(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『長いお別れ/ロング・グッドバイ』 レイモンド・チャンドラー

 翻訳ものはとりあえずやめておくと書いたけれども、最近、レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ/ロング・グッドバイ』を読んだので、覚書。『長いお別れ/ロング・グッドバイ』としたのは、つまるところ、清水俊二氏の訳と村上春樹氏の訳と両方を読んだのである。まぁ英語なので頑張れば原著も読めなくはないかもしれないが、頑張る気力は当然ない、のでまぁこの2種類の邦訳を読んだということで満足しておこうと思っている*1

 この本も東西ミステリーベスト100に入っていたのであるが、読んだところどこが推理探偵小説であるのかさっぱり分からなかった。選者の方々は海外の評判に只々従って特別推理探偵小説でないものをベスト100のうちに入れてしまったのだろうか?これに関しては理由がまるで見当がつかない*2。江戸川乱歩が『幻影城』で書いていたように、どうも自分にとってはハードボイルドものというものを推理探偵小説として受け入れるのは困難である。まぁもちろん有名な小説だけに読んでいて特別退屈するということもなく一応2種類の訳を読んでしまった訳であるから、悪いお話ではないとは感じるのであるが、一般に日本人が推理探偵小説に期待する妙味というものはやはり皆無であると思う。

 江戸川乱歩はチャンドラーやハメットに代表されるハードボイルドものに関して、『幻影城』中の「二つの角度から 探偵小説変遷史の一考察」において

 この探偵のタフということが次第に倫理性を欠くが如き方向を採って行き、現在のハードボイルド派作品は犯人以外の登場人物までも殆んど倫理観を持たず、探偵や警官さえも含めて、朝も酒、昼も酒、酔っぱらいによる失策続出の奇妙な犯罪捜査がつづけられる。男女関係も極めてルーズで、探偵と女性被疑者との接吻などは朝飯前である。酒と女と殺人、この 三つのものが凡て享楽として取扱われ、そこにあるものは、もはや謎と推理の興味ではなくて、全く別の面白さである。

と評しているが、まさにその通りで、なんというか、脈絡もない。本作でも主人公のマーロウは良く分からないうちに、酔っ払いと仲良くなり、逃亡を手伝い、警察に殴られ、ヤクザを殴り、美人と仲良くなり、作家を助けて、飲みまくり、作家を罵り、作家が死んで、なんとなく美人とセックスをして、すでにお別れを言った元友達と会う。筋も別にはっきりしないし、話もだらだらと続くのだが、案外読ませるのは訳の力か、原文の力か。アメリカでは本格推理小説は絶滅に瀕し、ハードボイルドしか残っていないと聞いたが、何か特別な事情でもあるのだろうか? 少しばかりアメリカで暮らしたくらいでは分からないのかもしれない。

 推理探偵小説として本作は今一つの感がのあるのだが、描写や科白はひたすらに無駄にカッコイイ。特に以下の有名な2つの科白のためにだけでも読む価値があるかもしれない。

  1つ目は

“I suppose it’s a bit too early for a gimlet,” he said.

―「ギムレットにはまだ早すぎるね」と、彼はいった。(清水訳)

―「ギムレットを飲むには少し早すぎるね」と彼は言った。(村上訳)

 小説の終わり頃に、主人公に向かって友人が言う科白。これだけだと、まぁただ、酒を飲むのには早すぎるというだけなのだが、この比較的長い小説を最後辺りまで、読んでこの科白が出てくると何とも言えないやるせない空気が醸し出される。 小説内ではギムレットはジンとライムジュースの1:1で作ると書かれているが、現在はジン3:ライムジュース1の方が一般的なようである。実際にこの小説に触発されて4、5軒のBarでギムレットを飲んでみたのだが、これはなかなかに美味しいし、店によって苦み甘みが違ってかなり楽しめるし、それについでにこの小説の蘊蓄を語って顰蹙を買うことすらできる。

  2つ目は

To say goodbye is to die a little.

―さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ。(清水訳)

―さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ。(村上訳)

 心に小さな傷を感じる別れの場面での科白である。清水訳と村上訳ではニュアンスが異なるので、さてどちらが実際の意味に近いのだろうかと考えてみた。小説内では、フランス人はこういう時にぴったりの言葉を知っていると言って、上の科白が出てくるわけなので、ではその元々のフランスでの言い回しはどういうものだったのか?を調べてみようと思い、便利なgoogleで調べたところ、下記のblogに行き当たった。

furansu-go.com

 詳細な解説は当該blogを読んで貰えば分かると思うのだが、 「"Partir, c'est mourir un peu."―去ることは少し死ぬこと 」というのが元々の言葉でフランスの詩に出てくるようだ。英語に訳すると"To leave is to die a little."なので、まさにそのままである。つまり元の言葉がこのような意味であるから、やはり決め科白の"To say goodbye is to die a little."は、「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ。」という村上春樹訳の方がニュアンスが正しい気がする。"Long goodbye"は永いお別れ=死別であり、普通のお別れ=少しの死ということなのかもしれない。小説中では警察以外とは、別れたのち誰とも二度と出会わなかったのではあるが。

 清水訳と村上訳はかなり言葉の訳し方に違いのある部分があり、読み比べてみるのはなかなか面白い。Web上での評判では清水訳の方が人気があるようであるし、私も清水訳の方が好みである。清水訳は職業翻訳家の手によるものであって、原語のニュアンスを巧く訳することに成功しており、不自然な所がなく読みやすい。いわゆるハードボイルドの香りはこの人の訳によるものだろう。しかし、村上氏が後書きで述べているように、なぜか原文の一部が訳されていない。ところどころのセンテンスが飛ばされているのである。そういう部分を確かめるには村上訳はいいし、そして原著を読むのが一番良いと思う。

長いお別れ ハヤカワ・ミステリ文庫 HM 7

長いお別れ ハヤカワ・ミステリ文庫 HM 7

 
ロング・グッドバイ フィリップ・マーロウ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ロング・グッドバイ フィリップ・マーロウ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

*1:結局、原著も購入してしまった。読み通してはいないが、今のところ意外と読みやすく、この辺りがアメリカで人気の理由なのかもしれない。

*2:同様に夢野久作のドグラ・マグラが選ばれている理由も判然としない。あれは一種の観念小説というか、唯脳論への反駁仮説というか、まぁ色々をごっちゃにした面白い小説であるが、推理小説的要素は薄いと思う。