(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『ロビンソン・クルーソー』 デフォー 平井正穂 訳 

 労働と信仰と西洋社会の拡大と

 池澤夏樹の『夏の朝の成層圏』を読んでいる時に、当然、ロビンソン・クルーソーを思い出した。子供の頃に福音館書店から刊行されている古典童話シリーズで読んだのは覚えているのだが、細かい所は当然の様に忘れてしまっている。忘却の彼方にうっすらと漂う記憶を探ってみると、子供心にはその心躍る設定の割には淡々としたお話だった様な記憶がある。まあ、せっかくなので良い機会だ、設定上は同様の漂流譚である『夏の朝の成層圏』と比べてみたい気もするので、岩波文庫の『ロビンソン・クルーソー』を読んでみた。

 岩波文庫の平井正穂訳による『ロビンソン・クルーソー』*1は上下2巻からなるのだが、その内上巻が所謂皆が親しんでいる孤島でサバイバル生活を送るロビンソン・クルーソーの物語、即ち、『ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険』(1719年)であり、下巻はその冒険の続きにあたる『ロビンソン・クルーソーのその後の冒険』(1719年)となっている。

 ロビンソン・クルーソーのお話は非常に有名であるけれども、その孤島での生活以外の冒険の荒筋に関しては案外知られてい無いのではないだろうか? 物語の荒筋は以下の通りである。中産階級に生まれたロビンソン・クルーソーはその心に湧き起こる冒険心に導かれるままに船乗りとなる。最初の航海は無事に成功し富を手にする訳であるが、その次の航海では実はムスリムの海賊に捉えられ奴隷生活を数年強いられるという出来事もある。この後にブラジルに渡り農園経営を行いそれを軌道に乗せた処でアフリカに奴隷を掻っ攫いに出掛け、そして、その航海の途上で漂流し、カリブの孤島*2に辿り着き、28年にも及ぶサバイバル生活が行われるのである。ここまでが上巻で、下巻では再度この孤島へ訪れ、その後にマダガスカルを経由しインド、中国、ロシアを旅して再びイギリスへと帰郷するお話である。

 この小説で描かれているロビンソン・クルーソーの冒険は正に封建的社会制度から脱しつつあった当時の中産階級労働者の生き様であり、そこには幾つかの強い信念が示されている。まず、その根底に明らかに存在する物の一つが勤労への強い信頼である。

 ロビンソン・クルーソーは流れ着いた無人島でひたすらに労働に励む。彼は勤労の齎す結果に絶大な信頼を寄せている。そして、ひたすらに忍耐を以ってして何事もやり遂げてゆく。例えば、小説内の記述に依れば、板一枚を大木から作り出すのに、42日、大木から船を作り出すのに3ヶ月、といった具合であり、最終的には農場を作り牧場を作り、島を開拓して君臨統治するのである。このロビンソン・クルーソーの忍耐と勤労はやはり驚嘆すべきものであると言わざるを得ないが、これは当時芽生えつつあった自由労働者達の目指す姿勢の窮極の形でもあったのだろう。

 勿論、勤労と忍耐を信じ続けるという事自体は現代で言う処の努力教への狂信に近いモノがあると思う人もいるだろう。当然、開拓精神と冒険心を抱いていた当時の野心的なイギリス人の全員がこの様な忍耐を持ち合わせていた訳では無い。例えば、イギリス人最初のアメリカ入植の試みであったロアーク入植は二度試みられいずれも失敗に終わっている。小説内に於いてもロビンソン・クルーソーのその精神構成に並外れたものがある事はやがて島で暮らすスペイン人達からも指摘され驚きを以って語られている。只、この時代のこの状況に於いて労働に精力を注ぐという事は、先の見えない勤労ではなく、その努力と忍耐が報われる可能性の高い賭けでもあったのである。16世紀から始まる大航海時代に於いて、ヨーロッパの各国は世界各地へと交易に乗り出し、かつ帝国主義的領土拡張にも余念がなかった。世界はどんどんと拡大して行っていた。ヨーロッパで手に入らないモノは当然相当な価値があるし、新たな植民地での新規事業は古い共同体的構造に未だ規制されていたヨーロッパと異なり、制約は少なく土地の取得も容易であった。彼等新時代の労働者達は正に長らく続いた封建的社会の支配構造から逸脱し、自らの才覚と勤労と勇気を以ってして、選択の増大による新たな自由を手にしつつあった。労働に依って新たな人生を切り開く事が可能になってきた新時代、これは正に労働者の「労働自体」に価値が生まれつつあった証左だと思われる。

 勤労への強い信頼に加えて、一個人としてのキリスト教的価値観への強い信念も描かれており、この姿もまた、18世紀の自由人達の新たな信仰の形を描出したものだろう。本書の解説に依れば、この小説で描かれる信仰の形はまるで「日曜学校的」だとも批判されていた様だ*3。ここで言われる「日曜学校的」という言葉の意味するところは、キリスト教の教義を幼稚な解釈で薄めたものでしかないという意味であって、この小説に描かれる信仰が余り高度に思惟したものではないと批判しているのであるけれど、解説に書かれている擁護はともかくとして、私はこの単純化されたある意味幼稚な信仰というものは、教会支配による秘儀と化した神学的教化からの脱出、つまり信仰的柔軟性という自由の表れだと捉えた。労働に依って選択を増やし、自由を勝ち得た当時の前衛的人々は同時に、教会からの支配ではなく、聖書を通じた神との個人的対話へと変化した新たな柔軟な信仰を手に入れつつあったのだろう。この信仰は労働で得た自由を道徳心に依って制御する役割を果たしており、例えば、小説内でのロビンソン・クルーソーは、商取引に於いて、正直で誠実な取引がやがて最大の成果を生むという思想を抱いている。又、異民族との衝突に於いても、主人公が唾棄する小説内で云う処の所謂「野蛮人」といえども、殺人は最終手段としてほとんどの場合にはそれを行わずに済むように行動している。これに加えて、ロビンソン・クルーソーの行動で興味深い所が、労働の齎す絶対的な力を信じつつも、同時に自らの力ではどうにも制御できない運命(これをある意味に於いて神や神意と捉えても良いのかもしれない)をも常に認めている処にある。勤労は必須であるが、同時に、人の行いには限界がある。この考え方は、趙甌北の有名な七言絶句と同義に思える。

少時学語苦難円 唯道工夫半未全
到老始知非力取 三分人事七分天
-『論詩』 趙甌北

 個人の努力による労働の齎す自由と宗教的道義心による行動の制約、これらが合わさったものがこの小説で描かれるロビンソン・クルーソーであり、これは原始的なリベラル・ヒューマニズムと看做して良いだろう。

 しかし、ここに明確な西洋中心主義もその姿を顕してくる。現在に於いては様々な書物で指摘されるように、このロビンソン・クルーソーの冒険は西洋の帝国主義、植民地主義の正に典型例でもある。先住民族である若者を救った際に彼に最初に教えた事は主人公を「旦那様」と呼ばせる事であり、彼の名を聞く事無く、“Friday”という英語名を独善的に押し付ける。英語は教えるが、彼らの言葉を学ぶ姿勢は無い。彼らの宗教を否定し、キリスト教を強制する。これらは正に文化的帝国主義の顕われであって、小説内のロビンソン・クルーソーはこれを「善意」でやっているのであるから、独善的思考の恐ろしさが垣間見える。この文化的帝国主義に加え、領土的帝国主義・植民地主義も明らかである。ロビンソン・クルーソーはやがて島で暮らす人々に彼を「総督」と呼ばせる。何故総督なのか? 実はこの大航海時代にはヨーロッパ人の不在の土地は最初に見付けたヨーロッパ人が総督となり支配権を持つという事が慣習化されていたのである。つまり、ここで総督と名乗る主人公は明確にこの土地を西洋的価値観で自らの物と帰属せしめた訳で、これは植民地支配の典型である。この他にも、下巻で描かれる交易に於いて相当な富を得る描写は、物資の価値の勾配を利用した非西洋諸国からの搾取に他ならない。また同時に中国人・日本人を侮蔑し、シベリアの先住民族の信仰対象を破壊する描写などは、西洋中心主義の発露以外の何物でもない*4

 ロビンソン・クルーソーは局面局面に於いて矛盾し得る多面性を持つ正に「人間」を体現している。 現在からみると独善的に見える姿と自らの自由を切り拓き人間の生を尊重するリベラル・ヒューマニストとしての姿とが混在している。

 独善的な部分は眉を顰める醜悪さである。ただし、私が抱く価値観から見て独善的に見えると云う事が、私の価値観の優位性を保証するものではない。実際問題、この小説に顕われるもう一つの価値観、リベラル・ヒューマニズム的な価値観は、他人を尊重しつつも、固定化された社会構造から逸脱する原動力と成り得るだろう。独善的な部分を持ちつつも自由を希求する姿、これはしばしば矛盾を抱えて暮らす、人間としての在り方そのものである。リベラル・ヒューマニストだからと言って常に妥当な行動が出来る訳ではない。この部分は常に認識しておくべき課題だと言える。

 やがて時代と共にキリスト教的価値観はその姿を次第に柔軟に変容させていき、個々人の価値を尊重する人権思想が西洋に於ける第一の価値観の座につく事になった。現代に於いて、発展した西洋由来の人権思想と自由主義は一般に良いものと看做されているが、それが一個人や人類共同体にとって常に最適なモノかどうかは分からない。大航海時代以来、拡大する西洋的思想が世界を覆い尽くしつつある。その結果、辺境に存在する思惟やまた別な大きな共同体例えばムスリムの世界観等との衝突が激化している。日本に於いても外形上は一旦西洋の人権思想と自由主義を受け入れたに見えたが、深く浸透している様にも思えない。 西洋的思想の積み重ねの上に成り立つ思考を形成した人々は私を含めて、恐らくこの人権思想と自由主義に共感を抱いていると思うのだが、それらが所謂処の「野生の思考」を征服して良いのか?というディレンマは確かに存在する。只単にリベラル・ヒューマニズムが良いものであるからそれを世界に広めるというのであればそれは文化的帝国主義と紙一重になってしまうかもしれない*5

 ここら辺りまで考えると、池澤夏樹の『夏の朝の成層圏』はほぼ同様の漂流譚であるけれども、その描く処はデフォーの『ロビンソン・クルーソー』と真逆である事が良く分かる。両者の文化の捉え方は全く異なっている。個々の辺境化と帝国主義的一般化との相違。ただし、私は池澤夏樹の描いた感覚により共感する人間であるけれども、デフォーの描くまた別種類の生活力にも尊敬と驚嘆を感じざるを得ないのである。

 

ロビンソン・クルーソー 上 (岩波文庫)

ロビンソン・クルーソー 上 (岩波文庫)

 
ロビンソン・クルーソー 下 (岩波文庫)

ロビンソン・クルーソー 下 (岩波文庫)

 

 

*1:相変わらず岩波文庫電子書籍版の出来栄えは良い。丁寧で豊富な注釈が施されており、全てがリンクとなっているのでワンタッチで参照できる。訳者平井正穂による前書・解説もしっかりと収録されていて尚良い。因みに、平井氏の訳で一ヶ所「なんぼなんでも」というフレーズを見付けたのだが、「なんぼ」が訳に使い得る言葉だったとは! まあ方言が出てしまったのかもしれないが珍しいものを見た気がする。

*2:実は南アメリカのオノリコ川河口付近、トリニダード島の南の辺りに位置し、大陸からそれ程離れていない事が後に明らかになるのだが。

*3:ウォット著、『小説の勃興』中にこの様に記されているらしい。

*4:この段に書いた事は、山田篤美著の中公新書『黄金郷伝説-スペインとイギリスの探検帝国主義』から相当に影響を受けている事をここに記しておく。同書は大航海時代に始まる西洋帝国主義の南米に於ける影響を概説した非常に面白い書籍である。

*5:とは言っても無批判な文化相対主義も無意味なモノであるからして、どこに着地するのかどの様な相互理解を形成するのかに関しては多くの対話が必要となるだろう。マジョリティ的な圧力を利用しない事も重要な点かもしれない。

『刺青殺人事件』 高木彬光

 妖艶な刺青の魔力

 この覚書blogは元々は文藝春秋の東西ミステリーベスト100に選ばれた推理小説をどんどん読んでその感想を書き残しおこうと思って始めたのだけれど、そう言えば最近日本の推理小説でそのベスト100に入っているものを余り読んでいなかったなと、リストをつらつらと眺めたところ、たまたま上位に選ばれている高木彬光の『刺青殺人事件』(1948年)が目に入ったので早速kindle版を購入して読んでみた。

 この『刺青殺人事件』は実は江戸川乱歩が気に入って「宝石選書」の第一号として出版された小説である。乱歩は「刺青殺人事件」(『城外散策』収録*1)に於いて以下の様に評している。

本格物の得意な作者の常として高木君も小説は決して巧みとは云えない。普通小説としての新鮮味は感じられない。しかし謎の構成に可なり大きな独創があり、その解決の叙述が甚だ巧みであって、論理的興味は十二分に盛られている。これを読んだ当時、私は友人の誰彼にその話をし、謎の独創性では英米の著名作の水準に近く、筋だけで云えば「本陣殺人事件」「高木家の惨劇」もこれには及ばないと語ったほどである。
-「刺青殺人事件」(『城外散策』 江戸川乱歩)

 本格派の推理小説家の文章が今一つと言われるのは昔から変わりない様だけれども、文章面はともかくとして、その推理小説的側面に関しては、乱歩は高く評価した様だ。

 最近、西洋のやや大雑把な古典探偵モノ*2を何冊か読んでいただけに、この高木彬光に依る処女探偵小説は中々キリっと引き締まった味わいがあった。推理小説を愛読していた坂口安吾がこの小説の文章をまずいまずいと言っているが、坂口が言う程そんなに酷いとも思わない。中々引き締まった妖艶な空気感を醸し出す事に成功していると思う。

 何と言っても、絢爛華麗な「刺青」の非日常性、「刺青」に依って異端に生きる傾奇者、「刺青」を隠す事で顕れる捻じれた倒錯美等が作品の背後に暗渠の様に流れていて、単なる謎解きに日常からの逸脱を付加している処が美しい。「刺青」に纏わる禁忌、例えばこの小説で紹介される、不動明王を彫ると発狂するだとか、蛇の刺青は切れ目を入れておかないとその人を絞め殺すだとか、そして大蛇丸・綱手姫・自雷也の三竦みの呪いだとか言った類の禁忌は、刺青が持つ作用──しばしばそれを纏った人間を主客逆転してその優位性を変転させる作用──が、刺青を背負う人間、刺青を施す人間、そして刺青に心を魅かれた人間達に無意識に共有されていた事の証左だろう。この人の運命すら狂わせ兼ねない刺青を巡って行われているかに見える連続殺人がこの小説の肝なのだけれども、出だしの辺りの妖しく薫る描写が最高潮で、段々とその緊張が減弱していき普通の本格推理小説に落ち着いていってしまう処はやや残念な感がある。

 さて、小説の梗概を記すと以下の様になる。密室の中、妖艶な大蛇丸の刺青を背負う美女が胴体を除く頭と手足のバラバラ死体で発見された。そして、その美女の愛人である土建屋の社長も自殺を装って殺された。疑わしいのは被害者達と面識のある、刺青偏執狂の大学教授、土建屋の社長の弟、美女に横恋慕していた土建屋の支配人である。この犯罪の真犯人特定に苦戦する警察の前に、天才探偵神津恭介が現れる。さて天才神津は如何にしてこの謎を明かすのか?

 この小説に於ける肝腎のトリックは大きく分けて2つ有ると言えるだろう。まず最初にバラバラ死体の被害者は誰なのか?そして何故密室で殺人が行われたか?である。この謎の提示がまずいと坂口安吾が不平たらたらである。安吾の云う処はもっともであって、双子の片方がバラバラ死体で発見されれば、これは探偵小説である以上、もう、一見した処被害者に見える方が被害者な訳がない。現実の世界であれば、そうそうトリックなんかはないだろうけれども、小説の世界で双子を提示して、こういう殺人を描いてしまうと、ちょっとこれは苦しい。もう一つの密室殺人も、密室殺人を行う意義という点で非常な苦境に追い込まれている。以前にも書いた事があるのだけれども、密室にすると犯人候補が狭まってしまって、大抵の場合犯人にとってのメリットが薄い。これは安吾も正に指摘している処で、残念ながら本作に於いても「天才的犯罪者」が行った奇術としては今一つと言わざるを得ない。一応、エクスキューズとして犯行現場の推察を心理的に拘束するというアイデアが使われていてこれは筋は良い面白いアイデアだとは思うけれども、この一連の流れの中ではそれ程巧い効果を出してはいない。更に、メインのトリックのオマケ的に描かれている社長の自殺偽装に至っては小説内の警察ですら偽装と見破ってしまうのであるから、これはもう蛇足感が拭えない。

 坂口安吾はこんな風に批評している。

 刺青殺人事件は、すぐ犯人が分ってしまう。それを、いかにも難解な事件らしく、こねまわしているから、後半が読みづらい。三分の二が解決篇みたいなもので、その冗漫が、つらい。
-『「刺青殺人事件」を評す』 坂口安吾

 この作者は、よいトリックをもち、性本来ケレンがなく、論理的な頭を持っているのだが、つまり、読者に提出して行く工夫に、策が足りなかった。そして、文章もまずい。まずいけれども、さのみ不快を与えるほどの文章でもないから、これから筆になれゝば、これで役に立つだけの文章力はある。大切なことは、トリックを裏がえしにして、読者に提出して行く場合の工夫に重々細心の注意を払うことを知ることである。
-『「刺青殺人事件」を評す』 坂口安吾

 かなり辛口の評なのだが、工夫が足りないだけで未来があるとも後段で述べていて、実際高木彬光は推理小説家として大成した訳だから安吾の嗅覚は結構鋭かったのかもしれない。因みに、乱歩が良いと思った処を安吾は丸で良いとは思わず、逆に乱歩が特別評価しなかった処を安吾は評価した様だ。乱歩は割と空気感重視の推理小説を好む人であり、逆に安吾は所謂本格好みだったので、評価する部分がまるで異なるというのもまあ当然かもしれない*3

 純然たる本格派推理への試みが表れてはいる本作だけれども、安吾が評した通り本格推理小説としては工夫今一歩及ばずといった感があるのは確かである。だが、不思議と読ませる。安吾が幼稚だとか冗漫だとか言っても読ませるモノがある。続きが気になる。多分トリックはこんな感じで犯人は誰々だろうなと思っても続きを読みたくなる。これは本当に不思議な魅力で、結局この辺りの推理小説愛好家を惹き寄せる「何か」というモノは天性の授かりモノなのかもしれない。上にも挙げた様な欠点から、読者は割と早い内に犯人にもトリックにも気付いてしまうのだけれども、それでも続きを読みたくなる様なそういう「何か」の魅力がこの推理小説には潜在している様に感じる。それはやはり刺青が醸し出す妖しい魔力なのかもしれない。高木彬光はこの後も刺青に纏わるお話は幾つか著している様だ。処女作で刺青に触れた高木氏もまた刺青の魔力に囚われたのかもしれない。

刺青殺人事件?新装版? 名探偵・神津恭介1 (光文社文庫)

刺青殺人事件?新装版? 名探偵・神津恭介1 (光文社文庫)

 

 

*1:光文社刊、江戸川乱歩全集の26巻『幻影城』に収録されている。

*2:乱歩の古典ベストテンの『月長石』やら『リーヴェンワース事件』やら『ルルージュ事件』などは面白いのだけれども、ラブロマンス的な寄り道も多くて読んでいてやや緩く感じる事があった。

*3:推理探偵小説批評に於ける姿勢が、乱歩は一般に甘口で、安吾が大体に於いて辛口といった具合に、これ又まるで逆なのも面白い。

『LGBTを読み解く-クィア・スタディーズ入門』 森山至貴

 クィア・スタディーズの「今」を知る

 最近、フェミニズムを解説する書籍やセクシャルマイノリティの理論に関する言説を読んでいる。その理由は、これらの理論はマイノリティが如何にしてマジョリティと渡り合うか、そして、如何にして多様性と自由を尊重しながら公正な平等を実現するか、という所に直結していると考えられるからである。

 さて、実際にLGBTやクィア・スタディーズに関する書籍をkindle版で探してみると、ほぼ選択肢が存在しない。勿論、英語書籍を視野に入れればかなりの書籍が選択肢に上がってくるのだけれども、最初に物事を学ぶにはやはり日本語の方が圧倒的に適している。と言う訳で、kindle版で日本語で読む事が出来たのがこの森山至貴・著『LGBTを読み解く』である。本書を読んで色々と考えた事を覚書しておく。

 本書は全8章からなっており、著者は1-4章を準備編、5,6章を基本編、7章を応用編、そして8章を現実の世界との橋渡しとしている。8章の内半分以上を準備と基本が占める事からも分かる様に、本書はこれからクィアの視座を学ぼうとする人達への正に入門書という位置付けになっていると言って良いと思う。

 最初に、セクシャルマイノリティの大まかな定義が示されている。その定義は「セクシャルマイノリティとは社会の想定する「普通」の性からはじき出され、「普通」の性を生きろという圧力によって傷つく人々」という様に纏められる。

 ここで現状の「社会=マジョリティ」の想定する「普通」の性は何か?と考えると、本書を読んで理解した範囲では、男と女というジェンダー(=性別*1によって社会が割り当てる性的規範)という事になるだろう。つまり、セクシャルマイノリティはこの「社会=マジョリティ」が規定してきた男か女というジェンダーから異なる人々という事になる。この、男女のジェンダーとは、性別と性的志向の組み合わせを異性愛に限定したものであり、かつ、性別と性自認が同一である事を前提としたものだと理解する事が出来る。しかし、ジェンダーは男と女だけと規定して良いのだろうか*2? ジェンダーというものが定義的に男女のみと限定するのか、そうではなく多様なジェンダーを想定しうるのか、本書の著者は明確には定義していないが、現実の問題として多様なジェンダーが現れつつあるのではないかと思う。

 そもそも、性自認という意味での男女は恐らく社会的に形成された部分が大きいだろう。勿論性別的な意味で言えばXXかXYという異なる染色体構成であるから生物的に異なる点が多々あるのだけれども*3、思考や行動にその生物的差異がどの程度の強い影響力を持つのかはそれ程明確には分かってい無い筈である。例えば、男女の脳の解剖学的差異や機能的差異を報告する研究例が散見されるが、少なくとも近年行われたmeta-analysisでは海馬や扁桃体の形態に男女の差異は認められない様だ*4。機能的差異に関してもmeta-analysisを行えば差異は有意差を持たないか相当小さいかのではないかと想像している。考えるに、社会が存在しない状況では性自認は男か女というbinaryな物ではなく幅広いガウス分布が2つ重なりあった様な物になるのではないだろうか*5。性的志向に関しても同様の事が推察し得るだろう。つまり、社会がジェンダーを形成し、人々の性自認やそれが引き起こす行動様式を制約している側面はかなりあるのだろうと、私は考えている。

 社会が男女というジェンダーを概念的に規定したが、概念の登場に依ってその輪郭が形成されたのは男女だけではない様だ。著者は異端としての「同性愛」という概念が現れたのはこの150年くらいの事であり、それと共に「同性愛者」という概念が生まれたと指摘している*6。この概念の誕生に依って、「自分は同性愛者」という自己認識を持つ人々が現れ、やがて連帯し、現在の様な社会運動に繋がった。同様に、初期においては同性愛者と同一視されたり逆に同性愛者から差別されたりしていた現在のトランスジェンダーも、トランスジェンダーという概念の普及と共に、同性愛者との差異化が進みまた新たな形での連帯も形成されて行った。本書ではおおよそこの様に概念の誕生とセクシャリティの新たな自己認識の歴史を説明している。

 この様なセクシャルマイノリティのアイデンティティの変遷、多様なセクシャリティの差異と連帯、それらを捉え直す為にクィア・スタディーズは有効な視座であると著者は述べている。そして、本書で説明されているクィア・スタディーズの観点を学べば、確かに、セクシャルマイノリティとは均質な集まりではなく、マイノリティという点で連帯が可能ではあるが、様々な異なる軸の多様性を持つという事が良く分かる*7。上で述べたように性自認や性的志向がbinaryではなさそうな事を考慮すれば、この多様性は、恐らく既存の男女のジェンダー割り当てられた人々の内にも存在する物であろうし、やがて均一視されていた既存のジェンダーも細分化され多数の軸を持つものとして捉え直されていくのかもしれない*8

 最後に本書中興味深い文章があったので引用する。

<前略>パートナーと生きているわけではない人は必ず一定数存在します。何もかもをパートナーシップの権利保障の枠内で解決しようとすれば、「独り身」の人の権利が侵害されることになりかねません。
 そもそも、性的指向や性自認を固定的で永続的なものと前提してしまうことを、クィア・スタディーズは批判してきました。端的に言って、人は変わるし、変わってよいのです。
 そのクィア・スタディーズの視座を貫徹するなら、特定のパートナーとの永続的で固定的な関係を前提とする人間観も、また誤りです。もちろん、性的指向にかかわらず多くの人が特定のパートナーとの永続的な関係を望んでいることは確かでしょう。でも、婚姻を含む社会の制度がそれを前提にせず、もっと開かれた人間観に基づく平等なものになりうるのならば、それを拒む必要はありません。
-『LGBTを読み解く-クィア・スタディーズ入門』 森山至貴

 これはクィア・スタディーズの視点から様々な性愛の形を考慮しているから書き記された文章なのだろう。ホモノーマリティの項でも著者は触れていたが、例えば、同性婚を単に称揚するのみであれば*9、それは結婚という形で社会構造に組み込まれ、ジェンダーを規定してきたマジョリティと単純に同化し抑圧構造を強化してしまいかねない。上記引用に示される様に、「独り身」の姿勢も当然認められるべきであるし、単婚至上主義もマジョリティが規定する「普通」で「正常」の一部であって、それ以外の形態も考慮すべきだろう。そして、その次に書かれている様に、永続的かつ固定的な関係のみを「普通」で「正常」とする事にも疑義を抱くのが当然だと思われる。性愛の多様性をロジカルに考えて行けばこの様な思考に帰結する事は頗る妥当であり、心から首肯できるものである*10

 この書籍はかなり最近、2017年に刊行された書籍であり、本書で紹介されている理念の「今」を知るという意味においても、最適の一冊だと思う。著者は本書で説く様々な要素を学び知り考える事で、偏見や差別から脱するのは勿論、単なる「なんでもあり」的な態度からも脱却することを称揚している。私が全てを正しく理解出来たかどうかは分からないが、その説明は丁寧な言葉で分かり易く思えるし、多様な視点が紹介されており、入門書として申し分ない。その上最後に説明付きで豊富な読書案内が付いている。この読書案内を道標にこの分野をもっと勉強してみたい*11

LGBTを読みとく ──クィア・スタディーズ入門 (ちくま新書)

LGBTを読みとく ──クィア・スタディーズ入門 (ちくま新書)

 

 

*1:生物学的な意味での性が「性別=セックス」という事になる。

*2:そもそも以前読んだ“Through the Language Glass”に依ればgenderと云う単語は元々はその使用を性的区別に限定するものではなくジャンルだとかタイプだとかと同義だった様だ。同書には以下の様な“gender”の使われ方も記されている。
In English, both senses of “gender”— the general meaning “type” and the more specific grammatical distinction— coexisted happily for a long time. As late as the eighteenth century, “gender” could still be used in an entirely sexless way. When the novelist Robert Bage wrote in 1784, “I also am a man of importance, a public man, Sir, of the patriotic gender,” he meant nothing more than “type.”

*3:現実にはXXorXYだけではなく各種Inter Sexualも生まれ得るのだけれども、そこに関してはまだ考えが及ばない。

*4:Tan et al. 2016 Neuroimage; Marwha et al. 2017 Neuroimage. つまり、私は散見される、人に於ける認識や思考の性差を強調する報告を余り信頼していない。勿論、齧歯類に於ける信頼できる研究に於いて、脳に於ける性ホルモンの作用の性差やら幾つかの情動的行動に於ける性差やらが多数報告されているので、異なる点がある事自体は事実だろうけれども。

*5:もしかしたらもっと多次元的な物かもしれないが、現状それを巧く表現できない。

*6:これに関しては、本書の著者だけではなく多くの研究者が同様の指摘を行っており、広く受け入れられている考え方である。

*7:例えば、同性愛者による両性愛者・トランスジェンダー差別や、セクシャルマイノリティカップル間でのDVなど、セクシャルマイノリティ間でも権力勾配が生じる場合は当然ある。

*8:逆説的にゲイコミュニティに於いてゲイジェンダーが固定化していく可能性もある。

*9:勿論、選択としての同性婚が認められるべきであるというのはその通りである。

*10:ただ、ここまで突き詰めて考えれば、「普通」に安住する人々が多様性のone of themに引き摺り降ろされる事に抵抗を感じる事も想像できる。

*11:早速、この読書案内で紹介されている『現代思想2015年10月号 特集=LGBT 日本と世界のリアル』を読んでみた処、多様な議論論考が掲載されており、非常に興味深かった。