(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『813』 モーリス・ルブラン 保篠龍緒 訳

 怪盗ルパンが欧州を揺るがす謎に挑む

 私が小学生の時分、ポプラ社から出ている少年探偵団シリーズと怪盗ルパンシリーズは非常にポピュラーな子供向け怪奇冒険譚シリーズとして皆愛読していた。私は当時はもっぱらルパンものを読んでいたのだけれど、いい年になって思い返すに、シリーズの翻訳者南洋一郎のやや煽ったような訳は中々名調子だった。只、南洋一郎の訳は素晴らしいのだけれども残念ながら、お話が子供向けに縮約版になっている。勿論、縮約版でも手に汗握る面白みはあるのだけれども、全訳版を読んでみたくなるのが当然と言えば当然であって、さてルパンシリーズの邦訳版で現在簡単にkindle版で手に入るものはと調べてみると、そこそこのタイトルが利用可能であった。ではどれから読んでみようか、と考えるに、実は、江戸川乱歩が黄金時代ベストテンというものをリストにしていて、その中に「別格」として『813』を挙げている*1。と言う訳で、まず保篠龍緒訳の『813』から読んでみた。

 因みに、この別格というのはベストテンよりも優れているという訳ではなくて、乱歩先生曰く「格外」という事らしい。これは実際その通りで、ルブランのルパンの長編物は余り推理探偵の興味を惹き付けるタイプの小説では無い事が多い。ルパンシリーズは乱歩の言葉を借りれば、通俗的探偵冒険小説としては屈指の傑作揃いだけれども、謎を解いていく論理的興味には主眼が置かれていない。ただ、ひたすらに謎又謎、そしてそれに立ち向かう超人ルパンの活躍が巧みに描かれているのである。

 ルパンシリーズの探偵冒険小説として良く出来ている処は、主人公である大怪盗アルセーヌ・ルパンが、物語の謎を解き明かす探偵役であると同時に、社会から疎まれ恐れられる悪党だという点にある。ルパンには義賊的な側面もあるのだけれども、この設定の御蔭で、敵役との激しい闘争のみならず、官憲との駆け引きという要素も加わってお話に緊張感が否応なしに増加されるのである。敵役はルパンに取っても強敵である事が多いし官憲とも鎬を削らなければならない、となると、自然、大怪盗アルセーヌ・ルパンは超人的なダーク・ヒーローとなってくる。

 そのルパンの登場は、保篠氏の訳であればこんな風になる。

 しかるに彼は、ふたたび猛然として社会にその怪奇な姿を現わした!*2 社会にたいして傍若無人の闘争を再開した!アルセーヌ・ルパンはいぜんたるアルセーヌ・ルパンとなって再現したり。変幻自在、幽鬼のように捉えどころなく不触不縛、魔神のように縦横無敵、猛獅子のように剛胆敏速、天才的怪人物アルセーヌ・ルパンが再現した。
-『813』 ルブラン 保篠龍緒 訳

 この大怪盗ルパンが本作で挑むのが、欧州を揺るがす一大機密を巡る謎である。ルパンはこの謎を解き明かす事で、その愛娘に莫大な財産を与え、ドイツの大公を傀儡にし、そしてフランスの対ドイツ政策に貢献しようというのである。この、単純に秘宝を追い求めるだとかだけではなくて、愛国心に燃えて欧州に揺さぶりを掛けようという所が本作『813』のスケールのドデカイところだろう。小説内には当時のドイツ皇帝ウィルヘルム2世が登場し、ルパンに振り回されるし、英国からはかのシャーロック・ホームズが前作『奇厳城』に引き続きちょっかいを出してくる。

 この様な大舞台を前にしてルパンはその鋭敏な頭脳を駆使するのみならず、怪盗と呼ばれるに相応しいその変装の才を以ってして多重人格的に立ち振る舞うのであるが、ここが怪盗紳士の本領発揮と言った処で特別ワクワクする部分かもしれない。この様々な立場を利用しつつ、巨大な機密に迫るルパンを待ち受けるのは黒衣の暗殺者*3である。この黒衣の暗殺者こそが本作に於けるルパンの最大の敵であって、その冷酷な殺人能力と怜悧な頭脳でルパンを度々追い詰める。この何度も訪れる危機にはこの後に冒険物で定番となる様なピンチの類型がふんだんに盛り込まれている。捕縛されて河に投げ込まれるだとか、地下で水攻めに遭うだとかの、手に汗握る展開は江戸川乱歩の幾多の小説や現代のサスペンス映画などに今となっては欠かせない場面だと思う。

 さて、この様にルパンを幾度となく窮地に陥れる黒衣の暗殺者が誰なのか? ルパンものは基本的には推理小説的ではないのだけれども、この点こそがこの小説での推理探偵的興味の焦点と言ってもいいかもしれない。乱歩は「探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く径路の面白さを主眼とする文学である。*4」と探偵小説を定義していた。この『813』は論理性こそ乏しいものの、「黒衣の暗殺者は誰なのか?」という難解な秘密が「徐々に」解かれていく、この「徐々に」の塩梅が素晴らしい。推理小説を読んでいて最も気になる処は「犯人は誰なのか?」という点なのだけれども、これが読者の我儘な処で、犯人が簡単に目星が付いても詰まらないし、かと言って最後の種明かしまで全然分からない様だとこれも面白くない。ここの匙加減というものは天性の才に頼る様なものであるが、ルブランはどうやらその天賦の才に恵まれた人であった様で、『813』に於いて読者の脳内に徐々にその真犯人像が浮かび上がって来るその感覚は中々他では味わえないものだろう。

 今回読んだ『813』は保篠龍緒の訳に依るものなのだが、この保篠氏はルパンシリーズを数多く翻訳して日本に紹介したルブラン翻訳の第一人者として知られている。かの探偵小説雑誌「新青年」にルパンものの翻訳を載せており、大正7年にはルパンの翻訳全集を刊行している。この人の訳は本当に名調子で、読んでいる感覚からすると、黒岩涙香をもう少し煽りの利いた俗っぽい調子に仕上げている感がある。乱歩の明智小五郎通俗ものやら南洋一郎ルパンやらの文章の調子はこの保篠氏の文章に多いに影響を受けている処があるのではないだろうか。今読むと胸が熱くなる様なちょっと恥ずかしい様な、やや子供っぽい感も無きにしも非ずといった感じだが、保篠氏を始めとするこの煽りの利いた名調子はいつ読んでも良い物である。因みに、この『813』の英訳版(原著は仏語ゆえ読めないのである......)と保篠訳を読み比べてみた処どうやら、保篠氏は所々勝手に文章を弄っている様である。まあ保篠節はそれくらい勝手にやらないと勢いが出てこないだろうなというのは読んでいて何となく察せられたのでそれはそれで味わいとしておこう。現状、本書『813』を含む保篠ルパンシリーズは紙媒体では今一つ手に入りにくい様だ。電子書籍版で読めるのは有難い事なのだが、せっかくなのでどこかの書肆が物理書籍化してくれる事を期待して待っている。

813(上) 813

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813(下) 813

813(下) 813

 

*1:この『813』は文藝春秋から出ている東西ミステリーベスト100の1985年版では41位に選ばれていて、根強い人気が伺える。

*2:前作である『奇厳城』事件の後4年間、ルパンは姿を晦ませて居たのでこの様な表現「ふたたび」となっている。

*3:因みに黒衣の暗殺者の名前はルイ・マルライヒという事になっているのだが、この名を目にしてある人物を思い出す人も多いだろう。そう、かの名作漫画『パタリロ!』に登場する美青年暗殺者マライヒである。魔夜峰央氏は推理小説趣味もあって『パタリロ!』内でもしばしば探偵エピソードが出てきておりチェスタトン等へのオマージュが伺える。であるからして、マライヒがこのマルライヒから採られたのは間違いないだろう。ついでに言えばバンコランはカーの小説に登場する探偵である。

*4:『幻影城』の「探偵小説の定義と類別」参照。