(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『潤一郎犯罪小説集』 谷崎潤一郎

 谷崎潤一郎が描く妖しい犯罪心理

 谷崎潤一郎は江戸川乱歩が心酔していた通り、実に妖しげな香りの犯罪小説を色々と書いていた。谷崎が犯罪小説を書いていた頃、つまり大正の中頃は、谷崎のみならず、芥川龍之介や佐藤春夫も似たような味わいの小説を書いていて、これらは推理探偵小説と言うにはその推理の趣きが足りないのではあるけれども、犯罪心理の描き方なんぞは文豪達の手に依るものだけあって流石の出来映えである。

 そして、この谷崎潤一郎は前に『途上』も紹介したのだが、上述の三氏の中では最も推理小説的なモノを残していた人かもしれない。江戸川乱歩が彼の随筆でいつも谷崎潤一郎を非常に褒めるので、谷崎式犯罪小説を久々に読んでみたいと思ったのだが、ふと調べてみると、案外手に入りにくい、という時に、新潮社から犯罪小説を集めたアンソロジーが出ている事に気付き読んでみた。

 まず、収録されている小説は『日本に於けるクリップン事件』、『白昼鬼語』、『或る罪の動機』、『私』、『途上』、『前科者』、『黒白』の7編である。この中では『白昼鬼語』、『私』、『途上』そして『黒白』が特に印象に残った。『途上』は以前触れたので、それを除く3作に関して覚書をしておく。

 

『白昼鬼語』 

 『白昼鬼語』(大正7年:1918年)はパッと見こそはそうは見えないが、話の仕組みとしてはポーの『黄金虫』と良く似ている。語り手の友人が、妄想に取り憑かれたかの様に鋭敏な推理を繰り出し、常人には見る事の出来ない世界を見付けるという点は正に『黄金虫』である。更にこの『白昼鬼語』では暗号の謎解きも行われているという点でも『黄金虫』との類似が見られる。只何を見付ける為に大騒ぎしているのか?という所になると、ここはやはり谷崎潤一郎独特の味付けがなされていて面白い。殺人現場を覗きに行こうなんて発想は今でこそまあ散見されるかもしれないけれども、中々奇抜な発想であるし、谷崎の筆で描き出されると倒錯の世界が広がっていく。その倒錯の世界に友人が飲み込まれて行くかの様に見える訳なのだが、最後にうっちゃりを喰らわせてくる処も振っている。

 と、乱歩の『二銭銅貨』は正に『白昼鬼語』翻案だと気付いた*1。そして『二銭銅貨』に限らずその他多くの小説での卓袱台返し癖は、この谷崎の『白昼鬼語』から強い影響を受けたモノなのかもしれないな、と思い当たった。乱歩は日本の作家の中では谷崎潤一郎を最も敬愛していると度々その随筆の中に記しているし、若い頃は「逢い度いとは思わぬ。」と強がっていたのに、結局、おねだりして「うばたまの夜のまぼろし夢ならば、昼見し影を何というらむ」という書を貰うくらいに谷崎潤一郎の信奉者なのである*2。この『白昼鬼語』の細い隙間から殺人模様を伺うという倒錯した恐怖も、乱歩に相当な妄想的刺激を与えたのだろう、小説『妖虫』の中にこの狭い視野から殺人を覗き見る背筋の凍る恐怖が描かれているのである。

 乱歩に間違いなく大きな影響を及ぼしたこの『白昼鬼語』、推理小説愛好家ならば読まずに置いておく訳にはいくまい。

 

『私』

 『私』は大正10年(1921年)に発表された短編である。今や推理小説を読む人ならほとんど誰でも叙述トリックというものが存在している事は知っているだろう。叙述トリックとは文章記法上の盲点や情報の破綻を巧く利用して、読者をミスリードする手法である*3。さてこの叙述トリックというものは何時生まれたのだろうか?と言う事を考えた事がある。叙述トリックとして破綻なく成功させているという意味ではアガサ・クリスティーのアレが最初だと長らく思っていたのであるが、ここに来て新たな発見をした。それと云うのは......

 なーんて、まあ、こんなことを書いていると、言うまでもなく、この『私』が叙述トリック的な手法を用いた小説であるという事はバレバレになってしまうのだけれども、実は、ちゃんと読んでいれば、途中で大体の読者は「語り手」が小説内での犯人的な位置にいる事は感ぜられると思う。だから私の罪は非常に軽いものの筈である。ある意味不思議な話なのだが、谷崎潤一郎の小説だと思って読むと猶更、叙述トリックが潜んでいる事に気付き易いのではないだろうか? これは谷崎が書く小説というのはどこか捻くれているし、理知的な着地を試みる物ではないという事を大抵の読者が念頭に置いて読んでいるからだろう。逆説的に言えば、推理小説の場合は、地の文や語り手にトリックがないという前提で、理知的な解決が存在する事を予想して読んでいる人が多いが為に、叙述トリックというものがトリックとして成立したという経緯はあると言えるだろう。推理小説の叙述トリックは推理小説としてはやはり変化球・傍流であるのは間違いない。

 叙述トリック的なモノが本当に最初に生まれたのが何時なのかはまだまだ書物を色々と読んでみないと分からないけれども、今の所、この『私』が破綻なく叙述トリックを用いた最初の推理探偵風味のお話であると思う。と言う訳で、この『私』も『白昼鬼語』同様、推理探偵小説愛好家必読の短編であると強調しておきたい。

 

『黒白』

 『黒白』は昭和3年(1928年)に発表された、不思議な不思議な怪奇犯罪物で、これはこの短編集の中では最も分量のあるもので中々に読み応えがある。

 梗概をざっと記す。水野という自称悪魔主義作家が、犯罪小説を書くのであるが、その内容は、水野を思わせる作家が、実在の人物をモデルにした人間を、良心の呵責無く殺めるというお話であった。書き上げた直後に水野は、モデルに使った実在の人物が小説の方法と同様の方法で実際に殺された場合、自らに嫌疑が掛かるのではないかという不安に襲われ、せめて小説内で暗示された殺人の日にはアリバイを作っておこうとするのだが…...

 ちょっとした出来心と不注意から小説に描いた殺人のために、我が身に降り掛かりかねない冤罪の恐怖、そして、これが起きれば益々立場が悪くなるだろうなという事柄が次々とその通りに現実の物となっていくヒリヒリとした焦燥感がある。この悪い予感が悉く当たって、じりじりと蟻地獄に嵌まって行く様な、蜘蛛の巣に搦め取られて行く様な、その恐怖の描き方は堪らない。

 この小説で描かれる処は、外形的には犯罪者と看做しうる状況であるが、実は無実であり、冤罪であるという状況である。更に言えば外形が内実を必ずしも反映しているとは限らないというお話である。『途上』の状況に比べると、現実に我らが身に降りかかる災難としてはこちらの方が可能性として高いのではなかろうか。冤罪を描いた推理探偵小説は結構存在していて、例えばガボリオの『ルルージュ事件』やザングウィルの『ビッグ・ボウの殺人』などでも外形上の合致から本来無罪である人物が犯罪者に仕立て上げられてしまう。本来であれば推定無罪の原則があるのだから、外形上の証拠だけで直接的な証拠が無いのに犯罪者にされては堪ったものでは無いのであるが、現実問題として、冤罪はそこかしこで生じており、日本でも近年、通称足利事件でDNA鑑定の精度の低さから無辜の人がその人生を狂わされていた事が明らかになった。権力というモノは取り敢えず矛盾の無い形で犯罪者を用意出来れば満足する傾向があるし*4、残念ながら世の中も外形で物事を判断する。実際の処、人は外形でしか周りから判断されないし、内心など外見からは全く分からないのである。この小説の主人公の場合は、色々な要素が悪い方に絡まっていて、そして影の人物の仕掛けた罠に完全に嵌まってしまうのである。

 谷崎は『途上』に於いて、外形的には一見無罪であるが、そこに悪意のある犯罪を描いた。この『黒白』はそれと対をなすものであり、内実がどうであれ、世間は我々を外形で以って断ずるという現実を描いている。『途上』や乱歩の『赤い部屋』から示唆されるように、我々の自己意識と自己意識が生み出す行動やその行動が惹き起こす結果の間には幾分かの乖離が存在する。そして、その乖離している外形的に顕われたモノをして我々は判断されるのであるが、同時にそれを判断する人々の認知においても齟齬が生じうるし、その認知を外形的に表出する際に更なるずれが生じる。そして当の我々がその反応を認知する際に、そこにもまた乖離が生じるのである。つまり我々は我々自身の内部と外形、我々と世間、それぞれに於いて深刻な伝言ゲームが重ねられた幻影の世界に生きているとも言えるのである。

 この小説で描かれる内実と外形の乖離、そしてそこから生まれる冤罪、これだけであれば、「冤罪は恐ろしい」という教訓譚に終るのだが、このお話が谷崎節全開で素晴らしいのは、主人公自身も自らのアリバイを確固たるものにして置くべき必要をよくよく承知の上でイイ女にホイホイと釣られて付いて行ってしまって身を滅ぼすという所である。分かっているのに女性に惹かれる。分かっているのに理性が飛んでしまう。人間はただ論理に従って生きるだけの存在ではないのである。またある状況に於いては、死を避ける事が常に最上の選択であるとも限らない。

  その女性と初めて邂逅した際のその手の印象の描写が振り切れている。

どうもこう云う指やてのひらをむき出しにするのは甚だよくない、此れを眺めているとこの女の全身が見えて来る、詰まり体じゅうがむき出しになっているようなもんだ、この女は素ッぱだかになってテエブルの上に、己の鼻先に寝ているんだ。
-『黒白』 谷崎潤一郎

まあ、谷崎の小説の場合は探偵モノの枠に小説が嵌まるのではなくて犯罪小説と云う構造を利用して谷崎氏の倒錯の世界が踊るのである。 

 因みに、この『黒白』、偶然かそれとも模倣されたのかは分からないが、後に発表されたアイリッシュの『幻の女』(1944年)を彷彿させる。『幻の女』の方はこれまた屈指の名作推理小説であって、アリバイを証明してくれる筈の行きずりの女性が跡形もなく消えてしまい、他の誰もその女性を覚えていないと証言するという、正に狐に化かされた様な体験が描かれている。しかし、『黒白』と同様に、この女性の証言無しには被疑者は冤罪で死刑となる運命なのであって、狐に化かされた様だでは済まない。こちらは理性的な推理小説であるから最後にはしっかりと色々な落ちが着くし、『黒白』とは又異なったアッと言わせる捻りがあって最後まで飽きさせない。こちらも相当にお奨めの推理探偵小説である。

 

 このアンソロジー『潤一郎犯罪小説集』は中々巧く犯罪短編を集めている。恐らく『金色の死』以外の犯罪小説風味の物はほぼ収録されているのではないだろうか? 後は中公文庫から出ている『人魚の嘆き・魔術師』を読めば、谷崎氏の幻想・犯罪系の短編は大体読める様な気がする。今回もいつもの如くkindle版で読んだのだが、電子書籍に付き纏う不幸の例に漏れず、この電子書籍でも解説が収録されていないようである。解説者に電子化の許可を取るのはそこまで大変な作業なのだろうか? まあ一般人には伺い知れない苦労があるのかもしれない。

潤一郎犯罪小説集

潤一郎犯罪小説集

 

*1:『二銭銅貨』は『黄金虫』からの影響も相当に受けている。つまり『黄金虫』の息子が『白昼鬼語』その弟が『二銭銅貨』だと言っても良いかもしれない。

*2:この辺りのエピソードは光文社刊乱歩全集24巻『悪人志願』中の「探偵小説十年」やら「幻影の城主」やらに複数記されている。

*3:叙述トリックの名手として「館シリーズ」の綾辻行人がいるが、叙述トリックというものは中々使い所が難しくて、近年では綾辻氏を除いては余り巧く使いこなせている人はいない。

*4:例えば昨今強引に成立されてそうな「テロ等準備罪(共謀罪)」の様な警察機構の権力を殊更強化するモノはやはり危険ではないかと思う。