(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『イソップ寓話集』 イソップ 中務哲郎 訳

 最古の寓話集が示す節理

 最近、ギリシア物にハマっている、と云うか、古い古いお話に嵌まっていて、ギリシア物と古事記関連の書物を読むのに多くの時間を費やしている。古い書物の良い処は、やはり、それ以上遡るのが難しい物語の源泉の様な何かを味わえる処だと思っている。

 『イソップ寓話集』の名前は誰でも一度は耳した事はあるだろうし、イソップ物語という形で大抵の人はこの寓話集に出て来るお話を10や20は読んだ事がある筈だ。私も漠然とイソップ物語としての寓話のイメージは有ったのだけれども、どういう訳か、中世くらいのヨーロッパで編まれた寓話集だとばかり思い込んでいた*1。が、これは完全に私の勘違いだったのである。何故勘違いだと気付いたかと云うと、上述した様に最近は古い物語を読んで回りたいなと考えていて、そこでgoogle先生にお伺いを立ててみると、都合良く有用なwebsite世界文学年表 / Pulp Literatureを見付けたのである。そしてこのwebsiteによって『イソップ寓話集』が紀元前に成立した相当に古い寓話集である事に気付き、これは読んでみなければならないな、と言う訳で早速読んでみた。

 読んでいると、昔からどかで読んだ事見た事がある様な寓話を幾つも発見した。この『イソップ寓話集』に収録されている有名な寓話を例えば挙げると、「嘘吐きの羊飼い*2」、「酸っぱい葡萄」、「金の斧と銀の斧」、「太陽と北風」、「兎と亀」、「蟻とキリギリス*3」等々である。

 これらの寓話の中には我々が住む日本や昔から親しんできた中国の故事に共通のお話を見つけられるモノもある。二つほど有名な故事との合致を見付けたのだが、一つは毛利元就の三本の矢の教訓で、もう一つは芥川龍之介が所々で引き合いに出していた寿陵余子の故事すなわち邯鄲の歩みを覚える前に寿陵の歩みを忘れ蛇行匍匐して故郷に帰った男の故事である。これらはそれぞれ「兄弟喧嘩する農夫の息子」、「鳶と白鳥」という寓話として収録されており、その内容は上述の故事と非常に似ている。人々の交流があった以上、当然、寓話も伝播して行くであろう事は想像に難くないが、内容を維持したまま伝播して行くという事は人々同士でその教訓なり意味合いなどの意義を共有で来たという事であって、隔たった地で異なる文化であっても人々が考える事や納得する事には共通項が存在する事を改めて確認することが出来る。

 またイソップ寓話にはギリシア神話の異伝という側面もある。例えば人の寿命に関して、人の寿命は元々は短かかったが、馬や牛や犬から寿命を奪ったが為に長寿になった代わりに老年になると善良さが失われるというものがある。人間の誕生に関する異伝も紹介されている。現在の人間の一部はプロメテウスが獣から作り直した者だという。そのせいで一部の人間の心は獣さながらと言う訳らしい。他にも幾つかの小噺が収録されており*4ギリシア神話の世界を広げてくれる。また蟻は元々人間であって、ゼウスが貪欲な農夫に腹を立てて蟻に変えたという寓話も収録されており、この寓話は英雄アキレウスの率いたミュルミドン人が元々は蟻であったと云う伝承と比較すると興味深い。ギリシア人は蟻と人間に共通点を見出していたのかもしれない。同様に蝉が元々人間であったという話も出て来る。これもギリシア神話のティトノスが不死の末に老いて老いて小さくなり遂には蝉になったという伝説を思い起こさせる。寓話の世界と神話の世界は繋がっているのだろう。

 イソップの寓話にはそれぞれ教訓めいた文章が最後に記されている。例えば、「嘘を付いてはいけない」とか「恩知らずは良くない」だとか「悪人とは分かり合えない」といった所謂処世術めいた言葉である。こういう道徳の標語の様な教訓が並んでいる処を見ると、このイソップ寓話というものはある種の教化に使える様な寓話集でもあったのではないかと思える。実際、訳者の中務氏が著した『イソップ寓話の世界』に依れば、ルターやらも教育目的で用いていたらしい。また、この寓話そして教訓の成立に関して、下層民の道徳的・経済的理想を表しているという説もある様だ*5。この説を、イソップ寓話の成立過程としてある程度は信頼し得ると考えてみると、以下の様な、「欲を出すと現在持っている物まで失う」、「弱い小さい事にも良い事がある」、「強い者と張り合ってはいけない」だとか更には「それぞれに別々な役割があるのだから、一見労働していない者(ここでは支配者の事)が重要である事もある」といった教訓は、下層民が世の中で暮らしていく為のある種の賢明な選択肢を提示するものだったと考えられる。

 この様な教訓は奴隷や下級階層の状況、つまり弱い事・力が無いという状況を肯定的に捉え、弱い事は悪い事ではないと自己肯定する事に繋がるだろう。下層階級に暮らせば日々の生活の中で不条理な事態に遭遇する事はままあるだろうが、その様な状況の中にも人生の幸せを見付け現状を肯定するという思考方法は確かに日々を明るいものに変え得る力があると思う。しかし、これらの思想は下層階級の人々の現状肯定と同時に、当時に存在した社会構造による圧迫を維持し肯定する作用を持っているのも確かである。これは、ある種の現実逃避でもあるし、ニーチェが『ツァラトゥストラ』で批判した姿勢、弱者の恨みと看做せるのではないだろうか。そして詰まる処、為政者に取っては便利な道具足り得たのだろう。勿論、状況と云うものは瞬時に変わる物ではないので、最初は現状の中の幸福を見つける事も必要かもしれない*6。そして、その最初の段階は既に紀元前には達成されていたのであるから、その後、封建制度から解放されるまで、人々の思想はおよそ二千年の長きに渡って停滞していたのだとも言える*7。この背景には生産力そして科学力の発展がある閾値に達する迄に相当な時間が必要だったという事が理由として存在するのだろうけれど。

 『イソップ寓話集』は我々の良く知る寓話の源を知るという意味でも面白いし、多数の伝承が存在するギリシア神話の異伝の一つとしても面白い。更に、当時の民草の思想・処世観を知るという意味で相当興味深いものが得られると思う。今回、本書は岩波から出ているkindle版を読んだ。いつもの如く、岩波版にはしっかりとした解説が収録されているのが非常に嬉しい。しかしこの書籍に関しては注の処理がやや不満があって、恐らく紙媒体のでも同じなのだろうけれども、それぞれの寓話の直後に注が配置されており、ある任意の注を参照しようと思った時にその検索性は余り良くない。まあこの辺りは仕方ないか。本書の訳者である中務哲郎氏は、上の方でも少し触れたが、筑摩から『イソップ寓話の世界』というイソップ寓話集の解説書も出していて、こちらもイソップ寓話の成り立ちを知る上で非常に参考になる。岩波文庫の解説がそのまま拡大展開された書籍だと考えて良いので、もし解説が気に入れば購入して読む価値があると思う。

イソップ寓話集 (岩波文庫)

イソップ寓話集 (岩波文庫)

 

 因みに上の方ででリンクを示したwebsite世界文学年表 / Pulp Literature、あれ?どこかで見た事があるぞと思ったら、私が愛読している下記のblogを書いている方と同じ方が運営しているサイトであった。

pulp-literature.hatenablog.com

 この「海外文学読書録」はいつも海外の比較的近代の小説を紹介しておられて、紹介されている書籍群を是非読んでみたいという気持ちにさせてくれるblogである。それにしても、なんともまあwebの世界は繋がり合っているものである。

 

 

*1:言い訳がましいが、イソップという名前自体も私が誤解していた理由の一つである。イソップというのはどう見てもギリシア風の名前では無い、と思ったら、イソップはギリシア風に書けばアイソポスという事になるらしい。成程、これならギリシア人だ。

*2:所謂オオカミ少年のお話である。

*3:実際にイソップ寓話に収録されているお話ではキリギリスでは無くて蝉であるけれども、ほぼ同一のお話とみて良いだろう。

*4:例えば、ゼウスからの様々な贈物が入った甕の蓋を開けてしまう男の話はパンドラのお話の異伝と言えるだろう。

*5:同書によると、これはカール・モイリやクルシウスの説だが、イソップ寓話研究家のベン・エドウィン・ペリーはこの説には否定的である様だ。

*6:そもそも痩せ我慢では無く、主観的に幸福であるならば、傍から見てどういう暮らしでも構わないとも言えるかもしれない。この辺りの考え方は難しい。

*7:勿論、現在でも奴隷の鎖自慢は絶えないが、それでも状況は劇的に改善しつつあると思える。

“The Benson Murder Case” S. S. Van Dine (『ベンスン殺人事件』 S・S・ヴァン・ダイン)

 心理的証拠と状況証拠:ファイロ・ヴァンス登場

 江戸川乱歩の『悪人志願』中にヴァン・ダインの推理小説『カナリヤ殺人事件』と『グリーン家殺人事件』のネタバレが含まれていた御蔭でヴァン・ダインの推理小説Philo Vanceシリーズを読み始めたのだけれども、これが想像以上に面白い。幸いkindleの英語版の全集は格安だったので*1既に手元に全話揃っている。と言う訳で、今回はPhilo Vanceシリーズ第一作目の“The Benson Murder Case”(1926年;『ベンスン殺人事件』)を読んでみた。

 荒筋をざっと記すと、Alvin Bensonがリビング・ルームで射殺されているのを同居している家政婦Platz夫人が発見する。現場には女物の鞄と手袋が残されており、警察は女性の関与を疑うのだが、被害者には幾人かの敵が存在しており、皆殺人の機会と動機がある様にみえる。被害者の兄Anthony Benson少佐はMarkham検事の古くからの友人であり、事件の解決をMarkham検事に依頼する。そして、Markham検事の友人である高等遊民Philo Vanceが興味津々事件現場に顔を出し、捜査に加わるのであった。

 記念すべき第一作目でPhilo VanceはMarkham検事に早速独自の犯罪推理理論を披露し始める。

Won’t you ever learn that crimes can’t be solved by deductions based merely on material clues and circumst’ntial evidence?

The truth can be learned only by an analysis of the psychological factors of a crime, and an application of them to the individual.

ってな、具合である。さてこの心理的要素を物証や情況証拠より上位に置くVanceの活躍や如何に?

 本小説の最大の仕掛けは、動機と機会で犯人を推定するのであれば、描かれた状況の中に複数の犯人を推定し得る事があるという処にある。これはある種の推理小説が抱える構造的な欠点であって、推理小説を愛読している人々であれば、この種の問題を感じた事は多々あるだろう。この様な感覚が今一ピンと来ない方は例えば、ドイルの『バスカヴィル家の犬』を読めば、この感覚を理解して貰えるのではないかと思う。『バスカヴィル家の犬』に於いては犯人候補は数人登場しており、一応ホームズの華麗な推理の下に犯人と思しき人物が特定されるのであるが、実際の処、別な状況証拠の組み合わせで他の人間を犯人に設定する事も可能そうに見える*2。つまり、複数候補の中の一人が犯人に選ばれた「小説としての必然性」を、読者が中々実感しにくい場合が時に生じるのである*3

 何故この様な、今一つ腑に落ちない感覚が生じるかというと、それは犯人候補の立ち位置が並列状態にあるために、読者の側からすると犯人候補間の差異を感じにくいからである。つまり、この並列状態にある複数人物の誰が犯人なのか、そして誰を犯人にするのかという問題は推理小説家にとって中々の難問であると言える。これを解決する最も単純な方法は犯人候補に並列状態でない犯人候補を用意する事なのだが、ここで新たな問題が生じる。あからさまに特異点にいる犯人候補を用意してしまえば、推理探偵小説愛好家は、小説内に提示される証拠ではなく、その読書経験から犯人を推察出来てしまうのである。であるから、この特異点に存在する犯人を如何にして読者に気付かれずにフェアに提示するか?という所に推理小説家の腕は掛かっているのだと思われる。勿論、特異点を作る解決方法を選ばず、純粋に推理ゲームとして、並列犯人候補の中から読者に犯人を推理させるタイプの推理小説もそれなりに多い。その場合は推理の論理をガチガチに固めてゲーム性を高める等の別種な工夫が必要になって来るだろう。個人的には論理推理重視の本格物はこの並列式ともそれ程相性が悪くない気がする。

 本小説の場合は、並列状態にある犯人候補の犯行仮説をVanceがチラつかせてMarkham検事と読者を煙に巻きつつ色々な方向へ誤誘導して行く訳で、この一旦鮮やかに提示されたかに見える犯行仮説がどんどんと覆されていく処に、推理小説への皮肉が利いていて面白い。只、残念ながら、構造がはっきりし過ぎている所為か、読者は割と早く特異点に存在する犯人に気付いてしまうのではないか?とも思わないでもない。最終的にヴァン・ダインは心理的な要素を持ち出して解決しようとした訳だけれども、残念ながらそこに関してはそれ程上手く描けているとは思わない*4。小説内でPhilo Vanceは上述したように、様々な証拠に動機・アリバイを否定し、心理的捜査の重要性を強調する訳だが、結局の処は様々なホームズ的な推理を行っている訳で、古典的な観察力に優れた名探偵達とそれ程極端に異なる訳ではない。只、名探偵Philo Vanceを魅力的にしているのは、その突飛な人物像と衒学的な蘊蓄の数々である。例えば以下の様な、絵画の制作者と犯罪の実行者の相似性を説く所はこのPhilo Vanceシリーズに何度も繰り返し出て来るアナロジーでニヤリとしてしまう。

“Crimes possess all the basic factors of a work of art—approach, conception, technique, imagination, attack, method, and organization. Moreover, crimes vary fully as much in their manner, their aspects, and their general nature, as do works of art.(中略)Just as an expert æsthetician can analyze a picture and tell you who painted it, or the personality and temp’rament of the person who painted it, so can the expert psychologist analyze a crime and tell you who committed it—(後略)”

まあ大体がこんな調子なので、このPhilo Vanceシリーズは好き嫌いが分かれる処があるかもしれない。Philo Vance初登場作である本作では、衒学的蘊蓄の切れ味は後の作品に比べるとそれ程でも無い感もあるけれども、メロンの蘊蓄の下りなんかは余りにも下らなくて笑えて来た。メロンには色々な種類があるが、カンタロープメロンは昔イタリアのカンタルーピで栽培されていた処から広まったらしい。本当にどうでも良い蘊蓄である。

 本作はいつもの如く、Van Dineの全集物で読んだ。表紙がちょっとぱっとしないけれども、図が含まれているという所が重要な点であって、表紙なんかは中身を読んでしまえば同じである。さて、これでPhilo Vanceシリーズ1-3作を読み終わった。次に読む積りの『僧正殺人事件』が楽しみで仕方が無い。

 

*1:一度失敗して図無しの物を購入してしまったけれども、まあ1、2ドル程度だったので、良しとしよう。ヴァン・ダインの推理小説は別段本格派でも無いので図が無くてもそれ程影響は無いのだけれども、勿論あった方が嬉しいに決まっている。

*2:以前紹介したが、ピエール・バイヤールがこの状況を利用して“Sherlock Holmes was Wrong”という中々面白い小説読解本を記している。その中で実際バイヤールはホームズの推理とは異なる推理を行い、別な人物を犯人と指摘しているのである。勿論『バスカヴィル家の犬』の場合はドイルの描写力による怪奇探偵小説の魅力が炸裂している為に、純粋推理小説以外の部分で文句無しの傑作になっているのだけれども。

*3:この様な推理小説に関する構造上の問題は別にヴァン・ダインが最初に指摘した訳では無くて、私の知る限り、江戸川乱歩も同様の事を感じていた様で、デビュー作の一つである『一枚の切符』にて、推理探偵小説内での犯人特定の仕組みの不安定さを指摘し、それを巧く利用して不思議な二重世界を小説に顕現させる事に成功している。

*4:ただ、犯人設定に於いて、犯人が犯行を実際に行動に移す事が心理的にも技術的に可能でありそうな人物として描いている処は、ヴァン・ダインのこの推理小説における明確な美点の一つだろう。「大学生がサークル仲間を次々と殺していく」という様な推理小説があったりするが、現実問題として一文系大学生が初犯で大量連続殺人を成功させる事は心理的にも技術的にも不可能に思える。

『ギリシア・ローマ神話』 ブルフィンチ 大久保博 訳

 ギリシア・ローマの神々の物語を詩と共に味わう

 最近、ヘロドトスの『歴史』や『古事記』を読んでいると、この手の伝説の域に入っている様なお話がもっと読みたくなってきた。この類の物語の中ではホメロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』が最も古い部類に入るのだろうけれども、それらを読むその前にギリシアの神々の様々な小噺を仕入れておいた方が色々と読書が捗りそうな気がする。実際、『歴史』を読んでいる時にも、基本的なギリシアの伝説を忘れてしまっているが為にややピンと来ない処なんかが存在したのである。

 ギリシアの神話や伝説をざーっと手軽に知るための書物として、子供の頃の記憶に依れば、岩波少年文庫のブルフィンチの『ギリシア・ローマ神話』(“The Age of Fable” 1855年)が非常に手頃だった記憶がある。これは何度も読んだ筈なのだが、もう完全に記憶から消えてしまっているので、まあ久々に読んでみるかと調べた処、なんとまあ時の流れは恐ろしい物で、岩波少年文庫の『ギリシア・ローマ神話』は絶版になって久しい様だ*1。当時岩波から出ていた『ギリシア・ローマ神話』は野上弥生子訳だったのだが電子書籍化はされておらず、角川から大久保博訳で完訳版が出ておりkindle版が手に入る事を発見して早速読んでみた。

 昔に読んだ時分には良く分かっていなかったのだけれども、このトマス・ブルフィンチによる『ギリシア・ローマ神話』はギリシア神話の原典ではない。勿論、ギリシア神話に正典の様なものがあるかどうかは良く分からないのだけれども、ヘシオドスの『神統記』やホメロスの叙事詩などに記述される神話的物語が所謂処の原典という事になるのだろう。ブルフィンチは、上述した物語に加えてオウディウスとウェルギリウスの書物を典拠に用いたと前書きに記している。因みに上巻には主にギリシア神話の伝説が集められており、下巻は主に『イーリアス』と『オデュッセイア』で語られる物語と北欧神話・東洋神話の幾分かが纏められている。

 この神話集は実は著者ブルフィンチの意図が相当に反映された書物である。どの様な意図かというと、神話の世界を人々に分かり易く説く事で、かつて世界に存在した神秘的な詩情の世界を復活させる事を望んでいたのである。訳者大久保博が巻末の解説で以下の様に述べている。

世はまさに「技術の時代」、「科学の時代」であった。こうした時代をブルフィンチは「実利的な時代」と呼んだ。そしてこうした時代にこそ、われわれはわれわれの高い精神性や豊かな人間性を、古代神話の中に──伝説の時代の中に──求めるべきであると訴えた。
-解説から

19世紀半ばの科学の発展と唯物論の拡大に依る文学界からの詩情の減衰を恐れたブルフィンチは、この様な啓蒙書を記す事で人々の間に神々を呼び戻したかった様だ。と言う訳で、この『ギリシア・ローマ神話』には神話を題材にしたミルトンやワーズワスやクーパーらの多数の詩が収録されており、これがブルフィンチの編集の最大の特徴であり本書の美点となっている。

 以下、記憶に残った処を覚え書きしておく。

 ギリシアの神々はまあ大抵の人はご存知の様に、ゼウスを頂点とするオリンポスの神々*2から成る。このゼウスを中心とした統治が始まる迄の課程が中々興味深い。本書に依れば、まず巨神族であるオピーオーンが世界を統べる時代があり、その後にクロノスが王の座を奪い取った。クロノスは良い統治を行ったという伝説もある様だけれども、別な伝承では反逆を恐れて自らの子を次々と喰らっていたらしい。そこで末っ子のゼウスが母であるレアの機転で難を逃れ、飲み込まれていた兄弟神を解放すると共にクロノスら巨人達を支配の座から追い落して、我々が良く知るオリンポスの神々の統治の時代を築いたという事である。この様に二度、王位を簒奪するという出来事があるというのはどう云う意味があるのだろうか。例えば古事記なんかの場合でも天孫降臨という形でオホクニヌシからホノニニギへ王権の移譲が行われているし、神話で描かれるこの様な反逆そして王権の移譲が古代の王権の移譲とも結び付いているのかもしれない。

 神話の良くある共通点の一つに人間の起源というモノがある*3。ギリシア神話に於いては人間の誕生に関する伝承が複数存在する様だが、その内の有名な一つはプロメテウスが大地から土を少し取ってそれに水を混ぜて神々に似せて人間を創造したというものである。この時には女はまだ存在せず、ゼウスがプロメテウスの弟であるエピメテウスに贈ったパンドラが最初の女性という事になっているようだ。ここで、人間の誕生話は終わりかと思いきや、この後ノアの洪水に類似する洪水が起きて人類は滅び、プロメテウスの息子デウカリオンとエピメテウスの娘ピュラーとが生き残り、彼らが投げた石から人類が再誕生したらしい。この様に人類誕生神話が二重になっているのは印欧文化に共通の神話の様で、実際、ギリシアに限らず、洪水に依って人類が一度滅び再生する話は各地で見られるようだ。

 ギリシア神話には幾人かの魔女が登場する。その中でも最大級の魔女はメディアだろう。メディアの伝承には様々なバリエーションがある様で、その中では悪の魔女として描かれる事が多い様だけれども、本書でのメディアはやや違っている。最初は恋人イアソンの為にその魔力を捧げる乙女であったのが、やがて嫉妬に狂いギリシア神話中最大の魔女へと変貌していく姿にはある種の悲劇性を感じる。キルケとカリュプソはそれぞれオデュッセウスを愛した魔女である。キルケはメディアの親戚であって割と魔性の魔女として描かれている、一方でカリュプソは善意に溢れた魔女である。メディアが行う魔法の儀式は本書に依れば『マクベス』への影響が示唆されるし、実際我々が想像する何やら得体のしれないものをグツグツ煮込む魔女の姿の原型なのだろう。この魔女達それぞれを中心に描いた物語も存在する様だし、特にメディアに関連する書物は是非とも探して読んでみたい。

 ヘロドトスの『歴史』に於いて、盛者必衰的な人生観が強く示されていたが、その価値観はギリシア神話に於いても暗示されている様に思える。ギリシア神話には多数の英雄、偉人が登場するのだけど、多くの人物が名声を得た後に没落していくのである。例えば、テーバイの町の創始者であるカドモスは神々から祝福されていたにも拘わらず、アレスの呪いにより子孫は不幸に遭い、人々から忌み嫌われ、遂には妻と共に蛇となってしまう。ヘラクレスは数々の試練を乗り越えた最大の英雄として描かれるが、最後には妻からの毒に依って悶え苦しみ炎に焼かれて死ぬ。テセウスはミノタウロスを倒した事で有名なアテナイの王であり、その賢を以ってオイディプスなどとも交友したのだが、やがてはアナテイを追われ頼った先で謀殺される。その音楽の才を以って知られたオルペウスも、狂信者である女性達に八つ裂きにされるという形で死を迎える。オイディプスの不幸は誰もが知る所だろう。この様に、偉人そして英雄でありながらも多くの人物が、平和的な栄耀の内に一生を終える事が叶わずに、没落し凄惨な最後を迎える事が多い。いわばギリシア神話で描かれる英雄たちは皆、古事記のヤマトタケルなのである。ヤマトタケルの不遇の最期は人々に哀悼の情を催し、その魂の平穏が祈られた。ギリシアの英雄達も盛者必衰の理から逃れられないという伝承によって、人々は人々自身の不安定な生を受け入れ、そして強者の不遇な最期に哀悼を捧げたのかもしれない。

 

 今回読んだ、大久保博訳のブルフィンチ『ギリシア・ローマ神話』は文学を読むためのギリシア神話の知識を得る為には最良の一冊だと感じる。元々のブルフィンチによる多数のギリシア神話関連の詩の紹介に加えて、訳者大久保氏によるギリシア神話関連文学書籍の膨大なリストが素晴らしい。このリストの為にも手に入れる価値はあるかもしれない。挙げられている文献の内のどれくらいを死ぬ迄に読む事が出来るだろうか?と考えるとちょっと気が遠くなりそうになった。

 因みにブルフィンチはこの『ギリシア・ローマ神話』の対象を恐らく高校生位の世代を念頭に置いて記したのだろう。ギリシア神話に於ける、ブルフィンチの云う処の良風美俗を犯す様な表現や伝承は削除されている*4。そういう部分を確認するために他の再話物*5を読むのもありかもしれないし、勿論電子書籍に拘らないのであればわざわざ再話物を読むのではなく、原典とも言えるヘシオドスの『神統記』や『仕事の日』を読むのが王道なのだろう。ブルフィンチ『ギリシア・ローマ神話』の原著である“The Age of Fable”はpubric domainのものがkindle版で無料で手に入る。Amazonで探すと二種類見つかるのだが、表紙が"Bulfinch's Mythology"でkindle版でのタイトルが“The Age of Fable”のモノが*6この大久保博訳の『ギリシア・ローマ神話』の原本を収録している電子書籍である。

完訳 ギリシア・ローマ神話 上下合本版 (角川文庫)

完訳 ギリシア・ローマ神話 上下合本版 (角川文庫)

 

*1:この『ギリシア・ローマ神話』を探している間に同様に岩波少年文庫から出ていた『人間の歴史』の事も思い出して、こちらも探してみたが絶版になっていた。岩波少年文庫は相当充実したラインナップだったのに残念ながらかなりの良書が絶版になってしまっている様だ。

*2:因みに英語版ではJupiter(Zeus)、Saturn(Cronos)、Juno(Hera)、Vulcan(Hephaestos)等々といった具合にラテン語由来名が優先されている。ジョイスの『ユリシーズ』もOdysseusではなくUlyssesであるし、実際の処ギリシア名は英語圏でどれ位通じるのだろうか?

*3:実は日本の古事記には人間の誕生に纏わる神話が存在しない。これはかなり特異な部類に属すると思う。

*4:例えばアフロディーテがウラヌスの性器が海に落ちた時に生まれただとか、パンドラの性格は女性の俗悪な部分を集めたものであるとか、この類の伝承は完全に省かれている。またデメテルの伝説は余り一般的な物では無いモノが紹介されている。

*5:山室静や阿刀田高が書いたものがkindle版で手に入る。山室静の物は基本的にヘシオドスの『神統記』を参考にしている様だ。

*6:別に“Bulfinch's Mythology: The Age of Fable”というものが存在するが、そちらは縮約版である。