(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『芽むしり仔撃ち』 大江健三郎

 この分断と衝突の時代に大江健三郎を改めて読む

 『芽むしり仔撃ち』は1958年に発表された中編である。私はこの小説を10年少しくらい前に確かに読んだはずなのだが、再読中その記憶が蘇ることは殆どなかった。物忘れが激しいというのは何度も同じ小説を楽しめるという点では利点であるが、やはり読書体験が心の記憶に仕舞われていないというのも悲しいものがあるので、このように覚書を記す事を始めたのである。とは言え、強烈な作品の場合は情動記憶と共に覚えていることが多いので、この作品はやはり少し、当時の自分に取っては衝撃が少なかったのかもしれない。しかし今回読み終えた時にはかなり考えさせらる物が有った。

 大江健三郎は初期作品群において頻繁に、我々の間に存在する見えない壁を巧みに描写している。本書の以前には、山間の村に不時着した黒人兵を軟禁する山村の人々、そして本書の直後に、アメリカ人脱走兵をかくまう日本人兄弟、等のお話が描かれており、いずれの場合にも乗り越えられない透明の壁が描写されていた。

 本作『芽むしり仔撃ち』の物語は、戦争末期の感化院の少年たちが田舎の山村に疎開する処から始まる。山村は現在でも閉鎖的な共同体だと揶揄される事があるが、山村に限らず、共同体・集団ごとに人々は閉鎖的な境界を設けていくものである。文中象徴的な一文がある。

人殺しの時代だった。永い洪水の様に戦争が集団的な狂気を、人間の情念の襞ひだ、躰のあらゆる隅ずみ、森、街路、空に氾濫させていた。

 戦争によって蔓延した狂気、それが確かに共同体の全体性を過剰に強化し、そして異物に対して「透明でゴム質の厚い壁」を露わにしたのかもしれない。

 主人公は感化院の少年の「僕」と弟である。この小説でも弟が登場する。そしてこの弟は主人公の内面の反射であり、葛藤である。また現実的に振る舞う主人公の淡い期待を代弁する役割も担っている。さて、感化院の少年というのは年齢的にはどれくらの年齢なのだろうか?調べた処、この小説の舞台である太平洋戦争当時には18歳以下という事になっており、また法律上、感化院は呼称が救護院へと変更されていた。大江健三郎が敢えて感化院という呼称を使ったのか、俗称として感化院という呼称が当時でも優勢であったのか、その辺りの消息は分からない。この小説の感化院の少年達は少数の教官、村人達に管理されるが儘になっている訳で、年齢的には18歳よりも幾分か若い、年嵩に見積もっても中学から高校に移る位の年齢層なのではないだろうか。そうでないと小説内で描かれる様に一方的に管理されるという状況は考えにくい、つまり主人公達は明確にその腕力という点に於いては弱者の立場なのである。

 異質なものを排除するのみならず、力のある者が弱者を屈服させる。村人達は受け入れた感化院の少年達を人間扱いしない。そして疫病の兆しを嗅ぎ取るや否や、少年達を村に閉じ込めて見捨てる。同じ日本人で敵では無くても、外部からの侵入者であり異質なモノである以上切り捨て人間扱いはしないのである。

 閉鎖された村に取り残された感化院の少年達は、外部不在の自由を愉しみ、永遠にも見える一時の安定に倦み、僕や「弟」は長く山村の自然の中で暮らす事すら希望を持って夢見る。また同時に幾人かの隣人、朝鮮人の少年、取り残された村の少女、そして脱走兵も登場する、彼らは全て外部の村人達にとっては異物である。これらの出来事の合間合間に描かれる人間の営みとは無関係な山間の自然の美しさ。人間が如何に争い懊悩しても自然は独立して美しさを保っている。大江健三郎は愛媛の山村の出身であり、この自然には強い思い入れが有ったのだろう。後年には、より森との関わり山との関わりに重点を置いた小説群が展開される。本作内での自然描写もその先駆けであり、大江健三郎のもう一つの側面、思想的拠り所の表れなのかもしれない。

 やがて、安定は脆くも崩れて行く。弟の仔犬が少年達の閉じた世界に疫病を拡げた元凶だと断罪され殺される。仔犬は本当に原因だったのか?それは分からない。只、仔犬は少年達の共同体の構成員では無かったし、人間では無かったし、そして圧倒的弱者だったのである。この共同体に依る異物の弾劾の構造が拡大していく。やがて、外部から強靭な村人達大人達が再度閉ざされた村に帰還し、閉ざされた安定の自由は脱走兵が認めなかった様に崩れ去る。村人達から見捨てられた際に南の脳裏に仔牛の屠殺の記憶が蘇ったように、村人達に取って脱走兵は同じ人間同じ日本人であっても、完全な異物であり除外される。少年達も当然村人達に取っては外部からの異物であり、獣のように扱われ、暴力で以って屈服させされる。 この見えない壁とそれらが引き起こす分断、暴力に依る蹂躙はどの構成単位でも生じていたのである。

 村人達は暴力を背景にした、取引という名の一方的な譲歩を少年達に強制し、南は圧倒的な暴力と餌を前に屈服し、李は家族一族を人質に取られ服従する。しかし、「僕」は最後まで抵抗し、逃げ出す*1。最初に触れ合った、見えない壁を越えられるかと感じさせた村人が鍛冶屋であり、最後に「僕」を屠らんとして追跡して来るものも鍛冶屋である。見えない断絶の深さは想像を絶する。

  大江健三郎は、人々は分かり合えないという真理のみならず、強いもの力の有るものに弱いものはひれ伏し這いつくばるしかないという悲惨な現実をデフォルメして描き上げた。長引く戦争の人殺しの時代だった、という、小説の序盤で何度か登場する言葉は、悲惨な現実を描く事への作者なりの緩衝材のだろう。その緩衝材に依って読者はこの様なお話しは自らとは関係の無い世界のお話として読む事が可能かもしれない。が、果たして、戦争は本当に終結しているのだろうか?確かに、本書で語られる第二次世界大戦は既に終結している、だが、世界各地で戦争・紛争は継続し、人々の分断は広がり、強者が弱者を蹂躙している。暴力的な闘争だけではない、世界全体の経済が発展するに連れ、富の偏在は日本を含む世界中で益々強化され、弱い人々同士でお互いを攻撃しあう。まさに分断と戦争は今現在でも世界中、そして日本にも存在している。

 最後まで理不尽な力に屈服するのを良しとしなかった「僕」は大江健三郎の心の理想であろう。最後に鍛冶屋から逃れ山に隠れた「僕」の結末がどうなったのかを作者は描いていない。しかし恐らく、「僕」は鍛冶屋や村人たちの力の前に撃たれ屠られてしまったに違いない。我々は決して分かり合えないし、強者が弱者を蹂躙する。その弱者にならないためには我々自身が強く生きていくしかないのかもしれない。

芽むしり仔撃ち(新潮文庫)

芽むしり仔撃ち(新潮文庫)

 

 

*1:ここで逃げ出す事が出来たのは弟が既に退場していたからであろう。この最後の抵抗を可能にするために弟が物語から退場させられたのか、それとも弟の退場が作者をして「僕」にこのような行動を取らせたのか、どちらかは分からない。