探偵小説好きを決めたのかもしれない、いや、やっぱりルブランのルパンだったかも知れない。まあこの辺りはどうも良く覚えていない。

 ホームズ物は最初に読んだのが『まだらの紐』だったか、この『バスカヴィル家の犬』だったかはっきりとは覚えていないが、確実にこのどちらかだった筈で、初読時に『まだらの紐』には失望したが、『バスカヴィル家の犬』には非常に興奮したのは覚えている。『まだらの紐』に失望したのには明確な理由があって、それは翻訳の問題なのである。原著でbandのダブルミーニングが美味しい処であるのに、残念ながら日本語に翻訳するとその味わいを再現する事は難しくなる。この辺りの問題はどんな翻訳小説においても存在し得る問題であって、出来ればなるべく原著で読むのが良いのだろう。一方、幸いにして『バスカヴィル家の犬』には翻訳に関わる問題は無かったので、問題なくその筋を楽しむ事が出来たのを覚えている。

 この長編怪奇探偵小説『バスカヴィル家の犬』、まず、舞台設定がいい。領主を喰い殺した伝説の地獄の猟犬が彷徨う英国南西部のデヴォン州ダートムーアで、現在の領主チャールズ・バスカヴィルが不審死を遂げ、その財産の相続人ヘンリー・バスカヴィルがダートムーアにやって来る。この伝説の地獄の猟犬がバスカヴィル家を呪っているという処に痺れる。物語中、モーティマー博士が過去の地獄の猟犬に関する古文書を紹介する処など堪らない。ロンドンにいる間に警告の手紙が届き、そして、更に現地での美女からの警告、これである。正に怪奇探偵小説の雛形だ、これだこれだという気分で身震いする。

 この様な妖しい辺境とその土地に根付く伝説、そして極めつけに外部からの侵入者への警告と云う、ある意味怪奇探偵小説の黄金の方程式は横溝正史の金田一物で変奏されて繰り返される様式美であり、その原点の一つが此処に有ったのだなと今更ながら感心した。

 ダートムーアに舞台が移ってからはホームズはほぼ登場せず、最後に事件を解決するために満を持して再登場し、物語は一気に収束するわけである。ホームズが序盤のベイカー街で見せる推理の切れ味、再登場してからの見事な推理と行動力、そしてワトソン氏の素晴らしい描写、が一体となった正に怪奇探偵小説の歴史的傑作である。

 しかし、ふと思えば、どうにもホームズの登場活躍がやや少ない。ホームズ物に期待している物語とはちょっと違うぞ、と違和感を覚えた読者も多かったのではないだろうか?

 という時に、偶然見付けたのが『読んでいない本について堂々と語る方法』で有名なピエール・バイヤールによる“Sherlock Holmes Was Wrong”である。件の有名本はまだ読んでいないのだが、氏はアガサ・クリスティーの『アクロイド殺し』に関しても一冊書いており、どうやら探偵モノにも造詣が深い様なので興味を惹かれ、『バスカヴィル家の犬』の副読本としてこれも読んでみたのだが、これが想像以上に面白かった。

 まず出版的な歴史で言えば、『バスカヴィル家の犬』以前にホームズは既にドイルに依って葬り去られているのである、そして、この『バスカヴィル家の犬』はホームズ物として世に出る筈では無かったらしい。ピエール・バイヤール氏はこれまた屈指の名探偵の様で、何故ドイルがホームズを葬らなければならなかったのか?を事実を元に考察している*1。そして更に、ホームズの死はどの様な影響をホームズ愛好家達に、そして「作者=生みの親」であるドイルに与えたのか?に関しても事実を元に考察している。どうやらドイルはこの『バスカヴィル家の犬』の中にホームズを渋々と復活させたのであり、それが上述したような、ホームズの登場や活躍が妙に少ない事の理由らしい。この辺りの心理面の推察に基づく小説中のホームズと地獄の猟犬の対比も中々興味深い。

 さてここからが肝なのだが、ドイルから生まれたホームズがドイルの行動に影響を与えるという事はドイルといえどもホームズを完全にコントロール出来る訳ではない、つまりある世界に於いてはホームズに自律性が有るかもしれないとバイヤールは述べるのである。そうなって来るとホームズの過去の実績上*2、ホームズが常に正しく推理を行っているとは限らず、時には間違いを犯す事を考慮に入れ、また語り手がワトソンで、彼はやや観察力に劣り抒情的な記述をする人間という設定であるから、この『バスカヴィル家の犬』に於けるホームズの推理が正しいとは限らない、いや間違いを犯していたのだと、名探偵バイヤールはその議論を進める。そしてホームズ達の推理の誤謬を正し、真犯人をバイヤール氏が見つけてやろう、と言う訳である。この辺りの読みに対する考察は非常に面白い。勿論これはゲームとしてやっている側面もあるので必要以上に真に受ける様な話では無いのだが、小説の読み方や構成の理解、虚構と実在の境目など、新たに気付かされる事が多い。

 さて、名探偵バイヤールの炯眼に依って炙り出される真犯人は誰なのか!?と言う処に関しては、是非、実際に読んでその目で確かめて頂きたい。多少論理的に無理のある部分も有るには有るが、このような読み方から導かれる秘められた物語の裏の解答としては随分良く出来ていると私は思った。勿論、個人的にはホームズ氏の推理を推したいのではあるが。

 今回、『バスカヴィル家の犬』は光文社から出ている日暮雅通氏の新訳を読んでみた。これは読み易くて中々良い訳だと思う。長らく評判の良い古典的な延原謙氏の訳もお奨めだと思うし、本書は様々な訳が簡単に手に入るので色々読み比べてみるのが楽しいかもしれない。ピエール・バイヤールの“Sherlock Holmes Was Wrong”の原著“L'affaire du chien des Baskerville”はフランス語でとても手が出ないので、英訳版を読んでみたのだが、案外読みやすかった。邦訳は『シャーロック・ホームズの誤謬』というタイトルで出ているのだが、値段も高くkindle版も存在しないのが残念である。人気の『読んでいない本について堂々と語る方法』そしてもう一つの探偵談『アクロイドを殺したのは誰か』共々、kindle版が登場する事を切に願っている次第である。

バスカヴィル家の犬 (光文社文庫)

バスカヴィル家の犬 (光文社文庫)

 
Sherlock Holmes Was Wrong: Reopening the Case of The Hound of the Baskervilles

Sherlock Holmes Was Wrong: Reopening the Case of The Hound of the Baskervilles

 

*1:ここいらの考察は別にバイヤールのオリジナルと言う訳ではなく、既に多数のドイル研究家達に依って行われた考察の再掲である様だ。

*2:『シャーロック・ホームの冒険』、『シャーロック・ホームズの回想』等に於いてしばしば様々なミスを犯している。本書に於いても、最初の杖に関する推理で小さな間違いがあった。