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(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『文学とはなにか-現代批評理論への招待』 テリー・イーグルトン 大橋洋一 訳

覚書 小説読み方談義

 小説読み方談義3

 今までに読んだ書物の内容をほぼ総て忘れてしまっている事の虚しさから読後の覚書を書き残し始めたのではあるが、文章を書けば書く程、自らの読みの浅さを思い知り、これではいかん、何とか改善したいと思い、更には他の人の素晴らしい批評を読んだ事で、せめて自らを納得させる事が出来るような読解を身に付けてみたいと思い始めた。

 さて、こういう際には、何か読み方の手引書、理論書みたいなモノが存在する筈だ、と云うのが、私が古来から書物に寄せている信頼であり、実際に探してみると、その様な目的に沿った書籍が散見される、例えばウィトゲンシュタインの『読書について』やナボコフの文学講義、そしてこの『文学とは何か』等が見つかった。最近同時に読んでいる大橋洋一編の『現代批評理論のすべて』に依れば、『文学とは何か』が最初の取っ掛かりとしては良さそうなので、まず、『文学とは何か』(1983、1996年)から読んでみた次第である。

 読んでみて分かったのだが、そもそも本書は「文学とは何か」を考えると言うよりも、それを行う為の方法論を徹底的に議論している。そして、これも後から考えてみれば、ある意味に於いて当然の事に思えてくるのだが、つまり、「文学とは何か」を考える為にはまず、文学という「何か」をある種の方法で検討せねばならないが、その理論や考え方は既に多種提示されており、それらの内の一つを無批判に取り上げるだとか、それらに追加するような並列の理論を単純に打ち立てるだけでは、「文学とは何か」にそう簡単には近付けないのである。であるから、結果的にこの本は、「文学とは何か」を掴む方法論つまり文学理論・文学批評とは実際の処どの様なものなのか?を議論する、メタ文学批評となっている。つまり批評の批評である。これが、私がこの数年間に読んだ書籍の中では飛び抜けてとてつもなく面白いものであった。

 著者イーグルトンはまず、序章に於いて、本書のタイトルの通りに「文学とは何か?」について考察を始めている。虚構が文学なのか?これは違う。言語を独自の方法で使用する、例えば、ロシアフォルマリスト達が提言したような、言葉を日常言語から解き放ち異化したものが文学だろうか?これもそう簡単には行かない。何故なら少し考えてみれば思い当たるように、日常言語と云う概念が常に単一の規範として共有されているという保証は無いからである。さらに異化説のもう一つの問題として異化の定義の曖昧さもある、読み方に依っては何でも異化であると言えなくもない。この事は、文学というものは書物の内容から一方的に規定されるものではなく、読み手にも依るものである事も示唆している。つまり、「文学とは人間と著述との一連の関わり方である」と言えるし、その意味において、

文学は、昆虫が存在しているように客観的に存在するものではないのは、もちろんのこと、文学を構成している価値判断は歴史的変化を受けるものである。そして、さらに重要なことは、こうした価値判断は社会的イデオロギーと密接に関係しているという事だ。

と、イーグルトンは述べている。そして、イデオロギーとは単なる個人的嗜好ではなく社会的集団が権力を行使し維持するために役立つ諸々の前提だとしている。

 ここで、著者の姿勢が決定的に明らかになる、つまり「文学とは一定の形で規定出来るものではない。」と主張するのだ。

 ここから、イーグルトンは様々な文学批評を俎上に載せて、滅多切りにして行く。そもそも、イデオロギーのない文学理論など存在しないのだと、歴代の文学理論を徹底的に検証していくのである。

 高尚であれば文学である、等と言うのは当然ある種の権威主義でイデオロギーに他ならないし、文学に宗教に代わる社会規範浸透装置としての役割を求めるのも当然イデオロギーである。ロマン派的な不可侵の美、神聖な美というものも権威主義と変わりがない。美を解析的に研究する流れには見るべきものはあるが、結局の処、ある種の価値観に合致したエリート主義に繋がる。現象学的批評は現実逃避に過ぎないし、構造主義は個々の経験を無視したアンチヒューマニズム的になりかねない。ポスト構造主義にしても現実とは向き合わない消極的姿勢へと終息してしまう場合もある。消極的姿勢とは結局の処、現状容認であり、現在の社会システムを支えるイデオロギーへの肯定でしかない。様々な新しい文学理論例えば、フェミニズム、ポストコロニアリズム、新歴史主義にしても様々な弱点を内包している。

 面白いのが、イーグルトンがそれぞれの理論を紹介する際に、その理論の概要を纏めて提示するのだが、その部分を読んでいる間は、成程成程と思って読んでしまうのである。しかし、どの理論に関しても、イーグルトンは最後には容赦の無い審判を下していく*1。ただ、イーグルトンはイデオロギー的である事を批判しているのではない、イデオロギーを内包している事に無自覚である事を批判しているのである。イデオロギー的でない公正無私な文学理論などこの世には存在しないのだ。

 読者はこう感じるだろう、公正無私な文学理論が無いのは了解した、と、では結局のところ答えは何なのか?どの文学理論が最も優れているのか?そしてどの文学理論に従えば「文学」を「読む」事が出来るのか? 結局の処、イーグルトンの答えはそんなものは存在しないという事になる。その様な正解や優劣が存在するかの様に思えたのはイデオロギーの所産である「文学制度=ある種の権威」による誤謬である。イーグルトンは統一的な文学理論が存在するという考え方自体も幻想に過ぎないと述べる。

 イーグルトンの主張する処は、「全ての批評はイデオロギー的であり政治的である、批評行為自体はイデオロギーと不可分である。その点に於いて、持てる価値・信念・諸目標の違いによってどの様な理論・方法を採るかは変わってくる。」という事である。イーグルトンの場合は窮極の処、社会を変革して現在の権力構造から解放する事を目的にしている。そしてその信念から重大な提言を行っている。

人間は文化のみに生きるにあらず。大多数の人間はその歴史を通して、文化に接するチャンスすら奪われてきたのであり、そして現在文化的活動を職業としている幸運な少数者たちの生活を保証しているのも、文化に接することのない人びとの労働である。この単純だがもっとも重要な事実から出発し、この事実をその活動のなかで心にとめておかないような文化理論や批評理論は、いかなるものにせよ、私の意見では、存在するに値しない。

 これはイーグルトンの主張には、強く同意せざるを得ない。富の集中と同様に、文化を嗜む事が可能であるという状況自体もある種の収奪なのである。私は幸いにも現在までの日本の社会構造を利用してこれまでそれなりに文化を愉しんできた訳であるが、これを可能にしてきたのは、数多くの人々の労働そしてその存在に他ならない。私にこの幸福を提供した社会構造と謂えども、現状が最善に近いとはとても認められないし、より良い物への変革を望んではいる。ただ、やはり自称リベラルの偏狭な価値観に収束してしまう自分自身の不誠実さも同時に感じざるを得ない。この自称リベラルが陥りがちな狭い思考はイーグルトンが本書で指摘し批判してきたものそのものである。より深く思惟せねばならないだろう、そして思索のみならず、何らかの別な選択肢も視野に入れて行くべきなのかもしれない。

 イーグルトンの懐疑的精神と社会主義的情熱に充ち満ちた本書は、近代の文学批評理論を通覧するのみならず、その背後に隠されていたイデオロギーを白日の下に曝しだした。イーグルトンの個人の思想信念に基づく議論の展開は本書に於いては拙速の感もぬぐえないが、その情熱には私の情動を震わせ興奮へと導くものがあった。本書は文学に興味を持つ総ての人々へお奨め出来る屈指の書物である。

文学とは何か (上)?現代批評理論への招待 文学とは何か?現代批評理論への招待 (岩波文庫)

文学とは何か (上)?現代批評理論への招待 文学とは何か?現代批評理論への招待 (岩波文庫)

 
文学とは何か (下)?現代批評理論への招待 文学とは何か?現代批評理論への招待 (岩波文庫)

文学とは何か (下)?現代批評理論への招待 文学とは何か?現代批評理論への招待 (岩波文庫)

 

*1:とは言え、リベラル・ヒューマニズム、フェミニズム、ポストコロニアリズムには一定以上の共感を示しているように思える。