(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

“The Leavenworth Case” Anna Katharine Green (『リーヴェンワース事件(隠居殺し)』 アンナ・K・グリーン )

 東西ミステリーベスト100と並行して江戸川乱歩の選んだ古典ベストテンを最近読んでいる。そのリストの中に挙げられている小説の内、ドイルの『バスカヴィル家の犬』以外の他の小説は今となっては知名度的にそれ程有名では無くなってしまっている物が多い。例えば少し前に読んだ『月長石』であるが、日本語訳のものは残念ながらkindle版は存在せず、創元推理から出ている邦訳版もそれ程には流通していないようである。他にもガボリオーやボアゴベイも挙げられているのだが、この辺りの邦訳版は少し見渡した限りではkindle版では手に入りそうはないし、原著はフランス語なので手が出ない。読めそうなものを探していると、グリーンの“The Leavenworth Case” が英語の原著なら手に入る事に気付き読んでみた。

  本小説『リーヴェンワース事件』が世に出たのは1878年、以前紹介した『月長石』から10年程経ってから書かれた事になる。この『リーヴェンワース事件』も『月長石』同じく古典的探偵小説の傑作に数えられている訳だが、同じ古典的探偵小説と云っても、その趣は随分と異なる。

 荒筋をざっと紹介すると、主人公である青年弁護士の下へLeavenworth老人の秘書が訪れ老人が拳銃で殺害された事を知らせる。Leavenworth邸に向かった主人公は、顔見知りのGryce刑事から、事件時の状況から犯人は邸内に居た人間である可能性が高い事を知らされる。その邸内には数人の使用人の他に、被害者の姪であり、美人で知られた二人のLeavenworth嬢が暮らしていた。さて犯人は誰なのか?

 まずその探偵小説としての構成のされ方が非常に近代的であり、現在我々が推理探偵小説を読む際にそれらに予め期待するものをこの時点で既に打ち立てる事に成功している。この小説を読み出して、直ぐ気が付いたのはそのテンポの良さである。本小説の舞台はニューヨークであり、登場人物達は既に近代化された人々であり、『月長石』のヴィクトリア朝懐古的な空気感とはそもそもからして全く異なる。物語が始まって直ぐにLeavenworth老人の他殺が告げられ、そして、殺人現場と思われる場所ですぐさま司法による調査が行われる。この構成は多くの近代的推理探偵小説の構成と非常に近いものがある。さあ、事件が起きた、謎を解いていこう!と云う訳である。主人公である青年弁護士Raymondは、今でいう処のワトソンになるのだろう、予断で以って謎の解決に向けて精力的に奮闘し、その予断が読者にある種の暗示を掛けていく訳であるが、物語が進むにつれて、事件の真相は主人公が想像した物からはどんどんと離れていく。探偵役のGryce刑事は論理的に眼前にある証拠を吟味しつつ捜査を進めて行く。捜査の途上幾つかの可能性が想定されうる訳であるが、このGryce刑事はホームズやデュパンの様な演繹的推理は行わない。彼はあくまでも可能性は可能性として保持しておき、新たな証拠の出現と共にその推理を更新して行くのである。これは天才的探偵ではない正に努力型探偵の一類型であり、近代に於ける推理過程に余り重点を置かない現実的探偵小説の原型と言えるかも知れない。

  上述した点は、現在では既に一般的な特徴であって、その構成の嚆矢であるという意味で素晴らしいのだが、それ以外にもこの小説に特徴的な仕掛けが一つある。主人公達が疑いの目を向ける人物達の内、被害者Leavenworth老人の姪である二人のLeavenworth嬢が登場するのであるが、この二人は、対照的な部分もあれば非常に似通った部分もある絶世の美人として描かれている。そして、その文章中しばしば、「Leavenworth嬢」と言う呼称で登場し、もう一人は「彼女の従妹」と表記される。この二人はお互いに従妹なので「Leavenworth嬢」と「彼女の従妹」は鏡像構造にあり、読者は時には二人の「Leavenworth嬢」が錯綜する感を覚えるであろう。この雰囲気作りはこの小説に於いては重要な仕掛けとなっている。

 そして、ここはネタバレになるが、この物語の最大の種は「お節介な殺人」である。通常、殺人事件の捜査の場合、犯行可能性と共に犯行動機が必要となってくる。しかし、「お節介な殺人」の場合はその動機が直接的な物では無い為に、捜査の線上に中々浮かんで来ない。似た様な物に、「交換殺人」もあるのだが、「お節介な殺人」は「交換殺人」と異なり、犯人に客観的な利益が無い分より推理が難しくなって来る。「お節介な殺人」自体は『カラマーゾフの兄弟』で顕れるものが最も有名かもしれない、そして、その犯行が露顕しなかったと言う点においても、この種の殺人犯の推定の困難さが想像できるだろう。本小説に於けるお節介の動機は、お節介を行う事で借りを一方的に拵え、対象を振り向かせたいという処にある。この動機自体は『月長石』に於けるRosannaのそれと非常に酷似している。勿論Rosannaはこの小説で描かれる犯人と比べると善良な存在として描かれてはいるのであるが、同じぐらいの時代の別々な推理探偵小説に於いて、お節介を以って相手を振り向かせようとしている人物が現れているのは興味深い。「お節介な殺人」及びそれに類するものを色々と探してみると面白いかもしれないと思った。

 さて上述したLeavenworth嬢であるが、物語の終盤に壮絶な告白をする。

もし、子供の頃からの贅沢な暮らしなんか人生の単なる付け足しだと思えるのなら。約束を守り愛情を守るために、それを簡単に捨て去れろうと思えるのなら! もし、名声や称賛や優美な品々がそれ程大切ではなくて、愛や友情や家庭の幸せの方が大切であったなら!もし、この億万の財産への欲望の足枷なしに一歩を踏み出すことができるのなら。(拙訳)

 金(富)と愛の天秤に掛けられると言うのは古来から頻繁に出てくる主題であるのだが、この小説で興味深いのは貧困と愛情との狭間で懊悩するのではなく、「巨万の富」と「愛のある比較的裕福な生活」との天秤なのである。探偵小説の筋とは関係無いのではあるが、ここに来て近代資本社会の発展のある種の極致としての富、そしてその富への誘惑の強さが戯画化されている。市民社会に於ける富の影響力の増大が伺えると思う。

 本小説は今でこそ、人々の記憶から消え行きつつある様だが、多くの長編近代探偵小説の雛形の様なものを見事に構築した記念碑的存在だと言える。この小説は大正の頃には『隠居殺し』と訳されていたし、後には『リーヴェンワース事件』という題で訳され、東都書房という処から出版されていた『世界推理小説大系』第6巻に収録されていた様だが、人口に膾炙しなくなってきたからであろう、現在は総て絶版状態の様だ。図書館に行けば手に入るかもしれないが、これは誠に残念な事態である。誰か有名な推理小説作家辺りが音頭を取ってこの小説を称揚してはくれないものだろうか?

The Leavenworth Case (English Edition)

The Leavenworth Case (English Edition)

 

 

『文学とはなにか-現代批評理論への招待』 テリー・イーグルトン 大橋洋一 訳

 小説読み方談義3

 今までに読んだ書物の内容をほぼ総て忘れてしまっている事の虚しさから読後の覚書を書き残し始めたのではあるが、文章を書けば書く程、自らの読みの浅さを思い知り、これではいかん、何とか改善したいと思い、更には他の人の素晴らしい批評を読んだ事で、せめて自らを納得させる事が出来るような読解を身に付けてみたいと思い始めた。

 さて、こういう際には、何か読み方の手引書、理論書みたいなモノが存在する筈だ、と云うのが、私が古来から書物に寄せている信頼であり、実際に探してみると、その様な目的に沿った書籍が散見される、例えばウィトゲンシュタインの『読書について』やナボコフの文学講義、そしてこの『文学とは何か』等が見つかった。最近同時に読んでいる大橋洋一編の『現代批評理論のすべて』に依れば、『文学とは何か』が最初の取っ掛かりとしては良さそうなので、まず、『文学とは何か』(1983、1996年)から読んでみた次第である。

 読んでみて分かったのだが、そもそも本書は「文学とは何か」を考えると言うよりも、それを行う為の方法論を徹底的に議論している。そして、これも後から考えてみれば、ある意味に於いて当然の事に思えてくるのだが、つまり、「文学とは何か」を考える為にはまず、文学という「何か」をある種の方法で検討せねばならないが、その理論や考え方は既に多種提示されており、それらの内の一つを無批判に取り上げるだとか、それらに追加するような並列の理論を単純に打ち立てるだけでは、「文学とは何か」にそう簡単には近付けないのである。であるから、結果的にこの本は、「文学とは何か」を掴む方法論つまり文学理論・文学批評とは実際の処どの様なものなのか?を議論する、メタ文学批評となっている。つまり批評の批評である。これが、私がこの数年間に読んだ書籍の中では飛び抜けてとてつもなく面白いものであった。

 著者イーグルトンはまず、序章に於いて、本書のタイトルの通りに「文学とは何か?」について考察を始めている。虚構が文学なのか?これは違う。言語を独自の方法で使用する、例えば、ロシアフォルマリスト達が提言したような、言葉を日常言語から解き放ち異化したものが文学だろうか?これもそう簡単には行かない。何故なら少し考えてみれば思い当たるように、日常言語と云う概念が常に単一の規範として共有されているという保証は無いからである。さらに異化説のもう一つの問題として異化の定義の曖昧さもある、読み方に依っては何でも異化であると言えなくもない。この事は、文学というものは書物の内容から一方的に規定されるものではなく、読み手にも依るものである事も示唆している。つまり、「文学とは人間と著述との一連の関わり方である」と言えるし、その意味において、

文学は、昆虫が存在しているように客観的に存在するものではないのは、もちろんのこと、文学を構成している価値判断は歴史的変化を受けるものである。そして、さらに重要なことは、こうした価値判断は社会的イデオロギーと密接に関係しているという事だ。

と、イーグルトンは述べている。そして、イデオロギーとは単なる個人的嗜好ではなく社会的集団が権力を行使し維持するために役立つ諸々の前提だとしている。

 ここで、著者の姿勢が決定的に明らかになる、つまり「文学とは一定の形で規定出来るものではない。」と主張するのだ。

 ここから、イーグルトンは様々な文学批評を俎上に載せて、滅多切りにして行く。そもそも、イデオロギーのない文学理論など存在しないのだと、歴代の文学理論を徹底的に検証していくのである。

 高尚であれば文学である、等と言うのは当然ある種の権威主義でイデオロギーに他ならないし、文学に宗教に代わる社会規範浸透装置としての役割を求めるのも当然イデオロギーである。ロマン派的な不可侵の美、神聖な美というものも権威主義と変わりがない。美を解析的に研究する流れには見るべきものはあるが、結局の処、ある種の価値観に合致したエリート主義に繋がる。現象学的批評は現実逃避に過ぎないし、構造主義は個々の経験を無視したアンチヒューマニズム的になりかねない。ポスト構造主義にしても現実とは向き合わない消極的姿勢へと終息してしまう場合もある。消極的姿勢とは結局の処、現状容認であり、現在の社会システムを支えるイデオロギーへの肯定でしかない。様々な新しい文学理論例えば、フェミニズム、ポストコロニアリズム、新歴史主義にしても様々な弱点を内包している。

 面白いのが、イーグルトンがそれぞれの理論を紹介する際に、その理論の概要を纏めて提示するのだが、その部分を読んでいる間は、成程成程と思って読んでしまうのである。しかし、どの理論に関しても、イーグルトンは最後には容赦の無い審判を下していく*1。ただ、イーグルトンはイデオロギー的である事を批判しているのではない、イデオロギーを内包している事に無自覚である事を批判しているのである。イデオロギー的でない公正無私な文学理論などこの世には存在しないのだ。

 読者はこう感じるだろう、公正無私な文学理論が無いのは了解した、と、では結局のところ答えは何なのか?どの文学理論が最も優れているのか?そしてどの文学理論に従えば「文学」を「読む」事が出来るのか? 結局の処、イーグルトンの答えはそんなものは存在しないという事になる。その様な正解や優劣が存在するかの様に思えたのはイデオロギーの所産である「文学制度=ある種の権威」による誤謬である。イーグルトンは統一的な文学理論が存在するという考え方自体も幻想に過ぎないと述べる。

 イーグルトンの主張する処は、「全ての批評はイデオロギー的であり政治的である、批評行為自体はイデオロギーと不可分である。その点に於いて、持てる価値・信念・諸目標の違いによってどの様な理論・方法を採るかは変わってくる。」という事である。イーグルトンの場合は窮極の処、社会を変革して現在の権力構造から解放する事を目的にしている。そしてその信念から重大な提言を行っている。

人間は文化のみに生きるにあらず。大多数の人間はその歴史を通して、文化に接するチャンスすら奪われてきたのであり、そして現在文化的活動を職業としている幸運な少数者たちの生活を保証しているのも、文化に接することのない人びとの労働である。この単純だがもっとも重要な事実から出発し、この事実をその活動のなかで心にとめておかないような文化理論や批評理論は、いかなるものにせよ、私の意見では、存在するに値しない。

 これはイーグルトンの主張には、強く同意せざるを得ない。富の集中と同様に、文化を嗜む事が可能であるという状況自体もある種の収奪なのである。私は幸いにも現在までの日本の社会構造を利用してこれまでそれなりに文化を愉しんできた訳であるが、これを可能にしてきたのは、数多くの人々の労働そしてその存在に他ならない。私にこの幸福を提供した社会構造と謂えども、現状が最善に近いとはとても認められないし、より良い物への変革を望んではいる。ただ、やはり自称リベラルの偏狭な価値観に収束してしまう自分自身の不誠実さも同時に感じざるを得ない。この自称リベラルが陥りがちな狭い思考はイーグルトンが本書で指摘し批判してきたものそのものである。より深く思惟せねばならないだろう、そして思索のみならず、何らかの別な選択肢も視野に入れて行くべきなのかもしれない。

 イーグルトンの懐疑的精神と社会主義的情熱に充ち満ちた本書は、近代の文学批評理論を通覧するのみならず、その背後に隠されていたイデオロギーを白日の下に曝しだした。イーグルトンの個人の思想信念に基づく議論の展開は本書に於いては拙速の感もぬぐえないが、その情熱には私の情動を震わせ興奮へと導くものがあった。本書は文学に興味を持つ総ての人々へお奨め出来る屈指の書物である。

文学とは何か (上)?現代批評理論への招待 文学とは何か?現代批評理論への招待 (岩波文庫)

文学とは何か (上)?現代批評理論への招待 文学とは何か?現代批評理論への招待 (岩波文庫)

 
文学とは何か (下)?現代批評理論への招待 文学とは何か?現代批評理論への招待 (岩波文庫)

文学とは何か (下)?現代批評理論への招待 文学とは何か?現代批評理論への招待 (岩波文庫)

 

*1:とは言え、リベラル・ヒューマニズム、フェミニズム、ポストコロニアリズムには一定以上の共感を示しているように思える。

“The Moonstone” Wilkie Collins (『月長石』 ウィルキー・コリンズ)

コリンズの古典的傑作
-呪われたダイヤ「月長石」を巡る超長編

 推理探偵小説というものは、個人的な印象ではあるが、SF小説と並んでベスト何々みたいなリストが作られ易い分野であると思う。江戸川乱歩が作成したベストテンのリストも何種類か存在していて『幻影城』の中で紹介されているのだが、その中でも第一次世界大戦以前のものを取り上げた古典ベストテンに最近興味を惹かれている。そこでその古典ベストテンを順番に読んでいこうと思い、その中から、まず古典的名作として有名なウィルキー・コリンズの『月長石』(1868)を読んでみた。

 『月長石』はその月長石に纏わる挿話から始まる。

 月神を讃えるインドの寺院に輝いていた月長石。月長石はやがて戦乱の時代と共に寺院から簒奪されるが、それを取り戻すべく寺院の婆羅門の末裔によって常に監視されていた。1799年インドでの争乱の際、John Herncastleは月長石を手中に収める事に成功するが、婆羅門の末裔は不吉な言葉を彼に残すのであった。

 この最初の挿話の次に、Verinder家の召使であるOld Betteredgeの手記が始まり、我々読者は、月長石がVerinder家から紛失した事、そしてそれに纏わる物語はどうやらこの手記が記されている時点では解決済みであり、数名の人物による幾つかの手記を通覧する事でその出来事のあらましを知る事になるであろう、と云うこの小説の構造を理解する訳である。

 この小説の一つの工夫として、複数の人物が同じ事件同じ場面を別な視点から描いているという点がある。手記の寄せ集めという形を取る事によって登場人物の知りえる事実や認識している事のずれの様な物を巧く整理して読者に提示する事に成功している。この小説ではそれぞれの人物による事件に関する記述には全く齟齬がないように構成されており*1、後から読み直すと、成程あれとあれが関係していたのか、と納得のいく処が多々あって流石は当時人気を誇ったコリンズの筆力と感心した。

 またこのような構成にする事で、「語り手=手記記述者」ごとの特徴が強く表れていて、それが物語の進展のスピードそして読書自体のスピードにも影響を与えてくる処が良く出来ている。月長石紛失当日の出来事の手記の担い手であるOld Betteredgeの語り口はゆったりとした大洋のうねりの様に、少し脱線しては少し進みといった様子で、中々事件当日へと辿り着かない。2番目の手記の担い手である、Clack嬢にしてもBetteredgeに比べれば幾分かマシかもしれないが、それでも物語は中々真っすぐには進んで行かない。ちなみにこの物語は一応は江戸川乱歩が推薦し、また東西ミステリーベスト100にも入っている推理小説という事になってはいるのだが、メロドラマ的な部分が占める割合も多く、佳境に入るまでは人によっては相当退屈に感じるかもしれない。これが段々と後の語り手に成る程、その語りの速度は増加していき、そして読者の読みの速度も結末に向けてどんどんと加速していくのである。恐らく、多くの読者はOld BetteredgeとClack嬢の手記を読み終えるまでに掛けた時間の5分の1ぐらいの時間で残りの部分を読み終える事になる筈だ。

 小説内の人物造形も中々一癖ある。上述したOld Betterredgeはロビンソン・クルーソーを預言書として愛読する好人物の老召使であり、その手記を読む間に読者は彼にかなりの好意を抱くであろう。逆にClack嬢は恐らくmethodist系の急進的狂信的信者で所謂信仰故の要らぬお世話を強要してくる人物として描かれており、悪人ではないにしても読者にある種の忌避感を抱かせるに違いない。そしてこの小説に登場するCuff巡査部長の造形は後の名探偵達にかなりの影響を及ぼしたのではないかと思う。Cuffはスコットランド・ヤードの一の腕利きなのだが、その外見は黒の衣服に身を包み、痩せぎすで、陰鬱かつ冷静沈着な探偵として描かれている。風変わりな探偵の嚆矢かもしれないし、またその特徴の一部はホームズであったり、以前に紹介した久生十蘭の『魔都』に出て来る真名古警視にも引き継がれている。

 この小説は純然たる推理小説とは少し異なるのだが、登場人物達の誤解や思い込み、そしてそれらが引き起こす行動が幾重にも折り重なって奇遇を産み、月長石の紛失という謎を混迷へと導いていたという事がレトロスペクティブに解明されていく様は面白い。これは確かにある種の推理探偵過程である。横溝正史の『犬神家の人々』に於ける偶然と必然の組み合わせで謎がより複雑に成っていくお話の種の一つかもしれない。もっとも誤解で物事がヤヤコシクなるというのは、別に『月長石』に限らず、古代から綿々と受け継がれてきたプロットではあるのだけれども。

  真偽は定かでは無いが、T・S・エリオットがこの小説を「最良の推理小説」と評したらしい。勿論、この小説は良く出来ているとは思うが、エリオットが絶賛したのは、この小説の推理小説としての良さだけに依拠する訳ではないと思われる。というのも、エリオットは古き良きヴィクトリア朝の上流階級による支配社会を理想の一つとしており、この小説で描かれるような、ヴィクトリア朝の貴族の優雅な暮らしと忠義に溢れ献身的に奉仕する召使に顧問弁護士という物語にはかなりの愛着を感じたであろうし、それがこの小説の評価を後押ししたのだろう。ただ、コリンズの意図は分からないが、小説内での人々の描かれ方はそれほど理想郷的ではない。主人公といえるMr. Franklin Blakeは不労所得で遊び暮らしており、借金をこさえる程に金遣いが荒く、人との約束にもだらしなく、その上、自己中心的で我儘である。また恋人であるRachel Verinder嬢も美人ではあるが、高慢でこれまた自己中心的かつ衝動的な人間である。その従兄弟のGodfreyは社会奉仕活動に貢献している様に見えるが、その実上辺だけを取り繕った詐欺師紛いである。この様に貴族階級が一部を除いて問題を抱えた人物達ばかりであるのに対して、労働者である召使Old Betteredge、巡査部長Cuff、弁護士Mr. Bruff、医師補佐Jenningsこれらの人物は皆職掌に誇りを持ち情にも厚い相当な好人物達である。この対照的な描き方は、やはり、変革しつつあったヴィクトリア朝の何か新しい兆しをコリンズが掴んでいた事を示しているのではないだろうか。

 この『月長石』実際、推理小説としてだけではなく社会形態、宗教態度等、様々な読み方を提供する中々の佳作である。150年の時を経て尚まだ読むに耐える書物であると思う。今回、私はpublic domainとなっているkindle版の原著を読んだ。ちなみにこの小説は結構長いので、上述したOld BetteredgeとClack嬢の手記の部分は英語で読むのには相当にきつかった。まあ再読した際には細かいパズルのピースが嵌まり合う感覚が楽しめて良かったのではあるが。邦訳版は創元推理から出ている。kindle版は存在しない様だ。

The Moonstone (English Edition)

The Moonstone (English Edition)

 
月長石 (創元推理文庫 109-1)

月長石 (創元推理文庫 109-1)

 

*1:まあ、ここで手記の記述に齟齬があったりしても面白い探偵小説になるだろうなとは思ったがこれはこの小説の狙う処ではないので仕方がない。例えば芥川龍之介の『藪の中』なんぞは推理小説ではないけれどもこのような複数証言間の齟齬が非常に面白い効果を発揮している。