(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『怪談 牡丹燈籠』 三遊亭圓朝

 幽霊と仇討ちと色と欲

 三遊亭圓朝のお噺の口述速記本が言文一致の開祖であるというのは割かし良く知られた話である様だ。その中でも『怪談 牡丹燈籠』(1884年:明治17年)の口述本が言文一致に与えた影響はかなり大きい様で、二葉亭四迷が文章の書き方に関して悩んでいた際に、坪内逍遥が当時世に出回っていた三遊亭圓朝の口述本を引き合いに言文一致体を奨めたというのが、二葉亭の言文一致の源流にあるらしい。と言う訳で興味を感じて読んでみた。

 この小説、まずは序文からして中々面白い。『怪談 牡丹燈籠』は言文一致体という事の新しさもあったのだろうが、坪内逍遥は『怪談 牡丹燈籠』の序に於いて三遊亭圓朝の語りの巧さを激賞し、文語文でなくとも本職の小説家の手に依るものでなくても、非常に優れていると評している。そして「女子供向け」の小説よりこちらの方が良いと述べているのである。どうやら、一部の小説が女子供向けに見えて重鎮から嫌われるのは明治の時代から変わらない様だ。また、このお話が書籍の形で世に出るに当たって、大きな貢献をしたのが、速記者である若林玵蔵である。彼もまたこの小説の序を書いて居り、そこで、話し言葉を文章化する事がやがて日本言語の改良に繋がるという遠大な野心を吐露している。明治期の人間は二葉亭四迷にしてもそうだけれども、文学の様なやや形而上的存在に関わる人々でさえ、何か物凄い社会的野心と情熱を持っていたのだな、と、現代のややレイドバックした感のある小説家達と比べてその社会への関わり方に対照的な物を感じてしまう。明治時代というのは中枢に居座る人間のみならず、文化に関わる人間にとっても明らかな革命期だったのだろう。

 さて『怪談 牡丹燈籠』本編であるが、大きく分けて二つの部分からなっている。一つ目はその名の通り、牡丹燈籠が関わってくる怪談である。二つ目は奇遇の繰り返しに依ってもつれる長い仇討ちのお話である。この二つはお話の時系列的には仇討の物語の半ばに怪談が挿入される形になっている。

 まず、その怪談の部分である。この牡丹燈籠が登場する怪談というのは、そもそも、中国の『牡丹燈記』にその原型を認められるものであり、夜半に小間使いの灯篭に先導される美女が実は幽鬼であり、その美女に惹き寄せられた男が結局は命を失ってしまうというお話である。この中国の怪談が江戸時代に日本を舞台に変換して物語られ、更にそれがこの『牡丹燈籠』に翻案されている。『牡丹燈籠』の場合は、最初に男女が出会う際には、女の方は生きており、男への未練を残したまま死んだが為に、幽鬼となって現れるのであるが、何と言ってもその牡丹燈籠というものが良い。江戸時代の灯りの無い暗い夜に見える燈籠というものはまるで人魂の様であるというのは容易に想像がつくし、それが牡丹を設えた燈籠で顕れるのだから幽玄さに更に一つ魅力が加わる感がある。また、女幽霊は中国の方もこの小説の方も裕福な家の出という事になっていて、この『牡丹燈籠』に於いては、蝶よ花よと育てられた子女らしく、幽霊になっても駄々を捏ねる。この我儘な感じが堪らない。幽鬼と謂えども、別段男を呪っている訳では無く只単に男に会いたいだけで現世を彷徨っている訳で、悪気もなく男を幽界に道連れにしてしまうのだからこれはこれで凄まじい。逢瀬を重ねる事が男の命を奪う事に繋がると女幽霊の方は分かっていなかった様にも思える。

 さて、怪談部分はこんな感じで、美しくもあっけないのであるが、仇討の方は中々に複雑なお話である。このお話の主人公に当たる登場人物は孝助だと思うのだが、まず、その考助の父親は不良武士であって、飯島平左衛門という武士に酔って絡んだ挙句、あっさりと斬り殺される。ここで、一つ仇討の種が産まれる訳である。武士の子である考助は父の仇を討たなければならない。処が、どういう奇縁か孝助は仇と知らずに飯島平左衛門に奉公する事になる。只奉公するだけでなく、心底その主人に忠義を尽くす訳である。武士の理屈からすれば、仇を討たねばならんし、主君に忠も尽くさせねばならない、という非常に捻じれた状態に気付かない内に陥ってしまう。

 ここで、一般的な現代の価値観から超越して見えるのが、飯島平左衛門の思考形態である。彼は、ふとした弾みに、孝介の仇が自分自身である事に気付き、機会を伺って孝介の仇討を主君殺しの汚名を着せない形で成功させる。

現在親の敵と知らず、主人に取って忠義を尽す汝の志、殊に孝心深きに愛で、不便なものと心得、いつか敵と名告って汝に討たれたいと、さま〴〵に心痛いたしたなれど、苟めにも一旦主人とした者に刃向えば主殺しの罪は遁れ難し、されば如何にもして汝をば罪に落さず、敵と名告り討たれたいと思いし折から、相川より汝を養子にしたいとの所望に任せ、養子に遣わし、一人前の侍となして置いて仇と名告り討たれんものと心組んだる其の処へ、國と源次郎めが密通したを怒って、二人の命を絶たんとの汝の心底、最前庭にて錆槍を磨ぎし時より暁りしゆえ、機を外さず討たれんものと、態と源次郎の容をして見違えさせ、槍で突かして孝心の無念をこゝに晴させんと、かくは計らいたる事なり、今汝が錆槍にて脾腹を突かれし苦痛より、先の日汝が手を合せ、親の敵の討てるよう剣術を教えてくだされと、頼まれた時のせつなさは百倍増であったるぞ、

 人に依ってはここに至上の美学を感じるのかもしれないが、私はそうではない。私はこの部分を不気味に感じる。その気味の悪さをまだ上手く言葉にする事が出来ない。このお話で描かれている朱子学的武士階級価値観の中で、一つ明らかな事は、個々人の命と云うモノに対する淡泊さである。私自身別段「生」というモノ自体がそんなに大層なモノだとは思わないが、物語の登場人物の思想信条の様に生命に対してあそこまで淡白であると、非常な違和感がある。飯島は孝介の父をあっさりと斬り殺すしそれに対しての後悔の様なものは全くない、又、主君への忠義を損なわない形で孝介の仇討を成功させる為にその命を簡単に放り投げる。勿論、お話としては強い信念の下に成り立っている行動であるからして、現代の私が「簡単」等とそれこそ軽薄に切り捨ててはいけないのかもしれないが、現実問題として、ここに称揚されるような価値観は武士がそれを体現出来ていなかったからこそ称揚されていたものであって、歪な価値観であるというのはそうそう外れていないとは思う。只、ある種の自己犠牲的そして儒教的に一貫した価値観と言う物を支配層である武士に社会全体が期待していた処は有るのかもしれない。

 この様に、朱子学的武士階級価値観に従って行動する飯島平左衛門と孝介とは対照的に、このお話の悪役たちは欲と色に目が眩んだ人々として描かれており、目先の欲望に囚われて破滅していき、最後には孝介によって誅殺される事になる。儒教的価値観で現世の欲得を打ち砕くという、勧善懲悪的な物語の典型例だと言えるだろう。

 ちなみに、岡本綺堂が記す処によると、仇討と単なる復讐とは随分異なった物である。

わが国古来のいわゆる「かたき討」とか、「仇討」とかいうものは、勿論それが復讐を意味するのではあるが、単に復讐の目的を達しただけでは、かたき討とも仇討とも認められない。その手段として我が手ずから相手を殺さなければならない。他人の手をかりて相手をほろぼし、あるいは他の手段を以て相手を破滅させたのでは、完全なるかたき討や仇討とはいわれない。真向正面から相手を屠らずして、他の手段方法によって相手をほろぼすものは寧ろ卑怯として卑められるのである。
-『かたき討雑感』 岡本綺堂

これによると仇討というものはそんなに簡単なものではない様だ。江戸時代的武士の価値観で称揚されていたのは単なる復讐ではなく仇討の方であって、これを達成するには相当な労苦を要する事になる。仇討と言ったって、肉親の仇討であればその動機は強く、仇討を達成する為に労を惜しまないという事はままあるかもしれないのだが、これが主君の仇討と云う事になって来ると又少し話が違って来る場合があるのは想像出来るだろう。仇討の相手が相当手練れである事もあるだろうし、もっと言えば、その行方が杳として知れない事も当然しばしばあるだろう。仇討を達成するまでの間は通常の生活に戻る事が困難な訳であるから、幾ら武士の価値観がそれを称揚していたと言っても中々現実に実行し続けるのは難しかったに違いない。只、難しいから仇討なんかしたくない、という正直な感想を世間という奴がどこまで認めるかは、これまた、別問題の様である。

 明治20年前後に登場している、この『牡丹燈籠』や『真景累ヶ淵』に於いては登場人物達は決して諦めず、執念の仇討が達成されるのだが、それから随分時代が経った、大正6年に書かれた、岡本綺堂の『半七捕物帳』の「湯屋の二階」というエピソードに於いても仇討に纏わる話が描かれている。そこで描かれているのは、仇討を認められた武士達が仇敵を捜すという名目の下、湯屋の二階で毎日油を売っているという滑稽なお話である。明治から大正に入って、仇討という行為に真剣になれない、という姿勢が社会の内に許容される様になって来たのかもしれない*1

 単なる復讐とは異なる「仇討」と云うものが世界でどれ位一般に存在する物なのかは分からないが、日本に於いては江戸時代の戯作や文献に見られるだけでなく、明治大正期の文筆家達もまた多くの仇討物を書き記している。その内、仇討文学に関しても総覧してその文化規範による行動への影響を作家達がどのように捉えていたのかを調べてみたい。

 この『怪談 牡丹燈籠』はKindleの青空文庫版で読んだ。岩波から出ているものは残念ながらkindle版にはなっていなかった。結構短いし、物語として普通に面白く読めるし、言文一致の始祖としての有難味もあるので、一読の価値があると思う。

怪談 牡丹燈籠 (岩波文庫)

怪談 牡丹燈籠 (岩波文庫)

 
怪談牡丹灯籠 04 怪談牡丹灯籠

怪談牡丹灯籠 04 怪談牡丹灯籠

 

*1:勿論探せば、仇討に纏わるこの様な武士の滑稽な姿を描いたお話は以前から多数あるのかもしれないが。