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古事記に纏わる副読本(kindle版) その2

古代神話を比較神話学的または民俗学的方法で読み解く本

 前回は古事記の物語をまず最初に簡単に掴む為にお奨めの書籍の覚書を書いたが、今回は古事記に登場する日本の古代の神々とその神話の由来について一般向けに解説された書籍に関して覚書を残しておこうと思う。

 『古事記』には200以上の神々と数多くの物語が収録されている。当たり前の話であるが、これらの神や物語が『古事記』に記された形や配列で古代から大和時代まで存在していた訳では無い。『古事記』が作成されるにあたって、巷に溢れていた神々やその神に纏わる逸話、そして、人々の語り継いで来た昔話の様な数々のお話が、『古事記』という壮大な物語の部品部品として使われたのである。実際にどのようにして様々な神話や伝承が、現在我々が知る形の『古事記』として編まれたのかを推測する為に様々な方法が存在するとは思うが、起源が同根とされる様々な世界各地の神話を比較するというのは方法論の一つとして良く用いられている。

 kindle版で簡単に手に入る書籍の内、この比較神話学的な方法や民俗学的な方法を以ってして古代の神話を読み解こうとした本に関して覚書を残して置く。ここに挙げた二冊はいずれも知的好奇心を存分に刺激する良書だと思う。どちらも初出は古いのだけれども、この時代の一般向け啓蒙書籍のレベルは高かったのだなと感心してしまう。

『日本の神々』 松前健

 古事記には多数の神々が登場する。長く続く研究に依ってそれらの神々が活躍する『古事記』が誕生するまでには、神々の位置付けや物語の組み合わせなどに様々な変遷が在った事が明らかになっている。この書籍は『古事記』神話中最も重要視されるであろう神々、イザナミ・イザナギ、スサノオ、アマテラスの原点とこれらの神々が如何にして『古事記』の中に描かれる地位に辿り着いたのかを比較神話学的手法と民俗学的手法を組み合わせて明らかにしようとするものである。

 この本は、実は最後の章である第五章が全体のダイジェスト的な物となっており、最初に第五章から読み始めると内容がすっと入って来易い。そして、この章では、ダイジェスト的な部分だけではなく、『古事記』を読む上での幾つかの重要と思われる前提条件と考察が記されている。

 まず、『古事記』を神話とするかどうかについては実は議論の余地がある。政治的な人工性の含まれる『古事記』は「作られた神話」であって、「真正の神話」とはやや異なるという点に関しては、ほぼ全ての研究者の一致する処の様だ。ただ著者は作られたモノだとは言え、作り手に「神話的思惟」つまり神話を真正に信ずる思考様式があったのではないかとして、広義の神話として捉えて良いとしている。これらの議論はそれ程無理のあるものではないと思うし、実際、原初の自然発生的な神話と異なるにしても『古事記』が神話的側面を強く備えていた事は間違いないだろう。

 そして著者は、比較神話学的な手法で神々の原点を探る手法と歴史民俗学的に神々の物語が如何に発展収束し中央に取り入れられていったのかを調べる手法との両手法を持ちいる意義を述べている。後者の部分が本書を特別面白くしている部分だろう。前者の比較神話学的手法は例が実際に多く雑学的にも小噺的にも面白いので多数行われているが、実際問題、松前氏が述べるように、それは構造や構成要素、そして神話の源流を探るだけに留まってしまう事が多く、何故、ある神が『古事記』や『日本書紀』に描かれている地位=神格に辿り着いたのか、何故、ある神がある物語の中心に選ばれたのか、を明らかにする事は中々難しい。その点を補うのが、著者の述べる後者の手法、歴史的再構成であって、大和時代の神々の信仰の拡がりや、神々と有力豪族との繋がりを調べる事から『古事記』に於ける神々の位置付けの原点を探っている。

 この2つの手法で神々を研究したものが第一章から第四章までになる。

 イザナミ・イザナギに関しては現代となっては特別新規な説は記されていないが、淡路の土着の海洋神的な存在からアマテラスの親神へと発展していったという事実は再確認として覚え書きしておく。中央で重要視される過程として、著者は淡路の豪族・安曇氏の影響を指摘している。

 スサノオに関しては、中々面白い考察が述べられている。スサノオは元々は紀伊を原点とする海洋神であるとする説である。実際、紀伊半島にはスサノオに関連する神社が多数ある様だし、スサノオは当初はイザナミから海の支配を言い渡されていた。オホクニヌシが根の国に逃げ込む際に紀伊の木の根から逃げ込んだというやや唐突な挿話もこの説で説明が付く。

 アマテラスの考察は二章を充てて精緻に行われている。端的に言ってしまえば、これも現代ではほぼ異論の無い処の様であるけれども、伊勢の土着の太陽神であったアマテラス*1が宮廷と伊勢神宮の結び付きの強化に伴い、皇祖神の地位にまで上り詰めたという事のようだ。著者はこの過程を丁寧に丁寧に検証して提示している。タカミムスビが本来の皇祖神的地位にいた神で、アマテラスがやがてその位置に挿入されたという著者の説は、『古事記』に於ける不自然なタカミムスビの活躍の多さを説明するのに納得のいきやすい説であると思う。

 本書は1974年刊行のかなり古い神話入門書であるのだが、今読んでも十分に新鮮で素晴らしい古事記の比較神話学・民俗学的解釈の入門書だと感じる。先行する研究の引用と自説の区別は分かり易く、そのおかげで論理を整理よく理解していく事が可能である。また神話に於ける構造的な側面と物語の意味付けとの違いを明確にではないが指摘している点や、神話の伝播が必ずしも民族の移動を伴うものではないという指摘などは、現在の観点から見直せば炯眼と言える物だろう。下記の『日本神話の源流』共々、神話の原点に興味を持つ人には間違いなくお奨めの書物である。

日本の神々 (講談社学術文庫)

日本の神々 (講談社学術文庫)

 

 

『日本神話の源流』 吉田敦彦

 この本の著者、吉田敦彦はギリシア神話から日本の古代の神話まで様々な比較神話学の本を著している。この手の古事記関連書籍を読み始めるまで、全く吉田氏に関しての知識はなかったのだけれども、この『日本神話の源流』は比較神話学的アプローチで古事記を含む日本の古代の神話や神々を解析した良書であり、この関係に興味を持った初心者が最初に読むのに適した本のようだ。

日本神話の研究においては、日本の内部におけるその形成、編輯の過程を考察する歴史学的研究や文献学的研究と並んで、外の地域と関係させてその起源、系統を明らかにしようとする比較神話学的研究が不可欠である。

  第一章において著者は上記の様に述べている。これは『日本の神々』で松前氏が記している処と正に同一であり、神話を知る上でこの二つの手法が重要である事が共通の認識である事が分かる。この吉田氏の『日本神話の源流』では上記の『日本の神々』に比べると比較神話学的な手法に重点が置かれている。双方を読み比べると尚楽しめる事請け合いである。

 以下にこの書籍で紹介されている、日本の神話の源流を覚え書きしておく。

 まず、古事記の中でイザナギ・イザナミの一連の神話と日向神話とされる部分、特に山幸彦と海幸彦の挿話には南洋のポリネシア、インドネシア、ミクロネシアの島々の神話との相当な類似が見られる。

 さてこれらの神話は直接南洋から伝来したのだろうか?という事になると、近年の研究ではその大元は東南アジアにあるのではないかとされており、その源から別々に日本と南洋の島々に伝播したと推察されている。レヴィ=ストロースが提唱した様に構造が伝播し構成要素は変換され易いために、同様の島嶼共同体であった日本と南洋の島々で似たような物語に落ち着いたのかもしれない。

 他には神を殺すことで穀物を授かるオホゲツヒメの物語も、ハイヌウェレ型神話として広く東南アジアを中心に分布しているらしい。この捉え方はオランダの神話学者イェンゼンが提唱したものが広く支持されている様だ。この神を殺すという行為を祭礼儀式として模擬的に行っている習俗は各地に見られるのであるが、 ニューギニアに住むマリンド・アニム族では実際に少女が神話的事象の再現として殺さる「マヨ」と呼ばれる祭礼が続いていたらしい。著者はこの行為が人道的に許されるものではないとした上で、住民の行為が単に殺戮癖があるだとか野蛮だというのではなく、レヴィ=ストロースが述べる処の「野生の思考」によって行われたという事も強調している。我々の価値観だけがこの世を統べるものでは無いのは確かである*2

 著者の吉田氏はギリシア神話の研究がそもそもの本職だった方の様で本書のハイライトはやはりギリシア神話を中心とする印欧神話と日本神話の比較であろう。

 誰もが思い付く類似の神話としてはオルフェウスがその妻を冥界に訪ねる神話とイザナギの黄泉国訪問譚がある。が、吉田氏がそれに加えて指摘しているのが、アマテラスの天岩戸神話とデメテルがペルセポネを探す間の神話群との相似である。ぱっとギリシア神話を読んだだけではそれ程似ていない様に思っていたが、吉田氏の指摘する部分を読めばこれは確かに非常に似通っている*3。そもそも冬の到来を示唆する神話として捉えると共通項を理解しやすい。

 最後の章では日本の神々の権能を印欧神話の神々の権能とを比較してその類似する処を指摘している。つまり印欧文化が何らかの形で日本に伝播し影響を与えた可能性を示唆しているのである。この部分に関しては読み物としては面白いのだけれども、類似していると云う事以上の事は余り導き出せない様な気もする。ただ、こういう様な思索の拡がりを、太古の神話の伝播に想いを馳せながら読むとなかなか感慨深い。

 吉田氏と前出の松前氏の大きな違いは神話の伝播と民族文化の移動をどの程度同一であると看做すか、という所にあると思う。レヴィ=ストロースが唱えた仮説や類似神話が存在する場所が不連続である事を考慮すると、現状松前氏が提唱するように物語の伝播と実際の民族文化の伝播にはそれなり以上の差があると想定する方が妥当なような気がする。が、どちらにしても神話が遥かな距離を経て同一の物語として各地に顕現するという所には何か神秘的なモノを感じざるを得ない。

 本書は『日本の神々』の1年後1975年に刊行されている。この同時期に古代神話の源流を紹介する二冊の優れた啓蒙書が世に出たという所には何か偶然を越えたようなものが存在するのかもしれない。吉田氏はこの他にもギリシア神話の解説書などを著しており、失礼ながら学者先生の書く書物にしては文章が詩的で面白く読めるものが多い。そして当然、本書は『古事記』に興味をもつ人々にお奨めの一冊である。

日本神話の源流 (講談社学術文庫)

日本神話の源流 (講談社学術文庫)

 

 

 

*1:天孫降臨のエピソードの途中にサルタヒコが唐突に出てくるのだが、サルタヒコはアマテラス同様に伊勢の土着の太陽神であるらしい。何故猿が太陽神なのか?という事に関しては、日本古代では猿は太陽に関連する動物だった様だ。太陽神化したイザナギが祭られる多賀大社にも白猿が祭られているとの事である。何故猿が太陽と関連するのかは不明である。

*2:この辺りの価値判断というものは相当に難しい。西洋的価値観でそれに反する行為を総て禁止し、教化啓蒙するという行為はある種の文化的帝国主義であるが、文化相対化に依って全てを黙認するというのもまた逆方向の極端であろう。

*3:かなり詳細な比較が行われているので、興味のある方は是非実際に読んでみて欲しい。