(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『見るまえに跳べ』 大江健三郎

 今迄もそしてこれからも跳ばない、跳べない

 ここの処、大江健三郎を少しずつ読み返しているのだけれども、大江健三郎は読めば読む程、癖のある面白い小説群を残している。この歳になって読むと不思議な事に一層面白く感じる。段々と自分の感覚が大江健三郎に近付いて来たのだろうか?

 新潮社刊の『見るまえに跳べ』は短編集『死者の奢り・飼育』や中編『仔撃ち芽むしり』と同時期に発表された初期短編集である。前に紹介した2冊の中に出てきたモチーフが繰り返し変奏されており、これらの作品群からは初期の大江健三郎に漂う現実社会への諦念や所謂インテリ層としての虚無感・無力感が強く伺える。

 大江健三郎はこの頃、サルトル的な実存を描く小説家と目されていた様だ、が、現代の私の視点から見ると、サルトル的な実存主義というよりもむしろ更にもっとペシミスティックなどんづまりの状況を描いている様に思える。個人的にはサルトルには大江健三郎の小説よりも強い自意識と動力を感じるし、連帯の意義を強く訴えかけていた点などで大江健三郎の書くものとは幾分か異なる方向を向いていたのではなかろうか。哲学者と小説家の違いというのもあるかもしれない。

 何にしてもこの初期短編集で繰り返し表出されるものは、上述した諦念、無力感、そして徒労に終わる行動である。この徒労感というものを執拗に描くという点から、大江健三郎が実存主義的作家と看做されたという事が今となっては分かる。この部分に関しては若い頃に読んだ時には余り良く分からなかったのだが、そこで描かれているものは、確かに徒労感の連続である。村上春樹の小説は読んだ事が無いのだけれども、しばしば「やれやれ」といった言葉が小説の登場人物の言葉として紹介されているのを見掛ける。この「やれやれ」は、むしろ大江健三郎の描く初期短編の世界にぴったりの言葉ではないかとも思う。というのも、正にこの「やれやれ」という言葉を呟く以外にどうにもならない様な出来事を体験するお話が繰り返されるのである。

 まず、最初に収録されているのが『奇妙な仕事』である。この短編は構造的にはほぼ『死者の奢り』と一致しているといって良い。『死者の奢り』に於いて、解剖用の死体を別な水槽に移す労働が徒労に終わったように、『奇妙な仕事』に於いても、実験用の犬を屠殺する苦労の多い作業は結局の処徒労に終わる。戯曲として書かれた『動物倉庫』や短編『運搬』に於いても登場人物達の労働や奮闘を待ち受けるのは無意味な結末である。

 これらの徒労の中でも、この短編集の表題作『見るまえに跳べ』(1958年)は当時の世の中のどうしようもない虚無感、倦怠感を遣る瀬無く描いている。

 登場する人物達は、主人公「僕」とその愛人の外国人専門娼婦である良重、そして良重のもう一人の情人であるアメリカ人のガブリエル、主人公が家庭教師をしやがて関係を持つ田川裕子である。

 世の中に倦んだ情熱を持たない主人公と外国人向け娼婦とその情人の外国人という組み合わせは、この『見るまえに跳べ』だけでなく、『戦いの今日』そして『われらの時代』でも見られる、この時期の大江健三郎が良く用いた構造である。ここに弟が入ってきたり、主人公と娼婦の関係が愛人関係か否か、等がそのバリエーシェンとなるのだが、大江健三郎はこの構造をよっぽど気に入っていたのだろう、この三作品は正に兄弟の様に感じられる。

 ここで大江が描く無力感虚脱感は明らかに、「皇国」の敗北とそれに伴うどうしようもない卓袱台返し、大江らの世代が味わった社会構造のドラスティックな変化、それらが齎した不条理性が反映されているのだろう。今まで存在したイデオロギーがいとも簡単に覆され、そして人々は以前に存在したイデオロギーを否定し、それを受け入れていた自分達がまるで存在しなかったかの様に振る舞って暮らしていく。理性のあるものには耐えられない状況だったのかもしれない。勿論、戦後の日本にアメリカから下賜された「民主主義」という枠組み自体は戦前の全体主義や半封建主義もどきの社会構造よりは妥当な物だと思えるが、人々がいとも簡単に社会構造を放擲し与えられたものを受け入れるのであれば、このアメリカから下賜された「民主主義」とやらがいつひっくり返されてもそれ程不思議ではないのである。

 敗戦後に外国人を専門にする娼婦という存在、そしてアメリカ人のガブリエルに辱められる娼婦という存在が、アメリカに支配されていた戦後間もない日本を暗示している事は容易に推察出来ると思う。「僕」はこの娼婦良重との生活に無力的に浸っている。恐らく、この辺りに、一部の人々から大江健三郎が嫌悪される理由があるのだろう。大江は余りにも露悪趣味的であり極端に走る処がある。しかし、この例えは上品な物では無いにしても、そう外れた物でも無い。「愛国心」故にこの表現に敵意を抱く人々が向けるべき敵意の先は、当時であれば間違いなく、占領米軍及びアメリカのシステムに組み込まれてしまった社会構造である。

 敗戦後の卓袱台返しに加え主人公の無力感を更に煽るのが、この小説の発表前に終結していた朝鮮戦争や発表当時その最中であったベトナム戦争・アルジェリア戦争であろう。日本から見て外国の人々が、彼等の自由の為に、彼等のイデオロギーを守るために、命を賭している。それに対して、日本の若者がやっている事はせいぜいデモを行う位であった*1。そしてそれらの活動がどれ程に効果があるのか? 熱狂していた人々以外には実際の処大いに疑問であったのは確かな筈である。ではどうすれば社会を変革出来るのか、出来たのか?それに対する答えは容易に見つかる筈がない。小説中でガブリエルが「僕」に向けて放った言葉「見るまえに跳べ」に、この無力感が凝集されている。

The sense of danger must not disappear:
The way is certainly both short and steep,
However gradual it looks from here;
Look if you like, but you will have to leap.
-"Leap Before You Look"(一部) W. H. Auden

 「僕」は裕子と関係を持ち裕子が妊娠した事によって、良重とのどんづまりの生活からの脱出、つまりその無力感虚無感からの脱出を図る。労働に精を出し、フランス文学を熱心に学ぶ姿は「僕」が暮らす世界のアメリカ的支配からの脱出を希求するかの様である。しかしフランスからの新思想はやはり借り物でしかないし、借り物で新たな主体化を行う事には相当な困難が予感されるのが当然であろう。裕子の妊娠は新たな国生みを示唆し、そこに新たな主体性が生まれ得ることを期待させるのだが、大江健三郎の小説の行先は誰もが知る処である。「僕」と裕子の淡い希望は無惨に潰え、そこに残されるものはやはり無力感と虚脱感である。

 新たな希望を失い、「僕」は「良重=屈辱の中に暮らす安寧」へと帰る。良重が日本人の客を揶揄して放つ言葉がどうしようもない。《つまんない、ちっぽけな日本人》。その言葉に引きずられる様に、「僕」は不能になっている事に気付く。徒労と喪失と無力感。希望を失った「僕」にはもはや何も残されていないのだ。 

 大江健三郎は、当時の日本にそして無力な自分自身に我慢がならなかった一部の人々の思潮の幾らかを具現化する事に成功している。この大江の描いた感覚は、若い人々には信じられないかもしれないが、三島由紀夫が抱いていた焦燥感とも根は同一である*2。「見るまえに跳べ」これは確かにそうなのだろう。だが何人が実際に跳ぶ事が出来るのか?大江の描く世界では「僕」は跳べなかったしこれからも跳ばないだろう。徒労とどんづまり。行き場など他にない。我々に残されているのは緩慢な死のみである。

 カミュは『シーシュポスの神話』やら『ペスト』やらに於いて、人生という徒労を肯定的に捉えその中で不条理に立ち向かうことを良しとしたが、実際問題として、弱き我々一般人がその様にこの世を捉える事は可能なのだろうか? 大江健三郎が描いたこのどうしようもない徒労、どんづまり、結末の無い運命、これらは現代日本に暮らす我々が正に直面している課題だと言えるし、カミュの説く強い意思に辿り着く前に我々が味わう課程であろう。そして、この課程の方に重要な全てが凝縮されているのではないか。そもそも、カミュの述べる処に万人が到達するとも限らないのである。むしろほとんどの人間がその様に成れないのが現実だろう。私自身、今迄もそしてこれからも跳ばないし跳べないだろうという確信に近い予感がある。この歳になって大江健三郎がなぜノーベル賞作家に選ばれたのかが朧げながら分かって来た様な気がする。

見るまえに跳べ(新潮文庫)

見るまえに跳べ(新潮文庫)

 

*1:勿論、武力闘争を行う事の方が立派等と言うつもりは毛頭無いが、大江健三郎は左翼活動を実際に行っていたからこそ、その当時の彼等の活動に無力感を感じていたのだろう。三島由紀夫など保守派が、当時の左翼活動を「安全な場所で子供染みた騒動を起こしているだけ」と批判していたのだが、大江としても一部痛い処を突かれている感はあったに違いない。

*2:とはいえ、彼等の採った政治的手法は全く異なる物であったのは言うまでもないだろう。三島由紀夫はある意味においては跳んだのである。それに意味があったかといえば、残念ながら意味はなかったと答えるしかないと思うのだが、そもそも生きる意味などは存在しないのである。大江の採った政治的活動は当時としては妥当な物であったと思うのだけれども、往々にして、政治的活動は本人の当初の意図からずれて迷走してしまうというのも現実だと思う。

"The Lerouge Case" Emile Gaboriau (『ルルージュ事件』 エミール・ガボリオ)

 古典ロマン長編の原点がここにある

 江戸川乱歩の古典ベストテンを読み続けている。実はこの乱歩の古典ベストテンの中には、乱歩曰く「そこまで優れている訳では無いが他に候補が無い」という事で選ばれているものが3作あって、そんな風に書かれてしまうとそれらは読むのを後回しにしたくなるのが人情である。既に5作は読んだのだが、その3作を除く残りの2作はガボリオとボアゴベイでどちらもフランス人作家の手に依るものである。日本語訳版をざっとkindleで探したのであるが、どうにも見当たらないので、仕方ない、英訳版で読んでみるか、という事でまず、ガボリオーの『ルルージュ事件』(1866年)の英訳版"The Lerouge Case"を読んでみた。

 この小説は前にも紹介した『月長石』の2年前に刊行されているのだが、『月長石』がイギリスの郊外に住む貴族の奇譚を描いているのに対し、こちらはフランスのパリに住む大貴族の一大奇譚を描いている。このお話の大掛かりな処、盛り上がりとその起伏は 『月長石』のややまったりとした雰囲気とはまるで違う。このガボリオの筆致は読んでいて、ああそうか、これがフランスの講談風味の冒険伝奇譚の原点の一つなのか、と感心した。このガボリオの『ルルージュ事件』に加えて、デュマの『三銃士』や『鉄仮面』そしてボアゴベイの幾つかの伝奇物が現在私がイメージするフランスの冒険活劇引いては涙香、南洋一郎、江戸川乱歩のあのお話し振りに繋がっているのだろう。

 『ルルージュ事件』の最大の舞台装置は赤子の取り替えである。只の取り替えでは無い。フランス屈指の貴族の正統な嫡子と愛人との間に出来た子供との入れ替えである。読者は当然、その赤子達の将来の境遇がまるで異なったモノになる事が容易に想像出来るであろう。そもそも、そんな身分違いの赤子の入れ替えなんか、使い古された陳腐なネタではないか、等と感じる人もあるかも知れない、が、しかし、恐らく、このガボリオの『ルルージュ事件』こそが陳腐化されるまでに濫用されたこの舞台装置の初期の活用例なのだろう。赤子の入れ替えネタ、そして身分違いの入れ替えネタの元祖はどれなのか現時点では分からないのだけれども、少なくともマーク・トウェインの有名な『王子と乞食』は1881年なので、それよりは確実に早くこの世に顕れている事は間違いない。入れ替えネタなんかは子供の頃になにかの推理探偵小説か巌窟王や鉄仮面等の子供向け翻案もので読んだ様な気がしていたのであるが、恐らく、それはこの『ルルージュ事件』を子供向けに翻案したものだったのだろう。ううむ、古典名作はやはりしっかりと読み直してみるのはかなり良い経験になるなと再確認した。

 しかし、この『ルルージュ事件』名場面のオンパレードである。

 まず、名探偵役のTirauclairこと老Tabaretは金持ちの有閑老人かつ素人探偵であるが、只の素人探偵ではなく、パリの警察にその鋭敏な推理を轟かせている老人であって、小説内に登場するや否や、ホームズ張りの冴え渡る推理を披露する。現場に残されている犯人の僅かな痕跡から背丈や年齢、煙草の銘柄、そして持ち物である手袋や傘に至るまで論理的に類推する。正にホームズそのものであるが、勿論この小説の方が圧倒的に早く世に出ているので、ホームズがデュパンや老Tabaretの一見手品風の推理、人をアッと言わせる遣り方を踏襲していると言うべきか。ここで老Tabaretはその明晰な推理の披露を以って、堅実なGevrol刑事を嘲るのであるが、このGevrol刑事はこれはこれで傑物なのである。天才型探偵の登場する小説で適当にあしらわれる無能警察とはこれまた違う。この堅実な猟犬型刑事がこの小説で描かれた犯罪を解決する鍵となる発見をする処が、現代の型にハマった天才探偵ワンマンショーと異なっていて面白い。実際、涙香小史の『無惨』はこの展開からもアイデアを得ている気がする。『無惨』を読んだ時には型にハマっていなくて面白いと思ったのだが、「型」というものは分野初期には存在しないのが当たり前と言えるかもかもしれない。

 天才型探偵と言う物は現代の推理小説においては滅多に失敗しないし、それ故に天才型探偵なのだろうけれども、昔の推理探偵小説ではしばしば苦戦するようだ。例えば、『月長石』のCuff巡査部長、そしてこの小説における老Tabaretである。この老Tabaretの蹉跌は現代刑事司法制度への懐疑と警鐘という形を以って小説内に現れてくる。昔の小説と言う物は娯楽の皮を被って色々と大きな問題提起をしてくるものである。黒岩涙香はこの『ルルージュ事件』を翻案した『人耶鬼耶』の前書きに於いて

余が此篇を譯述するは世の探偵に従事するものをして其職の難きを知らしめ又た世の裁判官たるものをして判決の苟しくもすべからざるを悟らしめんが為なり。之を切言すれば一は人権の貴きを示し一は法律の輕々しく用いべからざるを示さんと欲するなり。
-『人耶鬼耶』 黒岩涙香

と記し、世の警察検察機構のその職の簡単ではない事、権力の行使に慎重となるべき事を訴えている。

 物語の最初、自らの頭脳に絶対の自信を誇っていた老Tabaretは「ああ、こういう遅れは正義の遂行にとって致命的じゃよ!もしこの世が儂の思うままになるなら、悪党どもを罰するのにあんなに手間取らないのになあ。捕まえたら即吊るし首じゃ。」と言い放つが、やがて、己の不完全さを知るに至って無辜の人を罰する可能性の恐怖を知り、死刑廃止と冤罪救済の為に働く事を決意する*1。またDaburon判事は、現代で言う処の利益相反的立場に立ちつつ被疑者の取り調べを行う事に躊躇するが、実際それが事件の判断を誤る事に繋がり、彼も後悔して後に職を辞すのである。 

 この小説程ではないが、西洋の推理探偵小説に於いては刑事司法制度への懐疑的な視線がしばしば見られる。例えば、今までに紹介した小説であれば、ザングウィルの『ビッグ・ボウの殺人』やフリーマンの『オシリスの眼』、ヴァン・ダインの『カナリヤ殺人事件』に於いても刑事司法の仕組み上の問題が批判されている。この様に「お上」の決めた制度といえども簡単に全肯定しないという所が西洋らしいと言えば西洋らしく感じる。

  昔の小説を読むのは原点を探すという愉しみに加えて、昔の風俗を伺い知る事が出来るという点でも面白い。『月長石』に於いて貴族社会に於ける時代の変化を思い起こさせる叙述が幾らかあったが、この『ルルージュ事件』に於いてはその貴族社会の変化がより明白に描写されている。この小説には強烈な個性を持つ二人の貴族が登場する。d'Arlange侯爵夫人とCommarin伯爵である。彼等の発言を引用しておこう。

「ああ、なんて魅力的な若者でしょう!」夫人は言った。「繊細で思慮深くて!産まれてこなかったのがなんとも可哀想だわ」(彼女の言う処の「産まれる」とは貴族の血統という意味だが、貴族でない不幸な者たちも実際「産まれてきた」という事実を無視した言い様である。) (拙訳)

 d'Arlange侯爵夫人はこの様にDaburon判事に述べるのである。貴族でないものを生まれていない呼ばわりとは小説の中とはいえ中々の傲岸不遜振りであるし、それを通り越して滑稽ですらある。

「(前略)一昔前なら国王のところへ赴いて直接頼めば、我が子の立場を保証してくれた筈なのだが。今日では、国王は不満に充ちた臣民を治めるのに手を焼き、何も出来はしない。貴族はその権限を失ってしまったのだよ、そして上流階級は汚らしい農民なんかと一緒くたに扱われているのだ!(後略)」 (拙訳)

 Commarin伯爵のこの発言の意味する処は、詰まるところ、フランスは法治主義の国家と変貌し、人民は基本的には平等に法の支配を受ける事になったのである。その事に、Commarin伯爵は異議を唱えており、勿論これは創作であるのだが、法治国家を理解する事が困難であった貴族が実際に存在していたからこそのガボリオによる皮肉だろう。 このCommarin伯爵は貴族の没落の原因を理性的に語ったり、自由主義に貴族の血統の者がかぶれる事に嘆いたり、中々、旧弊貴族のカリカチュアとして描かれていて面白い。幾らか誇張して描かれているであろうにしても、この様な社会制度の変革の実情を知る事が出来るのはやはり古い小説ならではの魅力である。

 今回この『ルルージュ事件』は英訳版"The Lerouge Case"を読んだ。英語原著の小説を英語で読むならまだしも、仏語のモノの英訳版を読むとは我ながら無駄な事をしたものである。どうやらグーテンベルグプロジェクトの物である様ではあるが、これが良い訳であるかどうかも良く分からない。これというのも国書刊行会が『ルルージュ事件』を電子書籍化してくれていないのが全て悪い。早く全ての書籍がkindle版でも提供される時代になって欲しいものである。まあ英語版は価格的には破格の安値なので、お得に読みたい人には向いているかもしれないが、仏語版ならpubrlc domainで只である。仏語も勉強してみたい気持ちになってきた。

The Lerouge Case (English Edition)

The Lerouge Case (English Edition)

 

*1:死刑廃止の理論的根拠には様々なものが存在するが、冤罪が存在するという厳然たる事実もその根拠の一つ足り得るだろう。権力の無謬性を信ずる事は到底不可能である。

古事記に纏わる副読本(kindle版) その1

古事記の物語を大まかに掴む為の本

 最近、池澤夏樹・現代語訳の『古事記』を読むに当たって何冊かの古事記関連の書籍を読んだ。いずれも中々面白い処のある本だったので、覚書をしておく。

 まず、ここで紹介する古事記関連書籍は全てkindle版のものである。電子書籍に限定しなければ、より多くの参考書籍が存在するのだろうし、例えば西郷信綱の著した書籍は間違いなく必読の書なのだろうが、残念ながらkindle版は存在しなかった。各出版社が早く電子書籍化に踏み切ってくれる事を切に願うのだが、まあ現状無いモノは仕方が無い。と言う訳で、私の個人的事情からkindleで読めるものだけを読んだ。本居宣長の注釈書は一応kindleで読める様なのだが、私の怠惰の為に未読である。

 結局、手頃な新書を中心に10冊程読んだのだが、読んだ中では取り敢えず、こうの史代の『ぼおるぺん古事記』は非常にお奨めだと思った。古事記を読んだ事が無い人はこの漫画を取っ掛かりにしてその世界に触れて行くと良いのではないかと思う。

 この覚書では「古事記の物語を大まかに掴む為の本」3種類について思った処を記しておこうと思う。

 『ぼおるぺん古事記』 こうの史代

 世の中に様々な古事記のダイジェスト版の様な物が存在するが、このこうの史代の『ぼおるぺん古事記』は古事記上巻に親しむ為の本(漫画だけれども)としては最良のモノだと思う。何と言ってもその絵が綺麗に4頭身でデフォルメされており、可愛らしいし、ただ可愛らしいだけでなく、神々の名前の漢字そしてその役割に込められたモノを分かり易く絵にしている処も良い。この、こうの史代と言う作家は最近『この世界の片隅に』のアニメ映画化で有名になるまで全く知らなかったのだが、凄まじく画力の高い方の様で、ボールペンで描いたというこの漫画の描き込みは物凄い。単なる古事記の漫画化というレベルを越えている。

 さて、勿論漫画としてのレベルが高いのはその通りなのだが、それに加えて個人的に良いなと感じた処が、人物達の科白が基本的に古事記の原文の科白をそのまま使用している処である。つまりこの漫画の中では基本的に皆古文調で話している。これが案外に違和感が無く気持ち良くすらすらと読めてしまう。作者の科白の選択が良いのかもしれない。更に、科白が原文のままなのでそれを補うためだろう、注釈の充実ぶりもスゴイ。イザナギとイザナミの会話「あなにやしえをとこを」「あなにやしえをとめを」、これが、注釈ではこうなるのだ「あれまあ立派な男の人!」「おやまあまぶい娘さん!」。堪らない。堪らなく良い。ただ、この漫画の豊富な注釈に関しては所々に色々と異論が出る部分も有ると思うので、この注釈を楽しんだ後にはまた別な注釈を読んで古事記の細部の様々な解釈のバラツキを確認してみると、更にスルメを噛む様な味わいを愉しむ事に繋がると思う。

 漫画部分の前に用意されている物語の概要も分かり易いし、所々で神々の系譜が分かり易く漫画内で示されているのも文句なしである。更に圧巻なのが、3巻の最後に描かれている、全神々の系譜図である。ここに至っては脱帽するしかない。こうの氏の古事記の神々への愛の深さを感じる。因みに、私は古事記自体は最近何度も読んでいるのであるが、この『ぼおるぺん古事記』に於ける、スサノオがオホクニヌシを根の国から送り出す場面では少しうるっと来てしまった。3巻の最後のオマケ漫画も面白うてやがて悲しき的な趣があって良い。

 古事記というものは池澤夏樹も示唆していたが、元々は声に出して語り継がれて来た物語を音を重視した大和言葉で書き記したものだろう。だからこそ、その原点には声に出してそして身振り手振りを交えて演じながら伝えるという演劇的なモノも有ったのではないだろうか? そうやって考えてみると、文章は文字だけであるが、漫画というものは視覚に依る情報が相当に多く、古事記の物語のそもそもの在り方からすれば、漫画中の人物が演じているという形でその原点に近いのかもしれない。実際、歌をキッチリと読まないと情景を思い描きにくいオホクニヌシとスサリヒメの歌交わしや、ホデリが踊った舞等は漫画で読むとその光景が圧倒的に感じ取り易い。

 この『ぼおるぺん古事記』は本当に万人にお奨めの古事記入門書である。古事記の上巻しかカバーしていないのが非常に残念で、今後また機会があるのであれば、残りの部分も描いてくれる事を期待して止まない。第3巻の最後に掲載されている後書きに依れば、中下も描く積りがある様ではある。実現する事を切に願っている。

[まとめ買い] ぼおるぺん古事記
 

 

 『楽しい古事記』 阿刀田高

 古事記のあんちょこ本というモノは世の中に沢山あると思うのだが、変なものを最初に手にしてしまうと、変な解釈が脳内に流れ込んで来て、古事記を誤解してしまいかねない。であるから、最初に読むとなるとまあ無難なモノがお奨めになって来る訳で、そういう意味に於いて、この阿刀田高の『楽しい古事記』はかなり無難な線を行っていると思う。阿刀田高の名前は昔々から良く目にしてはいたのだが、何を書いている人なのか全然印象になかった。今回、古事記のあんちょこ本を探していると、阿刀田氏はどうやら様々な古典の入門書みたいなモノを書いているという事が分かった、のみならず、例えば、最近ネットで見掛けたキリスト教に親しむ為の書籍みたいなリスト*1でも阿刀田高の新約聖書に関する入門書の様な物が挙げられていた。つまり、まあ無難なんだろうと思って購入して読んでみた処、上述した通り正に無難だったわけである。

 この本は基本的には古事記の物語をあっさりと軽快に紹介していく内容であって、まあある意味現代語訳古事記と考えても良いかもしれない。上で紹介した『ぼおるぺん古事記』の場合は古事記の上巻しか漫画化されていないので全体のお話を掴まえる事は出来ない。その点、こちらの阿刀田氏の『楽しい古事記』は上中下全てのお話を簡単にそれでも省略しすぎずに阿刀田氏の言葉で語り直しているので、古事記の全体を捉えるには非常に便利である。まあ、イメージとしては古事記の筋を読者に向かって噛み砕いて説明している感じか、噛み砕いていると言っても注釈的な部分は一般的な解釈にのっとっていると思われるし、変な独自理論みたいなものもないので最初に参考にするには癖が無くて良いと思う。この古事記の説明の部分と実際に宮崎高千穂や島根出雲やらの古事記関連の旧跡を阿刀田氏が訪れた際の旅行記みたいなものとが交互に現れてきてまあこれも飽きずに読める。この本ならではの処はこの旅行記の部分かもしれない。

 当然、本書もkindle版で読んだ。物理書籍に解説やらが付いているかどうかは分からないが、このkindle版には何も付いていなかった。しかし、このkindle版の表紙はもう少し何とか成らなかったのだろうか?幾ら電子書籍で表紙が重要でないとはいえあんまりである。

楽しい古事記 (角川文庫)

楽しい古事記 (角川文庫)

 

 

 『現代語訳 古事記』 福永武彦

 福永武彦は前回、現代語訳を読んだ池澤夏樹の父親である。この人も相当な文筆家だったらしいのだが、どれか読んでみようと思いつつも手が回らなくてまるで読んでいなかった。今回、池澤氏の『古事記』で巻末の参考文献の処にこの現代語訳が載っていたので、おお!、と思い、そして幸運な事にこれにはkindle版が存在したので早速読んでみた*2

 福永武彦の現代語訳は非常に柔らかで丁寧な日本語である。これから比べると、池澤版はやや砕けていると言えるかもしれない。勿論、それぞれ雰囲気の異なる良さがあってどちらも甲乙つけ難い。この福永版の最大の特徴は、古事記を現代語訳した地の文と内容に関する注釈が混ざって連続して綴られている処にある。これはもう言うまでもなく読み易い。地の文の部分だけだと、やはり、現代の我々にとってはさっと理解するには難しい内容がしばしば出てくるのであるが、注釈的内容が不自然無く織り込まれているので、するするするすると読んで行ける。ただし、これは大きな強みであると共に弱点でもある。と言うのも、結局の処、注釈というものに絶対的な正解は無い為、注釈と地の文の部分の区別が一瞥して分からないというのは、それなりに問題なのである。読み易さと引き換えに、情報の偏りも知らずに受け入れる事になってしまう*3。まあそこさえ気を付けて読めば、古事記の現代語訳としては屈指に読み易いものだろうと思う。同様の書籍に田辺聖子訳のものがあるのだけれど、こちらはkindle版は見つからなかった。田辺版もそのうち読んでみたい。

 古事記本文に関しては上述した様に本文と注が一体になっているが、歌に関しては、注釈は別個に施されている。この福永武彦に依る歌の注は中々読み応えがあるので、この部分を楽しみに本書を読むのも良いかもしれない。最近、古事記関連書籍を読み漁っているうちに、大体、こういう古典書籍の場合は注の味わいがかなり大きい事に気付いた。勿論、「ムー」の様な無茶な解釈を披露された場合は非常に困るのだけれども、歌の解釈なんかは福永武彦みたいな信頼できる文筆家の解釈を読んでみたくなるのが人情である。実際、カルノミコとカルノオホイラツメの兄妹悲恋の交わし歌の注釈なんかは非常に丁寧な詩的解説で、こういう処は小説家文筆家による注釈の本当に良い処だと思う。

 この本のもう一つ良い処は、解説がキッチリと収録されている処である。この解説は山本健吉という人が書いている。古事記を訓読みする事について、本居宣長がいかに美しい宇宙を古事記から編み出したのかについて、述べられていて、読んでいて益々古事記の世界に惹き寄せられるし、本居宣長の『古事記伝』も読まにゃいかんなという気分になる。

不完全な古事記の表記法を基にして、宣長によって創り出された、完璧に美しい小宇宙が『古事記伝』であることを、改めて認識することになるのである。それによって古事記は日本人に親しい世界となったのであって、この場合、美しすぎる宣長の訓みでなく、もっと合理的な今日の学者たちの訓みによっては、あれほどの伝達機能を発揮しえたかどうか疑わしい。

こんな風に書かれたら読まずに置いておく訳にはいくまい。心に余裕を作って何とか読んでみたい。しかし、こんなに人を古事記に惹き付ける解説を書く、山本健吉という人はどういう人だろうと思って、調べてみると、折口信夫の弟子でかつ明治の評論家石橋忍月の息子だそうだ。この人の文章も探しておいおい読んでみたくなってきた。

 この福永武彦の『現代語訳 古事記』はその訳の柔らかさ美しさのみならず、歌の注の充実、そして山本健吉の解説も合わせて、古事記をこれから楽しもうという場合に自信を持ってお奨め出来る一冊である。

現代語訳 古事記 (河出文庫)

現代語訳 古事記 (河出文庫)

 

 

*1:キリスト教書100選|日本キリスト教団出版局

*2:今更気付いたのだが、子供の頃に読んだ岩波少年文庫の古事記は福永武彦による再構成ものだった様だ。うーん岩波のセレクションの良さには脱帽である。

*3:池澤版の場合はこの問題を避けるために、現代語訳ではあるが、注釈は別になっている。紙媒体だと注釈形式は可読性を低くする事が多いけれども、電子書籍の場合はそれが左程苦にならないのでまあ技術の進歩というものはなんとも大きい物である。因みに、注釈者によって解釈にバラつきがあるように、解釈以前の読み下し方にも色々な遣り方が存在するし、これも解釈に影響を与える。そこに関しては多数の古事記注釈書を比較するしかないと思う。