(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

“The Greene Murder Case” S. S. Van Dine (『グリーン家殺人事件』 S・S・ヴァン・ダイン)

 陰鬱な館に潜む悪意

 相変わらず、江戸川乱歩の『悪人志願』を読んでいる、のだが、ネタバレのせいでヴァン・ダインに関する随筆が中々読めなかった。それが理由でまず“The ‘Canary’ Murder Case”を前回読み終えたのだが、実は、同じ随筆の中で“The Greene Murder Case”のネタバレも行われていて、これを読まずには前に進めない。と言う訳で“The ‘Canary’ Murder Case”に続くPhilo Vanceシリーズ第3作目の“The Greene Murder Case”(『グリーン家殺人事件』:1928年)を読んでみた。勿論、「乱歩の随筆をネタバレなく楽しむため」というのが本作を読んだ理由であったのだが、前作がかなり面白かったので期待して読んだ処もあり、実際期待を裏切る事の無い名作であった。

 Greene家で深夜、令嬢二人が銃で襲われ、一人は絶命、もう一人も銃創を負うという事件が起きた。Greene家の現在の当主、Chester Greeneはどうやら何かに勘付いている様で、Markham検事に直接事件捜査を依頼しに来る。偶然、同席したVanceは事件に嘴を突っ込み捜査に加わるのだが、彼の悪い予感通り、事件は一筋縄ではいかず、Greene家の人々が次々と何者かに葬られていく。さて、Vanceは犯人を特定する事が出来るのか?と言う、お話である。

 まず、読み終わったおかげで、ネタバレ回避の為に読まずに放置していた乱歩の随筆「ヴァン・ダインを読む」も読む事が出来た。そこでの乱歩の感想が、振っている。

 併し、既読二冊にて申せば、読後の不満は犯人が余りに早く推察されることです。
 「カナリヤ事件」では第一日の現場描写の所で、既に作者の隠している意図が分り、犯人が推定されるし、(但し、作者の示した手係りにて当然分るのではなく、作者の書き方にて、作者の意中が推察出来るのです。これは一層いけないことだと存じます)「グリイン事件」でも最初から作者の考えが分ります。これは大衆的興味からは寧ろいいことかも知れませんが、全体が非大衆的なのだから、この点も非大衆的であり度いと存じます。犯人が目星がついている為に、冗漫な部分が余計冗漫にも見える訳です。
-「ヴァン・ダインを読む」(『悪人志願』 江戸川乱歩)

 乱歩先生の流石の推理はもうまるで2サスを見ながら犯人アテをする暇人の如く、論理と懸け離れた推理探偵小説愛好家視線による狡い推理である*1。これは推理探偵小説の構造的な問題で、こういう読者の裏をかくためにクリスティーなんかが色々と引っ掛け紛いのトリックを産み出して、一部の推理小説作家がもうちょっと理知的な推理小説を称揚したいとか何とか言っていた訳だが、まあ乱歩先生に掛かっては仕方が無い。そもそもヴァン・ダインのお話なんかは乱歩が好む雰囲気重視物語重視の推理探偵モノであってクイーンだとかオースティン・フリーマンとかみたいな所謂の本格推理物でも無いのだ。

 ヴァン・ダインの雰囲気重視の推理探偵物語の中心に鎮座ましますのは名探偵かつ自由人のPhilo Vanceである。そして、Philo Vanceのその外連味溢れる活躍は今回も健在で、色々と自由気儘にかっ飛ばしている。前回同様“Bye-the-bye”とか“Markham old dear”とか色々とふざけた調子なのだが、それに輪を掛けて強烈なのが、蘊蓄披露であって、例えばこんな調子である。

“(前略)It’s a mistaken idea, don’t y’ know, to imagine that a murderer looks like a murderer. No murderer ever does. The only people who really look like murderers are quite harmless. Do you recall the mild and handsome features of the Reverend Richeson of Cambridge? Yet he gave his inamorata cyanide of potassium. The fact that Major Armstrong was a meek and gentlemanly looking chap did not deter him from feeding arsenic to his wife. Professor Webster of Harvard was not a criminal type; but the dismembered spirit of Doctor Parkman doubtless regards him as a brutal slayer. Doctor Lamson, with his philanthropic eyes and his benevolent beard, was highly regarded as a humanitarian; but he administered aconitine rather cold-bloodedly to his crippled brother-in-law. Then there was Doctor Neil Cream, who might easily have been mistaken for the deacon of a fashionable church; and the soft-spoken and amiable Doctor Waite. . . . And the women! Edith Thompson admitted putting powdered glass in her husband’s gruel, though she looked like a pious Sunday-school teacher. Madeleine Smith certainly had a most respectable countenance. And Constance Kent was rather a beauty—a nice girl with an engaging air; yet she cut her little brother’s throat in a thoroughly brutal manner. Gabrielle Bompard and Marie Boyer were anything but typical of the donna delinquente; but the one strangled her lover with the cord of her dressing-gown, and the other killed her mother with a cheese-knife. And what of Madame Fenayrou——?”
“Enough!” protested Markham. “Your lecture on criminal physiognomy can go over a while.(後略)”

  犯罪者は見掛けに依らないと言う事を述べる為にざーーーっと一見善良に思えた過去の犯罪者達*2を列挙する訳なのだが、この面倒臭い野郎な感じが堪らない。合いの手のMarkham検事の「もう十分だ!」という叫びが見事なコントである。

 勿論Vanceの蘊蓄脱線はこれだけに留まらない。物語終盤にて、写真と絵画の相違に関する芸術論を延々とぶちかまし、偶然に頼った犯罪と綿密に計画された犯罪をそれらになぞらえるのである。小説中これを聞かされているMarkham検事はうんざりとしている。そして、これには流石の乱歩もやや食傷気味だった様で、随筆「ヴァン・ダインを読む」中でやや腐している。まあ、とは言っても、このわざと鼻に付く感じに仕上げている処がVanceの魅力を倍倍倍に増幅しているのであって、これ無しにはPhilo Vanceモノとして物足りなくなってしまう。現状Vance中毒中の私としては、読んでいておおVance節大爆発だな、とやんや喝采したものである。

 さて、この様な蘊蓄振りを読んでいると、はて、これもどこかで見た事が読んだ事があるぞ、と、記憶の彼方から蘇って来るモノがある。前回、VanceがPatrick Janeを思い起こすと書いたけれども、この部分はJaneでは無い、そう、小栗虫太郎が生み出した、かの名探偵・法水麟太郎と彼を活躍?を描いた『黒死館殺人事件』である。この小説の最大の特徴は法水麟太郎の留まる処を知らない蘊蓄披露である事は、読んだ事のある人であれば異論の無い処であろう。その大量の衒学的知識が左程事件解決に役に立っていないのが『黒死館殺人事件』のある意味本当に素晴らしい処で、一応、知識がそれなりに役に立っている様にも思える“The Greene Murder Case”とはやや違うのだけれども、この小説に於ける蘊蓄がどんどん肥大していって行き着く先に黒死館が待っているのだろう。

 この怒涛の蘊蓄披露で『黒死館殺人事件』を連想した訳であるが、こうやって連想してみると、そこかしこに共通のモチーフが存在する事に気付いた*3。例えば、Greene家の人々は先代Tobiasの遺産を手に入れるためには遺された洋館に住み続ける事が義務付けられているのだが、これをもっと厳しい条件に変更した物が黒死館に於ける4人の楽士の立場となる訳である。そして、両事件に於ける真犯人の特徴がほぼ合致している処などは似過ぎていると言っても言い過ぎではないだろう。更に、名探偵役が連続殺人の抑止にまるで役に立たなかった処などはある種窮極の喜劇的な類似である。最初に『黒死館殺人事件』を読んだ時にはこんな不思議な迷走物語をどのようにして思い付いたのかと不思議に感じたものであったが、この“The Greene Murder Case”という跳躍台が存在しており、この跳躍台を以ってして小栗虫太郎はあの様な摩訶不思議な迷作を生み出す事が出来たのだと納得した。

 この小説が紛れもなく影響を及ぼした超傑作探偵小説が他にもある。それはかのクイーン(ロス)の名作『Yの悲劇』である。勿論、クイーンはそのまま種を利用した訳では無く、巧みに美味しく料理し直している訳であるけれども、本作の影響無しにあのお話を考え付いたとはとても思えない。上の方で書いた通り、ヴァン・ダインはトリック自体に凝るタイプでは無いので、本小説のトリックもそれ自体はそこまで良く出来たものではないし、乱歩もその既存のモノの組み合わせ感をやや批判しているが、『Yの悲劇』にも使われたこの設定はその批判を上手く躱す要素になっていると思う。やはりヴァン・ダインはプロットがずば抜けて巧い。

 ヴァン・ダインによるPhilo Vanceシリーズの3作目この“The Greene Murder Case”はVance節全快の素晴らしい傑作であった。プロットは勿論、屋敷の雰囲気作りも巧いし、脇役の個性も中々光っている。こうなってくると否応無しに次作『僧正殺人事件』への期待が高まってくる。今回この小説は下に示したkindleのVan Dine全集で読んだ。少なくともこの全集は図入りである。繰り返しになるが、図入りの物を探した方がお話をより楽しむ事が出来ると思う。

*1:因みに私もかつて横溝正史の『八つ墓村』の映画版を見ている時に最も有り得なさそうな人が犯人だろうと考えて予想した処、勘が当たった事がある。この手の推理はあんまり意味の無い犯人当てであるとは思うけれども、しばしば推理小説の犯人当てには上手く行ってしまう。

*2:これらの犯罪者達は調べた限り全て実在の犯罪者である。ヴァン・ダインの面倒臭い野郎感も伝わって来るのだが、それも又堪らなく良い。更にGreene家の開かずの間の図書室に於いて確認された犯罪学書のリストも小説内の注釈で列挙されている。はっきり言って相当語学力がないと、タイトルを追う事すら難しい。こちらも恐らく実在の書籍群であろう。ヴァン・ダインの知識披露欲ここに極まれりである。

*3:これを書いた後にwikiを閲覧してみたのだが、それによると『黒死館殺人事件』でこの“The Greene Murder Case”のネタバレがされているらしい。2回程読んだ筈なのだが、全く記憶に残っていなかった。記憶力が貧弱な事は推理探偵小説愛好家に取っては得な事が多いかもしれない。

“Through the Language Glass: Why the World Looks Different in Other Languages” Guy Deutscher (『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』 ガイ・ドイッチャー)

 言語を通して、我々は世界を見ている

 最近、英語の語彙を増やすためと長文を読む体力を付けるために英語の書籍を読むようにしている。推理探偵小説は興味が先行するので英文でも非常に読み易くて既に何冊か読む事に成功したが、ここで友人に薦められた色の認知と言葉に関連する書籍、“Through the Language Glass”(2010年)を読んでみた。

 薦められた切欠なのだが、どういう訳か色の認識が、国に依ってまた時代に依って異なるという話をしている時に、そう言えばホメロスは地中海を葡萄酒色だと言っていたという話になってこの本を薦められたのは覚えている。どうしてそういう会話になったか?の方が恐らく重要な情報だったような気がするのだが、もう覚えていない。

 ホメロスのワイン色の地中海の逸話は非常に有名で、例えば北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』にこういうお話が出て来る。

 パリで友人のTと会ったとき、「ギリシャの海を見たかい? 葡萄酒色をしているだろ。ホーマーにある通りだよ」という話がでた。そりゃ赤潮か何かじゃないかと言うと、いや、そんなヤッカイなことは俺は知らぬがたしかに葡萄酒色だと彼は頑張る。私は帰途ギリシャの下あたりを通るときずいぶん注意していたが、ついにそんな海の色にはお目にかかれなかった。
-『どくとるマンボウ航海記』 北杜夫

 このお話を最初に読んだ時は、ホメロスは海の色を詩的に表現していただけだろうと思い、あの描写を真に受ける人が世の中には居るのかと面白く感じただけで、別に深くも考えていなかったのだが、どうやら話はその様な単純な物ではない様だ。

 例えば虹は今では一般に7色という事になっているが、その色の境目はどこなのか?5色にしか見えないという事もあるだろうし、もっと多色に見える事もあるだろう。例えば日本では信号の色を青と赤と表現するが、青信号は実際には緑にかなり近く見える。このずれはどこから生じているのか?

 本書"Through the Language Glass"は、この様な色を巡る様々な疑問に答え、更に、言語と文化に関する深い考察を提示してくれる非常な良書である。

 最初に話題になるのが、上述した、ホメロスの描いた葡萄酒色のエーゲ海である。この描写を単なる詩的表現だとは納得しなかった大人物が存在して、それがかの英国の大政治家Gladstone*1である。Gladstoneはホメロスは詩的にエーゲ海の色を葡萄酒色と表現したのではなく、実際に葡萄酒色と認識していたと主張する*2。彼は『オデュッセイア』と『イーリアス』中の色表現を調べ、黒が約170回、白が約100回、赤が13回、黄が10回、そして紫が6回で他の色はこれよりも少ない事を確認した。そしてGladstoneは古代の人々は自然界を主に白黒で表現していたと結論付けたのである。この一見突飛な考え方は後に様々な文化人類学的調査によって実際に、文化が原型的に留まっている場合には文化に於ける色の数は少なく、文化の近代化と共に、最初に黒白それに加えて赤、そして黄色と緑、そして更に他の色、と云う具合に色認識が増えて行く事が明らかになったのである。重要な事は視覚認知としては弁別できるのだが、文化的に色を区別しないという事である。最初の例で言えば、海の色は黒でも白でもないために赤、即ち葡萄酒色と表現される事になる。因みに色がどの民族においても同様の区分と複雑化の傾向を持つ要因として、自然界に存在する実際の色の意味合いと頻度、そして人間の3種類の視細胞*3の色指向性が挙げられている。

 Deutscherはこれらを「自然界と生物的な制約の下で文化が色の境界を定めている」と纏めている。これが前半部分“Language Mirror”のお話である。

 後半は言語に依る行動や習慣への影響について述べている。ここで前提として重要なのが、20世紀初頭に注目を集めたらしい「サピア=ウォーフ仮説」と云う仮説は基本的には誤謬であるという前提である。「サピア=ウォーフ仮説」が提唱した概念とは、例えば「未来形が存在しなかった場合、その言語を使用する人々には未来の概念が存在しない。」といった、言語の特徴が人の思考様式に制約を掛けるというモノである。本書を読む限り、ウォーフの理論には穴が沢山存在するし、論理的帰結として導かれている訳ではない。そして、この概念/仮説はその後の様々なフィールドワークや調査や比較研究によって誤謬である事が確認されている。さて、この大前提を踏まえた上で、著者のDeutscherは幾つかの、影響は小さく、知的思考能力に影響を与えるとはとても言えないが、確かに言語的特徴が行動や慣習に幾らかの影響を与えている例を幾つか紹介している。

 まず1つ目、例えば、アボリジニの一部の部族やインドネシアの一部の人々は空間的位置関係を説明する時に常に絶対座標を持ちいる。我々が例えば右手左手と述べる処を西の手・東の手と述べる訳である。当然、体の向きが変われば西の手が南の手になる事もあれば東の手になる事もある。この様な座標系に暮らしている人々は文化的にその居住地との結び付きが強い事が容易に想像され、原型的な大地と人類の混淆という処に想いを馳せてしまう。

 2つ目の例としては、言語上のジェンダーが話者のその対象への印象に幾らかの影響を与えるという話である。例えばドイツ語やスペイン語では無生物の事物にも言語上の性が存在する。そして、話者はその言葉が例えば男性名詞であるか女性名詞であるかによって言葉への印象が左右されるというものである。

 3つ目の例は、再び色の話である。例えば日本の青信号が何故緑か?という最初の方で書いた疑問があるのだが、前半部で示された通り、青と緑が明確に区別される様までには時間が掛かる。“Green”信号が日本に導入された当時には日本人はその色合いを「青」信号と表現する事に違和感が無かったようだ。面白いのが、現在日本では当然多くの人々が「青」信号が緑色であるから変に感じる。その為に日本の「青」信号は世界の規格で許される範囲で最も青い色になっているとの事である。これは確かに言語が周り回って社会に影響を及ぼした例と言えるだろう。色の話はもう一つあって、ロシア人の場合、青の明度の弁別速度が、文化的に青の明度を区別しない人々よりも、統計的有意に速いとの事である。まあこれもトリビアルな感は否めないが、言語が認知に影響を与えている確かな例である。

 これら3つの例が後半部分の“Languarge Lens”になる。つまり言葉という眼鏡を通して見る世界といった感じか。

 以上の様に、Deutscherは様々な前提となる制約の下、文化が言語へ影響を与える事を示し、そして、その言語が人々の行動や慣習に幾らかの影響を及ぼす事を明示した。これらの事はまあトリビアルといえばトリビアルかもしれないが、どんな物事でも突き詰めて調べていくというのは本当に面白い事なのだな、と改めて感心した。

 そうそう、本書を読む際には以下のshorebird氏のblogの記事も非常に参考になると思う。

d.hatena.ne.jp このblogの書き手shorebird氏はこの分野にも詳しい方の様で、他の記事も読む事で、言語文化関連の現状把握がより深まる様に思う。そして、このblogで再三取り上げられているSteven Pinkerの本は非常に興味をそそられるし、そちらもしっかりと読んでみたくなって来た。

 この様な、英語圏の前線の科学者による一般向けの書籍を読むたびに、欧米の研究者は一般向けに高度な研究内容を平易な形で提示するのが非常に巧いなといつも感じてしまう。日本の場合だと噛み砕き過ぎてなんだか良く分からない書物になっている事が多い。日本の研究者にも頑張ってほしい処である。

Through the Language Glass: Why the World Looks Different in Other Languages

Through the Language Glass: Why the World Looks Different in Other Languages

 

*1:“The Big Bow Mystery”にゲスト出演したかの人である。何度となく英国首相となったのみならず、ホメロスの著作を研究するのみでほぼ完璧に古代の色認知に関して推察を成功させたのであるから、一種の天才だったのだろう。

*2:ホメロスは盲目であったという伝承も存在するが、それはそれだとしてもホメロスの時代の地中海の人々が海を葡萄酒色と認識していたという仮説である。

*3:世の中には2種類しか持たなかったり、更に頻度は少ないが4種類持つ様な人も存在するのだが、ほとんどの人々は青(420nm)、緑(534nm)、赤(564nm)、それぞれの波長帯域に反応のピークを持つ異なる3種の錐体細胞を有している。

“The ‘Canary’ Murder Case” S. S. Van Dine (『カナリヤ殺人事件』 S・S・ヴァン・ダイン)

 誰もがみんな嘘吐き野郎

 最近、江戸川乱歩の『悪人志願』を読んでいる。江戸川乱歩の随筆集というものは非常に面白くて、失礼ながら、氏のイマイチぱっとしない作よりも随分面白い。自作解説から様々な推理探偵小説界の雑感、日本の推理探偵小説同人の逸話、等、読み所が満載である。しかし、一つだけ非常に読んでいて困る処がある。それは何かというと、以前『幻影城』を読んでいた時にも経験したのであるが、乱歩先生は容赦なくネタバレを書き記すのである。ちょっとネタバレだとか仄めかすとかいう程度ではなく、しっかりと解説してしまう。これは中々困った話であって、その対象の作品が、既に読んでいるものであればまあ良いのだけれども、未読の作品であれば、読者としては非常な窮地に立たされる。親切な事に、『悪人志願』ではそれぞれの随筆やら作品解説らの初頭に「ネタバレ危険」の注意書きがある。それの御蔭で読者は難を逃れる事が可能になるのである。

 さて、これが今回私がヴァン・ダインの“The ‘Canary’ Murder Case”(『カナリヤ殺人事件』:1927年)を読んだ理由である。つまり、『悪人志願』を読んでいると、この『カナリヤ殺人事件』ネタバレ警報に出くわしたのだ。

 こんな不純な動機で読み出したのであるが、これが中々の名作だった。一見密室状態の部屋でブロードウェイの歌手が絞殺されるが、当然誰かがその密室に入りそして密室から出て行かなければならない訳である。勤勉な警察は事件の解決に向けて苦戦する訳であるが、そこに登場するのが、Philo Vanceという高等遊民兼素人探偵の変人である。

 探偵小説というものに於いては、どの作者もその主人公たる探偵の造形に非常な気を配るものだと思う。現代において一番有名な探偵と言えば勿論シャーロック・ホームズでそれにデュパンやポワロが続く感じだろうか。日本ではこういうやや変わり物で天才肌系の探偵が好まれる感があると思う。勿論天才肌の探偵にも色々と種類があって、デュパンなんかは完全に頭脳演繹型でやや安楽椅子探偵的な所もあるが、ホームズやポワロは実地調査も怠らない手足も動くタイプの探偵である。より現実的で堅実で科学的な探偵としてはソーンダイク博士がいるし、頭脳型の筈がまるで人を救えない金田一耕助なんかもいる。

 その先行する探偵像と比べてもヴァン・ダインが生み出したこのPhilo Vanceという奴は相当に人物造形が非常に良く出来ている。この人物は今の処、私の中ではソーンダイク博士の対極に居る存在である。と云うのもソーンダイク博士は真面目で、誠実で、非常に慎重で、科学的で、何よりも物証を重んじる人間であったが、この小説の探偵Philo Vanceは全く違う。しょっちゅう韜晦するし、中々心が読み辛いし、何と言っても不真面目な薫りがする。いつも科白の最後に“Don't y' know”、“What?”と付け足して妙に嫌な喋り方をするのだが、これが又癖になる嫌さでとても良いのである。 果てさて、この不真面目な薫りは何処かで嗅いだ記憶があるぞ、と思えば、これはあれだ、“The Mentalist”である。アメドラには探偵モノがしょっちゅう出てくるのだが、大体の処、やや異能者的な人々が、官憲を助ける形になる。その官憲を助ける人々にも違いがあって、まあ、科学的捜査だとか、確率統計を用いるだとか、骨を鑑定するとか、色々ある訳であるが、それらの中に私の非常に大好きな異能者がいて、それがその“The Mentalist”での探偵役であるPatrick Jane*1である。このPatrick Janeは心理的洞察を以って犯人を推理するのだが、いつもおどけてふざけている。まあ見た目が良いし人当たりも良いので女性受けは頗るよい。このPatrick Janeに本小説のPhilo Vanceは非常に似ているのである、いや、JaneがVanceに似ていると言った方が正しいか。“The Mentalist”を見ている時はメリケンは面白い人物造形するものだな、と思っていたが、今から思えばPhilo Vanceから着想を得たのであろう。

 Philo VanceのアプローチはJane同様、物証よりも心象である。ここがホームズやらポワロやらとそしてソーンダイク博士と決定的に違う所である。例えば以下の様な事を言う。

“But as I have stated before, when material facts and psychological facts conflict, the material facts are wrong.(略)”
「でも、前にも言ったように、物理的な事実と心理的な事実が矛盾する時は、物理的事実の方が間違ってるのさ。(略)」(拙訳)

 この様な具合であるからVanceは物証から簡単に演繹されるような物語を易々とは信じ込まない。であるからして、Vanceに信頼を寄せるMarkham検事は外面的な仮説が成立してもその捜査を安易に切り上げる事はなく、Vanceが納得するまで粘り強い捜査を続ける。そしてその内に、最初には一見整合性の有った物語が徐々に変容して行くのである。この小説の推理小説たる肝は登場人物達の証言であろう。推理小説に於いては、登場人物達が真実を語るとは限らないのは当然なのであるが、それにも程度という物があって、この小説の様に皆が皆べらべらと嘘を吐きまくると云うのは、これはこれで異質な感がある。Vanceが物証より心理を重視するが為に、彼らの誤魔化しは整合性があっても露見していくのであるが、誤魔化す前の物語にも、誤魔化した後の物語にも、それなりの整合性があるという処が不思議な並行世界を見ているようで面白い。

 又、心理捜査の見せ場として、物語の終盤に、Vanceは犯人を特定するために、心理テストとしてpoker(誰もが知っている、トランプを使ったゲーム)を行う。犯人はpoker(火掻き棒)を宝石箱をこじ開けようとするのに使っており、この事実もVanceが犯行現場の不自然さに気付いた理由の一つであって、pokerでpoker使いを捕まえると云う言葉の合致が妙に洒落が利いていて何となく心地が良い。この推理小説は随所にこの様な微妙な洒落が利いていて堪らない。

 『カナリヤ殺人事件』のトリックその物はそこまで良く出来たものではない。密室トリック自体は私の嫌いなタイプのモノだし、アリバイトリックも同様に私の嫌いなタイプのモノである*2。しかし、トリックよりも何よりも心理捜査というかなり際どく難しい所に敢然と挑戦していったヴァン・ダインの勇気が素晴らしい。Philo Vanceのやる気の無い様な、冗談ばかりの様な、それでいて観察力に秀で、心理洞察に優れる、このキャラクターは日本でもっと人気が出ても良さそうなキャラクターだと思う。私はこの小説を読んだだけでかなり惹き付けられてしまった。これからVanceものをどんどん読んでいく積りである。

 今回私はkindleのVan Dine全集物で読んだのだが、購入するには少なくとも下に紹介したものをお勧めする。と言うのも、私は最初別な全集物を購入したのだが、推理を楽しむ助けになる見取り図が含まれていなかった。下に紹介した全集にはちゃんと図が収録されている。他にも図入りの物はあるかも知れないが、review等を確認してから購入するのが無難だと思う。

 

*1:元々詐欺師でインチキ霊能力者をやっていたので心理洞察に非常に優れているという設定である。サーカス育ちの孤児でもあるが、同時に多くの教養も備えている。

*2:途中から悪い予感がしてきて、まさかあれを使ってるんじゃ無かろうな?と不安になって来たのだが、その悪い予感は的中してしまった。