(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『ロビンソン・クルーソー』 デフォー 平井正穂 訳 

 労働と信仰と西洋社会の拡大と

 池澤夏樹の『夏の朝の成層圏』を読んでいる時に、当然、ロビンソン・クルーソーを思い出した。子供の頃に福音館書店から刊行されている古典童話シリーズで読んだのは覚えているのだが、細かい所は当然の様に忘れてしまっている。忘却の彼方にうっすらと漂う記憶を探ってみると、子供心にはその心躍る設定の割には淡々としたお話だった様な記憶がある。まあ、せっかくなので良い機会だ、設定上は同様の漂流譚である『夏の朝の成層圏』と比べてみたい気もするので、岩波文庫の『ロビンソン・クルーソー』を読んでみた。

 岩波文庫の平井正穂訳による『ロビンソン・クルーソー』*1は上下2巻からなるのだが、その内上巻が所謂皆が親しんでいる孤島でサバイバル生活を送るロビンソン・クルーソーの物語、即ち、『ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険』(1719年)であり、下巻はその冒険の続きにあたる『ロビンソン・クルーソーのその後の冒険』(1719年)となっている。

 ロビンソン・クルーソーのお話は非常に有名であるけれども、その孤島での生活以外の冒険の荒筋に関しては案外知られてい無いのではないだろうか? 物語の荒筋は以下の通りである。中産階級に生まれたロビンソン・クルーソーはその心に湧き起こる冒険心に導かれるままに船乗りとなる。最初の航海は無事に成功し富を手にする訳であるが、その次の航海では実はムスリムの海賊に捉えられ奴隷生活を数年強いられるという出来事もある。この後にブラジルに渡り農園経営を行いそれを軌道に乗せた処でアフリカに奴隷を掻っ攫いに出掛け、そして、その航海の途上で漂流し、カリブの孤島*2に辿り着き、28年にも及ぶサバイバル生活が行われるのである。ここまでが上巻で、下巻では再度この孤島へ訪れ、その後にマダガスカルを経由しインド、中国、ロシアを旅して再びイギリスへと帰郷するお話である。

 この小説で描かれているロビンソン・クルーソーの冒険は正に封建的社会制度から脱しつつあった当時の中産階級労働者の生き様であり、そこには幾つかの強い信念が示されている。まず、その根底に明らかに存在する物の一つが勤労への強い信頼である。

 ロビンソン・クルーソーは流れ着いた無人島でひたすらに労働に励む。彼は勤労の齎す結果に絶大な信頼を寄せている。そして、ひたすらに忍耐を以ってして何事もやり遂げてゆく。例えば、小説内の記述に依れば、板一枚を大木から作り出すのに、42日、大木から船を作り出すのに3ヶ月、といった具合であり、最終的には農場を作り牧場を作り、島を開拓して君臨統治するのである。このロビンソン・クルーソーの忍耐と勤労はやはり驚嘆すべきものであると言わざるを得ないが、これは当時芽生えつつあった自由労働者達の目指す姿勢の窮極の形でもあったのだろう。

 勿論、勤労と忍耐を信じ続けるという事自体は現代で言う処の努力教への狂信に近いモノがあると思う人もいるだろう。当然、開拓精神と冒険心を抱いていた当時の野心的なイギリス人の全員がこの様な忍耐を持ち合わせていた訳では無い。例えば、イギリス人最初のアメリカ入植の試みであったロアーク入植は二度試みられいずれも失敗に終わっている。小説内に於いてもロビンソン・クルーソーのその精神構成に並外れたものがある事はやがて島で暮らすスペイン人達からも指摘され驚きを以って語られている。只、この時代のこの状況に於いて労働に精力を注ぐという事は、先の見えない勤労ではなく、その努力と忍耐が報われる可能性の高い賭けでもあったのである。16世紀から始まる大航海時代に於いて、ヨーロッパの各国は世界各地へと交易に乗り出し、かつ帝国主義的領土拡張にも余念がなかった。世界はどんどんと拡大して行っていた。ヨーロッパで手に入らないモノは当然相当な価値があるし、新たな植民地での新規事業は古い共同体的構造に未だ規制されていたヨーロッパと異なり、制約は少なく土地の取得も容易であった。彼等新時代の労働者達は正に長らく続いた封建的社会の支配構造から逸脱し、自らの才覚と勤労と勇気を以ってして、選択の増大による新たな自由を手にしつつあった。労働に依って新たな人生を切り開く事が可能になってきた新時代、これは正に労働者の「労働自体」に価値が生まれつつあった証左だと思われる。

 勤労への強い信頼に加えて、一個人としてのキリスト教的価値観への強い信念も描かれており、この姿もまた、18世紀の自由人達の新たな信仰の形を描出したものだろう。本書の解説に依れば、この小説で描かれる信仰の形はまるで「日曜学校的」だとも批判されていた様だ*3。ここで言われる「日曜学校的」という言葉の意味するところは、キリスト教の教義を幼稚な解釈で薄めたものでしかないという意味であって、この小説に描かれる信仰が余り高度に思惟したものではないと批判しているのであるけれど、解説に書かれている擁護はともかくとして、私はこの単純化されたある意味幼稚な信仰というものは、教会支配による秘儀と化した神学的教化からの脱出、つまり信仰的柔軟性という自由の表れだと捉えた。労働に依って選択を増やし、自由を勝ち得た当時の前衛的人々は同時に、教会からの支配ではなく、聖書を通じた神との個人的対話へと変化した新たな柔軟な信仰を手に入れつつあったのだろう。この信仰は労働で得た自由を道徳心に依って制御する役割を果たしており、例えば、小説内でのロビンソン・クルーソーは、商取引に於いて、正直で誠実な取引がやがて最大の成果を生むという思想を抱いている。又、異民族との衝突に於いても、主人公が唾棄する小説内で云う処の所謂「野蛮人」といえども、殺人は最終手段としてほとんどの場合にはそれを行わずに済むように行動している。これに加えて、ロビンソン・クルーソーの行動で興味深い所が、労働の齎す絶対的な力を信じつつも、同時に自らの力ではどうにも制御できない運命(これをある意味に於いて神や神意と捉えても良いのかもしれない)をも常に認めている処にある。勤労は必須であるが、同時に、人の行いには限界がある。この考え方は、趙甌北の有名な七言絶句と同義に思える。

少時学語苦難円 唯道工夫半未全
到老始知非力取 三分人事七分天
-『論詩』 趙甌北

 個人の努力による労働の齎す自由と宗教的道義心による行動の制約、これらが合わさったものがこの小説で描かれるロビンソン・クルーソーであり、これは原始的なリベラル・ヒューマニズムと看做して良いだろう。

 しかし、ここに明確な西洋中心主義もその姿を顕してくる。現在に於いては様々な書物で指摘されるように、このロビンソン・クルーソーの冒険は西洋の帝国主義、植民地主義の正に典型例でもある。先住民族である若者を救った際に彼に最初に教えた事は主人公を「旦那様」と呼ばせる事であり、彼の名を聞く事無く、“Friday”という英語名を独善的に押し付ける。英語は教えるが、彼らの言葉を学ぶ姿勢は無い。彼らの宗教を否定し、キリスト教を強制する。これらは正に文化的帝国主義の顕われであって、小説内のロビンソン・クルーソーはこれを「善意」でやっているのであるから、独善的思考の恐ろしさが垣間見える。この文化的帝国主義に加え、領土的帝国主義・植民地主義も明らかである。ロビンソン・クルーソーはやがて島で暮らす人々に彼を「総督」と呼ばせる。何故総督なのか? 実はこの大航海時代にはヨーロッパ人の不在の土地は最初に見付けたヨーロッパ人が総督となり支配権を持つという事が慣習化されていたのである。つまり、ここで総督と名乗る主人公は明確にこの土地を西洋的価値観で自らの物と帰属せしめた訳で、これは植民地支配の典型である。この他にも、下巻で描かれる交易に於いて相当な富を得る描写は、物資の価値の勾配を利用した非西洋諸国からの搾取に他ならない。また同時に中国人・日本人を侮蔑し、シベリアの先住民族の信仰対象を破壊する描写などは、西洋中心主義の発露以外の何物でもない*4

 ロビンソン・クルーソーは局面局面に於いて矛盾し得る多面性を持つ正に「人間」を体現している。 現在からみると独善的に見える姿と自らの自由を切り拓き人間の生を尊重するリベラル・ヒューマニストとしての姿とが混在している。

 独善的な部分は眉を顰める醜悪さである。ただし、私が抱く価値観から見て独善的に見えると云う事が、私の価値観の優位性を保証するものではない。実際問題、この小説に顕われるもう一つの価値観、リベラル・ヒューマニズム的な価値観は、他人を尊重しつつも、固定化された社会構造から逸脱する原動力と成り得るだろう。独善的な部分を持ちつつも自由を希求する姿、これはしばしば矛盾を抱えて暮らす、人間としての在り方そのものである。リベラル・ヒューマニストだからと言って常に妥当な行動が出来る訳ではない。この部分は常に認識しておくべき課題だと言える。

 やがて時代と共にキリスト教的価値観はその姿を次第に柔軟に変容させていき、個々人の価値を尊重する人権思想が西洋に於ける第一の価値観の座につく事になった。現代に於いて、発展した西洋由来の人権思想と自由主義は一般に良いものと看做されているが、それが一個人や人類共同体にとって常に最適なモノかどうかは分からない。大航海時代以来、拡大する西洋的思想が世界を覆い尽くしつつある。その結果、辺境に存在する思惟やまた別な大きな共同体例えばムスリムの世界観等との衝突が激化している。日本に於いても外形上は一旦西洋の人権思想と自由主義を受け入れたに見えたが、深く浸透している様にも思えない。 西洋的思想の積み重ねの上に成り立つ思考を形成した人々は私を含めて、恐らくこの人権思想と自由主義に共感を抱いていると思うのだが、それらが所謂処の「野生の思考」を征服して良いのか?というディレンマは確かに存在する。只単にリベラル・ヒューマニズムが良いものであるからそれを世界に広めるというのであればそれは文化的帝国主義と紙一重になってしまうかもしれない*5

 ここら辺りまで考えると、池澤夏樹の『夏の朝の成層圏』はほぼ同様の漂流譚であるけれども、その描く処はデフォーの『ロビンソン・クルーソー』と真逆である事が良く分かる。両者の文化の捉え方は全く異なっている。個々の辺境化と帝国主義的一般化との相違。ただし、私は池澤夏樹の描いた感覚により共感する人間であるけれども、デフォーの描くまた別種類の生活力にも尊敬と驚嘆を感じざるを得ないのである。

 

ロビンソン・クルーソー 上 (岩波文庫)

ロビンソン・クルーソー 上 (岩波文庫)

 
ロビンソン・クルーソー 下 (岩波文庫)

ロビンソン・クルーソー 下 (岩波文庫)

 

 

*1:相変わらず岩波文庫電子書籍版の出来栄えは良い。丁寧で豊富な注釈が施されており、全てがリンクとなっているのでワンタッチで参照できる。訳者平井正穂による前書・解説もしっかりと収録されていて尚良い。因みに、平井氏の訳で一ヶ所「なんぼなんでも」というフレーズを見付けたのだが、「なんぼ」が訳に使い得る言葉だったとは! まあ方言が出てしまったのかもしれないが珍しいものを見た気がする。

*2:実は南アメリカのオノリコ川河口付近、トリニダード島の南の辺りに位置し、大陸からそれ程離れていない事が後に明らかになるのだが。

*3:ウォット著、『小説の勃興』中にこの様に記されているらしい。

*4:この段に書いた事は、山田篤美著の中公新書『黄金郷伝説-スペインとイギリスの探検帝国主義』から相当に影響を受けている事をここに記しておく。同書は大航海時代に始まる西洋帝国主義の南米に於ける影響を概説した非常に面白い書籍である。

*5:とは言っても無批判な文化相対主義も無意味なモノであるからして、どこに着地するのかどの様な相互理解を形成するのかに関しては多くの対話が必要となるだろう。マジョリティ的な圧力を利用しない事も重要な点かもしれない。