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(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『夏の朝の成層圏』 池澤夏樹

 近代社会からの漂流

 最近、池澤夏樹の現代語訳『古事記』を読んでいる。前々から池澤夏樹=個人編集の日本文学全集を読みたいと思っていたのであるが、遂に電子書籍化が始まったのである。『古事記』の前書きの、池澤夏樹の語り口は優しく、柔らかく、文学への愛に満ち溢れている。ああ、この人の文章は心地良いなと感じながら、そう言えば今まで池澤夏樹の書いた小説は読んだ事が無かったな、と言う訳で、処女小説『夏の朝の成層圏』を読んでみた。

 この『夏の朝の成層圏』は様々な要素が淡い彩りで混淆した不思議な小説である。印象に残った要素を覚書しておこうと思う。

 漂流物と云うのはある種の異世界訪問譚である。この小説ではその異世界が、天国を思わせる南の島となっている。お話の設定ではマーシャル諸島の辺り、環礁が作る美しい熱帯の楽園といった趣、ビキニ環礁もこのマーシャル諸島の一環礁である。熱帯の島々には自然の熱量がある、文明の齎す熱とはまた完全にベクトルの違った熱量が存在していて、それが、当然住む人々の生活や心に強い影響を支配を齎しているのだと思う。最近、文化と言語の関係性を著述した"Through the Language Glass"や『古事記』に関連した書物を読んだりしていると、この辺りの熱帯の原型的生存形態*1が維持されている処には、自然や土地と人々の暮らしとの間に強い紐帯が存在する事、そして文字化されない口誦による伝承がそれを強く密にしている事を改めて感じる。得てして我々は、現在我々が暮らしているこの資本主義×民主主義の世界を基準に考え、この世界の価値観や規則がかつて存在した原型生存形態よりも進歩したものと捉えがちであるが、果たしてそれは進歩なのだろうか? 両者が同じでは無いと云う事は紛れもない事実であるけれども、それは優劣に落とし込まれるものではなく、ただ異なるだけという処に収束するだけなのかもしれない。

 その違いを考えるという意味に於いて、この小説は近代社会とは異なる原型生存形態への適応を見た思考実験を描いている側面がある。座標系が異なる世界に放り込まれた主人公は一度自らを規定していた相対的な関係を失い、新たに自らを原型生存的な座標の中で組み直していく。最初はこの新たな座標空間への侵入が「下方から銃撃されるパラシュート兵」として記されるように、その世界へ闖入する異物として描かれるが、やがて孤島の自然に馴染み、島の椰子やバナナや海辺の貝を食べ、その中で暮らす内に島の精霊に受け入れられていくかの様に見える。しかし、これは正に思考実験的である。何もかもが論理的に進んで行く、蛋白質源はどうするのか、飲み水はどうするのか、と言った課題が文章上淡々と解決されて行く。そこに、この南海の孤島の住人とは異なる、日本という近代化され欧米と均質化しつつある土地から来た「ぼく」の思考実験感が滲み出る*2。主人公はこの南洋の島々の住人とは出会う事は無いし、何と言ってもこの島には熱帯だというのに蚊が存在しないのだ!

 所謂処の近代的文明から来た人間は果たして新たな原型的生存形態の座標空間に再構築され得るのだろうか?我々は素朴に見える原型的生存形態への思慕の様な物を抱く場合がしばしばあるのだが、それは素朴に達成し得るものなのだろうか?最初に辿り着いた島はアサ島と名付けられ、「彼」はやがてヒル島を経てユウ島に移る。そこで、「彼」は西洋風の白い一軒家を見付けるのである。南洋の島に似合わない洋風の家屋、まるで別世界の新しい座標系に見えた島の世界が、「彼」が元居た世界の座標空間の中に少しずつ再定義され始める。「彼」はその家に住む事は違和感ゆえに踏み切れないのだが、家の「便利な道具」は使い始める。思考実験的に南洋の島に放り込まれた「彼」は完全に元の世界から独立して新しい世界に飛び込んだのでは無かった。「彼」には日本や近代化された世界と繋がる細い糸がくっ付いていたのである。これがある意味、地球の引力に支配されつつもその辺縁に漂っている、澄みきった成層圏に居るという事なのかもしれない。ここに来て思考実験は、その思考実験者の立場、つまり近代的社会に属するものとしての立場を明らかにしているように思える。この元の近代的社会との繋がりは、近代化の虚栄の象徴の様なハリウッドの映画俳優マイロンの登場、更に彼の取り巻きの登場、取り巻きの美女とのセックスといった具合に、どんどんと拡大されて行く。マイロンはこの南洋の楽園の快楽に浸るが、「彼」とは異なり原型的生存形態への思慕は示さない、そして、「彼」の中に原型的生存形態への素朴な憧れを見てそれをたしなめるのである*3。このアメリカ人俳優は明らかにある種のジェネラリゼーションの暗示であろうが、対する「彼」もまた近代化された世界から来た人間である以上、南洋の島々の住人の立場や社会に同化してそれを完全に代弁する事は不可能に近い。近代社会からの視点というモノが消え去る事は無いのである。

 これらの出来事を経て、独立した別個の座標系を持つかに見えた島の生活も元の世界の座標系の一部に過ぎない事が明らかになり、主人公もまた元の座標系に再構築されて行く。新たな座標系の中に新たに構築されたかの様に見える定義は、近代化社会との繋がりが明らかになった以上、維持され得ないのである。新たな座標系の中で築いた新たなコードは元の世界の座標系の中へ再変換される、しかしそれは単純に元に戻る変換とは言えないのかもしれない。元のコードとは多少異なったモノに、場合に依っては大きく異なるモノになる事だろう。

 さて、この異世界に思えた南の島はミクロネシアの島であり、現実の世界に存在するマーシャル諸島のいずれかの島を暗示しているのであるが、背後に流れる空気は、真正に異世界だとしてもそれ程問題は無い様に見える。ここでは南の楽園の様な島が描かれており、私自身もこの様な島というものは素晴らしい場所だろうと思うし、ある意味逃避場所として理想的な所かもしれない。逃避場所と言う意味で言えば、人に依ってはどこかのバーという事もあれば、図書館だという事もあれば、それこそ、自室に引き籠ってしまうという場合もあるだろう。これらは総て、南の島ほどドラスティックで無いにしても逃避場所としての異世界であるし、そしてその逃避場所としての異世界には、私達は望まずに行くこともあれば、望んで行くこともあるだろう。神話の世界に於いては異世界譚というものは太古の昔からそこかしこで語られる物語であり、例えば、山幸彦・海幸彦の伝承*4やイザナミの黄泉逝き神話などにそれらが見られる。この神話に於ける異世界というものは望まずに紛れ込んだ場合にはしばしば元の世界へと戻る事が可能らしいが、そうでない場合、望んで異世界に入った場合には元の世界へと戻る事は中々難しいと言われている*5。この小説の場合は、勿論、望んで異世界に漂流して来た訳ではないのであるが、まるで、冥界に連れ込まれたペルセポネが冥界の食物を口にしてしまったが為に地上の世界へ戻れなくなった寓話の様に、異世界に囚われてしまったかの様な感覚を覚える。

 小説の終盤、マイロンが手押しの救命信号の存在を主人公に教え、それを押せば何時でも一時間で南洋の島から救出されると言うのだが、取り巻きの「信じてレバーを引く者を手榴弾はすぐに天国へ運ぶ。救出を信じたまま即死すれば、それはつまり救出と救済が同時に行われたということだ」という冗談が暗示的である。そこに提示された救命信号は本当に「救命信号」なのだろうか?取り巻きのブライアンが言う様に「ある種の死」に依る「南洋の島」からの「救済=脱出」なのかもしれない。それに果たしてこの「南洋の島」は現実なのだろうか?我々はしばしば夢を見る。夢はある種の「異世界=逃避場所」であるし時間の流れはそれこそ現実の時間の流れとは異なったモノになる。この南の島での生活はある意味その不思議な現実感の薄さ切迫感の薄さから夢という異世界の様にも思える。この救命信号を駆動させる事で比喩的な意味での「夢のような生活」が終ると同時に、もしかしたら「夢=異世界」の生活も終わるのかもしれない*6。だからだろうか?主人公は夢の様な南の島での体験を文章化する事でその体験と決別しつつも、島から出る事を決断出来ずにいる。最終章、「彼」は「ぼく」に戻り、第1章で、書かれた事はもう存在しない事と述べたように、もはや「近代社会=現実」から途絶した島の住人としての 「彼」の存在は否定される。「ぼく」は南洋の島の中の「近代化社会=現実」に属する白い一軒家で文章を書いている。だが、「ぼく」はこの島から出て現実に還る事が果たして出来たのだろうか?明日は今日になるのか? 「ぼく」は現実と異世界の間の特異点で永遠に彷徨っているのかもしれない。

 

 池澤夏樹の処女小説は、南洋の楽園のサバイバル生活を、思索を引き出す仕掛けを籠めつつ、淡いパステルカラーで書き上げた傑作だと思う。この小説はレヴィ=ストロース的な思索、文化の違いや近代文明と周辺の原型生存形態への思惟などを込めて書かれた物なのだろうけれども、その視点からうっすらと感じる何かを現時点では上手く言語化する事が出来ないのがもどかしい*7。そういう意味で、文化人類学的な書籍やポストコロニアリズム関連書籍をもっと読んだ後にまた読み返してみたい。

夏の朝の成層圏 (impala e-books)

夏の朝の成層圏 (impala e-books)

 

 

*1:最近読んだ工藤隆・著『古事記の起源』で原始的文化という言葉の代わりにこの言葉が使われていた。「文明は只ひたすらに進歩していくものである」という単純化された価値観からやや距離を置くという意味でこの表現は便利だと思うので使わせて貰う事にした。

*2:池澤夏樹が実際に孤島でサバイバル生活を行った経験があるかどうかは分からない。もしあるのだとしたらこの私の感覚は第三者的な視点で文章を読んでいるが為の誤解かもしれない。

*3:「彼」は自分がこの様な感情を持っている事を否定するが、実際問題として、素朴な憧れの様なものに類する感情が描かれている様に思える。

*4:この神話伝承は同様のモノが、正にミクロネシア、この小説の舞台にも存在するらしい。何か符丁が合う様な気がしないだろうか?

*5:しかし、神話ではない現代の小説の場合、理不尽に閉じ込められ続ける事は良くある事の様な気がする。カフカの『城』しかり、安部公房の『砂の女』しかり。

*6:読んでいる時にふと、実は船から落ちた時に既に溺れていて、これは死ぬ直前の幻想なのかもしれないとも思った。

*7:この小説に於いて、書く事や話す事で内的なモノを具現化する事が必ずしも良い事かどうか分からないと指摘されていたので、これはこれで良いのかもしれない。