(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『ギリシア・ローマ神話』 ブルフィンチ 大久保博 訳

 ギリシア・ローマの神々の物語を詩と共に味わう

 最近、ヘロドトスの『歴史』や『古事記』を読んでいると、この手の伝説の域に入っている様なお話がもっと読みたくなってきた。この類の物語の中ではホメロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』が最も古い部類に入るのだろうけれども、それらを読むその前にギリシアの神々の様々な小噺を仕入れておいた方が色々と読書が捗りそうな気がする。実際、『歴史』を読んでいる時にも、基本的なギリシアの伝説を忘れてしまっているが為にややピンと来ない処なんかが存在したのである。

 ギリシアの神話や伝説をざーっと手軽に知るための書物として、子供の頃の記憶に依れば、岩波少年文庫のブルフィンチの『ギリシア・ローマ神話』(“The Age of Fable” 1855年)が非常に手頃だった記憶がある。これは何度も読んだ筈なのだが、もう完全に記憶から消えてしまっているので、まあ久々に読んでみるかと調べた処、なんとまあ時の流れは恐ろしい物で、岩波少年文庫の『ギリシア・ローマ神話』は絶版になって久しい様だ*1。当時岩波から出ていた『ギリシア・ローマ神話』は野上弥生子訳だったのだが電子書籍化はされておらず、角川から大久保博訳で完訳版が出ておりkindle版が手に入る事を発見して早速読んでみた。

 昔に読んだ時分には良く分かっていなかったのだけれども、このトマス・ブルフィンチによる『ギリシア・ローマ神話』はギリシア神話の原典ではない。勿論、ギリシア神話に正典の様なものがあるかどうかは良く分からないのだけれども、ヘシオドスの『神統記』やホメロスの叙事詩などに記述される神話的物語が所謂処の原典という事になるのだろう。ブルフィンチは、上述した物語に加えてオウディウスとウェルギリウスの書物を典拠に用いたと前書きに記している。因みに上巻には主にギリシア神話の伝説が集められており、下巻は主に『イーリアス』と『オデュッセイア』で語られる物語と北欧神話・東洋神話の幾分かが纏められている。

 この神話集は実は著者ブルフィンチの意図が相当に反映された書物である。どの様な意図かというと、神話の世界を人々に分かり易く説く事で、かつて世界に存在した神秘的な詩情の世界を復活させる事を望んでいたのである。訳者大久保博が巻末の解説で以下の様に述べている。

世はまさに「技術の時代」、「科学の時代」であった。こうした時代をブルフィンチは「実利的な時代」と呼んだ。そしてこうした時代にこそ、われわれはわれわれの高い精神性や豊かな人間性を、古代神話の中に──伝説の時代の中に──求めるべきであると訴えた。
-解説から

19世紀半ばの科学の発展と唯物論の拡大に依る文学界からの詩情の減衰を恐れたブルフィンチは、この様な啓蒙書を記す事で人々の間に神々を呼び戻したかった様だ。と言う訳で、この『ギリシア・ローマ神話』には神話を題材にしたミルトンやワーズワスやクーパーらの多数の詩が収録されており、これがブルフィンチの編集の最大の特徴であり本書の美点となっている。

 以下、記憶に残った処を覚え書きしておく。

 ギリシアの神々はまあ大抵の人はご存知の様に、ゼウスを頂点とするオリンポスの神々*2から成る。このゼウスを中心とした統治が始まる迄の課程が中々興味深い。本書に依れば、まず巨神族であるオピーオーンが世界を統べる時代があり、その後にクロノスが王の座を奪い取った。クロノスは良い統治を行ったという伝説もある様だけれども、別な伝承では反逆を恐れて自らの子を次々と喰らっていたらしい。そこで末っ子のゼウスが母であるレアの機転で難を逃れ、飲み込まれていた兄弟神を解放すると共にクロノスら巨人達を支配の座から追い落して、我々が良く知るオリンポスの神々の統治の時代を築いたという事である。この様に二度、王位を簒奪するという出来事があるというのはどう云う意味があるのだろうか。例えば古事記なんかの場合でも天孫降臨という形でオホクニヌシからホノニニギへ王権の移譲が行われているし、神話で描かれるこの様な反逆そして王権の移譲が古代の王権の移譲とも結び付いているのかもしれない。

 神話の良くある共通点の一つに人間の起源というモノがある*3。ギリシア神話に於いては人間の誕生に関する伝承が複数存在する様だが、その内の有名な一つはプロメテウスが大地から土を少し取ってそれに水を混ぜて神々に似せて人間を創造したというものである。この時には女はまだ存在せず、ゼウスがプロメテウスの弟であるエピメテウスに贈ったパンドラが最初の女性という事になっているようだ。ここで、人間の誕生話は終わりかと思いきや、この後ノアの洪水に類似する洪水が起きて人類は滅び、プロメテウスの息子デウカリオンとエピメテウスの娘ピュラーとが生き残り、彼らが投げた石から人類が再誕生したらしい。この様に人類誕生神話が二重になっているのは印欧文化に共通の神話の様で、実際、ギリシアに限らず、洪水に依って人類が一度滅び再生する話は各地で見られるようだ。

 ギリシア神話には幾人かの魔女が登場する。その中でも最大級の魔女はメディアだろう。メディアの伝承には様々なバリエーションがある様で、その中では悪の魔女として描かれる事が多い様だけれども、本書でのメディアはやや違っている。最初は恋人イアソンの為にその魔力を捧げる乙女であったのが、やがて嫉妬に狂いギリシア神話中最大の魔女へと変貌していく姿にはある種の悲劇性を感じる。キルケとカリュプソはそれぞれオデュッセウスを愛した魔女である。キルケはメディアの親戚であって割と魔性の魔女として描かれている、一方でカリュプソは善意に溢れた魔女である。メディアが行う魔法の儀式は本書に依れば『マクベス』への影響が示唆されるし、実際我々が想像する何やら得体のしれないものをグツグツ煮込む魔女の姿の原型なのだろう。この魔女達それぞれを中心に描いた物語も存在する様だし、特にメディアに関連する書物は是非とも探して読んでみたい。

 ヘロドトスの『歴史』に於いて、盛者必衰的な人生観が強く示されていたが、その価値観はギリシア神話に於いても暗示されている様に思える。ギリシア神話には多数の英雄、偉人が登場するのだけど、多くの人物が名声を得た後に没落していくのである。例えば、テーバイの町の創始者であるカドモスは神々から祝福されていたにも拘わらず、アレスの呪いにより子孫は不幸に遭い、人々から忌み嫌われ、遂には妻と共に蛇となってしまう。ヘラクレスは数々の試練を乗り越えた最大の英雄として描かれるが、最後には妻からの毒に依って悶え苦しみ炎に焼かれて死ぬ。テセウスはミノタウロスを倒した事で有名なアテナイの王であり、その賢を以ってオイディプスなどとも交友したのだが、やがてはアナテイを追われ頼った先で謀殺される。その音楽の才を以って知られたオルペウスも、狂信者である女性達に八つ裂きにされるという形で死を迎える。オイディプスの不幸は誰もが知る所だろう。この様に、偉人そして英雄でありながらも多くの人物が、平和的な栄耀の内に一生を終える事が叶わずに、没落し凄惨な最後を迎える事が多い。いわばギリシア神話で描かれる英雄たちは皆、古事記のヤマトタケルなのである。ヤマトタケルの不遇の最期は人々に哀悼の情を催し、その魂の平穏が祈られた。ギリシアの英雄達も盛者必衰の理から逃れられないという伝承によって、人々は人々自身の不安定な生を受け入れ、そして強者の不遇な最期に哀悼を捧げたのかもしれない。

 

 今回読んだ、大久保博訳のブルフィンチ『ギリシア・ローマ神話』は文学を読むためのギリシア神話の知識を得る為には最良の一冊だと感じる。元々のブルフィンチによる多数のギリシア神話関連の詩の紹介に加えて、訳者大久保氏によるギリシア神話関連文学書籍の膨大なリストが素晴らしい。このリストの為にも手に入れる価値はあるかもしれない。挙げられている文献の内のどれくらいを死ぬ迄に読む事が出来るだろうか?と考えるとちょっと気が遠くなりそうになった。

 因みにブルフィンチはこの『ギリシア・ローマ神話』の対象を恐らく高校生位の世代を念頭に置いて記したのだろう。ギリシア神話に於ける、ブルフィンチの云う処の良風美俗を犯す様な表現や伝承は削除されている*4。そういう部分を確認するために他の再話物*5を読むのもありかもしれないし、勿論電子書籍に拘らないのであればわざわざ再話物を読むのではなく、原典とも言えるヘシオドスの『神統記』や『仕事の日』を読むのが王道なのだろう。ブルフィンチ『ギリシア・ローマ神話』の原著である“The Age of Fable”はpubric domainのものがkindle版で無料で手に入る。Amazonで探すと二種類見つかるのだが、表紙が"Bulfinch's Mythology"でkindle版でのタイトルが“The Age of Fable”のモノが*6この大久保博訳の『ギリシア・ローマ神話』の原本を収録している電子書籍である。

完訳 ギリシア・ローマ神話 上下合本版 (角川文庫)

完訳 ギリシア・ローマ神話 上下合本版 (角川文庫)

 

*1:この『ギリシア・ローマ神話』を探している間に同様に岩波少年文庫から出ていた『人間の歴史』の事も思い出して、こちらも探してみたが絶版になっていた。岩波少年文庫は相当充実したラインナップだったのに残念ながらかなりの良書が絶版になってしまっている様だ。

*2:因みに英語版ではJupiter(Zeus)、Saturn(Cronos)、Juno(Hera)、Vulcan(Hephaestos)等々といった具合にラテン語由来名が優先されている。ジョイスの『ユリシーズ』もOdysseusではなくUlyssesであるし、実際の処ギリシア名は英語圏でどれ位通じるのだろうか?

*3:実は日本の古事記には人間の誕生に纏わる神話が存在しない。これはかなり特異な部類に属すると思う。

*4:例えばアフロディーテがウラヌスの性器が海に落ちた時に生まれただとか、パンドラの性格は女性の俗悪な部分を集めたものであるとか、この類の伝承は完全に省かれている。またデメテルの伝説は余り一般的な物では無いモノが紹介されている。

*5:山室静や阿刀田高が書いたものがkindle版で手に入る。山室静の物は基本的にヘシオドスの『神統記』を参考にしている様だ。

*6:別に“Bulfinch's Mythology: The Age of Fable”というものが存在するが、そちらは縮約版である。