(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

“The Moonstone” Wilkie Collins (『月長石』 ウィルキー・コリンズ)

コリンズの古典的傑作
-呪われたダイヤ「月長石」を巡る超長編

 推理探偵小説というものは、個人的な印象ではあるが、SF小説と並んでベスト何々みたいなリストが作られ易い分野であると思う。江戸川乱歩が作成したベストテンのリストも何種類か存在していて『幻影城』の中で紹介されているのだが、その中でも第一次世界大戦以前のものを取り上げた古典ベストテンに最近興味を惹かれている。そこでその古典ベストテンを順番に読んでいこうと思い、その中から、まず古典的名作として有名なウィルキー・コリンズの『月長石』(1868)を読んでみた。

 『月長石』はその月長石に纏わる挿話から始まる。

 月神を讃えるインドの寺院に輝いていた月長石。月長石はやがて戦乱の時代と共に寺院から簒奪されるが、それを取り戻すべく寺院の婆羅門の末裔によって常に監視されていた。1799年インドでの争乱の際、John Herncastleは月長石を手中に収める事に成功するが、婆羅門の末裔は不吉な言葉を彼に残すのであった。

 この最初の挿話の次に、Verinder家の召使であるOld Betteredgeの手記が始まり、我々読者は、月長石がVerinder家から紛失した事、そしてそれに纏わる物語はどうやらこの手記が記されている時点では解決済みであり、数名の人物による幾つかの手記を通覧する事でその出来事のあらましを知る事になるであろう、と云うこの小説の構造を理解する訳である。

 この小説の一つの工夫として、複数の人物が同じ事件同じ場面を別な視点から描いているという点がある。手記の寄せ集めという形を取る事によって登場人物の知りえる事実や認識している事のずれの様な物を巧く整理して読者に提示する事に成功している。この小説ではそれぞれの人物による事件に関する記述には全く齟齬がないように構成されており*1、後から読み直すと、成程あれとあれが関係していたのか、と納得のいく処が多々あって流石は当時人気を誇ったコリンズの筆力と感心した。

 またこのような構成にする事で、「語り手=手記記述者」ごとの特徴が強く表れていて、それが物語の進展のスピードそして読書自体のスピードにも影響を与えてくる処が良く出来ている。月長石紛失当日の出来事の手記の担い手であるOld Betteredgeの語り口はゆったりとした大洋のうねりの様に、少し脱線しては少し進みといった様子で、中々事件当日へと辿り着かない。2番目の手記の担い手である、Clack嬢にしてもBetteredgeに比べれば幾分かマシかもしれないが、それでも物語は中々真っすぐには進んで行かない。ちなみにこの物語は一応は江戸川乱歩が推薦し、また東西ミステリーベスト100にも入っている推理小説という事になってはいるのだが、メロドラマ的な部分が占める割合も多く、佳境に入るまでは人によっては相当退屈に感じるかもしれない。これが段々と後の語り手に成る程、その語りの速度は増加していき、そして読者の読みの速度も結末に向けてどんどんと加速していくのである。恐らく、多くの読者はOld BetteredgeとClack嬢の手記を読み終えるまでに掛けた時間の5分の1ぐらいの時間で残りの部分を読み終える事になる筈だ。

 小説内の人物造形も中々一癖ある。上述したOld Betterredgeはロビンソン・クルーソーを預言書として愛読する好人物の老召使であり、その手記を読む間に読者は彼にかなりの好意を抱くであろう。逆にClack嬢は恐らくmethodist系の急進的狂信的信者で所謂信仰故の要らぬお世話を強要してくる人物として描かれており、悪人ではないにしても読者にある種の忌避感を抱かせるに違いない。そしてこの小説に登場するCuff巡査部長の造形は後の名探偵達にかなりの影響を及ぼしたのではないかと思う。Cuffはスコットランド・ヤードの一の腕利きなのだが、その外見は黒の衣服に身を包み、痩せぎすで、陰鬱かつ冷静沈着な探偵として描かれている。風変わりな探偵の嚆矢かもしれないし、またその特徴の一部はホームズであったり、以前に紹介した久生十蘭の『魔都』に出て来る真名古警視にも引き継がれている。

 この小説は純然たる推理小説とは少し異なるのだが、登場人物達の誤解や思い込み、そしてそれらが引き起こす行動が幾重にも折り重なって奇遇を産み、月長石の紛失という謎を混迷へと導いていたという事がレトロスペクティブに解明されていく様は面白い。これは確かにある種の推理探偵過程である。横溝正史の『犬神家の人々』に於ける偶然と必然の組み合わせで謎がより複雑に成っていくお話の種の一つかもしれない。もっとも誤解で物事がヤヤコシクなるというのは、別に『月長石』に限らず、古代から綿々と受け継がれてきたプロットではあるのだけれども。

  真偽は定かでは無いが、T・S・エリオットがこの小説を「最良の推理小説」と評したらしい。勿論、この小説は良く出来ているとは思うが、エリオットが絶賛したのは、この小説の推理小説としての良さだけに依拠する訳ではないと思われる。というのも、エリオットは古き良きヴィクトリア朝の上流階級による支配社会を理想の一つとしており、この小説で描かれるような、ヴィクトリア朝の貴族の優雅な暮らしと忠義に溢れ献身的に奉仕する召使に顧問弁護士という物語にはかなりの愛着を感じたであろうし、それがこの小説の評価を後押ししたのだろう。ただ、コリンズの意図は分からないが、小説内での人々の描かれ方はそれほど理想郷的ではない。主人公といえるMr. Franklin Blakeは不労所得で遊び暮らしており、借金をこさえる程に金遣いが荒く、人との約束にもだらしなく、その上、自己中心的で我儘である。また恋人であるRachel Verinder嬢も美人ではあるが、高慢でこれまた自己中心的かつ衝動的な人間である。その従兄弟のGodfreyは社会奉仕活動に貢献している様に見えるが、その実上辺だけを取り繕った詐欺師紛いである。この様に貴族階級が一部を除いて問題を抱えた人物達ばかりであるのに対して、労働者である召使Old Betteredge、巡査部長Cuff、弁護士Mr. Bruff、医師補佐Jenningsこれらの人物は皆職掌に誇りを持ち情にも厚い相当な好人物達である。この対照的な描き方は、やはり、変革しつつあったヴィクトリア朝の何か新しい兆しをコリンズが掴んでいた事を示しているのではないだろうか。

 この『月長石』実際、推理小説としてだけではなく社会形態、宗教態度等、様々な読み方を提供する中々の佳作である。150年の時を経て尚まだ読むに耐える書物であると思う。今回、私はpublic domainとなっているkindle版の原著を読んだ。ちなみにこの小説は結構長いので、上述したOld BetteredgeとClack嬢の手記の部分は英語で読むのには相当にきつかった。まあ再読した際には細かいパズルのピースが嵌まり合う感覚が楽しめて良かったのではあるが。邦訳版は創元推理から出ている。kindle版は存在しない様だ。

The Moonstone (English Edition)

The Moonstone (English Edition)

 
月長石 (創元推理文庫 109-1)

月長石 (創元推理文庫 109-1)

 

*1:まあ、ここで手記の記述に齟齬があったりしても面白い探偵小説になるだろうなとは思ったがこれはこの小説の狙う処ではないので仕方がない。例えば芥川龍之介の『藪の中』なんぞは推理小説ではないけれどもこのような複数証言間の齟齬が非常に面白い効果を発揮している。