(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『死者の書』 折口信夫

 繰り返し繰り返し日は昇り沈みゆく、その果てに

 哲学的な思想と云うと、現代の日本では大抵の場合西洋の思想家が紹介されており、人口に膾炙するものも大抵は西洋の思想家である。一方で当然東洋にも東洋の思想が存在する。先日読んだ吉本隆明の『読書の方法』で、近代の日本思想家として柳田國男と折口信夫が紹介されており、吉本隆明はどうやらかなり折口信夫を読み込んでいたようだ。と、偶然と云うか、何と云うか、折口信夫の『死者の書』(1937年)を以前電子書籍で購入したまま読まずに放置していた事を思い出した。

 『死者の書』は何者かが目覚める処から始まる*1

 した した した。

 この繰り返しが音を伴って響いてくる。『死者の書』ではこの擬音の繰り返しが頻繁に登場する。以下に列挙してみよう。

 こう こう こう。
 ほほき ほほきい ほほほきい。
 つた つた つた。
 あっし あっし。 あっし あっし あっし。
 ちょう ちょう はた はた。 はた はた ちょう。

 これらの擬音はそれぞれ数度パターンを少し変えながら繰り返される。擬音とは不思議なものである。この様に文字になって書き表されていても、それらは音を喚起させ、そしてその繰り返しは読者の脳髄に何かしらの律動を生み出す。ソシュールがシフィニアン(記号表現)とシフィニエ(記号内容)という概念を言葉に関して提唱しており、これは大抵の文字言葉に関しては当て嵌るのであるが、この擬音の類に関してはその構造的な制約からはやや逸脱しているようにも思える。

 つまり意思伝達という過程に於いて記号に変換される前の音、例えば上で挙げられる様な擬音が示すものや、もっと言えば実際に空気の振動を伴って耳に直接届いてくる声による意思伝達は、文字という記号に置き換えられて伝えられる情報よりも何らかの力を持っているのではないかとも考えらる。勿論現在に於いては、音から生まれた言葉はそれが文字になり、また表象から生まれた文字と混淆し、例え音となってこの世に発生しても太古の昔程には力を持ち合わせてはいないだろうけれども、それでも単純に文章を読むのと朗読とで何か違う物を感じるのも確かではないだろうか?

 この考えに呼応するかのように、『死者の書』に於いては、語部の媼がその昔より繰り返し繰り返し連綿と口伝されてきた物語を藤原の郎女(藤原豊成の娘)に語り聞かせる。この小説に描かれる時代は、様々な設定や登場人物からして奈良時代の初頭と推定される訳であるが、この奈良時代初頭に於いてもう既に、語部達は社会に於いて、その力や職業的価値を失いつつあった様である。日々は同様の繰り返しに見えつつも刻々と変化していく。奈良時代のその変化を、忘れられつつあった語部のみならず、当時随一の歌人であった大伴家持にも語らせる。大伴家持もまた語部であり、時代の変化と共に忘れられて行く物への感傷を示すのである。

 さて語部の媼が藤原の郎女に語ったのは、かつて滋賀津彦という皇子が王に弓を引き、敗れた後に二上山に葬られ、そして彼が藤原の娘への強い想いを抱いていたという物語であり、後代になって藤原の郎女を呼び寄せたという暗示である。

 ここに来て読者は、この『死者の書』の時系列が錯綜している事にも気が付く。やがて分かって来るのは、この藤原家の郎女は奈良の都で春分に二上山に沈む夕陽を眺めた際にそこに荘厳な俤人を見る。

日は、此屋敷からは、稍坤によった遠い山の端に沈むのである。西空の棚雲の紫に輝く上で、落日は俄かに転き出した。その速さ。雲は炎になった。日は黄金の丸になって、その音も聞えるか、と思うほど鋭くった。雲の底から立ち昇る青い光りの風、姫は、じっと見つめて居た。やがて、あらゆる光りは薄れて、雲は霽れた。夕闇の上に、目を疑うほど、鮮やかに見えた山の姿。二上山である。その二つの峰の間に、ありありと荘厳な人の俤が、瞬間顕れて消えた。

 次の秋分にもこの姿に心惹かれ、更にその次の中日である春分に二上山の麓の当麻寺を訪れる。その当麻寺訪問が郎女が小説に最初に登場した時の出来事である。夕陽に伴う俤人は明らかに阿弥陀如来を仄めかしており、そこに日想観を読み取る事が出来る。

 この小説に描かれる朝日夕陽の光景はひたすらに美しい。太陽は日々昇り沈み、この美しい光景が繰り返されて行く訳であるが、この太陽に代表される繰り返しのモチーフは『死者の書』の至る所に確認できる。例えば、滋賀津彦・天若日子・隼別皇子そして藤原仲麻呂(恵美押勝)に代表される時の権力者に弓引いて滅んでいった者たち、藤原の郎女が千回行った写経、語部達が繰り返し口伝してきた物語、そして、繰り返し繰り返し糸を織る事で生まれる蓮糸織の曼陀羅である。特に、時の権力者達に叛旗を翻して滅んでいった者たちの繰り返しは、『死者の書 続編』に描かれる藤原頼長にも見られる運命であるし、この『死者の書』が世に現れる少し前には二・二六事件も起きており、その繰り返しの無常さが著者の心の片隅にあったのかもしれない。

 藤原の郎女を呼び寄せた滋賀津彦の霊はやがて小説の中で阿弥陀如来を思わせる俤人と混ざり合っていく。郎女は俤人を「おいとしい、お寒かろうに」と慈しみ著物を織る事を思い付く。しかし、寒さに嘆いていたのは、滋賀津彦の霊である。また滋賀津彦の霊が郎女の下を訪れた際に見えた白玉の骨の指、これがやがて俤人の指と重なる。そして郎女は夕陽の中にではなく差し込む月の明かりの中に俤人を見出すのであるが、月の暗示を伴っていたのはそもそも俤人ではなく、滋賀津彦の霊である。権力に歯向かう者と天日の阿弥陀如来が重なっていくこの物語は、時代の叛逆者、そして常に権力構造へ疑問を投げ付ける力への賛歌とも言えるだろう。

 処で、この小説を読んでいると、朝日夕陽の美しい記述に心を奪われるのではあるが、段々と不思議な違和感を感じてくるのである。例えば、様々な歴史的出来事の時系列に齟齬がある。藤原仲麻呂が恵美押勝を名乗りだした時期、大伴家持が平城京に帰ってきた時期、そして伝説の中将姫と思われる藤原の郎女に関する当麻寺での故事などの時期を比較するとそこかしこにズレが生じるのである。また、滋賀津彦や高天原広野姫尊などと云う具合に大和時代の皇族の名前がその歴史的背景から推定されるものとは異なっている*2。更に、そもそもの『死者の書』という題自体が、エジプトの「死者の書」から閃いたものなのは間違いないだろう。その証左に『死者の書』発刊当時の表紙はそのエジプトの「死者の書」の図版から採られているのである*3。これを心に留めておくと、作者が当麻の村人達によるシジマの行を九柱の神の様だと記した事は、エジプトの九柱神を想像させる。また、阿弥陀如来を暗示する俤人の表記にも不思議な所がある。

 春秋の彼岸中日、入り方の光り輝く雲の上に、まざまざと見たお姿。此日本の国の人とは思われぬ。(中略)金色の鬢、金色の髪の豊かに垂れかかる片肌は、白々と袒いで美しい肩。ふくよかなお顔は、鼻隆く、眉秀で、(中略)......その俤。

これは冷静に読んでみれば明らかに我々が一般に想像する阿弥陀如来ではない。確かに、両手の示す仕草は阿弥陀如来のそれであるが、金色の髪や肩に垂れかかる程の長い髪、そして日本人と思えない様な姿等は仏像に確かめられるその姿とは全く異なるのである。はてさてこれは何者かと考えれば、実は『死者の書 続編』に日本へのキリスト教の亜流の伝播を思わせる記述がある。それも踏まえて、読者ははたと想い至るであろう、これは絵画や像に良く描かれるキリストの似姿ではないかと。日本の日没にキリストが姿を顕すのはどういう事なのか?

 更に、最後に、窮極的に不自然な記載が存在する。藤原の郎女は奈良のその邸宅から春分秋分の日に二上山に沈む夕陽を眺めている、のであるが、地図を見れば分かるように、春分秋分の日に奈良から見る夕陽は二上山には沈まない*4。どこに沈むかと言えば奈良から真西に当たる、生駒山の辺りに沈む事になる、つまりまるで方角が違うのである。二上山に春分・秋分に太陽が沈むのは飛鳥の都から見た場合の話である。藤原の郎女は一体何を見たというのか?

 私がこの様につらつらと不自然な点を指摘しているのは何故か、と言えば、つまり、この小説は一見、私達が今現在暮らしているこの世界の日本の奈良時代を描いているかの様に見えるのではあるが、実は日本の奈良時代の様でそうでは無い世界のお話なのかもしれないと云う可能性を示唆したいのである。この小説内に繰り返し繰り返される繰り返しのモチーフは繰り返す毎に少しずつその調べを変調させてゆく。吉本隆明によれば、折口信夫の著作にはニーチェからの影響が散見されると言う。ニーチェが提示した「永劫回帰」、それに対して、折口はある種の希望を持って、その回帰の中に僅かながらの変化を持ち込んだのではないだろうか*5?そしてその僅かな変化の積み重ねがこの様な日本の奈良時代の様に見えつつも違和感の残る世界に辿り着いたのではなかろか?

 そうなってくると、藤原の郎女の当麻寺曼荼羅が繰り返し繰り返しの機織りの末の完成は、郎女が小説内で思い当たった、千回写経を達せずに鶯になってしまった伝説の様な数限りない未達成の集積の上に存在するのではないか。藤原の郎女が繰り返しの末の到達に至らなかった伝説に思いを馳せるのは、数限りない回帰の中に、幾度となくこの曼陀羅が完成せずに終わってしまった事をもしくは郎女の満足の行く形では完成しなかった事を暗示しているのではないだろうか。そして、幾度目かの回帰か分からないが、少しづつ変化した世界の果てで、遂にその当麻寺曼陀羅は郎女の心を満たす容を持って完成するに至ったのではないか。億兆の回帰の末にキリストや叛逆の死者達の像をも取り込んだ俤人がその曼陀羅に顕れ得た時、その億兆の回帰の重層故に人々は無限の仏神の来迎を体感したのだろう。

 この小説は幻想的な揺らぎを内包した摩訶不思議な書物である。芥川龍之介がかつて、「この故に如何なる時代にも名声を失わない作品は必ず種々の鑑賞を可能にする特色を具えている。(中略)寧ろ廬山の峯々のように、種々の立ち場から鑑賞され得る多面性を具えているのであろう。」と述べたが、この小説は正にそれに当たると思う。今回、私は岩波文庫から出ているkindle版を読んだ。解説・注釈が充実しているので非常にお薦めである。 

死者の書・口ぶえ (岩波文庫)

死者の書・口ぶえ (岩波文庫)

 

*1:この者は後で滋賀津彦の霊だと判明する。

*2:この表記の違いに関しては作者の意図もあったであろうが、同時に、この時代に於ける全体主義的統制そしてその宗教的裏打ちとしての近代国家神道によって皇族の名前をみだりに小説に書き記す事は叶わなかった、と云う事情もある様だ。

*3:岩波文庫版の表紙は緑帯の一般のモノではなく、黒地にエジプトの図版が描かれている。発刊当時の表紙を再現したものらしい、が確証無し。

*4:地図を確認してこの事実に最初に気付いた時には、本小説の夕陽の描写に心底浸っていただけに相当落胆した。以降、この問題に触れていない『死者の書』評論は、私に取ってはやや興醒めである。勿論この部分に触れていなくても、良く出来ている評論は存在するだろうけれども。ちなみにこの問題は只単に奈良の真西に二上山を設定しても解決しない。何故ならこの小説内では、奈良の南に存在する飛鳥に於いても、春分秋分に夕陽は二上山に沈むからである。つまり、この小説の地球は非ユークリッド的空間であると言える。

*5:勿論、永劫回帰では寸分違わず繰り返されるという処に意味があるのだから、私のこの解釈は永劫回帰とは全く違ったものとなってしまうのだが…… むしろ、仏教の輪廻転生に近いかもしれない。