(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『真景累ヶ淵』 三遊亭圓朝

 神経と怨念と因縁と

 怪奇探偵小説には怨念や妄念は付き物である。そもそも犯人が淡白であったり理知的すぎるとそこで描かれる事件に怪奇風味が出てこない。やはり、犯人の側に何か狂気であったり、強い怨念や妄念の様なものが存在するので事件が怪奇がかってくるのである。例えば江戸川乱歩の描く推理探偵小説には、犯人に強烈な怨念があったり執念があったりする事がしばしばある。『魔術師』で登場する敵役などは途中その怨念が幽界から復讐をしているようでゾッとさせられるし、『悪魔の紋章』の敵役の父祖から連綿と受け継がれた復讐の執念も恐ろしい。また横溝正史の『本陣殺人事件』や『幽霊男』の犯人も得体の知れない怨念や狂気を宿している。このような怨念の側面は非常に情動心理に訴えるものであって、怪奇探偵小説に登場する犯人・敵役に毒々しい魅力を与えるだけでなく、お話全体のを取り囲む大気を冷っとしたものにする事に成功している。

 探偵小説の場合は、一見怪奇であったりしても当然そこには霊的な存在はなく、あくまで、犯人の怨念妄念が怪奇的なものを醸し出しているか、怪奇的なものを装っているだけという事が殆どであるが、これが、ポーの『黒猫』辺りになると少し話が変わってくる。そこに何かしら怨念的なモノが出て来る訳である。この怨念的なものであるが、勿論物語の中では主人公が主観的に体験した事として描かれているので、物語の中の出来事の真偽を問うのも可笑しな話ではあるが、事実としてその様な事があったのかそれとも主人公だけの体験であったのかに関しては、大抵の場合は曖昧な儘にお話が終了する訳である。

 これが怨念的なモノから更にもっと怨霊幽霊的なモノに対象が移っていくと怪談になると思う。そしてこの怨霊的なモノを少し変わった形で描いているのが、この三遊亭圓朝の怪談『真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)』(1887-88年)である。そんなもの怪談なんだから、怨霊が出てくるのは当然だろうと思うかもしれない。また、怪談なんだから当然幽霊が出てくるべきだとも思うかもしれない。その辺りが、このお噺の少し変わっている処であって、お噺の最初の辺りで、頻りに神経神経と言うのである。どうやら明治のこの時期には神経なる言葉が流行ったらしくて、霊的な体験も怪奇現象もそんなもの全部神経の所為だなどと言っていたらしい。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」などと言う言葉があるように、幽霊と一口に言っても見るものが見たから幽霊になる場合が存在するわけで、もし本人だけに見えるようなものであれば、それは例えば心理的耗弱だとか神経的消耗だとか、そういう処からつまり神経から来ているのかもしれないだろうという話である。だからと言ってはなんだが、この怪談で血腥い出来事が起きても即幽霊登場というのとは少し違う趣で、怨念の因縁の描き方が非常に凝っているのである。

 『真景累ヶ淵』の怨念の連鎖は、これはよくある、それこそ泉鏡花や岡本綺堂なんかも書いていそうな、狂った殿様が罪もない人間をズバッと切り捨ててしまう所から始まっていく。ここから切った殿様の一族と切られた町人の一族が因縁に搦め取られて命を悉く落としていくのである。途中、話者が再三「さて此処からが怪談の始まりでございます」と宣うので、さあどの様にして幽霊が出てきてその怨念を晴らすのかと構えて読む訳であるが、実は上述した通りで明確な霊現象・怨霊はほぼ出てこない。大体は見間違いか気の迷いか神経の所為かでも説明が付きそうなものばかりで、そんな事なのに、血みどろの惨事に繋がるのであるから、却って人間心理の残虐な暴走の様にも見え、より恐ろしいとも言える。

 実は一箇所だけ、豊志賀の幽霊が出てくる処だけは、お噺の状況証拠から顧みるに本当の幽霊が現れたと見て間違いないだろう。幽玄の妙か、成仏の賜物か、現世に生き現世で死んだ登場人物達は皆怨念妄念に囚われているのに、幽霊として現れた豊志賀は妄念から脱却して穏やかになっている。人間より幽霊の方が穏やかであると言うのも奇妙な落としどころである。怨讐を呼ぶのは現世の人間、死んでしまえばその様な妄執からは解き放たれるのかもしれない。

 一方で、現世で自死の間際の豊志賀は、恋人であった新吉に、強烈な怨念の籠った呪詛を残しており、これが切欠か心理的圧迫か神経耗弱か、新吉の伴侶は皆その顔に瑕を負い、新吉は希代の殺人鬼まさに幽鬼と化していくのである。幽霊の豊志賀と最期の呪詛の対比の妙が冴えていて、お噺でもこの段は人気があり、『真景累ヶ淵』中で最もよく演られるようだし、映画にもなっている。

 最後に様々な奇縁が収束して絡み合った怨念はその結末を迎えるのだが、そんな都合のいい話があるものかしらんと思う人もいるかもしれない。しかし、お噺の中途でも物事は何でも因縁だとしっかり説明されている。因縁が因縁を呼び、怨念が生きる人々を幽鬼に変えていき、沢山の人々が死んでいく。げに恐ろしきは人の妄念かな、と言った処である。

 登場人物が多いこのお噺、下記blogのイネガル氏による相関図が人間関係の把握に非常に役立つと思われる。ネタバレ的要素を含むので閲覧要注意ではあるが。

blog.livedoor.jp ちなみに本筋と全然関係の無い話ではあるのだが、この書籍は口述筆記という事になっているらしい。つまり、当たり前に口語体で書かれている訳で、どうやらこのお噺は言文一致体の先駆けと見做されてもいるようだ。事実、二葉亭四迷の『余が言文一致の由來』に依ると、坪内逍遥が、この三遊亭圓朝の口述本を引き合いに出して口語体小説を書くのを奨めたようである。今でこそ、ほぼ総ての小説や文章は口語体で書かれているので、普段の会話と読み言葉の間に殆ど齟齬は無い訳なのだが、この三遊亭圓朝の語り言葉のお噺が書籍として世に現れたのは、当時としては何か画期的な物だったのかもしれない。この辺りの位置付けも追々勉強してみたい。

 と言う訳で、元々口述筆記であったこの『真景累ヶ淵』、書籍で読むのも良いのだが、噺を聞く方が色々と分かり易い。私は三遊亭圓生の噺を聞いてみたのだが、全体の空気感はやや可笑し味がありつつも、血腥い処に差し掛かると背筋を冷やりとさせる巧さがあった。語り手は誰でも良いのでお噺を聞いてみるとと一層楽しめる事請け合いである。文庫本は岩波文庫から出ているようだが、kindle版は無く、青空文庫のkindle版を読んだ。噺はyoutubeなどで検索すると出てくるのだが、権利的にどれが問題がないものなのかは私には分かりかねるので、ここでは紹介しない。興味のある方はCDを購入してみるのがいいかもしれない。

真景累ヶ淵

真景累ヶ淵

 
真景累ケ淵 (岩波文庫)

真景累ケ淵 (岩波文庫)