(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『歴史』 ヘロドトス 松平千秋 訳

 独裁制と民主制の戦い:ペルシア戦争を巡る一大歴史叙述

 歴史に関する書物は中々面白いものが沢山ある。私は子供の頃から歴史関係の小説はかなり好きであった。『三国志演義』に始まり、『水滸伝』(歴史物では無いか)、陳舜臣の『十八史略』、山岡壮八の『徳川家康』、司馬遼太郎の色々な小説等を結構読んだのを覚えている。勿論この辺りの物は創作の歴史小説であって、きちんとした史書では無いから作者の好みや演出が多分に介入している訳であるが、そうは言っても相当面白い。きちんとした歴史研究文献は勿論碌に読んだ事がないので、それらがどれくらい面白いのかは良く分からないけれども、それはそれできっと随分面白いだろうと思う。まあ、きちんとした歴史書と言っても、古代のものになれば創作の入った記録と純然たる事実の記録との境目を明確にする事は中々困難ではないかと想像する。

 今回読んでみた、ヘロドトスの『歴史』はその古代の歴史書になる。これは歴史書に分類されるの最初の物だという事になっているらしいのだが、当然、現代に於いては、ここに書かれている諸々の出来事の総てが事実を完璧に反映していると思って読んでいる人は皆無であろう。今回は岩波のkindle版で読んだのであるが、事実と思われている事と、現代では事実とやや異なると思われる事に関して相当量の充実した注釈が存在していて、やはり、今の所電子書籍では岩波文庫の出来が良いな、と改めて認識した。注釈は全てを確認した訳では無いのだけれども、その量にして本文自体の3分の1くらいはあるのではないかと思う。現代に於いては、様々な名称等が変わっていたり、明らかにヘロドトスの誤解であると分かっている事などもあるし、時々挿入される地図や、人物の歴史的背景、系統図等はこの一大歴史記述を理解するための大きな手助けとなる。kindle版にする際に、著者とは別に注釈者からも電子書籍化の了解を取るのが手間なのかもしれないが、書籍版には存在する解説や注釈が電子版では割愛されていると云うパターンを良く目にするだけに、岩波がこの手の労を惜しまない所は、やはり、文芸の振興へその力を投入し続けてきた出版社だけの事はあると思う。

 さて、この歴史大書、ヘロドトスの『歴史』であるが、一度は読んでみるべき書物として様々な処で紹介されている。『歴史』という書物名であるが、世界の歴史を叙述した歴史書と云う類の物ではなくて、基本的には紀元前450年頃に起きたペルシア帝国によるギリシア侵攻、所謂ペルシア戦争に関する記述と、ペルシア帝国を中心としたそれらに関係する国々の風土記から成っている。ペルシア帝国に関してはメディアやリュディアにまで遡り、その成立過程も詳しく記載されている。読み始めてみると、訳の平易さもあるのだろう、さらさらと読み進める事が可能で、昔に『三国志演義』を読んだ感覚を思い起こさせるものがあった。

 歴史叙述なので勿論様々な物事が記述されているのだけれども、その記述の根底に二つ程ヘロドトスの強い思想が伺える。一つは盛者必衰的な思想である。そして、もう一つが、民主制と独裁制の比較に於いて、ヘロドトスが自由と民主制を圧倒的に支持しているという明確な姿勢である。

 まず最初の盛者必衰の理に関してであるが、以下の様に何度かその事が示唆される。リュディアの王クロイソスがソロンに誰が世界で最も幸福か?と尋ねたときに、ソロンが答えて言うには、

どれほど富裕な者であろうとも、万事結構ずくめで一生を終える運に恵まれませぬ限り、その日暮らしの者より幸福であるとは決して申せません。(中略)神様に幸福を垣間見させてもらった末、一転して奈落に突き落とされた人間はいくらでもいるのでございますから。

勿論、クロイソスはソロンの言葉に耳を傾けないが、結果、波乱の一生を送る事になる。

 また、エジプト王アマシスがサモスの独裁者ポリュクラテスに宛てた書簡には以下の様に記されていた。

万事にことごとく幸運に恵まれるよりはむしろ、成功することもあれば失敗することもあるというように、運と不運をかわるがわる味わいつつ一生を終るのが望ましいように思います。かように申すのも、何事につけても幸運に恵まれた者で、結局は世にも悲惨な最期を遂げずにすんだ例を小生はかつて聞いたことがないからです。

 ポリュクラテスも非業の死を遂げる事になる。

 また、クセルクセスのギリシャ侵攻計画をアルタバノスが諫めて言うには

神は他にぬきんでたものはことごとくこれをおとしめ給うのが習いでございます、(中略)神明は御自身以外の何者も驕慢の心を抱くことを許し給わぬからでございます。

つまり、強者がやがて敢え無く滅びる危険を諭している。このアルタバノスの危惧する通り、クセルクセスのギリシア侵攻は圧倒的な兵力差にも関わらず失敗に終わるのである。

 勿論、歴史的展開に合致するように都合の良い伝承を並べたのであろうが、これらの記載とその提示の仕方から、強者が何時までも強者たる事は無いと云う、ヘロドトスの強いイデオロギーを受け取る事が出来る。

 さて、もう一つの大きなテーマ自由と民主制についてである。ヘロドトスはこの『歴史』中に何度も民主制と自由がギリシアに勝利を齎した事を強調する。

 まず、アテナイでの自由民主制について以下の様に記している。

かくてアテナイは強大となったのであるが、自由平等ということが、単に一つの点のみならずあらゆる点において、いかに重要なものであるか、ということを実証したのであった。というのも、アテナイが独裁下にあったときは、近隣のどの国をも戦力で凌ぐことができなかったが、独裁者から解放されるや、断然他を圧して最強国となったからである。これによって見るに、圧政下にあったときは、独裁者のために働くのだというので、故意に卑怯な振舞いをしていたのであるが、自由になってからは、各人がそれぞれ自分自身のために働く意欲を燃やしたことが明らかだからである。

 他にも以下の様に自由と民主制の強みを記している。

かくのごとくスパルタ人は一人一人の戦いにおいても何人にも後れをとりませんが、さらに団結した場合には世界最強の軍隊でございます。それと申すのも、彼らは自由であるとはいえ、いかなる点においても自由であると申すのではございません。彼らは法と申す主君を戴いておりまして、彼らがこれを怖れることは、殿の御家来が殿を怖れるどころではないのでございます。

御忠告下さるあなたは、なるほど一面のことは経験済みでおられるが、別の一面のことには未経験でおいでになる。すなわち奴隷であることがどういうことかは御存じであるが、自由ということについては、それが快いものか否かを未だ身を以て体験しておられぬのです。しかしあなたが一度自由の味を試みられましたならば、自由のためには槍だけではない、手斧をもってでも戦えとわれらにおすすめになるに相違ありません。

 この様に自由の強みとそれを当時保証した民主制の素晴らしさを高々と掲げているのである。そしてこれらがアテナイを中心としたギリシア連合がペルシアを打ち破った根本にあると考えているのである。ただし、ヘロドトスはこの様に民主制とそれから得られる自由の有難味を賞賛するだけではなく、民主制が孕む問題点も同時に認識していた様だ。ペルシアでダレイオスが王に成った際に、民主制の提案を退け独裁制を採ったのだが、その際に、民主制の欠点としてポピュリズムに陥り易い事、総ての民衆が政治的才能を持っている訳ではない事、公共に汚職がはびこり易くなる事等を挙げている。これらはこの『歴史』中のギリシアの民主制の都市に於いて生じた幾つかの問題であり、民主制自体が常に最善とは言い切れない事をヘロドトス自身も認めているかの様である*1

 これらの民主制の問題点への具体的な解決方法を提示をしてはないのだが、独裁制に於いても同様の欠点が存在する事をヘロドトスは記載し、民主制による自由と法による生活を独裁制の不自由よりもより良い物だと強く主張している。そして生きる動力としての個々人の自我への強い信頼が見受けられるのである。以前にも書いたが、ただ暮らすだけであれば、どんな社会体制を支持していてもそれ程の差はないかもしれないが、私としては独裁者や一部の者に権力を委ねるのではなく、様々な苦労や問題を内包する事を承知の上で民衆による政治が行われるのが理想であると考えている。

 このヘロドトスによる『歴史』は詳細な聞き取りと実際の見聞によって書き記された大著であるが、歴史書として面白い*2と同時に、大きなイデオロギーも提示されている。本書が悠久の時を経て尚、現代に於いても読み続けられているのはその歴史描写の精緻さのみならず、自由と民主制への賞賛が欧米で愛された側面もあるのだろう。

ヘロドトス 歴史 上 (岩波文庫)

ヘロドトス 歴史 上 (岩波文庫)

 
ヘロドトス 歴史 中 (岩波文庫)

ヘロドトス 歴史 中 (岩波文庫)

 
ヘロドトス 歴史 下 (岩波文庫)

ヘロドトス 歴史 下 (岩波文庫)

 

*1:しかも古代ギリシアの民主制は現代の民主主義とはかなり異なっていて、総ての人々が参政権を持つ訳では無いし、当然2級市民や奴隷も存在する。それに加え、記述を読む限り、公正に意見が纏められていた訳でも無さそうである。

*2:自分への覚書として、人物・出来事を記述して置く。

クロイソス:リュディアの王。富貴の印象を代表する人物として後世にも描かれた。ペルシア王キュロスとの戦いに敗れた後は、ペルシア王に使えて助言を行う。

キュロス:ペルシアの初代王。メディアの支配下にあったペルシアを一大帝国に成長させた。メディア王の血筋でもある。犬に育てられた伝説があり、この伝説はローマのロムルスとレムスの伝説に影響していると思われる。

ハルパゴス:メディアの重臣。メディア王に罰として自らの子を食べさせられ、その恨みからペルシアに寝返り、以降、ペルシアの重鎮として活躍する。岩明均の漫画『ヒストリエ』に於ける有名なコマ「ば~~~~っかじゃねえの!?」の人。

リュディア対ペルシア(クロイソス対キュロス):当時、絶頂に有ったクロイソスのリュディアをキュロス率いるペルシアが破り、ペルシアがアジアの覇者となる。

マッサゲタイ討伐(キュロス):ペルシア軍が北方に侵攻した際、深入りし過ぎたためにキュロスは戦死する。

エチオピア遠征(カンビュセス):キュロスの後を継いだカンビュセスはエジプトそしてエチオピアと遠征するが、兵站を軽視したためにエチオピア遠征は不成功に終わる。

ダレイオスとペルシア6重臣:カンビュセスの子を騙る偽物をダレイオスらが討伐しペルシア帝国の実権を手中に収めた。ダレイオスに協力した他の6人はオタネス、ゴブリュアス、メガビュゾス、ヒュダルネス、アスパティネス、インタプレネス。オタネスは民主制を提案し、メガビュゾスは寡頭制を支持し、ダレイオスは独裁制を主張した。オタネスを除く6人で王位を平和的に争った結果ダレイオスが王となった。

スキタイ遠征(ダレイオス):北方のスキタイを討伐するためにダレイオス率いるペルシア軍はヘレスポントスを越えて北へ進軍するが、その作戦は難航する。どうにもペルシア軍は兵站の概念に乏しい様である。この時には下記のヒスティアイオスやミルティアデスはペルシア側に付いている。

ヒスティアイオス:ミレトスの独裁者。ペルシアに協力していたが、その実力を恐れられペルシア王の側に軟禁される。その結果、裏切ってギリシア連合に協力する乱世の奸雄。松永久秀の様なイメージ。最終的には富に目が眩み裏切りに遭って殺される。

アリスタゴラス:ヒスティアイオスの従兄弟。ヒスティアイオスが軟禁されて以降、その代理としてミレトスを支配する。私心からペルシア軍を地域紛争に引き込むが彼自身の目的を達する事は叶わなかった。ヒスティアイオスの命を受け、アテナイに対ペルシアの抗戦を行うよう説得した。因みにスパルタの説得には失敗した。

クレオメネス:長く活躍するスパルタの王。賢王的側面と暴君的側面を持ち合わせる。最期には発狂して自らを剣で切り裂く。

マラトンの戦い(ダレイオス):ギリシア連合がダレイオス率いるペルシア軍を破った戦い。これによって暫くの間、ペルシア軍はギリシアに侵攻しなかった。この時にアテナイ軍を率いていたミルティアデスは先のダレイオスのスキタイ遠征の際にはペルシア軍にヒスティアイオス達と共に従っており、ヘレスポントスの橋を守っていた。それが、今度はダレイオスを打ち破るのだから、正に戦国時代風味である。

クセルクセス:ダレイオスの子、ペルシア王。ペルシア軍を率いてまたもギリシアへ侵攻する。

マルドニオスとアルタバノス:ペルシア軍の重鎮。マルドニオスは6重臣ゴブリュアスの子、ギリシア侵攻を強く支持する。後に敗軍の将となり戦死する。アルタバノスはダレイオスの弟。クセルクセスにギリシア侵攻を思い留まるよう諫言するが、その意見は通らず、諦めて従軍する。基本的に領土拡大に消極的な立場。

テルモピュライの戦い(レオニダス対クセルクセス):スパルタ王レオニダス率いる300人のスパルタ兵が、100万とも言われるペルシア軍と、兵力差を物ともせず互角に戦った激戦。レオニダスを含め300人はほぼ全滅したが、ギリシア侵攻中のペルシア軍の士気を著しく低下させた。ザック・スナイダーの『300』はこのエピソードを映画にしている。

アルテミシオンの海戦:上記テルモピュライの戦いと同時期に起きた海戦。海戦に不慣れなペルシア軍は兵力的には圧倒的に有利であるにも関わらず苦戦した。が、ギリシア連合も相当に消耗し、下記のサラミスまで後退した。

サラミスの海戦(クセルクセス):アルテミシオンでの苦戦は王が現場に居なかったためと考えたクセルクセスは自ら海軍を率いてサラミスの海戦に挑むが、これも敗戦に終わった。この結果、残存兵力は十分であるにも関わらずクセルクセスは戦意を喪失し、後をマルドニオスに任せペルシアに帰国する。

テミストクレス:上記両海戦でアテナイ海軍を率いた。権謀術策を用い、我が身の保全を図りつつも、ギリシア連合の海軍を纏めて海戦での勝利へと導いた。その策を弄し卑怯も厭わない処から、ヘロドトスはこの人物に余り良い印象を持っていない様だ。

プラタイアの戦い(マルドニオス):クセルクセス戦線離脱後もペルシア軍はギリシア征服の望みは捨てていなかったが、結局この戦いで大敗し、事実上の終戦となる。ギリシア侵攻を強硬に主張していたマルドニオスはこの戦いでの大敗のさなか戦死する。

ミュカレの戦い:プラタイアの戦いと同日に起きた戦闘。ミュカレはペロポネソス半島ではなく、小アジアの街であって、つまり、ギリシア連合は遂にイオニアをペルシアから解放する足場を築く事に成功した事になる。

『半七捕物帳』(一) 岡本綺堂

 江戸の名探偵、半七の活躍

 前にも書いたのだが、黒岩涙香が『無惨』を書きその評判が今一つだった後には日本の創作推理探偵小説というモノが中々出てこなかった。快楽亭ブラックが一応推理小説を書いてはいた様なのだが、それも数は多くはない様だし、どちらかと言えば、噺家の印象が強い。そんな創作推理探偵小説空白時代の中、現代では幻想小説的なモノや怪談的なモノ例えば『青蛙堂鬼談』で有名な岡本綺堂が、大正6年(1917年)から『半七捕物帳』を連載し始めた。

 『半七捕物帳』は純然たる推理探偵小説かと言われると、少し趣は異なるのではあるけれども、「捕物帳」と題されているだけの事はあって、それなりに岡っ引きの半七が探偵らしき活動をする。まあ、江戸のシャーロック・ホームズ的な一応の探偵物語と言っても良い短編群なのである。この『半七捕物帳』は頗る人気を博した様で相当な数の短編がこの世に生み出されており、その数、60話以上になる。光文社から全6巻刊行されており、今回はその第1巻を読んでみた。

 まず、その一話目「お文の魂」は、「私(岡本綺堂と同一人物と見て良いだろう)」が「Kのおじさん」から話を聞く形で始まる。この一話目の時点では、語り手は「Kのおじさん」であって、半七の活躍はこの「Kのおじさん」から綺堂が又聞きする形になっている。この回りくどい感じは、恐らく、最初はこの『半七捕物帳』がその話数をどんどんと重ねて行く事を想定していなかったのだろう、二話目からは綺堂が半七から直接その手柄話を聞く形に変更されている。何にしてもこの記念すべき第一話目で「Kのおじさん」は半七を以下の様に描写する。

 笑いながら店先へ腰を掛けたのは四十二三の痩せぎすの男で、縞の着物に縞の羽織を着て、だれの眼にも生地の堅気とみえる町人風であった。色のあさ黒い、鼻の高い、芸人か何ぞのように表情に富んだ眼をもっているのが、彼の細長い顔の著しい特徴であった。かれは神田の半七という岡っ引で、(後略)
-「お文の魂」(『半七捕物帳』)

 この半七がある武家屋敷に現れたお文という名の幽霊と思しき存在の裏を見事に探り当てるのである。幽霊の存在なんかは信じておらず、どこかに何かの繋がりが有ると睨んで足と勘を使っての捜査を行う所が、江戸時代の探偵として描かれていても、その実は明治の近代化の精神が科学的思考が込められている感がある。因みに、綺堂はこれより以前に『お住の霊』という怪談小話を書いており、この「お文の魂」はそれの「幽霊の正体見たり枯れ尾花」的解決でもある。

 半七は残念ながら余り推理は行わない。ここが現代に期待される推理探偵モノとは大きく異なる処ではあると思う。どちらかと言えば、地味な実地検分と鋭い勘に依る閃き、それに加えて、ちょっと狡いのだが、ハッタリと岡っ引きと言う立場を利用したゴリ押しでどんどんと江戸の難事件を解決していく。

 ハッタリで解決した事件の好例として、「勘平の死」がある。半七は酔っ払った振りをして、犯人候補達の前で既に犯人が分かっている事、そして、その罪への罰の酷薄さを長々と説明する事で、犯人を炙り出すのである。これは読んでいてちょっと犯人の気の弱さに飽きれてしまう処も有ったのであるが、大体に於いてこの『半七捕物帳』に登場する犯人達はどうにもそれ程図太くない。簡単にハッタリに騙されるし、簡単におどおどしてしまう。まあその辺りが、そこまで毒気が無くて一般に広く受け入れられたのかもしれない。この「勘平の死」は綺堂によって舞台化もされており、歌舞伎の演目として演じられたようだ。江戸川乱歩もこの舞台は拝見していたらしく、以下の様に評している。

この芝居は失敗ではないまでも、大成功とはいえないものである。(中略)半七が幕外の挨拶で「……立派な証拠を握っている訳でもないのですからまあ手探りながらあんなことを云って見たので」と弁解している通り、この芝居の探偵劇としての物足らなさは、「明快なる推理」といったものを欠いている点だ。併しそれがなくとも「意外」とか「凄味」とか或は「悪人の描写」とかいうものがあれば、充分探偵趣味を満足させ得るのだが、そういうものもない。少しく調子の変った世話物として終っているのが残念だ。
-「半七劇素人評」(『悪人志願』 江戸川乱歩)

ううむ、中々厳しい感想である。半七物は読み物としては面白いのだけれども、推理探偵モノとして読んだ場合には、乱歩が指摘した様な残念な処はしばしば見られるのは確かである。

 ただまあ、こんなハッタリばかりでも無く、時には左右の足の筋肉の付き具合の違いから*1武士だと推察したり、現場に残っている手形から犯人を想像したり、指の撥ダコで職業を当てたり、指紋を証拠に犯人を特定したり*2、まあ、それこそ現実的科学的推察なんかもキッチリとはやっているのである。この辺りが、綺堂のホームズ趣味を反映しているのだろうけれども、話の筋を大きく左右する程には利いていない所が確かに物足りないは物足りない。綺堂のホームズ趣味といえば、この第1巻に収められている「奥女中」というお話は明らかに『シャーロック・ホームズの冒険』中の「ぶな屋敷」からその着想を得た物であろう。半七物は多数お話があるので、他にもホームズから影響を受けたモノが無いか注意してみようと思う。

 ところで、ここで、この捕物帳の主人公である半七であるが生まれ年を少し推察してみたい。第二話目「石燈籠」にて半七は「忘れもしない天保丑年の十二月で、わたくしが十九の年の暮でした」と述べている。天保丑年は天保十二年で1841年になる。さて、ここで問題になってくるのが、半七は数えの年を述べているのか、現代で言う処の年齢を述べているのか、どちらであろうかと云う問題である。半七は江戸時代の生まれなのだから普通に考えれば数え年の年齢を述べている筈だが、他に証拠は無いかとお話を読んでみると、第一話目に於いて、聞き手である「私」の年齢が推察される記述がある。それに依ると「私」は十四の時に半七の逸話をKのおじさんから聞き、その十年後に日清戦争が終わったと記されており、日清戦争は1895年に終結しているので、1872年生まれの綺堂は数えで24才となる。つまり年齢は数えで記している事がこの計算からも明らかで、半七が天保十二年に十九と云うのは数えで十九と云う事で間違いない。この事実から、半七は1823年生まれであると断定して構わないだろう。と、長々と書いていたらwikiに既に1823年生まれであると書かれていた。まあ、推察は正解であったという事で。

 『半七捕物帳』は推理探偵小説と言ってはやや物足りないのだけれども、綺堂のお話は頗る巧みで、私の想像する江戸の情緒に溢れている。少しの探偵風味と時代劇風味を味わいながら気軽に楽しめる捕物帳の嚆矢として中々お奨めのシリーズだと思う。残りのお話もぼちぼち読んでいってみようという気にさせてくれる第1巻であった。因みに今回は光文社のkindle版で読んだのだが、解説も注釈も無くて結構落胆した。まあ出版社を支えるお布施として料金を支払ったと思っておこう。お金を払うのが嫌な人は青空文庫版で読む事が可能だが、一応、光文社版は責任を持って校正が行われていると言う意味で価値があるとは思う。

半七捕物帳(一) (光文社文庫)

半七捕物帳(一) (光文社文庫)

 

 

*1:大小が重いために、当時の武士は足の太さが左右で異なるものだったらしい。

*2:指紋検査が日本に於いて何時頃から一般化したのかは知らないが、イギリスでは20世紀初頭にはもう既に一般的になっていた様だ。綺堂は海外の推理探偵小説からこの知識を援用したのだろう。

『怪談 牡丹燈籠』 三遊亭圓朝

 幽霊と仇討ちと色と欲

 三遊亭圓朝のお噺の口述速記本が言文一致の開祖であるというのは割かし良く知られた話である様だ。その中でも『怪談 牡丹燈籠』(1884年:明治17年)の口述本が言文一致に与えた影響はかなり大きい様で、二葉亭四迷が文章の書き方に関して悩んでいた際に、坪内逍遥が当時世に出回っていた三遊亭圓朝の口述本を引き合いに言文一致体を奨めたというのが、二葉亭の言文一致の源流にあるらしい。と言う訳で興味を感じて読んでみた。

 この小説、まずは序文からして中々面白い。『怪談 牡丹燈籠』は言文一致体という事の新しさもあったのだろうが、坪内逍遥は『怪談 牡丹燈籠』の序に於いて三遊亭圓朝の語りの巧さを激賞し、文語文でなくとも本職の小説家の手に依るものでなくても、非常に優れていると評している。そして「女子供向け」の小説よりこちらの方が良いと述べているのである。どうやら、一部の小説が女子供向けに見えて重鎮から嫌われるのは明治の時代から変わらない様だ。また、このお話が書籍の形で世に出るに当たって、大きな貢献をしたのが、速記者である若林玵蔵である。彼もまたこの小説の序を書いて居り、そこで、話し言葉を文章化する事がやがて日本言語の改良に繋がるという遠大な野心を吐露している。明治期の人間は二葉亭四迷にしてもそうだけれども、文学の様なやや形而上的存在に関わる人々でさえ、何か物凄い社会的野心と情熱を持っていたのだな、と、現代のややレイドバックした感のある小説家達と比べてその社会への関わり方に対照的な物を感じてしまう。明治時代というのは中枢に居座る人間のみならず、文化に関わる人間にとっても明らかな革命期だったのだろう。

 さて『怪談 牡丹燈籠』本編であるが、大きく分けて二つの部分からなっている。一つ目はその名の通り、牡丹燈籠が関わってくる怪談である。二つ目は奇遇の繰り返しに依ってもつれる長い仇討ちのお話である。この二つはお話の時系列的には仇討の物語の半ばに怪談が挿入される形になっている。

 まず、その怪談の部分である。この牡丹燈籠が登場する怪談というのは、そもそも、中国の『牡丹燈記』にその原型を認められるものであり、夜半に小間使いの灯篭に先導される美女が実は幽鬼であり、その美女に惹き寄せられた男が結局は命を失ってしまうというお話である。この中国の怪談が江戸時代に日本を舞台に変換して物語られ、更にそれがこの『牡丹燈籠』に翻案されている。『牡丹燈籠』の場合は、最初に男女が出会う際には、女の方は生きており、男への未練を残したまま死んだが為に、幽鬼となって現れるのであるが、何と言ってもその牡丹燈籠というものが良い。江戸時代の灯りの無い暗い夜に見える燈籠というものはまるで人魂の様であるというのは容易に想像がつくし、それが牡丹を設えた燈籠で顕れるのだから幽玄さに更に一つ魅力が加わる感がある。また、女幽霊は中国の方もこの小説の方も裕福な家の出という事になっていて、この『牡丹燈籠』に於いては、蝶よ花よと育てられた子女らしく、幽霊になっても駄々を捏ねる。この我儘な感じが堪らない。幽鬼と謂えども、別段男を呪っている訳では無く只単に男に会いたいだけで現世を彷徨っている訳で、悪気もなく男を幽界に道連れにしてしまうのだからこれはこれで凄まじい。逢瀬を重ねる事が男の命を奪う事に繋がると女幽霊の方は分かっていなかった様にも思える。

 さて、怪談部分はこんな感じで、美しくもあっけないのであるが、仇討の方は中々に複雑なお話である。このお話の主人公に当たる登場人物は孝助だと思うのだが、まず、その考助の父親は不良武士であって、飯島平左衛門という武士に酔って絡んだ挙句、あっさりと斬り殺される。ここで、一つ仇討の種が産まれる訳である。武士の子である考助は父の仇を討たなければならない。処が、どういう奇縁か孝助は仇と知らずに飯島平左衛門に奉公する事になる。只奉公するだけでなく、心底その主人に忠義を尽くす訳である。武士の理屈からすれば、仇を討たねばならんし、主君に忠も尽くさせねばならない、という非常に捻じれた状態に気付かない内に陥ってしまう。

 ここで、一般的な現代の価値観から超越して見えるのが、飯島平左衛門の思考形態である。彼は、ふとした弾みに、孝介の仇が自分自身である事に気付き、機会を伺って孝介の仇討を主君殺しの汚名を着せない形で成功させる。

現在親の敵と知らず、主人に取って忠義を尽す汝の志、殊に孝心深きに愛で、不便なものと心得、いつか敵と名告って汝に討たれたいと、さま〴〵に心痛いたしたなれど、苟めにも一旦主人とした者に刃向えば主殺しの罪は遁れ難し、されば如何にもして汝をば罪に落さず、敵と名告り討たれたいと思いし折から、相川より汝を養子にしたいとの所望に任せ、養子に遣わし、一人前の侍となして置いて仇と名告り討たれんものと心組んだる其の処へ、國と源次郎めが密通したを怒って、二人の命を絶たんとの汝の心底、最前庭にて錆槍を磨ぎし時より暁りしゆえ、機を外さず討たれんものと、態と源次郎の容をして見違えさせ、槍で突かして孝心の無念をこゝに晴させんと、かくは計らいたる事なり、今汝が錆槍にて脾腹を突かれし苦痛より、先の日汝が手を合せ、親の敵の討てるよう剣術を教えてくだされと、頼まれた時のせつなさは百倍増であったるぞ、

 人に依ってはここに至上の美学を感じるのかもしれないが、私はそうではない。私はこの部分を不気味に感じる。その気味の悪さをまだ上手く言葉にする事が出来ない。このお話で描かれている朱子学的武士階級価値観の中で、一つ明らかな事は、個々人の命と云うモノに対する淡泊さである。私自身別段「生」というモノ自体がそんなに大層なモノだとは思わないが、物語の登場人物の思想信条の様に生命に対してあそこまで淡白であると、非常な違和感がある。飯島は孝介の父をあっさりと斬り殺すしそれに対しての後悔の様なものは全くない、又、主君への忠義を損なわない形で孝介の仇討を成功させる為にその命を簡単に放り投げる。勿論、お話としては強い信念の下に成り立っている行動であるからして、現代の私が「簡単」等とそれこそ軽薄に切り捨ててはいけないのかもしれないが、現実問題として、ここに称揚されるような価値観は武士がそれを体現出来ていなかったからこそ称揚されていたものであって、歪な価値観であるというのはそうそう外れていないとは思う。只、ある種の自己犠牲的そして儒教的に一貫した価値観と言う物を支配層である武士に社会全体が期待していた処は有るのかもしれない。

 この様に、朱子学的武士階級価値観に従って行動する飯島平左衛門と孝介とは対照的に、このお話の悪役たちは欲と色に目が眩んだ人々として描かれており、目先の欲望に囚われて破滅していき、最後には孝介によって誅殺される事になる。儒教的価値観で現世の欲得を打ち砕くという、勧善懲悪的な物語の典型例だと言えるだろう。

 ちなみに、岡本綺堂が記す処によると、仇討と単なる復讐とは随分異なった物である。

わが国古来のいわゆる「かたき討」とか、「仇討」とかいうものは、勿論それが復讐を意味するのではあるが、単に復讐の目的を達しただけでは、かたき討とも仇討とも認められない。その手段として我が手ずから相手を殺さなければならない。他人の手をかりて相手をほろぼし、あるいは他の手段を以て相手を破滅させたのでは、完全なるかたき討や仇討とはいわれない。真向正面から相手を屠らずして、他の手段方法によって相手をほろぼすものは寧ろ卑怯として卑められるのである。
-『かたき討雑感』 岡本綺堂

これによると仇討というものはそんなに簡単なものではない様だ。江戸時代的武士の価値観で称揚されていたのは単なる復讐ではなく仇討の方であって、これを達成するには相当な労苦を要する事になる。仇討と言ったって、肉親の仇討であればその動機は強く、仇討を達成する為に労を惜しまないという事はままあるかもしれないのだが、これが主君の仇討と云う事になって来ると又少し話が違って来る場合があるのは想像出来るだろう。仇討の相手が相当手練れである事もあるだろうし、もっと言えば、その行方が杳として知れない事も当然しばしばあるだろう。仇討を達成するまでの間は通常の生活に戻る事が困難な訳であるから、幾ら武士の価値観がそれを称揚していたと言っても中々現実に実行し続けるのは難しかったに違いない。只、難しいから仇討なんかしたくない、という正直な感想を世間という奴がどこまで認めるかは、これまた、別問題の様である。

 明治20年前後に登場している、この『牡丹燈籠』や『真景累ヶ淵』に於いては登場人物達は決して諦めず、執念の仇討が達成されるのだが、それから随分時代が経った、大正6年に書かれた、岡本綺堂の『半七捕物帳』の「湯屋の二階」というエピソードに於いても仇討に纏わる話が描かれている。そこで描かれているのは、仇討を認められた武士達が仇敵を捜すという名目の下、湯屋の二階で毎日油を売っているという滑稽なお話である。明治から大正に入って、仇討という行為に真剣になれない、という姿勢が社会の内に許容される様になって来たのかもしれない*1

 単なる復讐とは異なる「仇討」と云うものが世界でどれ位一般に存在する物なのかは分からないが、日本に於いては江戸時代の戯作や文献に見られるだけでなく、明治大正期の文筆家達もまた多くの仇討物を書き記している。その内、仇討文学に関しても総覧してその文化規範による行動への影響を作家達がどのように捉えていたのかを調べてみたい。

 この『怪談 牡丹燈籠』はKindleの青空文庫版で読んだ。岩波から出ているものは残念ながらkindle版にはなっていなかった。結構短いし、物語として普通に面白く読めるし、言文一致の始祖としての有難味もあるので、一読の価値があると思う。

怪談 牡丹燈籠 (岩波文庫)

怪談 牡丹燈籠 (岩波文庫)

 
怪談牡丹灯籠 04 怪談牡丹灯籠

怪談牡丹灯籠 04 怪談牡丹灯籠

 

*1:勿論探せば、仇討に纏わるこの様な武士の滑稽な姿を描いたお話は以前から多数あるのかもしれないが。