(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『ギリシア・ローマ神話』 ブルフィンチ 大久保博 訳

 ギリシア・ローマの神々の物語を詩と共に味わう

 最近、ヘロドトスの『歴史』や『古事記』を読んでいると、この手の伝説の域に入っている様なお話がもっと読みたくなってきた。この類の物語の中ではホメロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』が最も古い部類に入るのだろうけれども、それらを読むその前にギリシアの神々の様々な小噺を仕入れておいた方が色々と読書が捗りそうな気がする。実際、『歴史』を読んでいる時にも、基本的なギリシアの伝説を忘れてしまっているが為にややピンと来ない処なんかが存在したのである。

 ギリシアの神話や伝説をざーっと手軽に知るための書物として、子供の頃の記憶に依れば、岩波少年文庫のブルフィンチの『ギリシア・ローマ神話』(“The Age of Fable” 1855年)が非常に手頃だった記憶がある。これは何度も読んだ筈なのだが、もう完全に記憶から消えてしまっているので、まあ久々に読んでみるかと調べた処、なんとまあ時の流れは恐ろしい物で、岩波少年文庫の『ギリシア・ローマ神話』は絶版になって久しい様だ*1。当時岩波から出ていた『ギリシア・ローマ神話』は野上弥生子訳だったのだが電子書籍化はされておらず、角川から大久保博訳で完訳版が出ておりkindle版が手に入る事を発見して早速読んでみた。

 昔に読んだ時分には良く分かっていなかったのだけれども、このトマス・ブルフィンチによる『ギリシア・ローマ神話』はギリシア神話の原典ではない。勿論、ギリシア神話に正典の様なものがあるかどうかは良く分からないのだけれども、ヘシオドスの『神統記』やホメロスの叙事詩などに記述される神話的物語が所謂処の原典という事になるのだろう。ブルフィンチは、上述した物語に加えてオウディウスとウェルギリウスの書物を典拠に用いたと前書きに記している。因みに上巻には主にギリシア神話の伝説が集められており、下巻は主に『イーリアス』と『オデュッセイア』で語られる物語と北欧神話・東洋神話の幾分かが纏められている。

 この神話集は実は著者ブルフィンチの意図が相当に反映された書物である。どの様な意図かというと、神話の世界を人々に分かり易く説く事で、かつて世界に存在した神秘的な詩情の世界を復活させる事を望んでいたのである。訳者大久保博が巻末の解説で以下の様に述べている。

世はまさに「技術の時代」、「科学の時代」であった。こうした時代をブルフィンチは「実利的な時代」と呼んだ。そしてこうした時代にこそ、われわれはわれわれの高い精神性や豊かな人間性を、古代神話の中に──伝説の時代の中に──求めるべきであると訴えた。
-解説から

19世紀半ばの科学の発展と唯物論の拡大に依る文学界からの詩情の減衰を恐れたブルフィンチは、この様な啓蒙書を記す事で人々の間に神々を呼び戻したかった様だ。と言う訳で、この『ギリシア・ローマ神話』には神話を題材にしたミルトンやワーズワスやクーパーらの多数の詩が収録されており、これがブルフィンチの編集の最大の特徴であり本書の美点となっている。

 以下、記憶に残った処を覚え書きしておく。

 ギリシアの神々はまあ大抵の人はご存知の様に、ゼウスを頂点とするオリンポスの神々*2から成る。このゼウスを中心とした統治が始まる迄の課程が中々興味深い。本書に依れば、まず巨神族であるオピーオーンが世界を統べる時代があり、その後にクロノスが王の座を奪い取った。クロノスは良い統治を行ったという伝説もある様だけれども、別な伝承では反逆を恐れて自らの子を次々と喰らっていたらしい。そこで末っ子のゼウスが母であるレアの機転で難を逃れ、飲み込まれていた兄弟神を解放すると共にクロノスら巨人達を支配の座から追い落して、我々が良く知るオリンポスの神々の統治の時代を築いたという事である。この様に二度、王位を簒奪するという出来事があるというのはどう云う意味があるのだろうか。例えば古事記なんかの場合でも天孫降臨という形でオホクニヌシからホノニニギへ王権の移譲が行われているし、神話で描かれるこの様な反逆そして王権の移譲が古代の王権の移譲とも結び付いているのかもしれない。

 神話の良くある共通点の一つに人間の起源というモノがある*3。ギリシア神話に於いては人間の誕生に関する伝承が複数存在する様だが、その内の有名な一つはプロメテウスが大地から土を少し取ってそれに水を混ぜて神々に似せて人間を創造したというものである。この時には女はまだ存在せず、ゼウスがプロメテウスの弟であるエピメテウスに贈ったパンドラが最初の女性という事になっているようだ。ここで、人間の誕生話は終わりかと思いきや、この後ノアの洪水に類似する洪水が起きて人類は滅び、プロメテウスの息子デウカリオンとエピメテウスの娘ピュラーとが生き残り、彼らが投げた石から人類が再誕生したらしい。この様に人類誕生神話が二重になっているのは印欧文化に共通の神話の様で、実際、ギリシアに限らず、洪水に依って人類が一度滅び再生する話は各地で見られるようだ。

 ギリシア神話には幾人かの魔女が登場する。その中でも最大級の魔女はメディアだろう。メディアの伝承には様々なバリエーションがある様で、その中では悪の魔女として描かれる事が多い様だけれども、本書でのメディアはやや違っている。最初は恋人イアソンの為にその魔力を捧げる乙女であったのが、やがて嫉妬に狂いギリシア神話中最大の魔女へと変貌していく姿にはある種の悲劇性を感じる。キルケとカリュプソはそれぞれオデュッセウスを愛した魔女である。キルケはメディアの親戚であって割と魔性の魔女として描かれている、一方でカリュプソは善意に溢れた魔女である。メディアが行う魔法の儀式は本書に依れば『マクベス』への影響が示唆されるし、実際我々が想像する何やら得体のしれないものをグツグツ煮込む魔女の姿の原型なのだろう。この魔女達それぞれを中心に描いた物語も存在する様だし、特にメディアに関連する書物は是非とも探して読んでみたい。

 ヘロドトスの『歴史』に於いて、盛者必衰的な人生観が強く示されていたが、その価値観はギリシア神話に於いても暗示されている様に思える。ギリシア神話には多数の英雄、偉人が登場するのだけど、多くの人物が名声を得た後に没落していくのである。例えば、テーバイの町の創始者であるカドモスは神々から祝福されていたにも拘わらず、アレスの呪いにより子孫は不幸に遭い、人々から忌み嫌われ、遂には妻と共に蛇となってしまう。ヘラクレスは数々の試練を乗り越えた最大の英雄として描かれるが、最後には妻からの毒に依って悶え苦しみ炎に焼かれて死ぬ。テセウスはミノタウロスを倒した事で有名なアテナイの王であり、その賢を以ってオイディプスなどとも交友したのだが、やがてはアナテイを追われ頼った先で謀殺される。その音楽の才を以って知られたオルペウスも、狂信者である女性達に八つ裂きにされるという形で死を迎える。オイディプスの不幸は誰もが知る所だろう。この様に、偉人そして英雄でありながらも多くの人物が、平和的な栄耀の内に一生を終える事が叶わずに、没落し凄惨な最後を迎える事が多い。いわばギリシア神話で描かれる英雄たちは皆、古事記のヤマトタケルなのである。ヤマトタケルの不遇の最期は人々に哀悼の情を催し、その魂の平穏が祈られた。ギリシアの英雄達も盛者必衰の理から逃れられないという伝承によって、人々は人々自身の不安定な生を受け入れ、そして強者の不遇な最期に哀悼を捧げたのかもしれない。

 

 今回読んだ、大久保博訳のブルフィンチ『ギリシア・ローマ神話』は文学を読むためのギリシア神話の知識を得る為には最良の一冊だと感じる。元々のブルフィンチによる多数のギリシア神話関連の詩の紹介に加えて、訳者大久保氏によるギリシア神話関連文学書籍の膨大なリストが素晴らしい。このリストの為にも手に入れる価値はあるかもしれない。挙げられている文献の内のどれくらいを死ぬ迄に読む事が出来るだろうか?と考えるとちょっと気が遠くなりそうになった。

 因みにブルフィンチはこの『ギリシア・ローマ神話』の対象を恐らく高校生位の世代を念頭に置いて記したのだろう。ギリシア神話に於ける、ブルフィンチの云う処の良風美俗を犯す様な表現や伝承は削除されている*4。そういう部分を確認するために他の再話物*5を読むのもありかもしれないし、勿論電子書籍に拘らないのであればわざわざ再話物を読むのではなく、原典とも言えるヘシオドスの『神統記』や『仕事の日』を読むのが王道なのだろう。ブルフィンチ『ギリシア・ローマ神話』の原著である“The Age of Fable”はpubric domainのものがkindle版で無料で手に入る。Amazonで探すと二種類見つかるのだが、表紙が"Bulfinch's Mythology"でkindle版でのタイトルが“The Age of Fable”のモノが*6この大久保博訳の『ギリシア・ローマ神話』の原本を収録している電子書籍である。

完訳 ギリシア・ローマ神話 上下合本版 (角川文庫)

完訳 ギリシア・ローマ神話 上下合本版 (角川文庫)

 

*1:この『ギリシア・ローマ神話』を探している間に同様に岩波少年文庫から出ていた『人間の歴史』の事も思い出して、こちらも探してみたが絶版になっていた。岩波少年文庫は相当充実したラインナップだったのに残念ながらかなりの良書が絶版になってしまっている様だ。

*2:因みに英語版ではJupiter(Zeus)、Saturn(Cronos)、Juno(Hera)、Vulcan(Hephaestos)等々といった具合にラテン語由来名が優先されている。ジョイスの『ユリシーズ』もOdysseusではなくUlyssesであるし、実際の処ギリシア名は英語圏でどれ位通じるのだろうか?

*3:実は日本の古事記には人間の誕生に纏わる神話が存在しない。これはかなり特異な部類に属すると思う。

*4:例えばアフロディーテがウラヌスの性器が海に落ちた時に生まれただとか、パンドラの性格は女性の俗悪な部分を集めたものであるとか、この類の伝承は完全に省かれている。またデメテルの伝説は余り一般的な物では無いモノが紹介されている。

*5:山室静や阿刀田高が書いたものがkindle版で手に入る。山室静の物は基本的にヘシオドスの『神統記』を参考にしている様だ。

*6:別に“Bulfinch's Mythology: The Age of Fable”というものが存在するが、そちらは縮約版である。

『潤一郎犯罪小説集』 谷崎潤一郎

 谷崎潤一郎が描く妖しい犯罪心理

 谷崎潤一郎は江戸川乱歩が心酔していた通り、実に妖しげな香りの犯罪小説を色々と書いていた。谷崎が犯罪小説を書いていた頃、つまり大正の中頃は、谷崎のみならず、芥川龍之介や佐藤春夫も似たような味わいの小説を書いていて、これらは推理探偵小説と言うにはその推理の趣きが足りないのではあるけれども、犯罪心理の描き方なんぞは文豪達の手に依るものだけあって流石の出来映えである。

 そして、この谷崎潤一郎は前に『途上』も紹介したのだが、上述の三氏の中では最も推理小説的なモノを残していた人かもしれない。江戸川乱歩が彼の随筆でいつも谷崎潤一郎を非常に褒めるので、谷崎式犯罪小説を久々に読んでみたいと思ったのだが、ふと調べてみると、案外手に入りにくい、という時に、新潮社から犯罪小説を集めたアンソロジーが出ている事に気付き読んでみた。

 まず、収録されている小説は『日本に於けるクリップン事件』、『白昼鬼語』、『或る罪の動機』、『私』、『途上』、『前科者』、『黒白』の7編である。この中では『白昼鬼語』、『私』、『途上』そして『黒白』が特に印象に残った。『途上』は以前触れたので、それを除く3作に関して覚書をしておく。

 

『白昼鬼語』 

 『白昼鬼語』(大正7年:1918年)はパッと見こそはそうは見えないが、話の仕組みとしてはポーの『黄金虫』と良く似ている。語り手の友人が、妄想に取り憑かれたかの様に鋭敏な推理を繰り出し、常人には見る事の出来ない世界を見付けるという点は正に『黄金虫』である。更にこの『白昼鬼語』では暗号の謎解きも行われているという点でも『黄金虫』との類似が見られる。只何を見付ける為に大騒ぎしているのか?という所になると、ここはやはり谷崎潤一郎独特の味付けがなされていて面白い。殺人現場を覗きに行こうなんて発想は今でこそまあ散見されるかもしれないけれども、中々奇抜な発想であるし、谷崎の筆で描き出されると倒錯の世界が広がっていく。その倒錯の世界に友人が飲み込まれて行くかの様に見える訳なのだが、最後にうっちゃりを喰らわせてくる処も振っている。

 と、乱歩の『二銭銅貨』は正に『白昼鬼語』翻案だと気付いた*1。そして『二銭銅貨』に限らずその他多くの小説での卓袱台返し癖は、この谷崎の『白昼鬼語』から強い影響を受けたモノなのかもしれないな、と思い当たった。乱歩は日本の作家の中では谷崎潤一郎を最も敬愛していると度々その随筆の中に記しているし、若い頃は「逢い度いとは思わぬ。」と強がっていたのに、結局、おねだりして「うばたまの夜のまぼろし夢ならば、昼見し影を何というらむ」という書を貰うくらいに谷崎潤一郎の信奉者なのである*2。この『白昼鬼語』の細い隙間から殺人模様を伺うという倒錯した恐怖も、乱歩に相当な妄想的刺激を与えたのだろう、小説『妖虫』の中にこの狭い視野から殺人を覗き見る背筋の凍る恐怖が描かれているのである。

 乱歩に間違いなく大きな影響を及ぼしたこの『白昼鬼語』、推理小説愛好家ならば読まずに置いておく訳にはいくまい。

 

『私』

 『私』は大正10年(1921年)に発表された短編である。今や推理小説を読む人ならほとんど誰でも叙述トリックというものが存在している事は知っているだろう。叙述トリックとは文章記法上の盲点や情報の破綻を巧く利用して、読者をミスリードする手法である*3。さてこの叙述トリックというものは何時生まれたのだろうか?と言う事を考えた事がある。叙述トリックとして破綻なく成功させているという意味ではアガサ・クリスティーのアレが最初だと長らく思っていたのであるが、ここに来て新たな発見をした。それと云うのは......

 なーんて、まあ、こんなことを書いていると、言うまでもなく、この『私』が叙述トリック的な手法を用いた小説であるという事はバレバレになってしまうのだけれども、実は、ちゃんと読んでいれば、途中で大体の読者は「語り手」が小説内での犯人的な位置にいる事は感ぜられると思う。だから私の罪は非常に軽いものの筈である。ある意味不思議な話なのだが、谷崎潤一郎の小説だと思って読むと猶更、叙述トリックが潜んでいる事に気付き易いのではないだろうか? これは谷崎が書く小説というのはどこか捻くれているし、理知的な着地を試みる物ではないという事を大抵の読者が念頭に置いて読んでいるからだろう。逆説的に言えば、推理小説の場合は、地の文や語り手にトリックがないという前提で、理知的な解決が存在する事を予想して読んでいる人が多いが為に、叙述トリックというものがトリックとして成立したという経緯はあると言えるだろう。推理小説の叙述トリックは推理小説としてはやはり変化球・傍流であるのは間違いない。

 叙述トリック的なモノが本当に最初に生まれたのが何時なのかはまだまだ書物を色々と読んでみないと分からないけれども、今の所、この『私』が破綻なく叙述トリックを用いた最初の推理探偵風味のお話であると思う。と言う訳で、この『私』も『白昼鬼語』同様、推理探偵小説愛好家必読の短編であると強調しておきたい。

 

『黒白』

 『黒白』は昭和3年(1928年)に発表された、不思議な不思議な怪奇犯罪物で、これはこの短編集の中では最も分量のあるもので中々に読み応えがある。

 梗概をざっと記す。水野という自称悪魔主義作家が、犯罪小説を書くのであるが、その内容は、水野を思わせる作家が、実在の人物をモデルにした人間を、良心の呵責無く殺めるというお話であった。書き上げた直後に水野は、モデルに使った実在の人物が小説の方法と同様の方法で実際に殺された場合、自らに嫌疑が掛かるのではないかという不安に襲われ、せめて小説内で暗示された殺人の日にはアリバイを作っておこうとするのだが…...

 ちょっとした出来心と不注意から小説に描いた殺人のために、我が身に降り掛かりかねない冤罪の恐怖、そして、これが起きれば益々立場が悪くなるだろうなという事柄が次々とその通りに現実の物となっていくヒリヒリとした焦燥感がある。この悪い予感が悉く当たって、じりじりと蟻地獄に嵌まって行く様な、蜘蛛の巣に搦め取られて行く様な、その恐怖の描き方は堪らない。

 この小説で描かれる処は、外形的には犯罪者と看做しうる状況であるが、実は無実であり、冤罪であるという状況である。更に言えば外形が内実を必ずしも反映しているとは限らないというお話である。『途上』の状況に比べると、現実に我らが身に降りかかる災難としてはこちらの方が可能性として高いのではなかろうか。冤罪を描いた推理探偵小説は結構存在していて、例えばガボリオの『ルルージュ事件』やザングウィルの『ビッグ・ボウの殺人』などでも外形上の合致から本来無罪である人物が犯罪者に仕立て上げられてしまう。本来であれば推定無罪の原則があるのだから、外形上の証拠だけで直接的な証拠が無いのに犯罪者にされては堪ったものでは無いのであるが、現実問題として、冤罪はそこかしこで生じており、日本でも近年、通称足利事件でDNA鑑定の精度の低さから無辜の人がその人生を狂わされていた事が明らかになった。権力というモノは取り敢えず矛盾の無い形で犯罪者を用意出来れば満足する傾向があるし*4、残念ながら世の中も外形で物事を判断する。実際の処、人は外形でしか周りから判断されないし、内心など外見からは全く分からないのである。この小説の主人公の場合は、色々な要素が悪い方に絡まっていて、そして影の人物の仕掛けた罠に完全に嵌まってしまうのである。

 谷崎は『途上』に於いて、外形的には一見無罪であるが、そこに悪意のある犯罪を描いた。この『黒白』はそれと対をなすものであり、内実がどうであれ、世間は我々を外形で以って断ずるという現実を描いている。『途上』や乱歩の『赤い部屋』から示唆されるように、我々の自己意識と自己意識が生み出す行動やその行動が惹き起こす結果の間には幾分かの乖離が存在する。そして、その乖離している外形的に顕われたモノをして我々は判断されるのであるが、同時にそれを判断する人々の認知においても齟齬が生じうるし、その認知を外形的に表出する際に更なるずれが生じる。そして当の我々がその反応を認知する際に、そこにもまた乖離が生じるのである。つまり我々は我々自身の内部と外形、我々と世間、それぞれに於いて深刻な伝言ゲームが重ねられた幻影の世界に生きているとも言えるのである。

 この小説で描かれる内実と外形の乖離、そしてそこから生まれる冤罪、これだけであれば、「冤罪は恐ろしい」という教訓譚に終るのだが、このお話が谷崎節全開で素晴らしいのは、主人公自身も自らのアリバイを確固たるものにして置くべき必要をよくよく承知の上でイイ女にホイホイと釣られて付いて行ってしまって身を滅ぼすという所である。分かっているのに女性に惹かれる。分かっているのに理性が飛んでしまう。人間はただ論理に従って生きるだけの存在ではないのである。またある状況に於いては、死を避ける事が常に最上の選択であるとも限らない。

  その女性と初めて邂逅した際のその手の印象の描写が振り切れている。

どうもこう云う指やてのひらをむき出しにするのは甚だよくない、此れを眺めているとこの女の全身が見えて来る、詰まり体じゅうがむき出しになっているようなもんだ、この女は素ッぱだかになってテエブルの上に、己の鼻先に寝ているんだ。
-『黒白』 谷崎潤一郎

まあ、谷崎の小説の場合は探偵モノの枠に小説が嵌まるのではなくて犯罪小説と云う構造を利用して谷崎氏の倒錯の世界が踊るのである。 

 因みに、この『黒白』、偶然かそれとも模倣されたのかは分からないが、後に発表されたアイリッシュの『幻の女』(1944年)を彷彿させる。『幻の女』の方はこれまた屈指の名作推理小説であって、アリバイを証明してくれる筈の行きずりの女性が跡形もなく消えてしまい、他の誰もその女性を覚えていないと証言するという、正に狐に化かされた様な体験が描かれている。しかし、『黒白』と同様に、この女性の証言無しには被疑者は冤罪で死刑となる運命なのであって、狐に化かされた様だでは済まない。こちらは理性的な推理小説であるから最後にはしっかりと色々な落ちが着くし、『黒白』とは又異なったアッと言わせる捻りがあって最後まで飽きさせない。こちらも相当にお奨めの推理探偵小説である。

 

 このアンソロジー『潤一郎犯罪小説集』は中々巧く犯罪短編を集めている。恐らく『金色の死』以外の犯罪小説風味の物はほぼ収録されているのではないだろうか? 後は中公文庫から出ている『人魚の嘆き・魔術師』を読めば、谷崎氏の幻想・犯罪系の短編は大体読める様な気がする。今回もいつもの如くkindle版で読んだのだが、電子書籍に付き纏う不幸の例に漏れず、この電子書籍でも解説が収録されていないようである。解説者に電子化の許可を取るのはそこまで大変な作業なのだろうか? まあ一般人には伺い知れない苦労があるのかもしれない。

潤一郎犯罪小説集

潤一郎犯罪小説集

 

*1:『二銭銅貨』は『黄金虫』からの影響も相当に受けている。つまり『黄金虫』の息子が『白昼鬼語』その弟が『二銭銅貨』だと言っても良いかもしれない。

*2:この辺りのエピソードは光文社刊乱歩全集24巻『悪人志願』中の「探偵小説十年」やら「幻影の城主」やらに複数記されている。

*3:叙述トリックの名手として「館シリーズ」の綾辻行人がいるが、叙述トリックというものは中々使い所が難しくて、近年では綾辻氏を除いては余り巧く使いこなせている人はいない。

*4:例えば昨今強引に成立されてそうな「テロ等準備罪(共謀罪)」の様な警察機構の権力を殊更強化するモノはやはり危険ではないかと思う。

古事記に纏わる副読本(kindle版) その2

古代神話を比較神話学的または民俗学的方法で読み解く本

 前回は古事記の物語をまず最初に簡単に掴む為にお奨めの書籍の覚書を書いたが、今回は古事記に登場する日本の古代の神々とその神話の由来について一般向けに解説された書籍に関して覚書を残しておこうと思う。

 『古事記』には200以上の神々と数多くの物語が収録されている。当たり前の話であるが、これらの神や物語が『古事記』に記された形や配列で古代から大和時代まで存在していた訳では無い。『古事記』が作成されるにあたって、巷に溢れていた神々やその神に纏わる逸話、そして、人々の語り継いで来た昔話の様な数々のお話が、『古事記』という壮大な物語の部品部品として使われたのである。実際にどのようにして様々な神話や伝承が、現在我々が知る形の『古事記』として編まれたのかを推測する為に様々な方法が存在するとは思うが、起源が同根とされる様々な世界各地の神話を比較するというのは方法論の一つとして良く用いられている。

 kindle版で簡単に手に入る書籍の内、この比較神話学的な方法や民俗学的な方法を以ってして古代の神話を読み解こうとした本に関して覚書を残して置く。ここに挙げた二冊はいずれも知的好奇心を存分に刺激する良書だと思う。どちらも初出は古いのだけれども、この時代の一般向け啓蒙書籍のレベルは高かったのだなと感心してしまう。

『日本の神々』 松前健

 古事記には多数の神々が登場する。長く続く研究に依ってそれらの神々が活躍する『古事記』が誕生するまでには、神々の位置付けや物語の組み合わせなどに様々な変遷が在った事が明らかになっている。この書籍は『古事記』神話中最も重要視されるであろう神々、イザナミ・イザナギ、スサノオ、アマテラスの原点とこれらの神々が如何にして『古事記』の中に描かれる地位に辿り着いたのかを比較神話学的手法と民俗学的手法を組み合わせて明らかにしようとするものである。

 この本は、実は最後の章である第五章が全体のダイジェスト的な物となっており、最初に第五章から読み始めると内容がすっと入って来易い。そして、この章では、ダイジェスト的な部分だけではなく、『古事記』を読む上での幾つかの重要と思われる前提条件と考察が記されている。

 まず、『古事記』を神話とするかどうかについては実は議論の余地がある。政治的な人工性の含まれる『古事記』は「作られた神話」であって、「真正の神話」とはやや異なるという点に関しては、ほぼ全ての研究者の一致する処の様だ。ただ著者は作られたモノだとは言え、作り手に「神話的思惟」つまり神話を真正に信ずる思考様式があったのではないかとして、広義の神話として捉えて良いとしている。これらの議論はそれ程無理のあるものではないと思うし、実際、原初の自然発生的な神話と異なるにしても『古事記』が神話的側面を強く備えていた事は間違いないだろう。

 そして著者は、比較神話学的な手法で神々の原点を探る手法と歴史民俗学的に神々の物語が如何に発展収束し中央に取り入れられていったのかを調べる手法との両手法を持ちいる意義を述べている。後者の部分が本書を特別面白くしている部分だろう。前者の比較神話学的手法は例が実際に多く雑学的にも小噺的にも面白いので多数行われているが、実際問題、松前氏が述べるように、それは構造や構成要素、そして神話の源流を探るだけに留まってしまう事が多く、何故、ある神が『古事記』や『日本書紀』に描かれている地位=神格に辿り着いたのか、何故、ある神がある物語の中心に選ばれたのか、を明らかにする事は中々難しい。その点を補うのが、著者の述べる後者の手法、歴史的再構成であって、大和時代の神々の信仰の拡がりや、神々と有力豪族との繋がりを調べる事から『古事記』に於ける神々の位置付けの原点を探っている。

 この2つの手法で神々を研究したものが第一章から第四章までになる。

 イザナミ・イザナギに関しては現代となっては特別新規な説は記されていないが、淡路の土着の海洋神的な存在からアマテラスの親神へと発展していったという事実は再確認として覚え書きしておく。中央で重要視される過程として、著者は淡路の豪族・安曇氏の影響を指摘している。

 スサノオに関しては、中々面白い考察が述べられている。スサノオは元々は紀伊を原点とする海洋神であるとする説である。実際、紀伊半島にはスサノオに関連する神社が多数ある様だし、スサノオは当初はイザナミから海の支配を言い渡されていた。オホクニヌシが根の国に逃げ込む際に紀伊の木の根から逃げ込んだというやや唐突な挿話もこの説で説明が付く。

 アマテラスの考察は二章を充てて精緻に行われている。端的に言ってしまえば、これも現代ではほぼ異論の無い処の様であるけれども、伊勢の土着の太陽神であったアマテラス*1が宮廷と伊勢神宮の結び付きの強化に伴い、皇祖神の地位にまで上り詰めたという事のようだ。著者はこの過程を丁寧に丁寧に検証して提示している。タカミムスビが本来の皇祖神的地位にいた神で、アマテラスがやがてその位置に挿入されたという著者の説は、『古事記』に於ける不自然なタカミムスビの活躍の多さを説明するのに納得のいきやすい説であると思う。

 本書は1974年刊行のかなり古い神話入門書であるのだが、今読んでも十分に新鮮で素晴らしい古事記の比較神話学・民俗学的解釈の入門書だと感じる。先行する研究の引用と自説の区別は分かり易く、そのおかげで論理を整理よく理解していく事が可能である。また神話に於ける構造的な側面と物語の意味付けとの違いを明確にではないが指摘している点や、神話の伝播が必ずしも民族の移動を伴うものではないという指摘などは、現在の観点から見直せば炯眼と言える物だろう。下記の『日本神話の源流』共々、神話の原点に興味を持つ人には間違いなくお奨めの書物である。

日本の神々 (講談社学術文庫)

日本の神々 (講談社学術文庫)

 

 

『日本神話の源流』 吉田敦彦

 この本の著者、吉田敦彦はギリシア神話から日本の古代の神話まで様々な比較神話学の本を著している。この手の古事記関連書籍を読み始めるまで、全く吉田氏に関しての知識はなかったのだけれども、この『日本神話の源流』は比較神話学的アプローチで古事記を含む日本の古代の神話や神々を解析した良書であり、この関係に興味を持った初心者が最初に読むのに適した本のようだ。

日本神話の研究においては、日本の内部におけるその形成、編輯の過程を考察する歴史学的研究や文献学的研究と並んで、外の地域と関係させてその起源、系統を明らかにしようとする比較神話学的研究が不可欠である。

  第一章において著者は上記の様に述べている。これは『日本の神々』で松前氏が記している処と正に同一であり、神話を知る上でこの二つの手法が重要である事が共通の認識である事が分かる。この吉田氏の『日本神話の源流』では上記の『日本の神々』に比べると比較神話学的な手法に重点が置かれている。双方を読み比べると尚楽しめる事請け合いである。

 以下にこの書籍で紹介されている、日本の神話の源流を覚え書きしておく。

 まず、古事記の中でイザナギ・イザナミの一連の神話と日向神話とされる部分、特に山幸彦と海幸彦の挿話には南洋のポリネシア、インドネシア、ミクロネシアの島々の神話との相当な類似が見られる。

 さてこれらの神話は直接南洋から伝来したのだろうか?という事になると、近年の研究ではその大元は東南アジアにあるのではないかとされており、その源から別々に日本と南洋の島々に伝播したと推察されている。レヴィ=ストロースが提唱した様に構造が伝播し構成要素は変換され易いために、同様の島嶼共同体であった日本と南洋の島々で似たような物語に落ち着いたのかもしれない。

 他には神を殺すことで穀物を授かるオホゲツヒメの物語も、ハイヌウェレ型神話として広く東南アジアを中心に分布しているらしい。この捉え方はオランダの神話学者イェンゼンが提唱したものが広く支持されている様だ。この神を殺すという行為を祭礼儀式として模擬的に行っている習俗は各地に見られるのであるが、 ニューギニアに住むマリンド・アニム族では実際に少女が神話的事象の再現として殺さる「マヨ」と呼ばれる祭礼が続いていたらしい。著者はこの行為が人道的に許されるものではないとした上で、住民の行為が単に殺戮癖があるだとか野蛮だというのではなく、レヴィ=ストロースが述べる処の「野生の思考」によって行われたという事も強調している。我々の価値観だけがこの世を統べるものでは無いのは確かである*2

 著者の吉田氏はギリシア神話の研究がそもそもの本職だった方の様で本書のハイライトはやはりギリシア神話を中心とする印欧神話と日本神話の比較であろう。

 誰もが思い付く類似の神話としてはオルフェウスがその妻を冥界に訪ねる神話とイザナギの黄泉国訪問譚がある。が、吉田氏がそれに加えて指摘しているのが、アマテラスの天岩戸神話とデメテルがペルセポネを探す間の神話群との相似である。ぱっとギリシア神話を読んだだけではそれ程似ていない様に思っていたが、吉田氏の指摘する部分を読めばこれは確かに非常に似通っている*3。そもそも冬の到来を示唆する神話として捉えると共通項を理解しやすい。

 最後の章では日本の神々の権能を印欧神話の神々の権能とを比較してその類似する処を指摘している。つまり印欧文化が何らかの形で日本に伝播し影響を与えた可能性を示唆しているのである。この部分に関しては読み物としては面白いのだけれども、類似していると云う事以上の事は余り導き出せない様な気もする。ただ、こういう様な思索の拡がりを、太古の神話の伝播に想いを馳せながら読むとなかなか感慨深い。

 吉田氏と前出の松前氏の大きな違いは神話の伝播と民族文化の移動をどの程度同一であると看做すか、という所にあると思う。レヴィ=ストロースが唱えた仮説や類似神話が存在する場所が不連続である事を考慮すると、現状松前氏が提唱するように物語の伝播と実際の民族文化の伝播にはそれなり以上の差があると想定する方が妥当なような気がする。が、どちらにしても神話が遥かな距離を経て同一の物語として各地に顕現するという所には何か神秘的なモノを感じざるを得ない。

 本書は『日本の神々』の1年後1975年に刊行されている。この同時期に古代神話の源流を紹介する二冊の優れた啓蒙書が世に出たという所には何か偶然を越えたようなものが存在するのかもしれない。吉田氏はこの他にもギリシア神話の解説書などを著しており、失礼ながら学者先生の書く書物にしては文章が詩的で面白く読めるものが多い。そして当然、本書は『古事記』に興味をもつ人々にお奨めの一冊である。

日本神話の源流 (講談社学術文庫)

日本神話の源流 (講談社学術文庫)

 

 

 

*1:天孫降臨のエピソードの途中にサルタヒコが唐突に出てくるのだが、サルタヒコはアマテラス同様に伊勢の土着の太陽神であるらしい。何故猿が太陽神なのか?という事に関しては、日本古代では猿は太陽に関連する動物だった様だ。太陽神化したイザナギが祭られる多賀大社にも白猿が祭られているとの事である。何故猿が太陽と関連するのかは不明である。

*2:この辺りの価値判断というものは相当に難しい。西洋的価値観でそれに反する行為を総て禁止し、教化啓蒙するという行為はある種の文化的帝国主義であるが、文化相対化に依って全てを黙認するというのもまた逆方向の極端であろう。

*3:かなり詳細な比較が行われているので、興味のある方は是非実際に読んでみて欲しい。