(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

“Through the Language Glass: Why the World Looks Different in Other Languages” Guy Deutscher (『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』 ガイ・ドイッチャー)

 言語を通して、我々は世界を見ている

 最近、英語の語彙を増やすためと長文を読む体力を付けるために英語の書籍を読むようにしている。推理探偵小説は興味が先行するので英文でも非常に読み易くて既に何冊か読む事に成功したが、ここで友人に薦められた色の認知と言葉に関連する書籍、“Through the Language Glass”(2010年)を読んでみた。

 薦められた切欠なのだが、どういう訳か色の認識が、国に依ってまた時代に依って異なるという話をしている時に、そう言えばホメロスは地中海を葡萄酒色だと言っていたという話になってこの本を薦められたのは覚えている。どうしてそういう会話になったか?の方が恐らく重要な情報だったような気がするのだが、もう覚えていない。

 ホメロスのワイン色の地中海の逸話は非常に有名で、例えば北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』にこういうお話が出て来る。

 パリで友人のTと会ったとき、「ギリシャの海を見たかい? 葡萄酒色をしているだろ。ホーマーにある通りだよ」という話がでた。そりゃ赤潮か何かじゃないかと言うと、いや、そんなヤッカイなことは俺は知らぬがたしかに葡萄酒色だと彼は頑張る。私は帰途ギリシャの下あたりを通るときずいぶん注意していたが、ついにそんな海の色にはお目にかかれなかった。
-『どくとるマンボウ航海記』 北杜夫

 このお話を最初に読んだ時は、ホメロスは海の色を詩的に表現していただけだろうと思い、あの描写を真に受ける人が世の中には居るのかと面白く感じただけで、別に深くも考えていなかったのだが、どうやら話はその様な単純な物ではない様だ。

 例えば虹は今では一般に7色という事になっているが、その色の境目はどこなのか?5色にしか見えないという事もあるだろうし、もっと多色に見える事もあるだろう。例えば日本では信号の色を青と赤と表現するが、青信号は実際には緑にかなり近く見える。このずれはどこから生じているのか?

 本書"Through the Language Glass"は、この様な色を巡る様々な疑問に答え、更に、言語と文化に関する深い考察を提示してくれる非常な良書である。

 最初に話題になるのが、上述した、ホメロスの描いた葡萄酒色のエーゲ海である。この描写を単なる詩的表現だとは納得しなかった大人物が存在して、それがかの英国の大政治家Gladstone*1である。Gladstoneはホメロスは詩的にエーゲ海の色を葡萄酒色と表現したのではなく、実際に葡萄酒色と認識していたと主張する*2。彼は『オデュッセイア』と『イーリアス』中の色表現を調べ、黒が約170回、白が約100回、赤が13回、黄が10回、そして紫が6回で他の色はこれよりも少ない事を確認した。そしてGladstoneは古代の人々は自然界を主に白黒で表現していたと結論付けたのである。この一見突飛な考え方は後に様々な文化人類学的調査によって実際に、文化が原型的に留まっている場合には文化に於ける色の数は少なく、文化の近代化と共に、最初に黒白それに加えて赤、そして黄色と緑、そして更に他の色、と云う具合に色認識が増えて行く事が明らかになったのである。重要な事は視覚認知としては弁別できるのだが、文化的に色を区別しないという事である。最初の例で言えば、海の色は黒でも白でもないために赤、即ち葡萄酒色と表現される事になる。因みに色がどの民族においても同様の区分と複雑化の傾向を持つ要因として、自然界に存在する実際の色の意味合いと頻度、そして人間の3種類の視細胞*3の色指向性が挙げられている。

 Deutscherはこれらを「自然界と生物的な制約の下で文化が色の境界を定めている」と纏めている。これが前半部分“Language Mirror”のお話である。

 後半は言語に依る行動や習慣への影響について述べている。ここで前提として重要なのが、20世紀初頭に注目を集めたらしい「サピア=ウォーフ仮説」と云う仮説は基本的には誤謬であるという前提である。「サピア=ウォーフ仮説」が提唱した概念とは、例えば「未来形が存在しなかった場合、その言語を使用する人々には未来の概念が存在しない。」といった、言語の特徴が人の思考様式に制約を掛けるというモノである。本書を読む限り、ウォーフの理論には穴が沢山存在するし、論理的帰結として導かれている訳ではない。そして、この概念/仮説はその後の様々なフィールドワークや調査や比較研究によって誤謬である事が確認されている。さて、この大前提を踏まえた上で、著者のDeutscherは幾つかの、影響は小さく、知的思考能力に影響を与えるとはとても言えないが、確かに言語的特徴が行動や慣習に幾らかの影響を与えている例を幾つか紹介している。

 まず1つ目、例えば、アボリジニの一部の部族やインドネシアの一部の人々は空間的位置関係を説明する時に常に絶対座標を持ちいる。我々が例えば右手左手と述べる処を西の手・東の手と述べる訳である。当然、体の向きが変われば西の手が南の手になる事もあれば東の手になる事もある。この様な座標系に暮らしている人々は文化的にその居住地との結び付きが強い事が容易に想像され、原型的な大地と人類の混淆という処に想いを馳せてしまう。

 2つ目の例としては、言語上のジェンダーが話者のその対象への印象に幾らかの影響を与えるという話である。例えばドイツ語やスペイン語では無生物の事物にも言語上の性が存在する。そして、話者はその言葉が例えば男性名詞であるか女性名詞であるかによって言葉への印象が左右されるというものである。

 3つ目の例は、再び色の話である。例えば日本の青信号が何故緑か?という最初の方で書いた疑問があるのだが、前半部で示された通り、青と緑が明確に区別される様までには時間が掛かる。“Green”信号が日本に導入された当時には日本人はその色合いを「青」信号と表現する事に違和感が無かったようだ。面白いのが、現在日本では当然多くの人々が「青」信号が緑色であるから変に感じる。その為に日本の「青」信号は世界の規格で許される範囲で最も青い色になっているとの事である。これは確かに言語が周り回って社会に影響を及ぼした例と言えるだろう。色の話はもう一つあって、ロシア人の場合、青の明度の弁別速度が、文化的に青の明度を区別しない人々よりも、統計的有意に速いとの事である。まあこれもトリビアルな感は否めないが、言語が認知に影響を与えている確かな例である。

 これら3つの例が後半部分の“Languarge Lens”になる。つまり言葉という眼鏡を通して見る世界といった感じか。

 以上の様に、Deutscherは様々な前提となる制約の下、文化が言語へ影響を与える事を示し、そして、その言語が人々の行動や慣習に幾らかの影響を及ぼす事を明示した。これらの事はまあトリビアルといえばトリビアルかもしれないが、どんな物事でも突き詰めて調べていくというのは本当に面白い事なのだな、と改めて感心した。

 そうそう、本書を読む際には以下のshorebird氏のblogの記事も非常に参考になると思う。

d.hatena.ne.jp このblogの書き手shorebird氏はこの分野にも詳しい方の様で、他の記事も読む事で、言語文化関連の現状把握がより深まる様に思う。そして、このblogで再三取り上げられているSteven Pinkerの本は非常に興味をそそられるし、そちらもしっかりと読んでみたくなって来た。

 この様な、英語圏の前線の科学者による一般向けの書籍を読むたびに、欧米の研究者は一般向けに高度な研究内容を平易な形で提示するのが非常に巧いなといつも感じてしまう。日本の場合だと噛み砕き過ぎてなんだか良く分からない書物になっている事が多い。日本の研究者にも頑張ってほしい処である。

Through the Language Glass: Why the World Looks Different in Other Languages

Through the Language Glass: Why the World Looks Different in Other Languages

 

*1:“The Big Bow Mystery”にゲスト出演したかの人である。何度となく英国首相となったのみならず、ホメロスの著作を研究するのみでほぼ完璧に古代の色認知に関して推察を成功させたのであるから、一種の天才だったのだろう。

*2:ホメロスは盲目であったという伝承も存在するが、それはそれだとしてもホメロスの時代の地中海の人々が海を葡萄酒色と認識していたという仮説である。

*3:世の中には2種類しか持たなかったり、更に頻度は少ないが4種類持つ様な人も存在するのだが、ほとんどの人々は青(420nm)、緑(534nm)、赤(564nm)、それぞれの波長帯域に反応のピークを持つ異なる3種の錐体細胞を有している。

“The ‘Canary’ Murder Case” S. S. Van Dine (『カナリヤ殺人事件』 S・S・ヴァン・ダイン)

 誰もがみんな嘘吐き野郎

 最近、江戸川乱歩の『悪人志願』を読んでいる。江戸川乱歩の随筆集というものは非常に面白くて、失礼ながら、氏のイマイチぱっとしない作よりも随分面白い。自作解説から様々な推理探偵小説界の雑感、日本の推理探偵小説同人の逸話、等、読み所が満載である。しかし、一つだけ非常に読んでいて困る処がある。それは何かというと、以前『幻影城』を読んでいた時にも経験したのであるが、乱歩先生は容赦なくネタバレを書き記すのである。ちょっとネタバレだとか仄めかすとかいう程度ではなく、しっかりと解説してしまう。これは中々困った話であって、その対象の作品が、既に読んでいるものであればまあ良いのだけれども、未読の作品であれば、読者としては非常な窮地に立たされる。親切な事に、『悪人志願』ではそれぞれの随筆やら作品解説らの初頭に「ネタバレ危険」の注意書きがある。それの御蔭で読者は難を逃れる事が可能になるのである。

 さて、これが今回私がヴァン・ダインの“The ‘Canary’ Murder Case”(『カナリヤ殺人事件』:1927年)を読んだ理由である。つまり、『悪人志願』を読んでいると、この『カナリヤ殺人事件』ネタバレ警報に出くわしたのだ。

 こんな不純な動機で読み出したのであるが、これが中々の名作だった。一見密室状態の部屋でブロードウェイの歌手が絞殺されるが、当然誰かがその密室に入りそして密室から出て行かなければならない訳である。勤勉な警察は事件の解決に向けて苦戦する訳であるが、そこに登場するのが、Philo Vanceという高等遊民兼素人探偵の変人である。

 探偵小説というものに於いては、どの作者もその主人公たる探偵の造形に非常な気を配るものだと思う。現代において一番有名な探偵と言えば勿論シャーロック・ホームズでそれにデュパンやポワロが続く感じだろうか。日本ではこういうやや変わり物で天才肌系の探偵が好まれる感があると思う。勿論天才肌の探偵にも色々と種類があって、デュパンなんかは完全に頭脳演繹型でやや安楽椅子探偵的な所もあるが、ホームズやポワロは実地調査も怠らない手足も動くタイプの探偵である。より現実的で堅実で科学的な探偵としてはソーンダイク博士がいるし、頭脳型の筈がまるで人を救えない金田一耕助なんかもいる。

 その先行する探偵像と比べてもヴァン・ダインが生み出したこのPhilo Vanceという奴は相当に人物造形が非常に良く出来ている。この人物は今の処、私の中ではソーンダイク博士の対極に居る存在である。と云うのもソーンダイク博士は真面目で、誠実で、非常に慎重で、科学的で、何よりも物証を重んじる人間であったが、この小説の探偵Philo Vanceは全く違う。しょっちゅう韜晦するし、中々心が読み辛いし、何と言っても不真面目な薫りがする。いつも科白の最後に“Don't y' know”、“What?”と付け足して妙に嫌な喋り方をするのだが、これが又癖になる嫌さでとても良いのである。 果てさて、この不真面目な薫りは何処かで嗅いだ記憶があるぞ、と思えば、これはあれだ、“The Mentalist”である。アメドラには探偵モノがしょっちゅう出てくるのだが、大体の処、やや異能者的な人々が、官憲を助ける形になる。その官憲を助ける人々にも違いがあって、まあ、科学的捜査だとか、確率統計を用いるだとか、骨を鑑定するとか、色々ある訳であるが、それらの中に私の非常に大好きな異能者がいて、それがその“The Mentalist”での探偵役であるPatrick Jane*1である。このPatrick Janeは心理的洞察を以って犯人を推理するのだが、いつもおどけてふざけている。まあ見た目が良いし人当たりも良いので女性受けは頗るよい。このPatrick Janeに本小説のPhilo Vanceは非常に似ているのである、いや、JaneがVanceに似ていると言った方が正しいか。“The Mentalist”を見ている時はメリケンは面白い人物造形するものだな、と思っていたが、今から思えばPhilo Vanceから着想を得たのであろう。

 Philo VanceのアプローチはJane同様、物証よりも心象である。ここがホームズやらポワロやらとそしてソーンダイク博士と決定的に違う所である。例えば以下の様な事を言う。

“But as I have stated before, when material facts and psychological facts conflict, the material facts are wrong.(略)”
「でも、前にも言ったように、物理的な事実と心理的な事実が矛盾する時は、物理的事実の方が間違ってるのさ。(略)」(拙訳)

 この様な具合であるからVanceは物証から簡単に演繹されるような物語を易々とは信じ込まない。であるからして、Vanceに信頼を寄せるMarkham検事は外面的な仮説が成立してもその捜査を安易に切り上げる事はなく、Vanceが納得するまで粘り強い捜査を続ける。そしてその内に、最初には一見整合性の有った物語が徐々に変容して行くのである。この小説の推理小説たる肝は登場人物達の証言であろう。推理小説に於いては、登場人物達が真実を語るとは限らないのは当然なのであるが、それにも程度という物があって、この小説の様に皆が皆べらべらと嘘を吐きまくると云うのは、これはこれで異質な感がある。Vanceが物証より心理を重視するが為に、彼らの誤魔化しは整合性があっても露見していくのであるが、誤魔化す前の物語にも、誤魔化した後の物語にも、それなりの整合性があるという処が不思議な並行世界を見ているようで面白い。

 又、心理捜査の見せ場として、物語の終盤に、Vanceは犯人を特定するために、心理テストとしてpoker(誰もが知っている、トランプを使ったゲーム)を行う。犯人はpoker(火掻き棒)を宝石箱をこじ開けようとするのに使っており、この事実もVanceが犯行現場の不自然さに気付いた理由の一つであって、pokerでpoker使いを捕まえると云う言葉の合致が妙に洒落が利いていて何となく心地が良い。この推理小説は随所にこの様な微妙な洒落が利いていて堪らない。

 『カナリヤ殺人事件』のトリックその物はそこまで良く出来たものではない。密室トリック自体は私の嫌いなタイプのモノだし、アリバイトリックも同様に私の嫌いなタイプのモノである*2。しかし、トリックよりも何よりも心理捜査というかなり際どく難しい所に敢然と挑戦していったヴァン・ダインの勇気が素晴らしい。Philo Vanceのやる気の無い様な、冗談ばかりの様な、それでいて観察力に秀で、心理洞察に優れる、このキャラクターは日本でもっと人気が出ても良さそうなキャラクターだと思う。私はこの小説を読んだだけでかなり惹き付けられてしまった。これからVanceものをどんどん読んでいく積りである。

 今回私はkindleのVan Dine全集物で読んだのだが、購入するには少なくとも下に紹介したものをお勧めする。と言うのも、私は最初別な全集物を購入したのだが、推理を楽しむ助けになる見取り図が含まれていなかった。下に紹介した全集にはちゃんと図が収録されている。他にも図入りの物はあるかも知れないが、review等を確認してから購入するのが無難だと思う。

 

*1:元々詐欺師でインチキ霊能力者をやっていたので心理洞察に非常に優れているという設定である。サーカス育ちの孤児でもあるが、同時に多くの教養も備えている。

*2:途中から悪い予感がしてきて、まさかあれを使ってるんじゃ無かろうな?と不安になって来たのだが、その悪い予感は的中してしまった。

『歴史』 ヘロドトス 松平千秋 訳

 独裁制と民主制の戦い:ペルシア戦争を巡る一大歴史叙述

 歴史に関する書物は中々面白いものが沢山ある。私は子供の頃から歴史関係の小説はかなり好きであった。『三国志演義』に始まり、『水滸伝』(歴史物では無いか)、陳舜臣の『十八史略』、山岡壮八の『徳川家康』、司馬遼太郎の色々な小説等を結構読んだのを覚えている。勿論この辺りの物は創作の歴史小説であって、きちんとした史書では無いから作者の好みや演出が多分に介入している訳であるが、そうは言っても相当面白い。きちんとした歴史研究文献は勿論碌に読んだ事がないので、それらがどれくらい面白いのかは良く分からないけれども、それはそれできっと随分面白いだろうと思う。まあ、きちんとした歴史書と言っても、古代のものになれば創作の入った記録と純然たる事実の記録との境目を明確にする事は中々困難ではないかと想像する。

 今回読んでみた、ヘロドトスの『歴史』はその古代の歴史書になる。これは歴史書に分類されるの最初の物だという事になっているらしいのだが、当然、現代に於いては、ここに書かれている諸々の出来事の総てが事実を完璧に反映していると思って読んでいる人は皆無であろう。今回は岩波のkindle版で読んだのであるが、事実と思われている事と、現代では事実とやや異なると思われる事に関して相当量の充実した注釈が存在していて、やはり、今の所電子書籍では岩波文庫の出来が良いな、と改めて認識した。注釈は全てを確認した訳では無いのだけれども、その量にして本文自体の3分の1くらいはあるのではないかと思う。現代に於いては、様々な名称等が変わっていたり、明らかにヘロドトスの誤解であると分かっている事などもあるし、時々挿入される地図や、人物の歴史的背景、系統図等はこの一大歴史記述を理解するための大きな手助けとなる。kindle版にする際に、著者とは別に注釈者からも電子書籍化の了解を取るのが手間なのかもしれないが、書籍版には存在する解説や注釈が電子版では割愛されていると云うパターンを良く目にするだけに、岩波がこの手の労を惜しまない所は、やはり、文芸の振興へその力を投入し続けてきた出版社だけの事はあると思う。

 さて、この歴史大書、ヘロドトスの『歴史』であるが、一度は読んでみるべき書物として様々な処で紹介されている。『歴史』という書物名であるが、世界の歴史を叙述した歴史書と云う類の物ではなくて、基本的には紀元前450年頃に起きたペルシア帝国によるギリシア侵攻、所謂ペルシア戦争に関する記述と、ペルシア帝国を中心としたそれらに関係する国々の風土記から成っている。ペルシア帝国に関してはメディアやリュディアにまで遡り、その成立過程も詳しく記載されている。読み始めてみると、訳の平易さもあるのだろう、さらさらと読み進める事が可能で、昔に『三国志演義』を読んだ感覚を思い起こさせるものがあった。

 歴史叙述なので勿論様々な物事が記述されているのだけれども、その記述の根底に二つ程ヘロドトスの強い思想が伺える。一つは盛者必衰的な思想である。そして、もう一つが、民主制と独裁制の比較に於いて、ヘロドトスが自由と民主制を圧倒的に支持しているという明確な姿勢である。

 まず最初の盛者必衰の理に関してであるが、以下の様に何度かその事が示唆される。リュディアの王クロイソスがソロンに誰が世界で最も幸福か?と尋ねたときに、ソロンが答えて言うには、

どれほど富裕な者であろうとも、万事結構ずくめで一生を終える運に恵まれませぬ限り、その日暮らしの者より幸福であるとは決して申せません。(中略)神様に幸福を垣間見させてもらった末、一転して奈落に突き落とされた人間はいくらでもいるのでございますから。

勿論、クロイソスはソロンの言葉に耳を傾けないが、結果、波乱の一生を送る事になる。

 また、エジプト王アマシスがサモスの独裁者ポリュクラテスに宛てた書簡には以下の様に記されていた。

万事にことごとく幸運に恵まれるよりはむしろ、成功することもあれば失敗することもあるというように、運と不運をかわるがわる味わいつつ一生を終るのが望ましいように思います。かように申すのも、何事につけても幸運に恵まれた者で、結局は世にも悲惨な最期を遂げずにすんだ例を小生はかつて聞いたことがないからです。

 ポリュクラテスも非業の死を遂げる事になる。

 また、クセルクセスのギリシャ侵攻計画をアルタバノスが諫めて言うには

神は他にぬきんでたものはことごとくこれをおとしめ給うのが習いでございます、(中略)神明は御自身以外の何者も驕慢の心を抱くことを許し給わぬからでございます。

つまり、強者がやがて敢え無く滅びる危険を諭している。このアルタバノスの危惧する通り、クセルクセスのギリシア侵攻は圧倒的な兵力差にも関わらず失敗に終わるのである。

 勿論、歴史的展開に合致するように都合の良い伝承を並べたのであろうが、これらの記載とその提示の仕方から、強者が何時までも強者たる事は無いと云う、ヘロドトスの強いイデオロギーを受け取る事が出来る。

 さて、もう一つの大きなテーマ自由と民主制についてである。ヘロドトスはこの『歴史』中に何度も民主制と自由がギリシアに勝利を齎した事を強調する。

 まず、アテナイでの自由民主制について以下の様に記している。

かくてアテナイは強大となったのであるが、自由平等ということが、単に一つの点のみならずあらゆる点において、いかに重要なものであるか、ということを実証したのであった。というのも、アテナイが独裁下にあったときは、近隣のどの国をも戦力で凌ぐことができなかったが、独裁者から解放されるや、断然他を圧して最強国となったからである。これによって見るに、圧政下にあったときは、独裁者のために働くのだというので、故意に卑怯な振舞いをしていたのであるが、自由になってからは、各人がそれぞれ自分自身のために働く意欲を燃やしたことが明らかだからである。

 他にも以下の様に自由と民主制の強みを記している。

かくのごとくスパルタ人は一人一人の戦いにおいても何人にも後れをとりませんが、さらに団結した場合には世界最強の軍隊でございます。それと申すのも、彼らは自由であるとはいえ、いかなる点においても自由であると申すのではございません。彼らは法と申す主君を戴いておりまして、彼らがこれを怖れることは、殿の御家来が殿を怖れるどころではないのでございます。

御忠告下さるあなたは、なるほど一面のことは経験済みでおられるが、別の一面のことには未経験でおいでになる。すなわち奴隷であることがどういうことかは御存じであるが、自由ということについては、それが快いものか否かを未だ身を以て体験しておられぬのです。しかしあなたが一度自由の味を試みられましたならば、自由のためには槍だけではない、手斧をもってでも戦えとわれらにおすすめになるに相違ありません。

 この様に自由の強みとそれを当時保証した民主制の素晴らしさを高々と掲げているのである。そしてこれらがアテナイを中心としたギリシア連合がペルシアを打ち破った根本にあると考えているのである。ただし、ヘロドトスはこの様に民主制とそれから得られる自由の有難味を賞賛するだけではなく、民主制が孕む問題点も同時に認識していた様だ。ペルシアでダレイオスが王に成った際に、民主制の提案を退け独裁制を採ったのだが、その際に、民主制の欠点としてポピュリズムに陥り易い事、総ての民衆が政治的才能を持っている訳ではない事、公共に汚職がはびこり易くなる事等を挙げている。これらはこの『歴史』中のギリシアの民主制の都市に於いて生じた幾つかの問題であり、民主制自体が常に最善とは言い切れない事をヘロドトス自身も認めているかの様である*1

 これらの民主制の問題点への具体的な解決方法を提示をしてはないのだが、独裁制に於いても同様の欠点が存在する事をヘロドトスは記載し、民主制による自由と法による生活を独裁制の不自由よりもより良い物だと強く主張している。そして生きる動力としての個々人の自我への強い信頼が見受けられるのである。以前にも書いたが、ただ暮らすだけであれば、どんな社会体制を支持していてもそれ程の差はないかもしれないが、私としては独裁者や一部の者に権力を委ねるのではなく、様々な苦労や問題を内包する事を承知の上で民衆による政治が行われるのが理想であると考えている。

 このヘロドトスによる『歴史』は詳細な聞き取りと実際の見聞によって書き記された大著であるが、歴史書として面白い*2と同時に、大きなイデオロギーも提示されている。本書が悠久の時を経て尚、現代に於いても読み続けられているのはその歴史描写の精緻さのみならず、自由と民主制への賞賛が欧米で愛された側面もあるのだろう。

ヘロドトス 歴史 上 (岩波文庫)

ヘロドトス 歴史 上 (岩波文庫)

 
ヘロドトス 歴史 中 (岩波文庫)

ヘロドトス 歴史 中 (岩波文庫)

 
ヘロドトス 歴史 下 (岩波文庫)

ヘロドトス 歴史 下 (岩波文庫)

 

*1:しかも古代ギリシアの民主制は現代の民主主義とはかなり異なっていて、総ての人々が参政権を持つ訳では無いし、当然2級市民や奴隷も存在する。それに加え、記述を読む限り、公正に意見が纏められていた訳でも無さそうである。

*2:自分への覚書として、人物・出来事を記述して置く。

クロイソス:リュディアの王。富貴の印象を代表する人物として後世にも描かれた。ペルシア王キュロスとの戦いに敗れた後は、ペルシア王に使えて助言を行う。

キュロス:ペルシアの初代王。メディアの支配下にあったペルシアを一大帝国に成長させた。メディア王の血筋でもある。犬に育てられた伝説があり、この伝説はローマのロムルスとレムスの伝説に影響していると思われる。

ハルパゴス:メディアの重臣。メディア王に罰として自らの子を食べさせられ、その恨みからペルシアに寝返り、以降、ペルシアの重鎮として活躍する。岩明均の漫画『ヒストリエ』に於ける有名なコマ「ば~~~~っかじゃねえの!?」の人。

リュディア対ペルシア(クロイソス対キュロス):当時、絶頂に有ったクロイソスのリュディアをキュロス率いるペルシアが破り、ペルシアがアジアの覇者となる。

マッサゲタイ討伐(キュロス):ペルシア軍が北方に侵攻した際、深入りし過ぎたためにキュロスは戦死する。

エチオピア遠征(カンビュセス):キュロスの後を継いだカンビュセスはエジプトそしてエチオピアと遠征するが、兵站を軽視したためにエチオピア遠征は不成功に終わる。

ダレイオスとペルシア6重臣:カンビュセスの子を騙る偽物をダレイオスらが討伐しペルシア帝国の実権を手中に収めた。ダレイオスに協力した他の6人はオタネス、ゴブリュアス、メガビュゾス、ヒュダルネス、アスパティネス、インタプレネス。オタネスは民主制を提案し、メガビュゾスは寡頭制を支持し、ダレイオスは独裁制を主張した。オタネスを除く6人で王位を平和的に争った結果ダレイオスが王となった。

スキタイ遠征(ダレイオス):北方のスキタイを討伐するためにダレイオス率いるペルシア軍はヘレスポントスを越えて北へ進軍するが、その作戦は難航する。どうにもペルシア軍は兵站の概念に乏しい様である。この時には下記のヒスティアイオスやミルティアデスはペルシア側に付いている。

ヒスティアイオス:ミレトスの独裁者。ペルシアに協力していたが、その実力を恐れられペルシア王の側に軟禁される。その結果、裏切ってギリシア連合に協力する乱世の奸雄。松永久秀の様なイメージ。最終的には富に目が眩み裏切りに遭って殺される。

アリスタゴラス:ヒスティアイオスの従兄弟。ヒスティアイオスが軟禁されて以降、その代理としてミレトスを支配する。私心からペルシア軍を地域紛争に引き込むが彼自身の目的を達する事は叶わなかった。ヒスティアイオスの命を受け、アテナイに対ペルシアの抗戦を行うよう説得した。因みにスパルタの説得には失敗した。

クレオメネス:長く活躍するスパルタの王。賢王的側面と暴君的側面を持ち合わせる。最期には発狂して自らを剣で切り裂く。

マラトンの戦い(ダレイオス):ギリシア連合がダレイオス率いるペルシア軍を破った戦い。これによって暫くの間、ペルシア軍はギリシアに侵攻しなかった。この時にアテナイ軍を率いていたミルティアデスは先のダレイオスのスキタイ遠征の際にはペルシア軍にヒスティアイオス達と共に従っており、ヘレスポントスの橋を守っていた。それが、今度はダレイオスを打ち破るのだから、正に戦国時代風味である。

クセルクセス:ダレイオスの子、ペルシア王。ペルシア軍を率いてまたもギリシアへ侵攻する。

マルドニオスとアルタバノス:ペルシア軍の重鎮。マルドニオスは6重臣ゴブリュアスの子、ギリシア侵攻を強く支持する。後に敗軍の将となり戦死する。アルタバノスはダレイオスの弟。クセルクセスにギリシア侵攻を思い留まるよう諫言するが、その意見は通らず、諦めて従軍する。基本的に領土拡大に消極的な立場。

テルモピュライの戦い(レオニダス対クセルクセス):スパルタ王レオニダス率いる300人のスパルタ兵が、100万とも言われるペルシア軍と、兵力差を物ともせず互角に戦った激戦。レオニダスを含め300人はほぼ全滅したが、ギリシア侵攻中のペルシア軍の士気を著しく低下させた。ザック・スナイダーの『300』はこのエピソードを映画にしている。

アルテミシオンの海戦:上記テルモピュライの戦いと同時期に起きた海戦。海戦に不慣れなペルシア軍は兵力的には圧倒的に有利であるにも関わらず苦戦した。が、ギリシア連合も相当に消耗し、下記のサラミスまで後退した。

サラミスの海戦(クセルクセス):アルテミシオンでの苦戦は王が現場に居なかったためと考えたクセルクセスは自ら海軍を率いてサラミスの海戦に挑むが、これも敗戦に終わった。この結果、残存兵力は十分であるにも関わらずクセルクセスは戦意を喪失し、後をマルドニオスに任せペルシアに帰国する。

テミストクレス:上記両海戦でアテナイ海軍を率いた。権謀術策を用い、我が身の保全を図りつつも、ギリシア連合の海軍を纏めて海戦での勝利へと導いた。その策を弄し卑怯も厭わない処から、ヘロドトスはこの人物に余り良い印象を持っていない様だ。

プラタイアの戦い(マルドニオス):クセルクセス戦線離脱後もペルシア軍はギリシア征服の望みは捨てていなかったが、結局この戦いで大敗し、事実上の終戦となる。ギリシア侵攻を強硬に主張していたマルドニオスはこの戦いでの大敗のさなか戦死する。

ミュカレの戦い:プラタイアの戦いと同日に起きた戦闘。ミュカレはペロポネソス半島ではなく、小アジアの街であって、つまり、ギリシア連合は遂にイオニアをペルシアから解放する足場を築く事に成功した事になる。