(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『黒いトランク』 鮎川哲也 2

 『黒いトランク』覚書の続き。

 推理小説として佳作な本作だが、推理探偵とは関係のない話であるが、ひたすらに旅情をそそる。私は若い頃は2時間サスペンスなんぞは何が面白いのかさっぱり分からなかったが、年を経るに従ってあの変わり映えのない安定した雰囲気と地方の適当な観光案内とが、案外いろいろな気持ちを刺激して楽しめることに気づき始めた。良く分からないテレビドラマよりも、だらだら何も考えずに見れる2時間サスペンスのほうが視聴者が多いのも当然かもしれない。と、まぁ本作と比較するのもやや失礼かもしれない話を書いてしまったが、この小説でも日本津々浦々の色々な情景が出てくるのである。

 事件の舞台に関連する福岡の筑後柳河は水郷柳河と称され、北原白秋の生地でなかなか観光によさそうなところである。これまたこの小説を読むまでは存在すら知らなかった土地で、調べてみると、なるほど、旧立花藩の城下町で濠巡りなどは楽しそうだし、藤祭りなどもあるそうで、さぞかし風光明媚であろうと思われる。この小説の時代設定は1949年なので当時の街並みなんぞは今と比べ物にならないくらい風情があったのだろうと思うと切ない気持ちにもなる。小説内で出てきている国鉄の駅は今はすでになく佐賀と高瀬(現・玉名)を結ぶ路線自体がなくなってしまっているようだ。

  同様に対馬の街並みや旅館についても述べられていて、戦争での空爆を逃れたので街並みが当時は綺麗に残っていたとのことである。しかも徳川時代から300年続く旅館などもあったそうで、主人公がイカ、マグロ、タイなどを非常にウマそうに食う描写がある。今調べてみるとそれに該当するような旅館は見当たらず、非常に残念であるが、対馬に行く機会があれば、そのあたりのことも調べてみたい。

 筆者も旅行の好きな人種なのであろう、小説内には九州のみならず、下津井(奇しくも横溝正史の悪霊島の舞台の一部でもある。)、隠岐、四国、多摩などについて色々と言及されているし、注釈が廃線に関しても親切に解説をしている。まぁつまり、当時に栄えた地方鉄道の多くはいまや途絶してしまっているということで、まさに交通の変化と地方の衰退なんぞに想い至って寂しくもなる。

 推理小説の筋に戻るが、犯人の動機が、取ってつけたようではあるのが気になるが、時代を反映させたものであろう全体主義への反発と歪んだ家父長制への強い嫌悪感であることも興味深い。鮎川氏が本小説を執筆したのは1950年前半と思われるのだが、当時はやはり、軍国主義への強い反省があったに違いない、鮎川氏が戦前からそのような状況に反発しえていたのかは知らないが、当時を知る人物がこのような思想を動機に設定していたというのはやはり、それだけに反省が大きかったのであろうと考えさせられる。

 まぁ、ぐだぐだと長くなったのであるが、『黒いトランク』に関しては大体以上のような感想である。

黒いトランク 鬼貫警部シリーズ (創元推理文庫)

黒いトランク 鬼貫警部シリーズ (創元推理文庫)