(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

“The Benson Murder Case” S. S. Van Dine (『ベンスン殺人事件』 S・S・ヴァン・ダイン)

 心理的証拠と状況証拠:ファイロ・ヴァンス登場

 江戸川乱歩の『悪人志願』中にヴァン・ダインの推理小説『カナリヤ殺人事件』と『グリーン家殺人事件』のネタバレが含まれていた御蔭でヴァン・ダインの推理小説Philo Vanceシリーズを読み始めたのだけれども、これが想像以上に面白い。幸いkindleの英語版の全集は格安だったので*1既に手元に全話揃っている。と言う訳で、今回はPhilo Vanceシリーズ第一作目の“The Benson Murder Case”(1926年;『ベンスン殺人事件』)を読んでみた。

 荒筋をざっと記すと、Alvin Bensonがリビング・ルームで射殺されているのを同居している家政婦Platz夫人が発見する。現場には女物の鞄と手袋が残されており、警察は女性の関与を疑うのだが、被害者には幾人かの敵が存在しており、皆殺人の機会と動機がある様にみえる。被害者の兄Anthony Benson少佐はMarkham検事の古くからの友人であり、事件の解決をMarkham検事に依頼する。そして、Markham検事の友人である高等遊民Philo Vanceが興味津々事件現場に顔を出し、捜査に加わるのであった。

 記念すべき第一作目でPhilo VanceはMarkham検事に早速独自の犯罪推理理論を披露し始める。

Won’t you ever learn that crimes can’t be solved by deductions based merely on material clues and circumst’ntial evidence?

The truth can be learned only by an analysis of the psychological factors of a crime, and an application of them to the individual.

ってな、具合である。さてこの心理的要素を物証や情況証拠より上位に置くVanceの活躍や如何に?

 本小説の最大の仕掛けは、動機と機会で犯人を推定するのであれば、描かれた状況の中に複数の犯人を推定し得る事があるという処にある。これはある種の推理小説が抱える構造的な欠点であって、推理小説を愛読している人々であれば、この種の問題を感じた事は多々あるだろう。この様な感覚が今一ピンと来ない方は例えば、ドイルの『バスカヴィル家の犬』を読めば、この感覚を理解して貰えるのではないかと思う。『バスカヴィル家の犬』に於いては犯人候補は数人登場しており、一応ホームズの華麗な推理の下に犯人と思しき人物が特定されるのであるが、実際の処、別な状況証拠の組み合わせで他の人間を犯人に設定する事も可能そうに見える*2。つまり、複数候補の中の一人が犯人に選ばれた「小説としての必然性」を、読者が中々実感しにくい場合が時に生じるのである*3

 何故この様な、今一つ腑に落ちない感覚が生じるかというと、それは犯人候補の立ち位置が並列状態にあるために、読者の側からすると犯人候補間の差異を感じにくいからである。つまり、この並列状態にある複数人物の誰が犯人なのか、そして誰を犯人にするのかという問題は推理小説家にとって中々の難問であると言える。これを解決する最も単純な方法は犯人候補に並列状態でない犯人候補を用意する事なのだが、ここで新たな問題が生じる。あからさまに特異点にいる犯人候補を用意してしまえば、推理探偵小説愛好家は、小説内に提示される証拠ではなく、その読書経験から犯人を推察出来てしまうのである。であるから、この特異点に存在する犯人を如何にして読者に気付かれずにフェアに提示するか?という所に推理小説家の腕は掛かっているのだと思われる。勿論、特異点を作る解決方法を選ばず、純粋に推理ゲームとして、並列犯人候補の中から読者に犯人を推理させるタイプの推理小説もそれなりに多い。その場合は推理の論理をガチガチに固めてゲーム性を高める等の別種な工夫が必要になって来るだろう。個人的には論理推理重視の本格物はこの並列式ともそれ程相性が悪くない気がする。

 本小説の場合は、並列状態にある犯人候補の犯行仮説をVanceがチラつかせてMarkham検事と読者を煙に巻きつつ色々な方向へ誤誘導して行く訳で、この一旦鮮やかに提示されたかに見える犯行仮説がどんどんと覆されていく処に、推理小説への皮肉が利いていて面白い。只、残念ながら、構造がはっきりし過ぎている所為か、読者は割と早く特異点に存在する犯人に気付いてしまうのではないか?とも思わないでもない。最終的にヴァン・ダインは心理的な要素を持ち出して解決しようとした訳だけれども、残念ながらそこに関してはそれ程上手く描けているとは思わない*4。小説内でPhilo Vanceは上述したように、様々な証拠に動機・アリバイを否定し、心理的捜査の重要性を強調する訳だが、結局の処は様々なホームズ的な推理を行っている訳で、古典的な観察力に優れた名探偵達とそれ程極端に異なる訳ではない。只、名探偵Philo Vanceを魅力的にしているのは、その突飛な人物像と衒学的な蘊蓄の数々である。例えば以下の様な、絵画の制作者と犯罪の実行者の相似性を説く所はこのPhilo Vanceシリーズに何度も繰り返し出て来るアナロジーでニヤリとしてしまう。

“Crimes possess all the basic factors of a work of art—approach, conception, technique, imagination, attack, method, and organization. Moreover, crimes vary fully as much in their manner, their aspects, and their general nature, as do works of art.(中略)Just as an expert æsthetician can analyze a picture and tell you who painted it, or the personality and temp’rament of the person who painted it, so can the expert psychologist analyze a crime and tell you who committed it—(後略)”

まあ大体がこんな調子なので、このPhilo Vanceシリーズは好き嫌いが分かれる処があるかもしれない。Philo Vance初登場作である本作では、衒学的蘊蓄の切れ味は後の作品に比べるとそれ程でも無い感もあるけれども、メロンの蘊蓄の下りなんかは余りにも下らなくて笑えて来た。メロンには色々な種類があるが、カンタロープメロンは昔イタリアのカンタルーピで栽培されていた処から広まったらしい。本当にどうでも良い蘊蓄である。

 本作はいつもの如く、Van Dineの全集物で読んだ。表紙がちょっとぱっとしないけれども、図が含まれているという所が重要な点であって、表紙なんかは中身を読んでしまえば同じである。さて、これでPhilo Vanceシリーズ1-3作を読み終わった。次に読む積りの『僧正殺人事件』が楽しみで仕方が無い。

 

*1:一度失敗して図無しの物を購入してしまったけれども、まあ1、2ドル程度だったので、良しとしよう。ヴァン・ダインの推理小説は別段本格派でも無いので図が無くてもそれ程影響は無いのだけれども、勿論あった方が嬉しいに決まっている。

*2:以前紹介したが、ピエール・バイヤールがこの状況を利用して“Sherlock Holmes was Wrong”という中々面白い小説読解本を記している。その中で実際バイヤールはホームズの推理とは異なる推理を行い、別な人物を犯人と指摘しているのである。勿論『バスカヴィル家の犬』の場合はドイルの描写力による怪奇探偵小説の魅力が炸裂している為に、純粋推理小説以外の部分で文句無しの傑作になっているのだけれども。

*3:この様な推理小説に関する構造上の問題は別にヴァン・ダインが最初に指摘した訳では無くて、私の知る限り、江戸川乱歩も同様の事を感じていた様で、デビュー作の一つである『一枚の切符』にて、推理探偵小説内での犯人特定の仕組みの不安定さを指摘し、それを巧く利用して不思議な二重世界を小説に顕現させる事に成功している。

*4:ただ、犯人設定に於いて、犯人が犯行を実際に行動に移す事が心理的にも技術的に可能でありそうな人物として描いている処は、ヴァン・ダインのこの推理小説における明確な美点の一つだろう。「大学生がサークル仲間を次々と殺していく」という様な推理小説があったりするが、現実問題として一文系大学生が初犯で大量連続殺人を成功させる事は心理的にも技術的にも不可能に思える。