(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『D坂の殺人事件』・『心理試験』 江戸川乱歩

 明智小五郎の登場と犯罪心理学のご愛敬

 江戸川乱歩は本当に何にでも興味を持つ人で、まあ小説家に成るような奇特な人々は大体そうなのかもしれないが、当時流行っていたミュンスターベルヒによる心理学の書物なんぞも読み、その中の犯罪心理に関する部分から小説の種を思い付いたりもしたらしい。この辺りの心理学を小説に活かそうした経緯は『楽屋噺』*1の中に以下の様に述べられている。

ある古本屋で、ミュンスターベルヒの『心理学と犯罪』という本を見つけ、大喜びで買って帰って、読んで見ると仲々面白い。小酒井氏が『心理的探偵法』という随筆に書いていられる原本であることも分った。そこで、何とかこれで一篇作り上げようと考えたのだが、ただ心理試験丈けではミュンスターベルヒそのままで、何の奇もなく、創作とは申されぬ。
-『楽屋噺』 江戸川乱歩

 この所感は『心理試験』を思い付いた経緯に関して述べているのだが、同様にミュンスターベルヒの犯罪心理を多少使っているものとして『D坂の殺人事件』がある。どちらも心理的な推察を巧く材料にした中々面白い作品である。乱歩の作風の得な所は、心理洞察等という一見理詰めの様で実は曖昧模糊としたモノをそのまま曖昧な上澄みを活かして小説に用いる事が出来る処だろう。

 上述の2作は相次いで発表された。まず、『D坂の殺人事件』(大正13年:1924年)は乱歩のその後に多大な影響を与えた一作である。勿論、ある作品がその作者の将来に影響を与えると云うのは多かれ少なかれある事で、この小説だけがそうだという事は無いのだろうけれども、この『D坂の殺人事件』の最大の特異点は何と言ってもかの「明智小五郎」がこの世に生み出された最初の作品だという点にある。

 明智小五郎の初登場時の人物描写は以下の様なものである。

年は私と同じくらいで、二十五歳を越してはいまい。どちらかといえば痩せた方で、先にも言った通り、歩く時に変に肩を振る癖がある。といっても、決して豪傑流のそれではなく、妙な男を引合いに出すが、あの片腕の不自由な講釈師の神田伯竜を思い出させるような歩き方なのだ。伯竜といえば、明智は顔つきから声音まで、彼にそっくりだ――伯竜を見たことのない読者は、諸君の知っているところの、いわゆる好男子ではないが、どことなく愛嬌のある、そしてもっとも天才的な顔を想像するがよい――ただ明智の方は、髪の毛がもっと長く延びていて、モジャモジャともつれ合っている、そして彼は人と話しているあいだにも、指でそのモジャモジャになっている髪の毛を、さらにモジャモジャにするためのように引っ掻き廻すのが癖だ。
-『D坂の殺人事件』 江戸川乱歩

 この記述を読んで、大抵の推理探偵小説愛好家はアッと思うだろう、もしくは既に良く知っているかもしれない。これはもう正に横溝正史が生み出した金田一耕助そのままではないか。勿論、金田一耕助登場の方がずっと後になるので、横溝正史がこの最初期明智小五郎像を拝借して金田一耕助を創造したのは間違いないのであるけれども。明智小五郎が一般にイメージされる割としゅっとした探偵に成る迄には案外作数が掛かっていて、例えば大正15年の『一寸法師』では上海帰りで中華衣装に身を包むエキゾチックな明智小五郎が描かれている*2

 さて肝腎の心理洞察であるが、ここで描かれている物は、主として事件証人の証言の非信頼性に関するものである。二人の書生がほぼ同じ場所から犯人と思しき人間の服装を見たのであるが、その証言が全く相異なっているのである。語り手である「私」は何とか論理的な説明を思い付くのであるが、明智はそれを退けて、ミュンスターベルヒの『心理学と犯罪』を引き合いに出し、証人の記憶詰まる処、人間の観察と記憶という物は非常に頼りない事を指摘する*3。こういう記述を読むたびに、乱歩という人は推理探偵小説の構造的な限界を逆手に取るのが非常に巧みだな、と感心する。実際、人の視覚認知や記憶が不確かなモノである事は現在では割と良く知られているとは思うのだが、そうは言っても、推理探偵小説内では一般に小説内の目撃者の証言は基本的に信頼に足るものとして扱われているのである。この辺りを上手く捻って乱歩の世界に引き摺り込む所が乱歩先生の乱歩先生足る処だろう。この『D坂の殺人事件』は乱歩の小説の中で特別面白い方と言う訳では無いけれども、名探偵明智小五郎の初登場作品という意味で是非とも読んでおきたいお話である。

 ミュンスターベルヒの『心理学と犯罪』から影響を受けたもう一作『心理試験』は『D坂の殺人事件』の翌年大正14年(1925年)に発表されている。『D坂の殺人事件』が明智小五郎の誕生という意味に於いて乱歩に取って重要な小説となったのと同様、この『心理試験』も乱歩の作家人生を左右する重要な一作となった。というのも、乱歩はこの小説を小酒井不木に送り、果たして専業小説家として暮らして行けるかどうかを問うたのである。それに対しての小酒井氏の返答は当然非常に好意的なモノであって、それだけで決心したのでは無いにしても、この応援に力を得た乱歩は以後、専業の小説家として邁進して行く事になる訳である*4

 この『心理試験』は乱歩の小説の中では割と理知的な作りの小説に属すると思う。乱歩は後に意識的にそうした積りは無かったと述懐しているが、このお話は乱歩の最初の「倒叙」推理小説になっており、読者には最初から犯人が分かっていて、さて、この一見完璧に見える犯行がいかにして露見するのか?という所を楽しむ事になる。上で引用した様に、ミュンスターベルヒの書物を読んで種を仕入れたがそれをどの様にして美味しく仕上げるかに苦心した様で、同様に心理の抑圧の様な側面を持っているドストエフスキーの『罪と罰』を読んでそのアイデアを産み出したらしい。つまり、賢明な犯罪者の場合はその心理的作用を上手くコントロール出来るだろうが、その際に心理試験を用いて聡明な犯罪者を追い詰める事が出来るかどうかという空想を推理探偵小説という形に仕上げた訳である。

 さて、実際の処、心理捜査という物は犯罪者の推定にどれくらい役に立つのだろうか? 心理洞察を推理小説に活かす発想自体は、小酒井不木や後にヴァン・ダインや小栗虫太郎なんかも思い付いて試みてはいるが、実際の処論理的にそれを組み立てるのは中々に難しいものがある様で、何れの作に於いてもそれ程、心理操作が推理の解決に役に立っている様にも思えない*5。現実の世界に於いてもある程度確率論的に捜査の範囲を狭めることは出来てもあくまで確率の範囲を出ない事は想像されうるだろう。   

 と言う事で、乱歩は所謂処の心理試験が必ずしも上手く作用しないであろうという事を想定してお話を組み上げた。犯人は心理試験の裏を掻いて十分にそれに対する備えをしていたのである。私は心理試験の効用を余り信じていない方だからこういう風に裏を掻くお話なんかは中々爽快であって、やっぱり乱歩はこういう流行り物に一石投じるのが巧いなと思ってしまった。まあ、これは小説なので、残念ながら落ちというモノがつく訳で、天才探偵明智小五郎がかなり強引な推理で無理矢理に解決してしまう処が個人的にはやや残念ではあった。乱歩のお話は構成上理知が勝って来るとやや残念な感じになってしまう処があるけれども、やはり、官憲の追求を如何に逃れるかという犯人の異常心理の描き方なんかは本当に乱歩節で、最後の辺りまでは手に汗を握って楽しめる佳作ではあると思う。

 

 今回もいつもの如くkindle版を読んだ。『D坂の殺人事件』は挿絵があるという点で創元社から出ている短編集『D坂の殺人事件』が断然にお奨めなのだが、『心理試験』の方は残念ながら創元推理の電子書籍には収録されていない様だ。光文社から出ている乱歩全集第1巻『屋根裏の散歩者』には両者とも収録されているし、乱歩自身の解説(『楽屋噺』を含む)も収録されている。効率重視の場合は光文社の乱歩全集が良いだろう。

屋根裏の散歩者?江戸川乱歩全集第1巻? (光文社文庫)

屋根裏の散歩者?江戸川乱歩全集第1巻? (光文社文庫)

 

*1:光文社刊の乱歩全集第24巻『悪人志願』中に収録されている。

*2:尚、神田伯竜氏の写真は余りはっきりしたものが残っていないのだけれども、調べる限り、失礼ながら所謂ハンサムというタイプの顔立ちでは無い様だ。

*3:原著を手に入れる事が出来なかったのでここで乱歩が記している事が実際にミュンスターベルヒの著作に記されているかどうかは未確認なのであるけれども、大体一般論的に現代に於いては首肯出来るものであると思う。

*4:上述した『楽屋噺』に詳細が記されている。

*5:ただ、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』で描かれるそれは圧巻ではある。無意味に空回りしていたとしても、その空回りの仕方が素晴らしく印象的であるので、あれはあれで別な効果を生み出していると思う。

『見るまえに跳べ』 大江健三郎

 今迄もそしてこれからも跳ばない、跳べない

 ここの処、大江健三郎を少しずつ読み返しているのだけれども、大江健三郎は読めば読む程、癖のある面白い小説群を残している。この歳になって読むと不思議な事に一層面白く感じる。段々と自分の感覚が大江健三郎に近付いて来たのだろうか?

 新潮社刊の『見るまえに跳べ』は短編集『死者の奢り・飼育』や中編『仔撃ち芽むしり』と同時期に発表された初期短編集である。前に紹介した2冊の中に出てきたモチーフが繰り返し変奏されており、これらの作品群からは初期の大江健三郎に漂う現実社会への諦念や所謂インテリ層としての虚無感・無力感が強く伺える。

 大江健三郎はこの頃、サルトル的な実存を描く小説家と目されていた様だ、が、現代の私の視点から見ると、サルトル的な実存主義というよりもむしろ更にもっとペシミスティックなどんづまりの状況を描いている様に思える。個人的にはサルトルには大江健三郎の小説よりも強い自意識と動力を感じるし、連帯の意義を強く訴えかけていた点などで大江健三郎の書くものとは幾分か異なる方向を向いていたのではなかろうか。哲学者と小説家の違いというのもあるかもしれない。

 何にしてもこの初期短編集で繰り返し表出されるものは、上述した諦念、無力感、そして徒労に終わる行動である。この徒労感というものを執拗に描くという点から、大江健三郎が実存主義的作家と看做されたという事が今となっては分かる。この部分に関しては若い頃に読んだ時には余り良く分からなかったのだが、そこで描かれているものは、確かに徒労感の連続である。村上春樹の小説は読んだ事が無いのだけれども、しばしば「やれやれ」といった言葉が小説の登場人物の言葉として紹介されているのを見掛ける。この「やれやれ」は、むしろ大江健三郎の描く初期短編の世界にぴったりの言葉ではないかとも思う。というのも、正にこの「やれやれ」という言葉を呟く以外にどうにもならない様な出来事を体験するお話が繰り返されるのである。

 まず、最初に収録されているのが『奇妙な仕事』である。この短編は構造的にはほぼ『死者の奢り』と一致しているといって良い。『死者の奢り』に於いて、解剖用の死体を別な水槽に移す労働が徒労に終わったように、『奇妙な仕事』に於いても、実験用の犬を屠殺する苦労の多い作業は結局の処徒労に終わる。戯曲として書かれた『動物倉庫』や短編『運搬』に於いても登場人物達の労働や奮闘を待ち受けるのは無意味な結末である。

 これらの徒労の中でも、この短編集の表題作『見るまえに跳べ』(1958年)は当時の世の中のどうしようもない虚無感、倦怠感を遣る瀬無く描いている。

 登場する人物達は、主人公「僕」とその愛人の外国人専門娼婦である良重、そして良重のもう一人の情人であるアメリカ人のガブリエル、主人公が家庭教師をしやがて関係を持つ田川裕子である。

 世の中に倦んだ情熱を持たない主人公と外国人向け娼婦とその情人の外国人という組み合わせは、この『見るまえに跳べ』だけでなく、『戦いの今日』そして『われらの時代』でも見られる、この時期の大江健三郎が良く用いた構造である。ここに弟が入ってきたり、主人公と娼婦の関係が愛人関係か否か、等がそのバリエーシェンとなるのだが、大江健三郎はこの構造をよっぽど気に入っていたのだろう、この三作品は正に兄弟の様に感じられる。

 ここで大江が描く無力感虚脱感は明らかに、「皇国」の敗北とそれに伴うどうしようもない卓袱台返し、大江らの世代が味わった社会構造のドラスティックな変化、それらが齎した不条理性が反映されているのだろう。今まで存在したイデオロギーがいとも簡単に覆され、そして人々は以前に存在したイデオロギーを否定し、それを受け入れていた自分達がまるで存在しなかったかの様に振る舞って暮らしていく。理性のあるものには耐えられない状況だったのかもしれない。勿論、戦後の日本にアメリカから下賜された「民主主義」という枠組み自体は戦前の全体主義や半封建主義もどきの社会構造よりは妥当な物だと思えるが、人々がいとも簡単に社会構造を放擲し与えられたものを受け入れるのであれば、このアメリカから下賜された「民主主義」とやらがいつひっくり返されてもそれ程不思議ではないのである。

 敗戦後に外国人を専門にする娼婦という存在、そしてアメリカ人のガブリエルに辱められる娼婦という存在が、アメリカに支配されていた戦後間もない日本を暗示している事は容易に推察出来ると思う。「僕」はこの娼婦良重との生活に無力的に浸っている。恐らく、この辺りに、一部の人々から大江健三郎が嫌悪される理由があるのだろう。大江は余りにも露悪趣味的であり極端に走る処がある。しかし、この例えは上品な物では無いにしても、そう外れた物でも無い。「愛国心」故にこの表現に敵意を抱く人々が向けるべき敵意の先は、当時であれば間違いなく、占領米軍及びアメリカのシステムに組み込まれてしまった社会構造である。

 敗戦後の卓袱台返しに加え主人公の無力感を更に煽るのが、この小説の発表前に終結していた朝鮮戦争や発表当時その最中であったベトナム戦争・アルジェリア戦争であろう。日本から見て外国の人々が、彼等の自由の為に、彼等のイデオロギーを守るために、命を賭している。それに対して、日本の若者がやっている事はせいぜいデモを行う位であった*1。そしてそれらの活動がどれ程に効果があるのか? 熱狂していた人々以外には実際の処大いに疑問であったのは確かな筈である。ではどうすれば社会を変革出来るのか、出来たのか?それに対する答えは容易に見つかる筈がない。小説中でガブリエルが「僕」に向けて放った言葉「見るまえに跳べ」に、この無力感が凝集されている。

The sense of danger must not disappear:
The way is certainly both short and steep,
However gradual it looks from here;
Look if you like, but you will have to leap.
-"Leap Before You Look"(一部) W. H. Auden

 「僕」は裕子と関係を持ち裕子が妊娠した事によって、良重とのどんづまりの生活からの脱出、つまりその無力感虚無感からの脱出を図る。労働に精を出し、フランス文学を熱心に学ぶ姿は「僕」が暮らす世界のアメリカ的支配からの脱出を希求するかの様である。しかしフランスからの新思想はやはり借り物でしかないし、借り物で新たな主体化を行う事には相当な困難が予感されるのが当然であろう。裕子の妊娠は新たな国生みを示唆し、そこに新たな主体性が生まれ得ることを期待させるのだが、大江健三郎の小説の行先は誰もが知る処である。「僕」と裕子の淡い希望は無惨に潰え、そこに残されるものはやはり無力感と虚脱感である。

 新たな希望を失い、「僕」は「良重=屈辱の中に暮らす安寧」へと帰る。良重が日本人の客を揶揄して放つ言葉がどうしようもない。《つまんない、ちっぽけな日本人》。その言葉に引きずられる様に、「僕」は不能になっている事に気付く。徒労と喪失と無力感。希望を失った「僕」にはもはや何も残されていないのだ。 

 大江健三郎は、当時の日本にそして無力な自分自身に我慢がならなかった一部の人々の思潮の幾らかを具現化する事に成功している。この大江の描いた感覚は、若い人々には信じられないかもしれないが、三島由紀夫が抱いていた焦燥感とも根は同一である*2。「見るまえに跳べ」これは確かにそうなのだろう。だが何人が実際に跳ぶ事が出来るのか?大江の描く世界では「僕」は跳べなかったしこれからも跳ばないだろう。徒労とどんづまり。行き場など他にない。我々に残されているのは緩慢な死のみである。

 カミュは『シーシュポスの神話』やら『ペスト』やらに於いて、人生という徒労を肯定的に捉えその中で不条理に立ち向かうことを良しとしたが、実際問題として、弱き我々一般人がその様にこの世を捉える事は可能なのだろうか? 大江健三郎が描いたこのどうしようもない徒労、どんづまり、結末の無い運命、これらは現代日本に暮らす我々が正に直面している課題だと言えるし、カミュの説く強い意思に辿り着く前に我々が味わう課程であろう。そして、この課程の方に重要な全てが凝縮されているのではないか。そもそも、カミュの述べる処に万人が到達するとも限らないのである。むしろほとんどの人間がその様に成れないのが現実だろう。私自身、今迄もそしてこれからも跳ばないし跳べないだろうという確信に近い予感がある。この歳になって大江健三郎がなぜノーベル賞作家に選ばれたのかが朧げながら分かって来た様な気がする。

見るまえに跳べ(新潮文庫)

見るまえに跳べ(新潮文庫)

 

*1:勿論、武力闘争を行う事の方が立派等と言うつもりは毛頭無いが、大江健三郎は左翼活動を実際に行っていたからこそ、その当時の彼等の活動に無力感を感じていたのだろう。三島由紀夫など保守派が、当時の左翼活動を「安全な場所で子供染みた騒動を起こしているだけ」と批判していたのだが、大江としても一部痛い処を突かれている感はあったに違いない。

*2:とはいえ、彼等の採った政治的手法は全く異なる物であったのは言うまでもないだろう。三島由紀夫はある意味においては跳んだのである。それに意味があったかといえば、残念ながら意味はなかったと答えるしかないと思うのだが、そもそも生きる意味などは存在しないのである。大江の採った政治的活動は当時としては妥当な物であったと思うのだけれども、往々にして、政治的活動は本人の当初の意図からずれて迷走してしまうというのも現実だと思う。

"The Lerouge Case" Emile Gaboriau (『ルルージュ事件』 エミール・ガボリオ)

 古典ロマン長編の原点がここにある

 江戸川乱歩の古典ベストテンを読み続けている。実はこの乱歩の古典ベストテンの中には、乱歩曰く「そこまで優れている訳では無いが他に候補が無い」という事で選ばれているものが3作あって、そんな風に書かれてしまうとそれらは読むのを後回しにしたくなるのが人情である。既に5作は読んだのだが、その3作を除く残りの2作はガボリオとボアゴベイでどちらもフランス人作家の手に依るものである。日本語訳版をざっとkindleで探したのであるが、どうにも見当たらないので、仕方ない、英訳版で読んでみるか、という事でまず、ガボリオーの『ルルージュ事件』(1866年)の英訳版"The Lerouge Case"を読んでみた。

 この小説は前にも紹介した『月長石』の2年前に刊行されているのだが、『月長石』がイギリスの郊外に住む貴族の奇譚を描いているのに対し、こちらはフランスのパリに住む大貴族の一大奇譚を描いている。このお話の大掛かりな処、盛り上がりとその起伏は 『月長石』のややまったりとした雰囲気とはまるで違う。このガボリオの筆致は読んでいて、ああそうか、これがフランスの講談風味の冒険伝奇譚の原点の一つなのか、と感心した。このガボリオの『ルルージュ事件』に加えて、デュマの『三銃士』や『鉄仮面』そしてボアゴベイの幾つかの伝奇物が現在私がイメージするフランスの冒険活劇引いては涙香、南洋一郎、江戸川乱歩のあのお話し振りに繋がっているのだろう。

 『ルルージュ事件』の最大の舞台装置は赤子の取り替えである。只の取り替えでは無い。フランス屈指の貴族の正統な嫡子と愛人との間に出来た子供との入れ替えである。読者は当然、その赤子達の将来の境遇がまるで異なったモノになる事が容易に想像出来るであろう。そもそも、そんな身分違いの赤子の入れ替えなんか、使い古された陳腐なネタではないか、等と感じる人もあるかも知れない、が、しかし、恐らく、このガボリオの『ルルージュ事件』こそが陳腐化されるまでに濫用されたこの舞台装置の初期の活用例なのだろう。赤子の入れ替えネタ、そして身分違いの入れ替えネタの元祖はどれなのか現時点では分からないのだけれども、少なくともマーク・トウェインの有名な『王子と乞食』は1881年なので、それよりは確実に早くこの世に顕れている事は間違いない。入れ替えネタなんかは子供の頃になにかの推理探偵小説か巌窟王や鉄仮面等の子供向け翻案もので読んだ様な気がしていたのであるが、恐らく、それはこの『ルルージュ事件』を子供向けに翻案したものだったのだろう。ううむ、古典名作はやはりしっかりと読み直してみるのはかなり良い経験になるなと再確認した。

 しかし、この『ルルージュ事件』名場面のオンパレードである。

 まず、名探偵役のTirauclairこと老Tabaretは金持ちの有閑老人かつ素人探偵であるが、只の素人探偵ではなく、パリの警察にその鋭敏な推理を轟かせている老人であって、小説内に登場するや否や、ホームズ張りの冴え渡る推理を披露する。現場に残されている犯人の僅かな痕跡から背丈や年齢、煙草の銘柄、そして持ち物である手袋や傘に至るまで論理的に類推する。正にホームズそのものであるが、勿論この小説の方が圧倒的に早く世に出ているので、ホームズがデュパンや老Tabaretの一見手品風の推理、人をアッと言わせる遣り方を踏襲していると言うべきか。ここで老Tabaretはその明晰な推理の披露を以って、堅実なGevrol刑事を嘲るのであるが、このGevrol刑事はこれはこれで傑物なのである。天才型探偵の登場する小説で適当にあしらわれる無能警察とはこれまた違う。この堅実な猟犬型刑事がこの小説で描かれた犯罪を解決する鍵となる発見をする処が、現代の型にハマった天才探偵ワンマンショーと異なっていて面白い。実際、涙香小史の『無惨』はこの展開からもアイデアを得ている気がする。『無惨』を読んだ時には型にハマっていなくて面白いと思ったのだが、「型」というものは分野初期には存在しないのが当たり前と言えるかもかもしれない。

 天才型探偵と言う物は現代の推理小説においては滅多に失敗しないし、それ故に天才型探偵なのだろうけれども、昔の推理探偵小説ではしばしば苦戦するようだ。例えば、『月長石』のCuff巡査部長、そしてこの小説における老Tabaretである。この老Tabaretの蹉跌は現代刑事司法制度への懐疑と警鐘という形を以って小説内に現れてくる。昔の小説と言う物は娯楽の皮を被って色々と大きな問題提起をしてくるものである。黒岩涙香はこの『ルルージュ事件』を翻案した『人耶鬼耶』の前書きに於いて

余が此篇を譯述するは世の探偵に従事するものをして其職の難きを知らしめ又た世の裁判官たるものをして判決の苟しくもすべからざるを悟らしめんが為なり。之を切言すれば一は人権の貴きを示し一は法律の輕々しく用いべからざるを示さんと欲するなり。
-『人耶鬼耶』 黒岩涙香

と記し、世の警察検察機構のその職の簡単ではない事、権力の行使に慎重となるべき事を訴えている。

 物語の最初、自らの頭脳に絶対の自信を誇っていた老Tabaretは「ああ、こういう遅れは正義の遂行にとって致命的じゃよ!もしこの世が儂の思うままになるなら、悪党どもを罰するのにあんなに手間取らないのになあ。捕まえたら即吊るし首じゃ。」と言い放つが、やがて、己の不完全さを知るに至って無辜の人を罰する可能性の恐怖を知り、死刑廃止と冤罪救済の為に働く事を決意する*1。またDaburon判事は、現代で言う処の利益相反的立場に立ちつつ被疑者の取り調べを行う事に躊躇するが、実際それが事件の判断を誤る事に繋がり、彼も後悔して後に職を辞すのである。 

 この小説程ではないが、西洋の推理探偵小説に於いては刑事司法制度への懐疑的な視線がしばしば見られる。例えば、今までに紹介した小説であれば、ザングウィルの『ビッグ・ボウの殺人』やフリーマンの『オシリスの眼』、ヴァン・ダインの『カナリヤ殺人事件』に於いても刑事司法の仕組み上の問題が批判されている。この様に「お上」の決めた制度といえども簡単に全肯定しないという所が西洋らしいと言えば西洋らしく感じる。

  昔の小説を読むのは原点を探すという愉しみに加えて、昔の風俗を伺い知る事が出来るという点でも面白い。『月長石』に於いて貴族社会に於ける時代の変化を思い起こさせる叙述が幾らかあったが、この『ルルージュ事件』に於いてはその貴族社会の変化がより明白に描写されている。この小説には強烈な個性を持つ二人の貴族が登場する。d'Arlange侯爵夫人とCommarin伯爵である。彼等の発言を引用しておこう。

「ああ、なんて魅力的な若者でしょう!」夫人は言った。「繊細で思慮深くて!産まれてこなかったのがなんとも可哀想だわ」(彼女の言う処の「産まれる」とは貴族の血統という意味だが、貴族でない不幸な者たちも実際「産まれてきた」という事実を無視した言い様である。) (拙訳)

 d'Arlange侯爵夫人はこの様にDaburon判事に述べるのである。貴族でないものを生まれていない呼ばわりとは小説の中とはいえ中々の傲岸不遜振りであるし、それを通り越して滑稽ですらある。

「(前略)一昔前なら国王のところへ赴いて直接頼めば、我が子の立場を保証してくれた筈なのだが。今日では、国王は不満に充ちた臣民を治めるのに手を焼き、何も出来はしない。貴族はその権限を失ってしまったのだよ、そして上流階級は汚らしい農民なんかと一緒くたに扱われているのだ!(後略)」 (拙訳)

 Commarin伯爵のこの発言の意味する処は、詰まるところ、フランスは法治主義の国家と変貌し、人民は基本的には平等に法の支配を受ける事になったのである。その事に、Commarin伯爵は異議を唱えており、勿論これは創作であるのだが、法治国家を理解する事が困難であった貴族が実際に存在していたからこそのガボリオによる皮肉だろう。 このCommarin伯爵は貴族の没落の原因を理性的に語ったり、自由主義に貴族の血統の者がかぶれる事に嘆いたり、中々、旧弊貴族のカリカチュアとして描かれていて面白い。幾らか誇張して描かれているであろうにしても、この様な社会制度の変革の実情を知る事が出来るのはやはり古い小説ならではの魅力である。

 今回この『ルルージュ事件』は英訳版"The Lerouge Case"を読んだ。英語原著の小説を英語で読むならまだしも、仏語のモノの英訳版を読むとは我ながら無駄な事をしたものである。どうやらグーテンベルグプロジェクトの物である様ではあるが、これが良い訳であるかどうかも良く分からない。これというのも国書刊行会が『ルルージュ事件』を電子書籍化してくれていないのが全て悪い。早く全ての書籍がkindle版でも提供される時代になって欲しいものである。まあ英語版は価格的には破格の安値なので、お得に読みたい人には向いているかもしれないが、仏語版ならpubrlc domainで只である。仏語も勉強してみたい気持ちになってきた。

The Lerouge Case (English Edition)

The Lerouge Case (English Edition)

 

*1:死刑廃止の理論的根拠には様々なものが存在するが、冤罪が存在するという厳然たる事実もその根拠の一つ足り得るだろう。権力の無謬性を信ずる事は到底不可能である。