(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

“The Benson Murder Case” S. S. Van Dine (『ベンスン殺人事件』 S・S・ヴァン・ダイン)

 心理的証拠と状況証拠:ファイロ・ヴァンス登場

 江戸川乱歩の『悪人志願』中にヴァン・ダインの推理小説『カナリヤ殺人事件』と『グリーン家殺人事件』のネタバレが含まれていた御蔭でヴァン・ダインの推理小説Philo Vanceシリーズを読み始めたのだけれども、これが想像以上に面白い。幸いkindleの英語版の全集は格安だったので*1既に手元に全話揃っている。と言う訳で、今回はPhilo Vanceシリーズ第一作目の“The Benson Murder Case”(1926年;『ベンスン殺人事件』)を読んでみた。

 荒筋をざっと記すと、Alvin Bensonがリビング・ルームで射殺されているのを同居している家政婦Platz夫人が発見する。現場には女物の鞄と手袋が残されており、警察は女性の関与を疑うのだが、被害者には幾人かの敵が存在しており、皆殺人の機会と動機がある様にみえる。被害者の兄Anthony Benson少佐はMarkham検事の古くからの友人であり、事件の解決をMarkham検事に依頼する。そして、Markham検事の友人である高等遊民Philo Vanceが興味津々事件現場に顔を出し、捜査に加わるのであった。

 記念すべき第一作目でPhilo VanceはMarkham検事に早速独自の犯罪推理理論を披露し始める。

Won’t you ever learn that crimes can’t be solved by deductions based merely on material clues and circumst’ntial evidence?

The truth can be learned only by an analysis of the psychological factors of a crime, and an application of them to the individual.

ってな、具合である。さてこの心理的要素を物証や情況証拠より上位に置くVanceの活躍や如何に?

 本小説の最大の仕掛けは、動機と機会で犯人を推定するのであれば、描かれた状況の中に複数の犯人を推定し得る事があるという処にある。これはある種の推理小説が抱える構造的な欠点であって、推理小説を愛読している人々であれば、この種の問題を感じた事は多々あるだろう。この様な感覚が今一ピンと来ない方は例えば、ドイルの『バスカヴィル家の犬』を読めば、この感覚を理解して貰えるのではないかと思う。『バスカヴィル家の犬』に於いては犯人候補は数人登場しており、一応ホームズの華麗な推理の下に犯人と思しき人物が特定されるのであるが、実際の処、別な状況証拠の組み合わせで他の人間を犯人に設定する事も可能そうに見える*2。つまり、複数候補の中の一人が犯人に選ばれた「小説としての必然性」を、読者が中々実感しにくい場合が時に生じるのである*3

 何故この様な、今一つ腑に落ちない感覚が生じるかというと、それは犯人候補の立ち位置が並列状態にあるために、読者の側からすると犯人候補間の差異を感じにくいからである。つまり、この並列状態にある複数人物の誰が犯人なのか、そして誰を犯人にするのかという問題は推理小説家にとって中々の難問であると言える。これを解決する最も単純な方法は犯人候補に並列状態でない犯人候補を用意する事なのだが、ここで新たな問題が生じる。あからさまに特異点にいる犯人候補を用意してしまえば、推理探偵小説愛好家は、小説内に提示される証拠ではなく、その読書経験から犯人を推察出来てしまうのである。であるから、この特異点に存在する犯人を如何にして読者に気付かれずにフェアに提示するか?という所に推理小説家の腕は掛かっているのだと思われる。勿論、特異点を作る解決方法を選ばず、純粋に推理ゲームとして、並列犯人候補の中から読者に犯人を推理させるタイプの推理小説もそれなりに多い。その場合は推理の論理をガチガチに固めてゲーム性を高める等の別種な工夫が必要になって来るだろう。個人的には論理推理重視の本格物はこの並列式ともそれ程相性が悪くない気がする。

 本小説の場合は、並列状態にある犯人候補の犯行仮説をVanceがチラつかせてMarkham検事と読者を煙に巻きつつ色々な方向へ誤誘導して行く訳で、この一旦鮮やかに提示されたかに見える犯行仮説がどんどんと覆されていく処に、推理小説への皮肉が利いていて面白い。只、残念ながら、構造がはっきりし過ぎている所為か、読者は割と早く特異点に存在する犯人に気付いてしまうのではないか?とも思わないでもない。最終的にヴァン・ダインは心理的な要素を持ち出して解決しようとした訳だけれども、残念ながらそこに関してはそれ程上手く描けているとは思わない*4。小説内でPhilo Vanceは上述したように、様々な証拠に動機・アリバイを否定し、心理的捜査の重要性を強調する訳だが、結局の処は様々なホームズ的な推理を行っている訳で、古典的な観察力に優れた名探偵達とそれ程極端に異なる訳ではない。只、名探偵Philo Vanceを魅力的にしているのは、その突飛な人物像と衒学的な蘊蓄の数々である。例えば以下の様な、絵画の制作者と犯罪の実行者の相似性を説く所はこのPhilo Vanceシリーズに何度も繰り返し出て来るアナロジーでニヤリとしてしまう。

“Crimes possess all the basic factors of a work of art—approach, conception, technique, imagination, attack, method, and organization. Moreover, crimes vary fully as much in their manner, their aspects, and their general nature, as do works of art.(中略)Just as an expert æsthetician can analyze a picture and tell you who painted it, or the personality and temp’rament of the person who painted it, so can the expert psychologist analyze a crime and tell you who committed it—(後略)”

まあ大体がこんな調子なので、このPhilo Vanceシリーズは好き嫌いが分かれる処があるかもしれない。Philo Vance初登場作である本作では、衒学的蘊蓄の切れ味は後の作品に比べるとそれ程でも無い感もあるけれども、メロンの蘊蓄の下りなんかは余りにも下らなくて笑えて来た。メロンには色々な種類があるが、カンタロープメロンは昔イタリアのカンタルーピで栽培されていた処から広まったらしい。本当にどうでも良い蘊蓄である。

 本作はいつもの如く、Van Dineの全集物で読んだ。表紙がちょっとぱっとしないけれども、図が含まれているという所が重要な点であって、表紙なんかは中身を読んでしまえば同じである。さて、これでPhilo Vanceシリーズ1-3作を読み終わった。次に読む積りの『僧正殺人事件』が楽しみで仕方が無い。

 

*1:一度失敗して図無しの物を購入してしまったけれども、まあ1、2ドル程度だったので、良しとしよう。ヴァン・ダインの推理小説は別段本格派でも無いので図が無くてもそれ程影響は無いのだけれども、勿論あった方が嬉しいに決まっている。

*2:以前紹介したが、ピエール・バイヤールがこの状況を利用して“Sherlock Holmes was Wrong”という中々面白い小説読解本を記している。その中で実際バイヤールはホームズの推理とは異なる推理を行い、別な人物を犯人と指摘しているのである。勿論『バスカヴィル家の犬』の場合はドイルの描写力による怪奇探偵小説の魅力が炸裂している為に、純粋推理小説以外の部分で文句無しの傑作になっているのだけれども。

*3:この様な推理小説に関する構造上の問題は別にヴァン・ダインが最初に指摘した訳では無くて、私の知る限り、江戸川乱歩も同様の事を感じていた様で、デビュー作の一つである『一枚の切符』にて、推理探偵小説内での犯人特定の仕組みの不安定さを指摘し、それを巧く利用して不思議な二重世界を小説に顕現させる事に成功している。

*4:ただ、犯人設定に於いて、犯人が犯行を実際に行動に移す事が心理的にも技術的に可能でありそうな人物として描いている処は、ヴァン・ダインのこの推理小説における明確な美点の一つだろう。「大学生がサークル仲間を次々と殺していく」という様な推理小説があったりするが、現実問題として一文系大学生が初犯で大量連続殺人を成功させる事は心理的にも技術的にも不可能に思える。

『潤一郎犯罪小説集』 谷崎潤一郎

 谷崎潤一郎が描く妖しい犯罪心理

 谷崎潤一郎は江戸川乱歩が心酔していた通り、実に妖しげな香りの犯罪小説を色々と書いていた。谷崎が犯罪小説を書いていた頃、つまり大正の中頃は、谷崎のみならず、芥川龍之介や佐藤春夫も似たような味わいの小説を書いていて、これらは推理探偵小説と言うにはその推理の趣きが足りないのではあるけれども、犯罪心理の描き方なんぞは文豪達の手に依るものだけあって流石の出来映えである。

 そして、この谷崎潤一郎は前に『途上』も紹介したのだが、上述の三氏の中では最も推理小説的なモノを残していた人かもしれない。江戸川乱歩が彼の随筆でいつも谷崎潤一郎を非常に褒めるので、谷崎式犯罪小説を久々に読んでみたいと思ったのだが、ふと調べてみると、案外手に入りにくい、という時に、新潮社から犯罪小説を集めたアンソロジーが出ている事に気付き読んでみた。

 まず、収録されている小説は『日本に於けるクリップン事件』、『白昼鬼語』、『或る罪の動機』、『私』、『途上』、『前科者』、『黒白』の7編である。この中では『白昼鬼語』、『私』、『途上』そして『黒白』が特に印象に残った。『途上』は以前触れたので、それを除く3作に関して覚書をしておく。

 

『白昼鬼語』 

 『白昼鬼語』(大正7年:1918年)はパッと見こそはそうは見えないが、話の仕組みとしてはポーの『黄金虫』と良く似ている。語り手の友人が、妄想に取り憑かれたかの様に鋭敏な推理を繰り出し、常人には見る事の出来ない世界を見付けるという点は正に『黄金虫』である。更にこの『白昼鬼語』では暗号の謎解きも行われているという点でも『黄金虫』との類似が見られる。只何を見付ける為に大騒ぎしているのか?という所になると、ここはやはり谷崎潤一郎独特の味付けがなされていて面白い。殺人現場を覗きに行こうなんて発想は今でこそまあ散見されるかもしれないけれども、中々奇抜な発想であるし、谷崎の筆で描き出されると倒錯の世界が広がっていく。その倒錯の世界に友人が飲み込まれて行くかの様に見える訳なのだが、最後にうっちゃりを喰らわせてくる処も振っている。

 と、乱歩の『二銭銅貨』は正に『白昼鬼語』翻案だと気付いた*1。そして『二銭銅貨』に限らずその他多くの小説での卓袱台返し癖は、この谷崎の『白昼鬼語』から強い影響を受けたモノなのかもしれないな、と思い当たった。乱歩は日本の作家の中では谷崎潤一郎を最も敬愛していると度々その随筆の中に記しているし、若い頃は「逢い度いとは思わぬ。」と強がっていたのに、結局、おねだりして「うばたまの夜のまぼろし夢ならば、昼見し影を何というらむ」という書を貰うくらいに谷崎潤一郎の信奉者なのである*2。この『白昼鬼語』の細い隙間から殺人模様を伺うという倒錯した恐怖も、乱歩に相当な妄想的刺激を与えたのだろう、小説『妖虫』の中にこの狭い視野から殺人を覗き見る背筋の凍る恐怖が描かれているのである。

 乱歩に間違いなく大きな影響を及ぼしたこの『白昼鬼語』、推理小説愛好家ならば読まずに置いておく訳にはいくまい。

 

『私』

 『私』は大正10年(1921年)に発表された短編である。今や推理小説を読む人ならほとんど誰でも叙述トリックというものが存在している事は知っているだろう。叙述トリックとは文章記法上の盲点や情報の破綻を巧く利用して、読者をミスリードする手法である*3。さてこの叙述トリックというものは何時生まれたのだろうか?と言う事を考えた事がある。叙述トリックとして破綻なく成功させているという意味ではアガサ・クリスティーのアレが最初だと長らく思っていたのであるが、ここに来て新たな発見をした。それと云うのは......

 なーんて、まあ、こんなことを書いていると、言うまでもなく、この『私』が叙述トリック的な手法を用いた小説であるという事はバレバレになってしまうのだけれども、実は、ちゃんと読んでいれば、途中で大体の読者は「語り手」が小説内での犯人的な位置にいる事は感ぜられると思う。だから私の罪は非常に軽いものの筈である。ある意味不思議な話なのだが、谷崎潤一郎の小説だと思って読むと猶更、叙述トリックが潜んでいる事に気付き易いのではないだろうか? これは谷崎が書く小説というのはどこか捻くれているし、理知的な着地を試みる物ではないという事を大抵の読者が念頭に置いて読んでいるからだろう。逆説的に言えば、推理小説の場合は、地の文や語り手にトリックがないという前提で、理知的な解決が存在する事を予想して読んでいる人が多いが為に、叙述トリックというものがトリックとして成立したという経緯はあると言えるだろう。推理小説の叙述トリックは推理小説としてはやはり変化球・傍流であるのは間違いない。

 叙述トリック的なモノが本当に最初に生まれたのが何時なのかはまだまだ書物を色々と読んでみないと分からないけれども、今の所、この『私』が破綻なく叙述トリックを用いた最初の推理探偵風味のお話であると思う。と言う訳で、この『私』も『白昼鬼語』同様、推理探偵小説愛好家必読の短編であると強調しておきたい。

 

『黒白』

 『黒白』は昭和3年(1928年)に発表された、不思議な不思議な怪奇犯罪物で、これはこの短編集の中では最も分量のあるもので中々に読み応えがある。

 梗概をざっと記す。水野という自称悪魔主義作家が、犯罪小説を書くのであるが、その内容は、水野を思わせる作家が、実在の人物をモデルにした人間を、良心の呵責無く殺めるというお話であった。書き上げた直後に水野は、モデルに使った実在の人物が小説の方法と同様の方法で実際に殺された場合、自らに嫌疑が掛かるのではないかという不安に襲われ、せめて小説内で暗示された殺人の日にはアリバイを作っておこうとするのだが…...

 ちょっとした出来心と不注意から小説に描いた殺人のために、我が身に降り掛かりかねない冤罪の恐怖、そして、これが起きれば益々立場が悪くなるだろうなという事柄が次々とその通りに現実の物となっていくヒリヒリとした焦燥感がある。この悪い予感が悉く当たって、じりじりと蟻地獄に嵌まって行く様な、蜘蛛の巣に搦め取られて行く様な、その恐怖の描き方は堪らない。

 この小説で描かれる処は、外形的には犯罪者と看做しうる状況であるが、実は無実であり、冤罪であるという状況である。更に言えば外形が内実を必ずしも反映しているとは限らないというお話である。『途上』の状況に比べると、現実に我らが身に降りかかる災難としてはこちらの方が可能性として高いのではなかろうか。冤罪を描いた推理探偵小説は結構存在していて、例えばガボリオの『ルルージュ事件』やザングウィルの『ビッグ・ボウの殺人』などでも外形上の合致から本来無罪である人物が犯罪者に仕立て上げられてしまう。本来であれば推定無罪の原則があるのだから、外形上の証拠だけで直接的な証拠が無いのに犯罪者にされては堪ったものでは無いのであるが、現実問題として、冤罪はそこかしこで生じており、日本でも近年、通称足利事件でDNA鑑定の精度の低さから無辜の人がその人生を狂わされていた事が明らかになった。権力というモノは取り敢えず矛盾の無い形で犯罪者を用意出来れば満足する傾向があるし*4、残念ながら世の中も外形で物事を判断する。実際の処、人は外形でしか周りから判断されないし、内心など外見からは全く分からないのである。この小説の主人公の場合は、色々な要素が悪い方に絡まっていて、そして影の人物の仕掛けた罠に完全に嵌まってしまうのである。

 谷崎は『途上』に於いて、外形的には一見無罪であるが、そこに悪意のある犯罪を描いた。この『黒白』はそれと対をなすものであり、内実がどうであれ、世間は我々を外形で以って断ずるという現実を描いている。『途上』や乱歩の『赤い部屋』から示唆されるように、我々の自己意識と自己意識が生み出す行動やその行動が惹き起こす結果の間には幾分かの乖離が存在する。そして、その乖離している外形的に顕われたモノをして我々は判断されるのであるが、同時にそれを判断する人々の認知においても齟齬が生じうるし、その認知を外形的に表出する際に更なるずれが生じる。そして当の我々がその反応を認知する際に、そこにもまた乖離が生じるのである。つまり我々は我々自身の内部と外形、我々と世間、それぞれに於いて深刻な伝言ゲームが重ねられた幻影の世界に生きているとも言えるのである。

 この小説で描かれる内実と外形の乖離、そしてそこから生まれる冤罪、これだけであれば、「冤罪は恐ろしい」という教訓譚に終るのだが、このお話が谷崎節全開で素晴らしいのは、主人公自身も自らのアリバイを確固たるものにして置くべき必要をよくよく承知の上でイイ女にホイホイと釣られて付いて行ってしまって身を滅ぼすという所である。分かっているのに女性に惹かれる。分かっているのに理性が飛んでしまう。人間はただ論理に従って生きるだけの存在ではないのである。またある状況に於いては、死を避ける事が常に最上の選択であるとも限らない。

  その女性と初めて邂逅した際のその手の印象の描写が振り切れている。

どうもこう云う指やてのひらをむき出しにするのは甚だよくない、此れを眺めているとこの女の全身が見えて来る、詰まり体じゅうがむき出しになっているようなもんだ、この女は素ッぱだかになってテエブルの上に、己の鼻先に寝ているんだ。
-『黒白』 谷崎潤一郎

まあ、谷崎の小説の場合は探偵モノの枠に小説が嵌まるのではなくて犯罪小説と云う構造を利用して谷崎氏の倒錯の世界が踊るのである。 

 因みに、この『黒白』、偶然かそれとも模倣されたのかは分からないが、後に発表されたアイリッシュの『幻の女』(1944年)を彷彿させる。『幻の女』の方はこれまた屈指の名作推理小説であって、アリバイを証明してくれる筈の行きずりの女性が跡形もなく消えてしまい、他の誰もその女性を覚えていないと証言するという、正に狐に化かされた様な体験が描かれている。しかし、『黒白』と同様に、この女性の証言無しには被疑者は冤罪で死刑となる運命なのであって、狐に化かされた様だでは済まない。こちらは理性的な推理小説であるから最後にはしっかりと色々な落ちが着くし、『黒白』とは又異なったアッと言わせる捻りがあって最後まで飽きさせない。こちらも相当にお奨めの推理探偵小説である。

 

 このアンソロジー『潤一郎犯罪小説集』は中々巧く犯罪短編を集めている。恐らく『金色の死』以外の犯罪小説風味の物はほぼ収録されているのではないだろうか? 後は中公文庫から出ている『人魚の嘆き・魔術師』を読めば、谷崎氏の幻想・犯罪系の短編は大体読める様な気がする。今回もいつもの如くkindle版で読んだのだが、電子書籍に付き纏う不幸の例に漏れず、この電子書籍でも解説が収録されていないようである。解説者に電子化の許可を取るのはそこまで大変な作業なのだろうか? まあ一般人には伺い知れない苦労があるのかもしれない。

潤一郎犯罪小説集

潤一郎犯罪小説集

 

*1:『二銭銅貨』は『黄金虫』からの影響も相当に受けている。つまり『黄金虫』の息子が『白昼鬼語』その弟が『二銭銅貨』だと言っても良いかもしれない。

*2:この辺りのエピソードは光文社刊乱歩全集24巻『悪人志願』中の「探偵小説十年」やら「幻影の城主」やらに複数記されている。

*3:叙述トリックの名手として「館シリーズ」の綾辻行人がいるが、叙述トリックというものは中々使い所が難しくて、近年では綾辻氏を除いては余り巧く使いこなせている人はいない。

*4:例えば昨今強引に成立されてそうな「テロ等準備罪(共謀罪)」の様な警察機構の権力を殊更強化するモノはやはり危険ではないかと思う。

『D坂の殺人事件』・『心理試験』 江戸川乱歩

 明智小五郎の登場と犯罪心理学のご愛敬

 江戸川乱歩は本当に何にでも興味を持つ人で、まあ小説家に成るような奇特な人々は大体そうなのかもしれないが、当時流行っていたミュンスターベルヒによる心理学の書物なんぞも読み、その中の犯罪心理に関する部分から小説の種を思い付いたりもしたらしい。この辺りの心理学を小説に活かそうした経緯は『楽屋噺』*1の中に以下の様に述べられている。

ある古本屋で、ミュンスターベルヒの『心理学と犯罪』という本を見つけ、大喜びで買って帰って、読んで見ると仲々面白い。小酒井氏が『心理的探偵法』という随筆に書いていられる原本であることも分った。そこで、何とかこれで一篇作り上げようと考えたのだが、ただ心理試験丈けではミュンスターベルヒそのままで、何の奇もなく、創作とは申されぬ。
-『楽屋噺』 江戸川乱歩

 この所感は『心理試験』を思い付いた経緯に関して述べているのだが、同様にミュンスターベルヒの犯罪心理を多少使っているものとして『D坂の殺人事件』がある。どちらも心理的な推察を巧く材料にした中々面白い作品である。乱歩の作風の得な所は、心理洞察等という一見理詰めの様で実は曖昧模糊としたモノをそのまま曖昧な上澄みを活かして小説に用いる事が出来る処だろう。

 上述の2作は相次いで発表された。まず、『D坂の殺人事件』(大正13年:1924年)は乱歩のその後に多大な影響を与えた一作である。勿論、ある作品がその作者の将来に影響を与えると云うのは多かれ少なかれある事で、この小説だけがそうだという事は無いのだろうけれども、この『D坂の殺人事件』の最大の特異点は何と言ってもかの「明智小五郎」がこの世に生み出された最初の作品だという点にある。

 明智小五郎の初登場時の人物描写は以下の様なものである。

年は私と同じくらいで、二十五歳を越してはいまい。どちらかといえば痩せた方で、先にも言った通り、歩く時に変に肩を振る癖がある。といっても、決して豪傑流のそれではなく、妙な男を引合いに出すが、あの片腕の不自由な講釈師の神田伯竜を思い出させるような歩き方なのだ。伯竜といえば、明智は顔つきから声音まで、彼にそっくりだ――伯竜を見たことのない読者は、諸君の知っているところの、いわゆる好男子ではないが、どことなく愛嬌のある、そしてもっとも天才的な顔を想像するがよい――ただ明智の方は、髪の毛がもっと長く延びていて、モジャモジャともつれ合っている、そして彼は人と話しているあいだにも、指でそのモジャモジャになっている髪の毛を、さらにモジャモジャにするためのように引っ掻き廻すのが癖だ。
-『D坂の殺人事件』 江戸川乱歩

 この記述を読んで、大抵の推理探偵小説愛好家はアッと思うだろう、もしくは既に良く知っているかもしれない。これはもう正に横溝正史が生み出した金田一耕助そのままではないか。勿論、金田一耕助登場の方がずっと後になるので、横溝正史がこの最初期明智小五郎像を拝借して金田一耕助を創造したのは間違いないのであるけれども。明智小五郎が一般にイメージされる割としゅっとした探偵に成る迄には案外作数が掛かっていて、例えば大正15年の『一寸法師』では上海帰りで中華衣装に身を包むエキゾチックな明智小五郎が描かれている*2

 さて肝腎の心理洞察であるが、ここで描かれている物は、主として事件証人の証言の非信頼性に関するものである。二人の書生がほぼ同じ場所から犯人と思しき人間の服装を見たのであるが、その証言が全く相異なっているのである。語り手である「私」は何とか論理的な説明を思い付くのであるが、明智はそれを退けて、ミュンスターベルヒの『心理学と犯罪』を引き合いに出し、証人の記憶詰まる処、人間の観察と記憶という物は非常に頼りない事を指摘する*3。こういう記述を読むたびに、乱歩という人は推理探偵小説の構造的な限界を逆手に取るのが非常に巧みだな、と感心する。実際、人の視覚認知や記憶が不確かなモノである事は現在では割と良く知られているとは思うのだが、そうは言っても、推理探偵小説内では一般に小説内の目撃者の証言は基本的に信頼に足るものとして扱われているのである。この辺りを上手く捻って乱歩の世界に引き摺り込む所が乱歩先生の乱歩先生足る処だろう。この『D坂の殺人事件』は乱歩の小説の中で特別面白い方と言う訳では無いけれども、名探偵明智小五郎の初登場作品という意味で是非とも読んでおきたいお話である。

 ミュンスターベルヒの『心理学と犯罪』から影響を受けたもう一作『心理試験』は『D坂の殺人事件』の翌年大正14年(1925年)に発表されている。『D坂の殺人事件』が明智小五郎の誕生という意味に於いて乱歩に取って重要な小説となったのと同様、この『心理試験』も乱歩の作家人生を左右する重要な一作となった。というのも、乱歩はこの小説を小酒井不木に送り、果たして専業小説家として暮らして行けるかどうかを問うたのである。それに対しての小酒井氏の返答は当然非常に好意的なモノであって、それだけで決心したのでは無いにしても、この応援に力を得た乱歩は以後、専業の小説家として邁進して行く事になる訳である*4

 この『心理試験』は乱歩の小説の中では割と理知的な作りの小説に属すると思う。乱歩は後に意識的にそうした積りは無かったと述懐しているが、このお話は乱歩の最初の「倒叙」推理小説になっており、読者には最初から犯人が分かっていて、さて、この一見完璧に見える犯行がいかにして露見するのか?という所を楽しむ事になる。上で引用した様に、ミュンスターベルヒの書物を読んで種を仕入れたがそれをどの様にして美味しく仕上げるかに苦心した様で、同様に心理の抑圧の様な側面を持っているドストエフスキーの『罪と罰』を読んでそのアイデアを産み出したらしい。つまり、賢明な犯罪者の場合はその心理的作用を上手くコントロール出来るだろうが、その際に心理試験を用いて聡明な犯罪者を追い詰める事が出来るかどうかという空想を推理探偵小説という形に仕上げた訳である。

 さて、実際の処、心理捜査という物は犯罪者の推定にどれくらい役に立つのだろうか? 心理洞察を推理小説に活かす発想自体は、小酒井不木や後にヴァン・ダインや小栗虫太郎なんかも思い付いて試みてはいるが、実際の処論理的にそれを組み立てるのは中々に難しいものがある様で、何れの作に於いてもそれ程、心理操作が推理の解決に役に立っている様にも思えない*5。現実の世界に於いてもある程度確率論的に捜査の範囲を狭めることは出来てもあくまで確率の範囲を出ない事は想像されうるだろう。   

 と言う事で、乱歩は所謂処の心理試験が必ずしも上手く作用しないであろうという事を想定してお話を組み上げた。犯人は心理試験の裏を掻いて十分にそれに対する備えをしていたのである。私は心理試験の効用を余り信じていない方だからこういう風に裏を掻くお話なんかは中々爽快であって、やっぱり乱歩はこういう流行り物に一石投じるのが巧いなと思ってしまった。まあ、これは小説なので、残念ながら落ちというモノがつく訳で、天才探偵明智小五郎がかなり強引な推理で無理矢理に解決してしまう処が個人的にはやや残念ではあった。乱歩のお話は構成上理知が勝って来るとやや残念な感じになってしまう処があるけれども、やはり、官憲の追求を如何に逃れるかという犯人の異常心理の描き方なんかは本当に乱歩節で、最後の辺りまでは手に汗を握って楽しめる佳作ではあると思う。

 

 今回もいつもの如くkindle版を読んだ。『D坂の殺人事件』は挿絵があるという点で創元社から出ている短編集『D坂の殺人事件』が断然にお奨めなのだが、『心理試験』の方は残念ながら創元推理の電子書籍には収録されていない様だ。光文社から出ている乱歩全集第1巻『屋根裏の散歩者』には両者とも収録されているし、乱歩自身の解説(『楽屋噺』を含む)も収録されている。効率重視の場合は光文社の乱歩全集が良いだろう。

屋根裏の散歩者?江戸川乱歩全集第1巻? (光文社文庫)

屋根裏の散歩者?江戸川乱歩全集第1巻? (光文社文庫)

 

*1:光文社刊の乱歩全集第24巻『悪人志願』中に収録されている。

*2:尚、神田伯竜氏の写真は余りはっきりしたものが残っていないのだけれども、調べる限り、失礼ながら所謂ハンサムというタイプの顔立ちでは無い様だ。

*3:原著を手に入れる事が出来なかったのでここで乱歩が記している事が実際にミュンスターベルヒの著作に記されているかどうかは未確認なのであるけれども、大体一般論的に現代に於いては首肯出来るものであると思う。

*4:上述した『楽屋噺』に詳細が記されている。

*5:ただ、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』で描かれるそれは圧巻ではある。無意味に空回りしていたとしても、その空回りの仕方が素晴らしく印象的であるので、あれはあれで別な効果を生み出していると思う。