(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

“Through the Language Glass: Why the World Looks Different in Other Languages” Guy Deutscher (『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』 ガイ・ドイッチャー)

 言語を通して、我々は世界を見ている

 最近、英語の語彙を増やすためと長文を読む体力を付けるために英語の書籍を読むようにしている。推理探偵小説は興味が先行するので英文でも非常に読み易くて既に何冊か読む事に成功したが、ここで友人に薦められた色の認知と言葉に関連する書籍、“Through the Language Glass”(2010年)を読んでみた。

 薦められた切欠なのだが、どういう訳か色の認識が、国に依ってまた時代に依って異なるという話をしている時に、そう言えばホメロスは地中海を葡萄酒色だと言っていたという話になってこの本を薦められたのは覚えている。どうしてそういう会話になったか?の方が恐らく重要な情報だったような気がするのだが、もう覚えていない。

 ホメロスのワイン色の地中海の逸話は非常に有名で、例えば北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』にこういうお話が出て来る。

 パリで友人のTと会ったとき、「ギリシャの海を見たかい? 葡萄酒色をしているだろ。ホーマーにある通りだよ」という話がでた。そりゃ赤潮か何かじゃないかと言うと、いや、そんなヤッカイなことは俺は知らぬがたしかに葡萄酒色だと彼は頑張る。私は帰途ギリシャの下あたりを通るときずいぶん注意していたが、ついにそんな海の色にはお目にかかれなかった。
-『どくとるマンボウ航海記』 北杜夫

 このお話を最初に読んだ時は、ホメロスは海の色を詩的に表現していただけだろうと思い、あの描写を真に受ける人が世の中には居るのかと面白く感じただけで、別に深くも考えていなかったのだが、どうやら話はその様な単純な物ではない様だ。

 例えば虹は今では一般に7色という事になっているが、その色の境目はどこなのか?5色にしか見えないという事もあるだろうし、もっと多色に見える事もあるだろう。例えば日本では信号の色を青と赤と表現するが、青信号は実際には緑にかなり近く見える。このずれはどこから生じているのか?

 本書"Through the Language Glass"は、この様な色を巡る様々な疑問に答え、更に、言語と文化に関する深い考察を提示してくれる非常な良書である。

 最初に話題になるのが、上述した、ホメロスの描いた葡萄酒色のエーゲ海である。この描写を単なる詩的表現だとは納得しなかった大人物が存在して、それがかの英国の大政治家Gladstone*1である。Gladstoneはホメロスは詩的にエーゲ海の色を葡萄酒色と表現したのではなく、実際に葡萄酒色と認識していたと主張する*2。彼は『オデュッセイア』と『イーリアス』中の色表現を調べ、黒が約170回、白が約100回、赤が13回、黄が10回、そして紫が6回で他の色はこれよりも少ない事を確認した。そしてGladstoneは古代の人々は自然界を主に白黒で表現していたと結論付けたのである。この一見突飛な考え方は後に様々な文化人類学的調査によって実際に、文化が原型的に留まっている場合には文化に於ける色の数は少なく、文化の近代化と共に、最初に黒白それに加えて赤、そして黄色と緑、そして更に他の色、と云う具合に色認識が増えて行く事が明らかになったのである。重要な事は視覚認知としては弁別できるのだが、文化的に色を区別しないという事である。最初の例で言えば、海の色は黒でも白でもないために赤、即ち葡萄酒色と表現される事になる。因みに色がどの民族においても同様の区分と複雑化の傾向を持つ要因として、自然界に存在する実際の色の意味合いと頻度、そして人間の3種類の視細胞*3の色指向性が挙げられている。

 Deutscherはこれらを「自然界と生物的な制約の下で文化が色の境界を定めている」と纏めている。これが前半部分“Language Mirror”のお話である。

 後半は言語に依る行動や習慣への影響について述べている。ここで前提として重要なのが、20世紀初頭に注目を集めたらしい「サピア=ウォーフ仮説」と云う仮説は基本的には誤謬であるという前提である。「サピア=ウォーフ仮説」が提唱した概念とは、例えば「未来形が存在しなかった場合、その言語を使用する人々には未来の概念が存在しない。」といった、言語の特徴が人の思考様式に制約を掛けるというモノである。本書を読む限り、ウォーフの理論には穴が沢山存在するし、論理的帰結として導かれている訳ではない。そして、この概念/仮説はその後の様々なフィールドワークや調査や比較研究によって誤謬である事が確認されている。さて、この大前提を踏まえた上で、著者のDeutscherは幾つかの、影響は小さく、知的思考能力に影響を与えるとはとても言えないが、確かに言語的特徴が行動や慣習に幾らかの影響を与えている例を幾つか紹介している。

 まず1つ目、例えば、アボリジニの一部の部族やインドネシアの一部の人々は空間的位置関係を説明する時に常に絶対座標を持ちいる。我々が例えば右手左手と述べる処を西の手・東の手と述べる訳である。当然、体の向きが変われば西の手が南の手になる事もあれば東の手になる事もある。この様な座標系に暮らしている人々は文化的にその居住地との結び付きが強い事が容易に想像され、原型的な大地と人類の混淆という処に想いを馳せてしまう。

 2つ目の例としては、言語上のジェンダーが話者のその対象への印象に幾らかの影響を与えるという話である。例えばドイツ語やスペイン語では無生物の事物にも言語上の性が存在する。そして、話者はその言葉が例えば男性名詞であるか女性名詞であるかによって言葉への印象が左右されるというものである。

 3つ目の例は、再び色の話である。例えば日本の青信号が何故緑か?という最初の方で書いた疑問があるのだが、前半部で示された通り、青と緑が明確に区別される様までには時間が掛かる。“Green”信号が日本に導入された当時には日本人はその色合いを「青」信号と表現する事に違和感が無かったようだ。面白いのが、現在日本では当然多くの人々が「青」信号が緑色であるから変に感じる。その為に日本の「青」信号は世界の規格で許される範囲で最も青い色になっているとの事である。これは確かに言語が周り回って社会に影響を及ぼした例と言えるだろう。色の話はもう一つあって、ロシア人の場合、青の明度の弁別速度が、文化的に青の明度を区別しない人々よりも、統計的有意に速いとの事である。まあこれもトリビアルな感は否めないが、言語が認知に影響を与えている確かな例である。

 これら3つの例が後半部分の“Languarge Lens”になる。つまり言葉という眼鏡を通して見る世界といった感じか。

 以上の様に、Deutscherは様々な前提となる制約の下、文化が言語へ影響を与える事を示し、そして、その言語が人々の行動や慣習に幾らかの影響を及ぼす事を明示した。これらの事はまあトリビアルといえばトリビアルかもしれないが、どんな物事でも突き詰めて調べていくというのは本当に面白い事なのだな、と改めて感心した。

 そうそう、本書を読む際には以下のshorebird氏のblogの記事も非常に参考になると思う。

d.hatena.ne.jp このblogの書き手shorebird氏はこの分野にも詳しい方の様で、他の記事も読む事で、言語文化関連の現状把握がより深まる様に思う。そして、このblogで再三取り上げられているSteven Pinkerの本は非常に興味をそそられるし、そちらもしっかりと読んでみたくなって来た。

 この様な、英語圏の前線の科学者による一般向けの書籍を読むたびに、欧米の研究者は一般向けに高度な研究内容を平易な形で提示するのが非常に巧いなといつも感じてしまう。日本の場合だと噛み砕き過ぎてなんだか良く分からない書物になっている事が多い。日本の研究者にも頑張ってほしい処である。

Through the Language Glass: Why the World Looks Different in Other Languages

Through the Language Glass: Why the World Looks Different in Other Languages

 

*1:“The Big Bow Mystery”にゲスト出演したかの人である。何度となく英国首相となったのみならず、ホメロスの著作を研究するのみでほぼ完璧に古代の色認知に関して推察を成功させたのであるから、一種の天才だったのだろう。

*2:ホメロスは盲目であったという伝承も存在するが、それはそれだとしてもホメロスの時代の地中海の人々が海を葡萄酒色と認識していたという仮説である。

*3:世の中には2種類しか持たなかったり、更に頻度は少ないが4種類持つ様な人も存在するのだが、ほとんどの人々は青(420nm)、緑(534nm)、赤(564nm)、それぞれの波長帯域に反応のピークを持つ異なる3種の錐体細胞を有している。