(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『古事記』 池澤夏樹 訳

 電子書籍時代の現代語訳古事記

 池澤夏樹=個人編集の日本文学全集が2014年から刊行され始めた。実は池澤氏の世界文学全集の方は以前にえいやっと自分への褒美の積りで全巻セットを購入したのであるが、個人的事情により手元にはなく、遠く離れた処で私を待っている。早く手に取って読んでみたいものだと思っている内に、日本文学全集も刊行が始まってしまったのである。始まってしまったと言ったって、まだまだ絶版には遠い訳でその内購入するかな、なーんて考えている内に、なんとまあ、この池澤夏樹=個人編集 日本文学全集が電子書籍で刊行され始めたのである(2017年3月から)。それも正に、私が『古事記』を再び読んでみたいな、などと思い始めたこのタイミングで、である。これは最早購入しない訳には行かない。と言う訳で、待望の池澤夏樹・現代語訳の『古事記』を読んでみた。

 さて、『古事記』は当たり前の話であるが、非常に古い物語である。だからこそ、現代語訳がこの世に何度も出て来る訳であるが、古さ故に色々と注釈無しには読みにくい部分がある。さてこの部分をまず池澤氏は

(前略)これまでの作家たちの現代語訳は普通の読者が知らないことの説明を本文に織り込んできました。
 しかしそうするとどうしても文体が間延びして温い緩いものになってしまう。また注釈としても不充分で中途半端。そこでぼくは思い切って脚注という方式を採ることにしました(*本電子書籍版では本文と注にリンクを貼っております)。その結果が本文と脚注から成るこのページ構成です。

としている。確かに、例えば池澤氏の父である福永武彦による現代語訳・古事記の場合は注釈が地の文と混在しており、読み易いといえば読み易いのだが、元々の文章がどこからどこまでなのかがまるで分からなくなってしまっている。今回の池澤式現代訳はその問題がクリアされているので注釈を注釈と理解しつつ現代文として読める処が良い処だと思う。この注釈の処理の問題であるが、例えば紙媒体の書籍の場合、注釈と本文をまあ頁をめくって行ったり来たりする事になる。経験した事のある人であれば同意して貰えると思うのだが、これは頗る面倒臭いし、しばしばせっかく施されている注を無視して読み続けるというやや勿体無い読み方になってしまう。

 ここで、電子書籍なのである。紙の書籍に比べて、電子書籍の場合この注釈の参照のし易さ快適さが段違いなのである。注のリンクをポンとタッチするだけで注釈に跳ぶ事が出来、そして戻るをタッチするか、その語を再度タッチするかで、文章の元の位置に容易に戻る事が出来る。何なら、PCの画面に注釈を表示させて置いて本文を追いながら見比べることも可能である。電子書籍は正に『古事記』の様な注釈だらけの古典書籍にぴったりのツールである。我儘な話であるがここまで便利になって来ると、電子書籍ならではの注の組み方なんぞも試みて欲しいとも思い始めた。というのもこの池澤訳の『古事記』でも当然紙媒体を前提にしているので、例えばある神様やある人物についての注釈は登場場面ごとに散逸している。電子書籍の場合はリンクを貼ればいいだけなので、いっそのことwikiの様にそれぞれの項目ごとに注を作り、そしてその注の中にも更にリンクを貼り合ってくれると尚読んで楽しい様な気がする。昔、松岡正剛がインターネットのリンクを貼って情報の網を作ることで様々な新しい編集が出来るのではないか的な事を言っていて、まあ残念ながら松岡氏は別段何にも革新的な事は出来ていないが、これからの発展次第で、電子書籍ならではの新しい小宇宙的な情報呈示も可能ではないかと考えてしまう。池澤氏はどうやら電子書籍の導入に抵抗が無い様で積極的に氏の過去の著作も電子書籍にして発行しているので、電子書籍に於ける表現方法の進化にも興味を持って取り組んでくれるのではないかと結構期待している。

 そうそう、池澤氏が電子書籍に積極的である明確な証拠として、なんとまあこの池澤夏樹=個人編集:日本文学全集の第一巻である『古事記』には池澤氏による解説のみならず、解釈を手伝った国文学者の三浦佑之の解説、そして更に、月報も収録されている。月報の内容は内田樹と京極夏彦による古文翻訳や古事記に関するエッセイでこれが収録されている事は期待していなかったので只々嬉しい。池澤氏の電子書籍にそして文章に対する愛情が感じられて本当に素晴らしい。

 ここまで『古事記』の内容と全然関係の無い事を書いてきてしまったが、『古事記』という物語は私がここでどうこう書くまでもなく、非常に面白い。

 上巻では神々の伝説が語られ、天岩戸やヤマタノオロチ、オホクニヌシの転生にスサノオの激励、ホヲリとワタツミの国など心躍る神話が満載である。中巻になると、サホビココ・サホビメの禁じられた兄妹愛を思わせるエピソードや人気のヤマトタケルの西征東征に死して白鳥となり飛び逝く逸話などこれまた読み処に事欠かない。下巻なんかはまるで記憶に残っていない話ばかりだったのだが、これはこれで人間味溢れる逸話が多くて堪らない。女好きのオホササギと嫉妬深いイハノヒメ、『古事記』中最も短気で暴虐の王オホハツセ、オケとヲケの兄弟天皇の伏龍譚など、下巻もパンチラインの利いたお話ばかりである。

 池澤氏の様々な工夫もこの物語をじっくり味わうのに利いている。柔らかい現代語訳は本当に読み易い、例えば以下の様な調子である。

 イザナミは、
「私の身体はむくむくと生まれたけれど、でも足りないところが残ってしまったの」と答えた。
 それを聞いてイザナキが言うには──
「俺の身体もむくむくと生まれて、生まれ過ぎて余ったところが一箇所ある。きみの足りないところに俺の余ったところを差し込んで、国を生むというのはどうだろう」と言うと、イザナミは、
「それはよい考えね」と答えた。

 「言うには―」と始め「言った」と閉じるのはやや不自然に感じるかもしれないが、原文を尊重しているのである。この辺りの具体的な現代訳方針も前書きで良く説明されている。

 それに加えて、段組みも非常に工夫されていて、読み飛ばしてしまいがちな神々の系譜や王の系統なんかも追い易い*1。池澤氏の遊び心が散見される注釈はこちらをニヤリとさせてくれる。子供の頃に岩波少年文庫で読んだので物語は朧げには覚えていたのだが、『古事記』がこんなに楽しんで読めるものだとは思わなかった。今までちゃんと読んでいなくて損した気分である。

 この物語としての面白さはやはり、単なる皇統記と言うモノとは異なる、様々な方面に支持される神話を作ろうとした当時の太安万侶を代表とする宮廷官僚の人々の苦心と情熱が結晶したからなのだろう。そう、この『古事記』は厳密には「神話」では無い。あくまでも「作られた神話」なのである。『古事記』が誕生する以前にはこの『古事記』に描かれている様な国産みから天孫降臨へと流れる様な統一的な伝承は存在しなかった様である。とは言ってもこれは無から作られた神話でも無い。人々の間で口誦され伝承されて来た様々な物語を元にして、それらのラベルを時には貼り換え時には物語を切り貼りして、そして『古事記』という壮大な神話を創造したのである。レヴィ=ストロースが神話の生成や構造を考える際にブリコラージュ*2という概念を提唱していたようだ。レヴィ=ストロースは南米や北米での実際の調査によって、新しい神話の誕生や神話の伝播は、既存の伝承の組み合わせや個々のラベルの貼り換えなどに依って行われる事が多いという事を発見した。この神話の誕生過程は意識的なモノでは無かったとレヴィ=ストロースは考えていた様だから『古事記』の場合は少し違うかもしれないが、世の中に存在した既存の小さな伝承や物語を切り貼りて大きな神話を作った処は正にレヴィ=ストロースが提唱した神話の産まれ方そのものである。ここで面白いのが、この『古事記』では同時に書き言葉としての大和言葉が生まれている。この大和言葉もまたブリコラージュ的なのである。既存の漢文に存在する漢字を大和言葉の音に当て、象形文字としての機能を剥奪して新たな文章記法を創造した訳である。既存の漢文を切り貼りして一部の機能はそのままにしつつも、新たな記法も織り交ぜて、そしてこれまた既存の物語の切り貼り組み合わせで皇統神話という壮大なものを織りだしたという、非常に不思議な産物が『古事記』という事になる。 

 因みに、『古事記』は記法上まだ発展途上の方法で記されている為、決定論的な読み方は存在しない様だ。であるから、これを解釈し読み下す人々によって少しづつ解釈が異なるし、訳者や注釈者の前書きや後書きには色々な考え方が滲み出ていて、これらを読み比べるのがまたとてつもなく面白い。結局、私なんかの場合自分自身で解釈する程の知識はないので、多数の解釈や注釈の比較で以って、「おお、これが一般的な解釈なのか」だとか「これは一般的でない様だが自分に取っては一番しっくりくるな」となる訳である。最初に読んだ解釈と言う物は宙ぶらりんで、他の解釈などを知る事で、それらの位置付けが私の中で定まって来ると云うのは、単体で意味を持つのではなく関係性で意味が生じて来るという事だから、私の読み方は構造的アプローチなのかもしれない、などとも考えてしまった。今回は池澤氏の解釈による『古事記』を読み*3、そして古事記に関連する書籍もそれなりに読んだのだけれど、先行する多数の注釈書もまた非常に興味をそそられるのでこれからどんどん読んでいこうと思っている。

古事記 池澤夏樹=個人編集 日本文学全集

古事記 池澤夏樹=個人編集 日本文学全集

 

*1:例えば、神の名前の初出は漢字とカタカナで、再登場の際にはカタカナで表記するなど可読性が高い。そして再登場する神や人物は名前が太文字で強調されており意識に留める事が容易である。只、一部この強調が抜けている処などがあってそこは残念ではある。

*2:既存の材料を何かの代用に用い、総体として新たなモノを創造する事らしい。例えば工業製品などはブリコラージュ的でなく最初から合目的な部品の集合で生成されるが、それに対して、寄せ集め等で何か新しい物を作るという行為がブリコラージュに当たるようだ。

*3:因みに、この現代語訳『古事記』は内容も勿論、池澤氏に依る前書き後書きも必読であると思う。文学者小説家ならではの解釈や読み方が滲み出ていて思わず頬が緩む。