“The Eye of Osiris” R. Austin Freeman (『オシリスの眼』 オースティン・フリーマン)
謎の失踪事件にソーンダイク博士が科学的推理で挑む
ここの処、江戸川乱歩の古典ベストテンを読むのにハマっていて順番に読んでいっている。そもそも、推理探偵小説は往々にして先人の推理トリックを巧く作り直して、新たなトリックを構築する事があるので、古い推理探偵小説を読んでおいた方が、その後の推理探偵小説を読む際の楽しみというか味わいというかが増える気付いたというのもある。で、古典的推理小説の名作となると、基本的には欧米の物になってくる。明治の日本の推理探偵小説は黒岩涙香の『無惨』が1889年、快楽亭ブラックの幾つかの推理探偵モノがそれに続き、後は押川春浪くらいになるが、押川春浪は余り推理物という感じはしない。大正6年に岡本綺堂が『半七捕物帳』シリーズを連載する訳だが、所謂推理探偵小説らしいものとなると、江戸川乱歩達が活躍をし始める大正10年くらいまでは、結局の処、欧米ものばかりだという事になってしまう。と言う訳で、江戸川乱歩の古典ベストテンはこれまで『バスカヴィル家の犬』、『月長石』、『リーヴェンワース事件(隠居殺し)』と読んで来たので、今回のオースティン・フリーマン著の『オシリスの眼』で4作目を読む事になる。
この『オシリスの眼』であるが、名探偵ソーンダイク博士が活躍するシリーズもので、江戸川乱歩の古典ベストテンの中に紹介される小説の中では最も新しく1911年登場である。名作の誉れが高い様で、上述した『月長石』や『リーヴェンワース事件』に比べると、邦訳版も手に入れ易い様だし、なんと私に取っては幸運な事にkindle版も存在している。失礼かもしれないが、恐らくこの渕上痩平氏による『オシリスの眼』の邦訳版であるが、紙媒体は早晩絶版状態になってしまうであろう。kindle版の素晴らしい所は絶版状態と云うものが基本的には存在しない事に在って、紙媒体が絶版になったとしても読者はこれを読み続ける事が可能な訳である。ちなみに今回は邦訳版が存在するという心強さから、最初は原著を読んでみた、そして邦訳版で再度読み直してみた。
事件はエジプト研究者であるベリンガム氏が親戚の家を訪れた直後に謎の失踪を遂げた処から始まる。このベリンガム氏は非常に不手際のある遺言書を残していた。この結果ベリンガム氏の生死の問題のみならず、もし死んでいるのであれば、どこに遺体が存在するのかが重要な問題となって来たのである。ソーンダイク博士はこの出来事を彼の法医学の講義で紹介し、2年後にその時の教え子が、失踪したベリンガム氏の弟と偶然知り合った事から事件の真相を巡っての捜査が動き出す。
さて、この小説、名探偵役のソーンダイク博士の雰囲気が非常に良い。設定としては医者兼弁護士であり、法医学の練達者という事になっており、法医学は確かに犯罪捜査に関係はあるかもしれないが、所謂警察関係であったり職業的探偵では無い。にも拘らず、その専門的知識を活かした科学的捜査と、自然科学的思考で鍛えた論理構築によって犯人を推理する、つまり思考力を応用すれば難事件を解決できるという論理的思考への強い信頼が根底に存在している訳である。この設定はそれこそ、近年の東野圭吾による「ガリレオ」シリーズやアメリカのTVショーの“Bones”の様な科学捜査物に引き継がれている感がある。この小説に限らず、この時代の探偵小説はどんどんと科学的操作をその中に取り入れてきており、登場する探偵達も、単なる推理よりも科学的なアプローチを行う事が増えて来ている。この科学への信頼感と云うものからは唯物論が広く市民社会に浸透してきた事が伺えると思う。
ソーンダイク博士はこの小説に於いては語り手役である「私=バークリー医師」から得た情報と新聞記事から得た情報を元に推理をしており、科学的探偵と言いつつも事実上は実地検査を余り行わない安楽椅子探偵の様な推理を行っている。本来の法医に関わる仕事を優先しており、事件捜査に自ら積極的に乗り出しては行かない処が、これまた職業探偵であるホームズやポワロとは異なる処である。更に、安楽椅子探偵状態で事実上かなりの推理を完成させていたにも拘らず、最後に実際の科学的検査に依って確証を得るまではそれを確定させないところは奥ゆかしい科学探偵の像かもしれない。個人的には、ホームズであれば、物証を得るのにここまで回りくどいやり方はしなかっただろうと感じる。ソーンダイク博士は優れた探偵であると同時に非常に常識的な紳士であって、無茶はしない所が、他の先行する探偵達とはこれまた随分異なるのである。
このバランスの取れた人物像は以下の会話からも伺える。作中ではソーンダイク博士を取り巻く人々も唯物論者であって、自らの埋葬場所を重要視していた被害者の思想に関して語り手役のバークリー医師と以下の様な遣り取りがある。最初の科白がバークリー医師のもので、それ以降はソーンダイク博士の科白である。
“No; but this absurd anxiety to be buried in some particular place has nothing to do with religious belief; it is merely silly sentiment.”
“It is sentiment, I admit,” said Thorndyke, “but I wouldn’t call it silly. The feeling is so widespread in time and space that we must look on it with respect as something inherent in human nature.(中略)No, Berkeley, it is not a silly sentiment. I am as indifferent as you as to what becomes of my body ‘when I have done with it,’ to use your irreverent phrase; but I recognize the solicitude that some other men display on the subject as a natural feeling that has to be taken seriously.”
ソーンダイク博士は死後の霊や死後の自分の肉体に関して何も特別な感情は持ち合わせてはいない唯物論的人間であるが、同時に他人の観念的な思考を尊重する人間なのである。
この様に唯物論的思考を持ち科学的考察を行うソーンダイク博士であるが、それと対比するかの様に、この小説では実はかなりの偶然的出来事そして一見偶然かに思える出来事が生じる。特に“coincidence”と云う単語に注目してみた場合、本文中、なんと18ヶ所、都合10場面に於いて、この単語が出てくるのである。意味は当然2通りある、字義通り偶然的な物と、偶然にしてはおかしいと云う仄めかしとである。興味深いのが、ソーンダイク博士は日常生活に於ける偶然は平然と受け入れるのであるが、犯罪捜査に於ける偶然には懐疑的な目を向けるのである。この二種類の偶然の違いに注目して読んでみるのも面白いかもしれない。
この不自然な偶然を見逃さなかったソーンダイク博士は犯人のトリックを見事に見破って事件を解決へと導く訳であるが、このトリックの整合性そして解決に至る論理性は素晴らしい。勿論1911年ともなればかなり沢山の先行する推理探偵小説が存在するので作品として洗練されてくるのは当然なのであるが、エジプトや大英博物館そして法医学的知識を巧く絡み合わせた本小説は、当時に於いて最高水準の推理探偵小説だと感じる。作中の時代設定さえ1900年初頭に設定しておけば、現代にこの推理小説が登場しても十分以上に楽しめるものであるのは間違いないだろう。
私はこの『オシリスの眼』は原著で読んだ後に渕上痩平氏による邦訳版を読んだのだが、非常に丁寧な訳で好感を抱いた。一語一語原著の通りに、それでいて日本語として自然な様に巧みに訳されている。注釈も非常に丁寧で良質な解説も収録されている。調べてみると、実はこの訳者の方は以下のblogを運営されている方であった。
このblogは実はそこそこ前から知っていてたまに覗いたりもしていたのだが、勝手に一読者的立場の人だと思い込んでいて、blog上で告知されている翻訳に関しては全然気付いていなかった。今回改めて見てみた処、この『オシリスの眼』以外にも何冊かのややマイナー推理小説の翻訳を手掛けてられている。マイナー推理小説は中々翻訳の機会に恵まれないし、例え翻訳されても直ぐに絶版になってしまう。そういう小説達の救世主と言う意味でもこの渕上氏は注目しておくべき翻訳者だと思う。
The Eye of Osiris (The Dr. Thorndyke Mysteries Book 3) (English Edition)
- 作者: R. Austin Freeman
- 出版社/メーカー: MysteriousPress.com/Open Road
- 発売日: 2014/12/30
- メディア: Kindle版
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『批評理論入門 「フランケンシュタイン」解剖講義』 廣野由美子
小説読み方談義4
ここの処、小説を読むのと並行して、文学理論に関係する様な書籍を選んで読んでいる。少し前に読んだイーグルトンの『文学とは何か』は個人的には近年稀に体験した衝撃であって、この領域の書物・理論に関する興味が増々膨れ上がって行く日々である。こんな事ならば、大学の学部生の頃にでも暇な時間を活かしてもっと文学部の講義にでもモグリに行っておれば良かったと思うのだが、残念ながら連続する事象を後方へと遡行し修正を加える事は現状不可能に思えるので、これから現れる事象に備えていくしかない。と云う訳で、文学理論を書物を読む事で細々と勉強していこうと思い、これまた、手元の参考書代わりに使っている『現代批評理論のすべて』で紹介されていた『批評理論入門 「フランケンシュタイン」解剖講義』を読んでみた。
文学理論を扱った書籍という物はそれこそ数限りなく存在していて、そして文学理論自体も相当数存在する。しかしながら、例えば構造主義的批評を行うとして、実際どの様な批評を行えば良いのだろうか? これは実際の処非常な難問である。文学理論について語っている書籍の場合でも、僅かなセンテンスのみを抜き出してその実践例を示しているだけの事が多く、今一つピンと来ない事がしばしばある。また『文学とは何か』でも示されている様に、往々にして、文学理論を実践する際にはその文学理論の適用し易い小説なり文章なりが選定されている事があり、一般的な書物に対する応用という意味に於いては中々それが判然としない事がままある。実際その理論は一般的な小説や文章の読み方にどの様に適用されるのか? この様な疑問に答えている書物は案外少なくて、例えば、ロラン・バルトの"S/Z"なんかが好例らしいのだけれども、現在手に入れにくい。
そこで、登場したのが本書『批評理論入門 「フランケンシュタイン」解剖講義』である。新書で「批評理論入門」、うむ初心者にも取っ付き易そうだ。ただ副題を見てちょっと本書に手を出す事を躊躇う人もいるかもしれない。何故にフランケンシュタインなのか?と。この書物は『フランケンシュタイン』を例にとって、様々な文学理論を解説する書物なのである。正直な処、私がその躊躇った人であって、『フランケンシュタイン』は何となく娯楽小説の様な印象であるし、文学批評理論の俎上に載せるのには余り適切な素材ではないのではないか?などと、本書を実際に読み始めるまでは勝手に考えていた。
しかしながら、読み始めて直ぐに、その様な先入観は浅はかな偏見であり、狭い価値観に過ぎない事が分かって来た。『フランケンシュタイン』は様々な内容をごった煮的に内包する、様々な方向から読解しうる書物であったのである。本書はこの書物を題材にして、実際に様々な文学批評理論を適用しつつ、その効果や仕組みを懇切丁寧に解説している。著者は「まえがき」に於いて、テクスト構造を精査する内在的アプローチと批評理論を用いた広い解釈を行う外在的アプローチの二種類の読み方が共に重要である事を強調し、それぞれのアプローチが本書に於ける前半部と後半部に該当している。
まず前半部分に於いて小説の技法の解説・構造解析が行われる。これは15の項目に分けられており、それぞれの点に関して『フランケンシュタイン』の実際のテクストに沿って丁寧な解説が施されている。15項目の例を挙げれば、「語り手」、「焦点化」、「間テクスト性」等である。基本的にこれらの解析は著者である廣野由美子氏が行っているが、既存の概念を適用する際には適宜引用や参考文献が提示されていて個人の思考と先行研究の区分がはっきりしていて非常に読みやすい。またこの先行研究にあたる部分の解説を読む事が批評理論の歴史を知る事にも繋がり、一石二鳥の感がある、と言うよりも、むしろ、それをも念頭に置いて書かれているのだろう。
後半部分は批評理論の紹介となっている。こちらで扱われている理論の取捨選択は以前読んだ『文学とは何か』や私的参考書の『現代批評理論のすべて』から判断するに非常に公平な選択になっており、現在目にする様々な理論をほぼ網羅しているのではないかと思われる。扱われている理論を全て列挙すると「伝統的批評」、「ジャンル批評」、「読者反応批評」、「脱構築批評」、「精神分析批評」、「フェミニズム批評」、「ジェンダー批評」、「マルクス主義批評」、「文化批評」、「ポストコロニアル批評」、「新歴史主義」、「文体論的批評」、「透明な批評」の13の批評理論となっている。それぞれの批評に関して、実際に『フランケンシュタイン』を題材にした先行する研究文献を提示しながら、その批評の適用を分かり易く提示している。最後の3種の批評は比較的新しいもので、私は殆ど馴染みが無かったので非常に参考になった。実際の処、『フランケンシュタイン』が、かくも多様な批評理論の俎上に載っていたとは、正直な所、驚きであるとしか言い様がない。
以上の2部構成で理論の応用を実地見学しつつ、懇切丁寧に調理された『フランケンシュタイン』味わい尽くすわけである。本書の素晴らしい点はその平易な記述のみならず、引用文献の提示の明瞭さ丁寧さにもある。しばしば、このように平易に書かれた書物というものは著者の思想と先行研究の境目が判然としなかったり、そもそも引用文献が明示されていなかったり等の問題点が存在する事が多いのだが、本書に関してはその問題は皆無である。興味を持った理論や言説のオリジナルの文献にあたる事で、理解を更に深める事が出来ると言う本来の入門書のあるべき姿を体現していると思う。
さて、人に依っては小説なんかは理論ではなく、心で直感で読めばいいと思うかもしれない。確かにその様な読み方も一つのアプローチであるのだが、実はその様な姿勢で読んでいても上述された様々な理論を組み合わせて読んでいる事も多い。理論とは無から無理矢理捻り出されたものでは無いのである。それらを言語化し具体的記述で表現する事により、読書のアプローチの多様性を却って増強する事が可能となる。上の方で「『フランケンシュタイン』と云う、様々な方向から読解しうる書物」と私は書いたのだが、この様にこの小説を捉える事を可能にするのが文学批評理論なのである。
本書は、文学批評理論に興味を持った全ての初学者にお奨めの入門書と断言して間違いないと思う。本書と『文学とは何か』を比較すれば、本書の方が初心者向けである事は間違いない。ただ、私は『文学とは何か』に見られる溢れ出る情動の熱風に魅せられてしまったので、本書の記述の公平さ冷静さにやや物足りなさを感じなくもなかった。が、この様な良質な入門書を新書で実現させるという業自体もまた、具現化された素晴らしい情熱であろう。
批評理論入門 『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)
- 作者: 廣野由美子
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2014/07/11
- メディア: Kindle版
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『幽霊塔』 黒岩涙香 / 江戸川乱歩
涙香が描き、乱歩が愛した怪美人と幽霊塔
一時期、江戸川乱歩は小酒井不木や甲賀三郎と共に涙香的な筋や描写を持った娯楽探偵小説への復古を称揚していた。そして、その黒岩涙香への敬愛の念の現れか、涙香小史の翻案輸入物の内、推理探偵風味の強い『白髪鬼』と『幽霊塔』を乱歩はリメイクしているのである。勿論、翻案元がある訳で、『白髪鬼』の場合はMarie Corelliの“Vendetta!”であり、『幽霊塔』はAlice Muriel Williamson (Mrs. C. N. Williamson)の“A Woman in Grey”(1898年)である*1。どうも、『幽霊塔』に関しては、黒岩涙香が出典を示す際に敢えて誤魔化したようで、その理由に関しては商売敵に先に筋をバラされないようにだとか、当時持ち上がって来ていた、外国文献の翻訳に関する諸権利の問題を逃れるためだとか、その辺りは判然としないけれども、その元ネタを“The Phantom Tower”としていた。その所為で、乱歩は原作を探し当てることが出来ず、『幽霊塔』に関しては、涙香版から翻案したとの事である。それが理由か、かなりの部分において涙香版と乱歩版とでは明瞭な差がない*2。そんなもの普通は差が出ないので当たり前だと思われる方も居られるかも知れないが、江戸川乱歩の翻案もの、例えば『緑衣の鬼』だとか『三角館の恐怖』などはかなりの変更が加えられていて、本当に乱歩の作品の様に仕上がっているのである。それらから比べると、これはほぼ完全に涙香版を踏襲している内容であり、個人的には読んでいてややがっかりしたし、全体の出来は涙香版の方に軍配が上がると思う。涙香の描写は冒険心探険心を巧みに煽るものであって、ああこれこそが江戸川乱歩の通俗探偵物や南洋一郎のルパン翻案物の原点なのだなと得心した。
さて、この『幽霊塔』のお話は、涙香版ではロンドン郊外に、乱歩版では長崎郊外に、主人公の叔父が曰く付きの古びた屋敷を手に入れた処から始まる。その屋敷に纏わる曰く話というものはこうである。かつて、この屋敷の主であった大金持ちは屋敷の中に隠し迷路を作り財宝を隠したのではあるが、その迷路が余りに精巧に出来ていたが為に本人もそこから抜け出せず、闇に彷徨い飢死したというのである。更に、その塔の直近の持ち主は、その養女に殺害されており、その殺害犯である養女は既に獄死している。この様な状況の下、主人公は叔父のためにこの曰く付き屋敷の検分に赴く訳であるが、そこで屋敷の謎を知る怪美人と知遇する事になった。ここからその怪美人の正体とお宝とを探り、そしてそのお宝を狙う悪党達と戦うという怪奇冒険小説が展開されていくのである。
涙香版ではイギリスが舞台で屋敷はロンドンの郊外という設定なのに登場人物の名前は総て日本人名になっているという不思議な状態になっているのが何とも面白い。乱歩は流石にこれは不自然だと思った様で、ロンドンを長崎に、パリを東京に、そしてアメリカを香港に変更してそれ程不自然ではないようにしている。しかし、この現代に読み直すと、涙香版の不思議な違和感が逆に読者への刺激になって却って面白いのではないかとも思う。ある種の異化作用と言っても良いかもしれない。
さて、この小説の謎の中心に居るのは何と言っても準主人公である怪美人の松谷秀子(涙香版)である。この怪美人は、この小説が描かれた時代にしては珍しい毅然とした気丈な独立した女性として描かれており*3、これにはオリジナル版であった“A Woman in Grey”の著者が女性であったという事もあるのだろうが、段々と強い女性像と云うものがこの19世紀末の社会に於いて受け入れられ出して来たと云うのもあるかもしれない。弱音も吐かず、美貌に群がる男性達にも簡単には靡かず、そして謎の密旨に使命を捧げるという処に新鮮な女性ヒーロー像を発見するのである。
密旨を捨てて安楽を得るよりも、密旨の為に殺されるのが初めからの願いです、最う此の密旨も様々の所から思わぬ邪魔ばかり出て遂に果し得ずに終るだろうと此の頃は覚悟を極めて居ますから、何と威されても恐ろしくは有りません、密旨に忠義を立て通して密旨と共に情死をする許りです
-『幽霊塔』 黒岩涙香
この様に謎の密旨に忠義立てする怪美人は、それに加える仕掛けとして、常に怪異な手袋もしている。気丈な性格、謎の密旨、そして謎の手袋と、非常に魅力的な設定で、『幽霊塔』においては、この怪美人が事実上の主役と言っても良いかもしれない。
それに加えて、塔における迷路内の宝探しもいいし、虎との対決や蜘蛛屋敷での奮闘等冒険譚にも事欠かない、更に、ポール・レペル先生*4による人間改造の秘儀なんかは正に怪奇譚の骨頂といった感じで、乱歩を含む当時の少年達が熱狂したのが良く分かる。因みに、この博士の秘儀に関しては乱歩版の描写が一番雰囲気が出ていると思う。乱歩の思い入れが炸裂した乱歩節全開の描写となっていて主人公の動悸が伝わって来る様で堪らない。さて涙香版に乱歩が感激し、後に乱歩版を出した訳であるが、かの宮崎駿がこの乱歩版をいたく愛読していたそうで、人気作であるルパン三世の『カリオストロの城』は乱歩版の『幽霊塔』からかなりのインスピレーションを受けたらしい。もう『カリオストロの城』の内容なんかはすっかりと忘れてしまっているのであるが、こういうエピソードを聞くと又その内見直してみないといかんな、と思ってしまう。
この宮崎駿のエピソード自体はそれだけで聞くとまあ眉唾っぽい感じもしないではないのだけれども、乱歩の『幽霊塔』にちなんだ展示をジブリの美術館でやったのみならず、宮崎駿がイラストを担当した乱歩版『幽霊塔』まで発刊されたので、どうやら事実の様だ。ただ、このイラスト中、怪美人である野末秋子(乱歩版での名前)が笑う場面で「クスクス」となっているらしいのだが、これは個人的にはちょっと頂けないなと感じでしまう。やはり、この『幽霊塔』の怪美人は「ホホホ」だとか「オホホホ」といった感じで振る舞って欲しいのである。宮崎アニメに良く出て来るちょっと気の強いカワイイ女性というのよりも、毅然とした芯の強い謎の女性という方が、お話の雰囲気に合致していると私は思う。
さて、この『幽霊塔』、涙香版はkindle版を手に入れるのであれば、現状青空文庫のものしか選択が無い様に見える。乱歩版はかなり選択肢が多くて悩み処かもしれない。光文社からのものは全集なので全小説を集めるという目的には一番合理的かもしれないが、挿絵は無い。オリジナルの挿絵が好みであれば東京創元社から出ているものになるだろう。そして宮崎駿のイラストや絵コンテを希望する場合には岩波書店から出ているものを選ぶ事になるのだが、これはkindle版は存在しない様だ。
*1:涙香の『幽霊塔』は1899年なので原著が出た途端翻案している事になる。そのアンテナの敏感さに驚かざるを得ない。因みに、乱歩版は1937年に出版されている。
*2:乱歩は装飾的なエピソードは削って話をやや縮約し、その分、乱歩が気に入っていたと思われる場面の描写に力を入れている。
*3:『シャーロック・ホームズの冒険』に登場するアイリーン・アドラーが推理探偵物に於ける強い女性の登場としては最初期のものかもしれない。
*4:涙香版の登場人物なのであるが、何故かこの人物だけは和名に直していない。考えるのが面倒になったのか、それとも英国から見れば仏国は外国なので、片仮名でも構わないと思ったのか、その辺りは良く分からない。