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(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『無惨』 黒岩涙香

 本邦初の創作探偵小説ー黒岩涙香の挑戦

 推理探偵小説というものはかなり特殊なジャンルの小説であるという事は誰しもが認める処であると思う。となると、さて、その探偵小説なるジャンルを確立した嚆矢はどの小説になるのか、という疑問が湧いてくる、勿論、そんな事は気にならない人もいるだろうが、私は気になる。何でも最初のものというのはやや特別な趣があって、一応、確認したくなるのが人情である。この推理探偵小説の嚆矢は西洋の物で言えば、エドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』(1841年)という事になっている。勿論、殺人が起きるとか、その犯人を探し出すとか、探偵的立場の人物が活躍するとかだけであれば、さらに昔からそういうものを扱う小説は存在しているのであるけれども、探偵役が推理を巡らせて犯人を探すという構造様式を最初に打ち立てたのは、まずポーの『モルグ街の殺人』であると一般に認められている。

 さて、そうなって来ると、次は、日本における最初の推理探偵小説は何なのかという事になってくる。どうでもいいという人も多いだろうが、実際気になる人も沢山存在するとみえて、江戸川乱歩に日本初の推理探偵小説は何だと思うか?と聞いた記者がいたようで、江戸川乱歩はそれに対して黒岩涙香の『無惨』を最初の探偵小説として挙げている。この『無惨』は明治22年(1889年)に連載されており、『シャーロック・ホームズの冒険』(1891-92年)に先んじて世に出ている事になる*1。勿論、上でも書いた様にただの探偵役の出てくる小説であれば、先行するものもあるかもしれないが、この『無惨』では、それこそポーのデュパンやドイルのホームズの様な、限られた手掛かりから論理的推理を行う過程が披露されているのである。そういう点において、この『無惨』は単に本邦初の創作探偵小説というだけに留まらず、最初の本格的推理物であったという事にもなる。

 さてその『無惨』の梗概を記すと、まず、無惨に傷だらけになった身元不明の死体が見つかり、その身元と犯人を探して、新旧二人の刑事が功を争うというもので、年配の刑事谷間田は経験を元に捜査、若手の大鞆は論理的考察、という具合に対照的な方法で犯人、被害者、動機を推理していくというお話である。

 この小説を取り上げる人は皆解説しているので、私がわざわざ説明するのも蛇足な感があるが、まぁここでその論理的科学的捜査の一端を説明する。人毛には鱗のようなものがあって、それらは髪の伸びる方向に一定の方向で並んでいるので、毛髪の向きが分かるという事実を元に、大鞆は被害者が掴んでいた毛髪の向きが異なることに気づく。またその毛髪の縮れ方から、天然の縮れ毛ではなく結癖に依って縮れたものであることを看破し、犯人は入れ毛をした特殊な髪形をしている人物だと推理するのである。さらに、毛髪が黒染めされている事から、本来は白髪の人物という特徴も推察する。これらは正にデュパン的であり、実際にその通り上手くいくかどうかは別の問題として、非常に論理的探偵過程である。

 さてこの毛髪の向きを簡便に判定する方法であるが、大鞆は次の様に述べている。

今度は其毛を前の毛とは反対に根を左り向け末を右向て、今の毛と重ね、爾々其通り後前互違に二本の毛を重ね一緒に二本の指で摘で、イヤ違ます人差指を下にして其親指を上にして爾う摘むのです、夫で其人差指を前へ突出たり後へ引たり爾々詰り二本一緒の毛へ捻を掛たり戻したりするのですソレ奇妙でしょう二本の毛が次第次第に右と左へズリ抜るでしょう

 私は割と簡単に信じる性質なので、ほー成程そうか簡単に試験出来るものだな、と納得してしまっていたのだが、ふと確認したくなって実際に自分の毛髪で試した処、本当に上に書かれている通り、毛髪の向きが違うと互いに擦り抜けていく。こういうテストというものは案外巧くいかなかったりする事が多く、大して結果には期待はしていなかったので、これには心底に感心した。

 他にも論理的風味の推理があってなかなか楽しめる、作中の大鞆の、「「ヴェリフィケーション」(証拠試験)を仕て見ん事にや」、などと言うセリフ辺りなんぞは涙香の志の高さを感じて非常に痺れる。

 さて、普通に読んでおれば、普通の読者は当然論理の大鞆が経験の谷間田を圧倒するという展開を想像する訳であるが、そこは黒岩涙香、へーそんな落とし方もあるのかというやや捻った決着を付ける。この話の持って行き方だけでも凡百の推理探偵小説より優れていると言えるかもしれない、ここは涙香小史のエンターテイナーとしての才能だろう。推理探偵小説は、やはり、犯人、被害者、犯行方法、そして動機、これら全てが重要なのである。

 このように、今から見れば日本初の探偵小説としてのみならず、探偵小説そのものとしても優れた部分が見られる、『無惨』であるが、どうやら、当時は意外と不評に終わってしまったたようだ。この事について江戸川乱歩が『幻影城』中で以下の様に述べている。

若し「無惨」が十二分の歓迎を受けたならば、涙香は恐らくもっと創作探偵小説を書きつづけたに違いない。そして段々優れた作を書き、日本のドイルとなりフリーマンとなり得たかも知れない。それをただ一度で終らせ、論理ではなくて怪奇と恐怖に重点をおいたボアゴベイやガボリオーの飜訳ばかりさせる結果となったことは、日本探偵小説史上の一つの恥辱であるとさえ云い得る。

 これは実際、非常に残念な結果であって、勿論、好評を博さなかった事だけが、涙香が創作探偵小説を書き続けなかった理由ではないだろうが、もし高く評価されておれば、また違った日本探偵小説群が現在存在していたかもしれない。

  私はこの小説は青空文庫のkindle版で読んだ。kindle版だと他に選択肢は無い様に見える。文庫本であれば創元社の探偵小説全集がお奨めだと思う。

無惨

無惨

 
日本探偵小説全集〈1〉黒岩涙香 小酒井不木 甲賀三郎集 (創元推理文庫)

日本探偵小説全集〈1〉黒岩涙香 小酒井不木 甲賀三郎集 (創元推理文庫)

 

*1:『緋色の研究』は1887年なので、勿論、ドイルによるホームズ誕生の方が先ではあるが。