(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

"The Lerouge Case" Emile Gaboriau (『ルルージュ事件』 エミール・ガボリオ)

 古典ロマン長編の原点がここにある

 江戸川乱歩の古典ベストテンを読み続けている。実はこの乱歩の古典ベストテンの中には、乱歩曰く「そこまで優れている訳では無いが他に候補が無い」という事で選ばれているものが3作あって、そんな風に書かれてしまうとそれらは読むのを後回しにしたくなるのが人情である。既に5作は読んだのだが、その3作を除く残りの2作はガボリオとボアゴベイでどちらもフランス人作家の手に依るものである。日本語訳版をざっとkindleで探したのであるが、どうにも見当たらないので、仕方ない、英訳版で読んでみるか、という事でまず、ガボリオーの『ルルージュ事件』(1866年)の英訳版"The Lerouge Case"を読んでみた。

 この小説は前にも紹介した『月長石』の2年前に刊行されているのだが、『月長石』がイギリスの郊外に住む貴族の奇譚を描いているのに対し、こちらはフランスのパリに住む大貴族の一大奇譚を描いている。このお話の大掛かりな処、盛り上がりとその起伏は 『月長石』のややまったりとした雰囲気とはまるで違う。このガボリオの筆致は読んでいて、ああそうか、これがフランスの講談風味の冒険伝奇譚の原点の一つなのか、と感心した。このガボリオの『ルルージュ事件』に加えて、デュマの『三銃士』や『鉄仮面』そしてボアゴベイの幾つかの伝奇物が現在私がイメージするフランスの冒険活劇引いては涙香、南洋一郎、江戸川乱歩のあのお話し振りに繋がっているのだろう。

 『ルルージュ事件』の最大の舞台装置は赤子の取り替えである。只の取り替えでは無い。フランス屈指の貴族の正統な嫡子と愛人との間に出来た子供との入れ替えである。読者は当然、その赤子達の将来の境遇がまるで異なったモノになる事が容易に想像出来るであろう。そもそも、そんな身分違いの赤子の入れ替えなんか、使い古された陳腐なネタではないか、等と感じる人もあるかも知れない、が、しかし、恐らく、このガボリオの『ルルージュ事件』こそが陳腐化されるまでに濫用されたこの舞台装置の初期の活用例なのだろう。赤子の入れ替えネタ、そして身分違いの入れ替えネタの元祖はどれなのか現時点では分からないのだけれども、少なくともマーク・トウェインの有名な『王子と乞食』は1881年なので、それよりは確実に早くこの世に顕れている事は間違いない。入れ替えネタなんかは子供の頃になにかの推理探偵小説か巌窟王や鉄仮面等の子供向け翻案もので読んだ様な気がしていたのであるが、恐らく、それはこの『ルルージュ事件』を子供向けに翻案したものだったのだろう。ううむ、古典名作はやはりしっかりと読み直してみるのはかなり良い経験になるなと再確認した。

 しかし、この『ルルージュ事件』名場面のオンパレードである。

 まず、名探偵役のTirauclairこと老Tabaretは金持ちの有閑老人かつ素人探偵であるが、只の素人探偵ではなく、パリの警察にその鋭敏な推理を轟かせている老人であって、小説内に登場するや否や、ホームズ張りの冴え渡る推理を披露する。現場に残されている犯人の僅かな痕跡から背丈や年齢、煙草の銘柄、そして持ち物である手袋や傘に至るまで論理的に類推する。正にホームズそのものであるが、勿論この小説の方が圧倒的に早く世に出ているので、ホームズがデュパンや老Tabaretの一見手品風の推理、人をアッと言わせる遣り方を踏襲していると言うべきか。ここで老Tabaretはその明晰な推理の披露を以って、堅実なGevrol刑事を嘲るのであるが、このGevrol刑事はこれはこれで傑物なのである。天才型探偵の登場する小説で適当にあしらわれる無能警察とはこれまた違う。この堅実な猟犬型刑事がこの小説で描かれた犯罪を解決する鍵となる発見をする処が、現代の型にハマった天才探偵ワンマンショーと異なっていて面白い。実際、涙香小史の『無惨』はこの展開からもアイデアを得ている気がする。『無惨』を読んだ時には型にハマっていなくて面白いと思ったのだが、「型」というものは分野初期には存在しないのが当たり前と言えるかもかもしれない。

 天才型探偵と言う物は現代の推理小説においては滅多に失敗しないし、それ故に天才型探偵なのだろうけれども、昔の推理探偵小説ではしばしば苦戦するようだ。例えば、『月長石』のCuff巡査部長、そしてこの小説における老Tabaretである。この老Tabaretの蹉跌は現代刑事司法制度への懐疑と警鐘という形を以って小説内に現れてくる。昔の小説と言う物は娯楽の皮を被って色々と大きな問題提起をしてくるものである。黒岩涙香はこの『ルルージュ事件』を翻案した『人耶鬼耶』の前書きに於いて

余が此篇を譯述するは世の探偵に従事するものをして其職の難きを知らしめ又た世の裁判官たるものをして判決の苟しくもすべからざるを悟らしめんが為なり。之を切言すれば一は人権の貴きを示し一は法律の輕々しく用いべからざるを示さんと欲するなり。
-『人耶鬼耶』 黒岩涙香

と記し、世の警察検察機構のその職の簡単ではない事、権力の行使に慎重となるべき事を訴えている。

 物語の最初、自らの頭脳に絶対の自信を誇っていた老Tabaretは「ああ、こういう遅れは正義の遂行にとって致命的じゃよ!もしこの世が儂の思うままになるなら、悪党どもを罰するのにあんなに手間取らないのになあ。捕まえたら即吊るし首じゃ。」と言い放つが、やがて、己の不完全さを知るに至って無辜の人を罰する可能性の恐怖を知り、死刑廃止と冤罪救済の為に働く事を決意する*1。またDaburon判事は、現代で言う処の利益相反的立場に立ちつつ被疑者の取り調べを行う事に躊躇するが、実際それが事件の判断を誤る事に繋がり、彼も後悔して後に職を辞すのである。 

 この小説程ではないが、西洋の推理探偵小説に於いては刑事司法制度への懐疑的な視線がしばしば見られる。例えば、今までに紹介した小説であれば、ザングウィルの『ビッグ・ボウの殺人』やフリーマンの『オシリスの眼』、ヴァン・ダインの『カナリヤ殺人事件』に於いても刑事司法の仕組み上の問題が批判されている。この様に「お上」の決めた制度といえども簡単に全肯定しないという所が西洋らしいと言えば西洋らしく感じる。

  昔の小説を読むのは原点を探すという愉しみに加えて、昔の風俗を伺い知る事が出来るという点でも面白い。『月長石』に於いて貴族社会に於ける時代の変化を思い起こさせる叙述が幾らかあったが、この『ルルージュ事件』に於いてはその貴族社会の変化がより明白に描写されている。この小説には強烈な個性を持つ二人の貴族が登場する。d'Arlange侯爵夫人とCommarin伯爵である。彼等の発言を引用しておこう。

「ああ、なんて魅力的な若者でしょう!」夫人は言った。「繊細で思慮深くて!産まれてこなかったのがなんとも可哀想だわ」(彼女の言う処の「産まれる」とは貴族の血統という意味だが、貴族でない不幸な者たちも実際「産まれてきた」という事実を無視した言い様である。) (拙訳)

 d'Arlange侯爵夫人はこの様にDaburon判事に述べるのである。貴族でないものを生まれていない呼ばわりとは小説の中とはいえ中々の傲岸不遜振りであるし、それを通り越して滑稽ですらある。

「(前略)一昔前なら国王のところへ赴いて直接頼めば、我が子の立場を保証してくれた筈なのだが。今日では、国王は不満に充ちた臣民を治めるのに手を焼き、何も出来はしない。貴族はその権限を失ってしまったのだよ、そして上流階級は汚らしい農民なんかと一緒くたに扱われているのだ!(後略)」 (拙訳)

 Commarin伯爵のこの発言の意味する処は、詰まるところ、フランスは法治主義の国家と変貌し、人民は基本的には平等に法の支配を受ける事になったのである。その事に、Commarin伯爵は異議を唱えており、勿論これは創作であるのだが、法治国家を理解する事が困難であった貴族が実際に存在していたからこそのガボリオによる皮肉だろう。 このCommarin伯爵は貴族の没落の原因を理性的に語ったり、自由主義に貴族の血統の者がかぶれる事に嘆いたり、中々、旧弊貴族のカリカチュアとして描かれていて面白い。幾らか誇張して描かれているであろうにしても、この様な社会制度の変革の実情を知る事が出来るのはやはり古い小説ならではの魅力である。

 今回この『ルルージュ事件』は英訳版"The Lerouge Case"を読んだ。英語原著の小説を英語で読むならまだしも、仏語のモノの英訳版を読むとは我ながら無駄な事をしたものである。どうやらグーテンベルグプロジェクトの物である様ではあるが、これが良い訳であるかどうかも良く分からない。これというのも国書刊行会が『ルルージュ事件』を電子書籍化してくれていないのが全て悪い。早く全ての書籍がkindle版でも提供される時代になって欲しいものである。まあ英語版は価格的には破格の安値なので、お得に読みたい人には向いているかもしれないが、仏語版ならpubrlc domainで只である。仏語も勉強してみたい気持ちになってきた。

The Lerouge Case (English Edition)

The Lerouge Case (English Edition)

 

*1:死刑廃止の理論的根拠には様々なものが存在するが、冤罪が存在するという厳然たる事実もその根拠の一つ足り得るだろう。権力の無謬性を信ずる事は到底不可能である。

『悪人志願』 江戸川乱歩

 乱歩の多趣味が伺える初期随筆集

 江戸川乱歩が日本で最も有名な推理探偵小説作家だと思うのだが、ある時期からは、推理探偵小説のを余り書かなくなって、どちらかと云うと推理探偵小説に纏わる随筆や評論の様なものを良く書くようになった。その本職である推理小説が面白いのは当然なのだけれども、実はこの推理探偵小説に関する随筆がとてつもなく面白い。乱歩はそもそも幻想と怪奇の間を彷徨う様な変格モノを良く書いていただけあって、色々な処に繊細で敏感で、またかつ色々なモノに興味を示す性質だった様だ。『幻影城』に収録されている自伝的随筆でも物事に飽き易いという風に乱歩自身の事を書いていた様な気がするが、まあ、今回読んでみた光文社から出ている乱歩全集24巻である初期随筆集『悪人志願』でもその気紛れで気儘な興味の拡がりを味わえる。この随筆集は『悪人志願』という題となっているが、中味は表題の「悪人志願」、「探偵小説十年」、「幻影の城主」そして「乱歩断章」*1の4種の随筆を収録した物となっている。本当に雑多な物事を記していて取り留めなく話題が散乱しているのだが、その中で、私のどこかに引っ掛かったモノを覚え書きしておく。

 まず、随筆集「悪人志願」最初の序からして乱歩先生の韜晦趣味が溢れ出ていてこちらをニヤつかせてくれる。それは、こんな具合である。

 水谷準氏の勧めにより、恥かしき雑筆類をまとめて本にする。(中略)
 こんなものを読んで下さる人があるかと懸念もするし、又若し多少でも売れて、お小遣が這入ったら、勿体ないことだとも思う。
-「序」(『悪人志願』 江戸川乱歩)

 乱歩のこの変なへりくだった感じは、照れ隠しの様な感じでいつ読んでも微笑ましい。

 「悪人志願」*2は随筆集「悪人志願」の表題となった最初期随筆である。

 私は、一つの探偵小説を書くまでに、頭の中で、まあ幾人の男女を殺すことでありましょう。一晩に一人ずつ殺すとして、一年には三百六十五人、十年には三千六百五十人、そして一生には?それが又、一つ一つ、並大抵の殺し方ではないのであります。出来る限り陰険に、出来る限り残虐に、血みどろに。オオ神様、私は何という恐ろしい人鬼でありましょう。
 それ程に思うなら、探偵小説書きを止せばよさそうなものですが、持ったが病で、どうもあの魅力を捨て去るにしのびないのであります。そして、夜々の悪企みを、益々陰険に、愈々残虐にと、こらして行くのであります。そこで、私の今日此頃の願いは、どうかしてもっと極悪人になり度いということであります。私の歎きは、自分が余りに善人過ぎるということであります。
-「悪人志願」(『悪人志願』 江戸川乱歩)

これまた、乱歩の微妙な韜晦癖が出ていて、何だか乱歩の小説の登場人物の手記に出てきそうな告白である。乱歩の小説の場合はこんな感じで夢想している小説家が実際に犯罪を犯すという感じの展開になるのだが、勿論乱歩の場合は夢想のままに留めていて、善人?とまでは言わずとも悪人には成れなかったが故の「悪人志願」であろうけれども。

 乱歩はこの様に妄想逞しい作家であるから、その辺を歩いていたり、何かを見たりしているだけでも異世界や魔界への扉がどんどんと開いていく。例えば、映画を見ていると不安になるらしい、

 私は活動写真を見ていると恐しくなります。あれは阿片喫煙者の夢です。一吋のフィルムから、劇場一杯の巨人が生れ出して、それが、泣き、笑い、怒り、そして恋をします。スイフトの描いた巨人国の幻が、まざまざと私達の眼前に展開するのです。
-映画の恐怖(『悪人志願』 江戸川乱歩)

こんな具合で、さらに映画の映写機がふと止まってスクリーン一杯に映し出された顔に焦げ跡が出来たりする恐怖などを語っている。何の気になしに映画なんか見ているけど、確かに妄想を逞しくすれば、昭和の時代の映画にはこういう恐怖もあったに違いない*3。この随想で描かれている恐怖は後日、実際に『悪魔の紋章』や『暗黒星』などで使われている。他にもパノラマ館の恐怖や、八幡の藪知らずの恐怖、人形の恐怖、早すぎた埋葬の恐怖*4など本当にそこかしこから非日常の接点を乱歩は見付けてくるものである。これらの恐怖を巧く装飾して、乱歩は彼が描く小説の中に何度も何度もこの白昼夢的な異世界の齎す恐怖・日常の中の非日常を顕現させるのだが、この随筆集でその異界の原点を探るのはこれまたこの随筆集の楽しい味わい方の一つだと思う。

 また、都市の雑踏の魅力も語っている。乱歩にとっての雑踏とは浅草だったのだろう。昔の浅草六区界隈の雑踏は相当なモノだった様で、その雑踏の中に様々な見世物や得体の知れない人々がごった煮になっていて乱歩の想像力を刺激した様である。浅草の妖しい人混みから想像を得たであろう作品に『陰獣』やらがあるし、雑踏に紛れて多数の人の中に孤独感を感じるその気持ちを描いた「群衆のロビンソン」(『幻影の城主』収録)なんかは誰しもが感じる孤独感漂流感を巧みに文章にしている。都市に住む人々は乱歩程ではないにしても皆それぞれの異界を街のどこかに認めているのではないだろうか。

 この随筆集には小酒井不木と乱歩の交流の想い出も多数綴られている。小酒井不木は推理探偵小説の材料になりそうなお話を沢山書いており、乱歩のデビュー作である『二銭銅貨』を非常に褒めちぎって、乱歩を相当に勇気付けたのである。そしてその後には、実際に自ら推理探偵小説を幾つも世に送り出しており、乱歩に依れば、『恋愛曲線』や『疑問の黒枠』は相当の名作の様である。小酒井氏は東北大学(当時は東北帝国大学か)の医学部の教授でもあった人であって、当時、小説の中でも特に俗世的なモノと看做されていた推理探偵小説の地位向上に尽力したという点でも乱歩は氏をかなり敬愛していた様だ。乱歩の小酒井氏に対する思慕敬愛の念は相当に強かった様で、『悪人志願』内の多数の随筆のみならず、他の随筆集でもしばしば小酒井氏に触れている。この『悪人志願』には小酒井不木と乱歩の共作である『ラムール』という中々の幻想的掌編が収録されている。乱歩と不木の共作というだけでも中々に興味をソソルのであるが、その中身も実際に小酒井氏の医学描写と乱歩の幻想風味が非常に奇麗に絡まっていて端麗な美しさがある。この『ラムール』は後に乱歩が改変して『指』として昭和35年に発表しているが、個人的にはこの『ラムール』方に細部で軍配が上がる気がする。

 因みに、乱歩はこの小酒井氏の『疑問の黒枠』の他に、大下宇陀児の『蛭川博士』や浜尾四郎の『殺人鬼』も国産長編探偵小説の優れたものだとしてこの随筆集内で挙げているのだが、実は私は何れも読んだ事がない。ぱっと見た感じ、どれも現在簡単に手には入らない状況の様である。まあ機会を見て図書館巡りでもするしかないのかもしれない。この辺りの文献なんかもどこかの書肆が電子化してくれれば簡単に手に入るのになあ、などと無い物ねだりをしてしまう。

 乱歩を語るに当たって、彼の同性愛研究の側面も重要だと人づてに聞いた事がある。この光文社『悪人志願』中の「幻影の城主」に収録されている幾つかの随想はその辺りの消息を詳しく記している。乱歩の小説では明確に同性愛的なものが示唆されているのは『孤島の鬼』しかないと思うのであるが、こうやって色々と研究していた処を見ると、表層に顕れて来ていない部分で、同性愛的な構造が含まれているのかもしれない。そういう側面から乱歩を研究している人も存在してもおかしくはない気もする。

 

 今回読んだ光文社刊行の『悪人志願』は乱歩の様々な側面が味わえる楽しい楽しい随筆集集である。光文社の江戸川乱歩全集の電子書籍版は注釈が欠けている事があったり解説がない事が残念な場合があるのだけれども、この『悪人志願』の場合は一応解説は収録されている。紙媒体の方が情報量が多いとは思うけれど、手軽に手に入ると言う意味では電子書籍版が存在するのは有難い事である。

悪人志願?江戸川乱歩全集第24巻? (光文社文庫)

悪人志願?江戸川乱歩全集第24巻? (光文社文庫)

 

*1:「悪人志願」は昭和4年刊行。「探偵小説十年」は昭和7年刊行、平凡社乱歩全集の十三巻に書き下ろされた。「幻影の城主」は昭和22年刊行。「乱歩断章」は他の随筆集に収録されていないものを集めたらしい。この光文社刊全集のオリジナルか?

*2:私の記述が拙いせいで分かり難くなってしまっているのだが、この光文社乱歩全集第24巻『悪人志願』中に「悪人志願」という随筆集が収録されていて、「悪人志願」という随筆が随筆集「悪人志願」の最初に収録されている。

*3:映画館の映写機の故障による火事の不安という物は、かつては一般に存在したようだ。例えば有名な映画『ニュー・シネマ・パラダイス』でも映画の上映中の事故による火災が描かれている。

*4:『蜘蛛男』や『悪魔の紋章』ではパノラマの恐怖、迷路の恐怖、そして人形の恐怖総て揃っている。『吸血鬼』では早すぎた埋葬の恐怖が描かれている。そして『パノラマ島奇譚』では当然の如く、目の眩むパノラマ描写が延々と書き連ねられていくのである。

『途上』 谷崎潤一郎 / 『赤い部屋』 江戸川乱歩

 プロバビリティーの犯罪

 谷崎潤一郎は何でも書く人であって、怪奇幻想がかったものや探偵小説の様なものも時々書いていた。日本の創作探偵小説と言うと、何度も何度も書いているけれども、黒岩涙香の『無惨』が明治の半ばにポンと出た後は細々と何とか続いていたという感じであって、大正に入るまで一般的になって来なかった。その状況を変化させ始めたのが、岡本綺堂の『半七捕物帳』であったり、谷崎潤一郎の一連の探偵犯罪心理を扱った小説群であったりした訳である。そして、江戸川乱歩は勿論、ポオを好んで敬愛していた訳であるのだが、どうやら、日本の作家の中では谷崎潤一郎に最も傾倒していたらしい。

大阪の貿易商は一年ほどで飛び出し、伊豆半島を放浪しているうちに、谷崎潤一郎の小説に初対面したのだが、それは、『金色の死』という短編で、内容がポーの『アルンハイムの領地』や『ランダアの邸』に似ていたので、自然主義小説ばかりだと思っていた日本にも、こういう作家がいたのかと、驚異をさえ感じた。
-「私の履歴書」(『乱歩断章』 江戸川乱歩)

 大正6,7年頃の事らしいが乱歩は上の様に記している。そして、ポオとドストエフスキーと谷崎潤一郎が、乱歩に最も感銘を与えた作家達だと述べている。

 その乱歩の感激した谷崎潤一郎の『金色の死』は他の推理探偵小説家達もしばしば称賛しているので、是非読んでみたいとは思っているのだが、ちょっとぱっと見た限り手に入れるのは簡単では無さそうである。そこで、乱歩がこれまた褒めちぎっている別な犯罪推理短編『途上』(1920年:大正9年)を読んでみた。

 『途上』は探偵と被疑者の二人の男の会話だけで完成する探偵小説である。このお話のトリックはある意味天才的なモノであって推理小説的には色々な処でこの後にも使われていそうな気がする。ネタバレしてしまうと、これはプロバビリティーの犯罪なのである。この遣り方は頗る賢い。何せ、他人任せ不運任せなのだからそうそう簡単に足がつく筈がない。一般的な推理小説なんかでこれが出て来ると、もうちょっと探偵の方ではお手上げで、犯人が何か更なる犯罪を行ってくれないとまず解決が難しい。谷崎潤一郎は探偵趣味はあっただろうけれども、推理の課程よりは犯罪心理の描写の方に興味が強かった様なので、冒頭から登場している探偵が天才的に解決してしまう処が推理小説的にはやや無理があるか。だけれども、流石に、読んでいる内に被疑者の焦りが追い詰められて行く心理が読者の方にもひしひしと伝わって来る描写は流石である。この描写力があるから、別にこのお話が、プロバビリティーの犯罪と知っていても十分以上に楽しめる。ちなみに、この犯罪を見破るのは並大抵のことでは不可能だろうというのは江戸川乱歩も感じた様で、『D坂の殺人事件』にて、かの明智小五郎に以下の様に語らせている。

絶対に発見されない犯罪というのは不可能でしょうか。僕は随分可能性があると思うのですがね。例えば、谷崎潤一郎の『途上』ですね。ああした犯罪は先ず発見されることはありませんよ。
-『D坂の殺人事件』 江戸川乱歩

 江戸川乱歩の感銘振りが伝わって来る様である。しかし、ちょっと思ったのだが、大正の頃の世の中と云うのは現代と比べて相当に物騒だったのだな、と。と言うのも『途上』の犯人はほとんど何も積極的な行動はとらず、流行性感冒だとか自動車事故だとかチブスだとかという本当の偶然に近いモノに頼っているのである。現代であればここまで犯人が直接手を汚さずにプロバビリティーの犯罪を行う事は困難な様に思える。安全な世界と云うのは実際有難い物である。

 さて、この『途上』アイデアは面白いし、探偵趣味の短編としても面白いのだけれども、純粋に娯楽として読むと、谷崎潤一郎の小説の中ではまあ余り面白くない方に入ってしまうと思う。同じ犯罪心理の様な物を描いた小説であれば、『白昼鬼語』だとか『私』の方が面白い様に感じる。まだまだこのプロバビリティーの犯罪というアイデアを巧く料理する余地は残されているだろう。

 だからだろうか、乱歩はこのプロバビリティーの犯罪というアイデアを借用して『赤い部屋』(1925年:大正14年)という短編を書いている。

「赤い部屋」の筋は上京以前から考えていた。これは谷崎潤一郎氏の「途上」をもっと通俗に、もっと徹底的に書いて見ようとしたのだ。
-「楽屋噺」(『乱歩断章』 江戸川乱歩)

 こんな具合に、『途上』を読んで以来アイデアを温めていた様だ。

 『途上』だって面白いけれども、こちら『赤い部屋』は本当に良く出来ている。同じプロバビリティーの犯罪なのだけど、乱歩はそれを娯楽小説の中に包埋するのがとても巧い。まず、犯罪心理に走る、非日常を求める、そういう心の課程が描かれている。日常に飽く事は誰でもあるだろうし、そしてより強い刺激を求める事にもかなりの人が共感できると思う。その窮極の処に「殺人」というモノが存在するというのは確かに想像出来る話である。古来より「殺人」の不可侵性というものは様々な小説で語られていて、「殺人」等と云う行為は毎日そこかしこで生じているというどうしようもない現実は存在するのだけど、理性的人間を自任する人々に取っては、それこそ、理性によって選択できる行動の極北なのである。だからこそ、妄想の産物である小説内に於いてすら、それを行う為に様々な理屈を捏ね繰り回し、自らを超人になぞらえたり、神がいないのであれば「すべては許される」だと言ったりして苦悩する事になる。その行動の極北との断絶を、不思議な柔らかいクッションで包むのがこのプロバビリティーの犯罪なのである。プロバビリティーの犯罪ほど無邪気で恐ろしい物はない。本小説中、自称殺人鬼は外形上敵意悪意無しに確率的に如何に殺人を行い得るかについて滔々と語る。しかし、ふと考えてみれば、外形上殺意悪意が見えないとすれば、罰されるべきは内心なのであろうか?悪意の無い人が外形上この自称殺人鬼と同じ行動結果を経験してしまった場合、結果でなくて内心で裁かれるべきなのだろうか?内心で裁かれるべきであるならば、内心で殺人を犯せばそれは殺人なのであろうか? 我々は自らを理性的であると認識している時に於いては、理性的な行動の帰結の責任は我々自身にあると考えるのであるが、バタフライ効果の様に我々はその先々に起り得る結果など予測し得ないのである。この小説内では、蓋然性を以ってして期待値的に殺人を犯すというお話であって、それが直接手を下すという処から心理的にも離れていて恐ろしいのだが、こうなって来ると、これは単なる確率論的事故誘発では無い。これは意図しなくてもある行為が誰かの死を齎しうるという話と表裏一体とも言える訳である。理知的に自らの行動とその結果が自らに帰属すると無邪気に信じえる無垢の世界は消え去ってしまう。

 『赤い部屋』に於いては、最後の卓袱台返しによって、摩訶不思議な非日常的魅力に充ち満ちた「赤い部屋」は消え失せてしまう、のだが、実は同時に、我々が安住している、この理知的な日常の世界も消え失せ兼ねない事を我々は知るだろう。実の処、我々が自らの行動を理知よって常に制御し得るという考え方は不安定な基盤の上に立っているのである。

 今回、谷崎潤一郎の『途上』は新潮社から出ているkindle版『潤一郎犯罪小説集』に収められているものを読んだ。残念な事に解説は省かれてしまっている。ここが電子書籍の悲しい処である。乱歩の『赤い部屋』に関しては、これはいつもの如く悩みどころだと思うが、挿絵を求めるなら創元推理社の『D坂の殺人事件』に収録の物になるし、乱歩自身の解説の充実であれば光文社の乱歩全集『屋根裏の散歩者』を読む事になると思う。

D坂の殺人事件

D坂の殺人事件

 
潤一郎犯罪小説集

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