(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『二銭銅貨』・『一枚の切符』 江戸川乱歩

 江戸川乱歩会心のデビュー作

 江戸川乱歩は大学を出た後、一つの職に長く落ち着く事も無くふらふらと色々な事を試しながら「何か面白い事でもないかしらん」と暮らしていたらしい。そして大正11年頃、妻子持ちであるにも拘らず、どうも現代で言えばニート扱いされそうな能天気な状態になった様で、しかもそういう状況の下、暇な時間を利用して推理探偵小説を書いていた様だ。森下雨村の翻訳探偵小説雑誌「新青年」にいたく刺激されたからとの事である。で、早速、『二銭銅貨』と『一枚の切符』を書き上げた乱歩は、まずこれを当時探偵小説評論でも知られていた馬場胡蝶に送ったが反応が無く、次に森下雨村に送ったがこれまた反応が無く、ここで諦めずに再度森下雨村に相当きつめの催促の手紙を送って何とか認められる事に成功したらしい*1。乱歩氏は自伝的随筆によるとやる気の波が激しい様なので此処で諦めずに奮闘してくれて我々後代の推理探偵小説愛好家は幸運であった。

 さてこの結果、乱歩はまず『二銭銅貨』(1923年:大正12年)で「新青年」にデビューする事に成功した。森下雨村はこの小説と『一枚の切符』を読んで「日本にこの様なオリジナルの探偵小説を書き得る人物が居たとは!」と感嘆したらしいが、それは正直な所やや誇張が入っているのではないかと思う。しかし、デビュー作にしてこれらの作品は乱歩の白昼夢的に捻くれた、奇妙な味わいが冴えている。

 『二銭銅貨』これは明らかに、乱歩がその名前を拝借した、エドガー・アラン・ポーのへのオマージュに満ち溢れている。まずはお宝探索、暗号解析の部分が正に『黄金虫』である。『黄金虫』に於いてウィリアム・レグランドが、偶然見つけた黄金虫の秘密に取り憑かれ、興奮の熱病に冒されたかの様に、傍から見れば妄想のような幻想を抱いて財宝探しに熱中する。その描かれ方と、『二銭銅貨』中の松村が、貧しい暮らしの日々の中、不思議な二銭銅貨を家の机の上に見付けてから、その過敏な理知に依る鋭敏な推理の熱に冒される描写は非常に似通う物がある。そして情報隠匿に使われた暗号はこれまた『黄金虫』と同じく置換法の暗号である。乱歩は若い時分に一時期世界各国の暗号そして暗号通信の歴史なんぞを調べた事があるようで*2、その知識がここにも活かされたのだろう。さて、もう一つ、『盗まれた手紙』への熱烈なオマージュも存在する。以下の引用の部分がそれに当たる。

さて、世の中に一番安全な隠し方は、隠さないで隠すことだ。衆人の目の前に曝して置いて、しかも誰もがそれに気づかないという様な隠し方が最も安全なんだ。
-『二銭銅貨』

 これは江戸川乱歩が常々ポーの探偵作品中最も好む作品としている『盗まれた手紙』に於ける手紙の隠され方、そしてデュパンの推理と正しく同一なのである。乱歩は後年これを「盲点原理」として「密室殺人」、「探偵即犯人トリック」と共にポーが生み出した三大トリックとして激賞している*3

 江戸川乱歩のポーへのオマージュがたっぷりと込められた『二銭銅貨』は、そのオマージュのみならず、語り口の巧さ、設定の妙等の完成度が高く、乱歩のデビュー作として正に申し分のない作品であると言える。

 さて『一枚の切符』、こちらも相当に面白い。乱歩自身は最初は両作は互角の出来だとと思っていたらしいが、『二銭銅貨』の方が先に世に出て、そして作品の人気自体も『二銭銅貨』の方が大分と先行し、現代においてはこちらは『二銭銅貨』に比べるとやや地味な評価になっているようだ。しかし、私はそうは思わない。乱歩の計算に元々有ったのか、無かったのか、その辺りの消息に関しては乱歩が何も書いていないので確かな事は分からないのではあるが、この小説は単なる謎解き推理探偵小説以上の旨味が内包されている様に思える。

 そこを説明する前に少し脱線。ご存知の方も多いと思うのだが、後年アンチミステリーなどと言う物が流行ったりした。推理小説でありつつその構造を拒むというやつである。また以前紹介したピエール・バイヤールの"Sherlock Holmes Was Wrong"の様に、読み方に依っては作者の提示した正解と思われる推理とは異なる他の解釈も可能であると言う広い解釈を示す試みもある。これらは文章やさらに小説の解釈と言う意味では非常に意義のある事なのだが、勿論、お遊戯でもあって、それが元の推理に大幅な感興を追加する訳ではない。しかし根本的な問題として、推理小説の中に提示される証拠の解釈や犯行の説明なぞは案外不安定な物であるという、推理探偵小説好きなら誰でも幾度かは経験しているであろう「どこか引っ掛かる感覚」を明示し支持している点が良い。

 さて、これがどう『一枚の切符』と関係するかと言えば、乱歩は推理探偵小説が包摂する不安定性を恐らく本能的に察知していて、最初の最初デビュー作の時点で不安定性を利用した推理の多様性を持ち込んでいるのである。一般に良くある推理探偵小説の方程式として、秀才乙(凡才でも構わないが)がAと言う推理をした処に、天才甲が現れてBと言う推理を行い、この推理Bが推理Aを凌駕して結果を上書きするというものがあるが、乱歩はこの小説内でA→Bから更にもう一捻り、今で言う処のアンチミステリー的な部分を入れている。これは凄いし狡いし、開き直りと言うか、柔軟と言うか、この辺りの始まりからして所謂本格派とは一線を画している処が江戸川乱歩が長く愛され続けている理由かもしれない。乱歩はこの様な捻りを好んでいて、例えば最初の『二銭銅貨』にしてもそうだし、私の最も好きな『陰獣』にしてもそうだし、他にも似た味わいの捻りが入っている初期作品は多い。この部分が何か幻想・幻影的な白昼夢染みた物を醸し出しており、これが乱歩の独特の世界を産み出す要素の一つなのだと思う。

 さて、私は書籍はkindleで読む事にしているのだが、此処に来て一つ問題が発生する。まず、『二銭銅貨』これは大丈夫だ。以前に紹介した『屋根裏の散歩者』これも大丈夫。しかし、『一枚の切符』これは悩み処なのである。何が悩み処かと言うと、光文社の『屋根裏の散歩者』と創元推理文庫の『算盤が恋を語る話』の両方に『一枚の切符』収められている。問題は、光文社で買い揃えれば全集なので何も考えなくてもほぼ全文章を手に入れる事が出来るのだが、創元推理の方には素晴らしい事に当時の挿絵がしっかりと挿入されているのである。これは非常に悩ましい問題で、効率を取るか挿絵を取るか…… 私は結局両方のシリーズを購入する事で解決した。

屋根裏の散歩者?江戸川乱歩全集第1巻? (光文社文庫)

屋根裏の散歩者?江戸川乱歩全集第1巻? (光文社文庫)

 
算盤が恋を語る話

算盤が恋を語る話

 

*1:この辺りの消息は「探偵趣味」に掲載された『二銭銅貨』の自作解説に詳しい。これは光文社の『屋根裏の散歩者』に収録されている。他の処でも読めるかもしれない。面白いので一読の価値がある。

*2:『悪人志願』中の「私の探偵趣味」や「暗号記法の分類」等にその辺りの話が記されている。

*3:『幻影城』収録の「探偵作家としてのエドガー・ポー」を参照されたし。