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(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『死者の奢り・飼育』 大江健三郎

 大江健三郎の描く見えない壁

 ふと大江健三郎を読み返している。私が読書を始めたころには大江健三郎はすでに大家であり、まもなくノーベル賞を受賞したことを覚えている。当時私は、大江健三郎の小説を読んだことはなくリベラル作家という柔らかい印象を持っていたのであるが、実際にその小説を読み始めると、そのような印象は吹き飛んでしまった。最初に読んだものが新潮社から出ている『死者の奢り・飼育』であったか『性的人間』であったかは、忘れたのだが、文章はのたうち回り、表現は粗く野蛮な調子で、一読するとニチャニチャした攻撃的な印象を受けたのを覚えている。その踏み外しつつ暴発前進して行くような文章は、他の作家には見られない稀有な個性であり、三島由紀夫の書くような美文とは百万光年は隔たった場所に存在するものである。実際、大江健三郎のような文体の作家は他にいるのだろうか?

 初期の大江健三郎は短編を多く書いており、これらは現在新潮社から出ている『死者の奢り・飼育』と『見るまえに跳べ』にほぼ纏められている。今回は前者を読んだのだが、以前読んだときには気付かなかったが、これはテーマに程良い統一感があり、音楽でいう処のある種のコンピレーションアルバムのようにテーマの共通性を感じつつそのバリエーションを楽しむ事が出来た。

 この短編小説群において貫かれる主題の一つは、彼我の見えない壁である。我々は同じ人類、人種、共同体に属し、他者と触れ合いながらその生活を送っている訳であるが、同じ人間でも、同じ人種でも、同じ境遇でも、彼我の見えない壁が我々を分断している。この壁は、大江の表現を借りれば「透明でゴム質の厚い壁」であって曖昧であり一見不可視ではあるが非常に頑強な壁なのである。

 『死者の奢り』においては生者と死者の壁が存在している、死者がそこに死体として存在し明確に生命は失われている。これは勿論分かり易い、ある意味明瞭な境界線が引かれている訳である。『他人の足』では、下半身麻痺の青年が療養所で、障害を持つ他の子供達を運動に目覚めようとする、一見青年は子供達と団結し指導するかのように見えるが、障害が癒えると、彼にとって最早障害を持つ子供達は同胞では無くなる。ここにも壁が最初から存在していたのである。『不意の唖』は村という共同体へ侵入した異物と村人との明確な境目を描き、『人間の羊』では、傍観者と被害者との分かり合えない溝を描いている。

 芥川賞受賞作の『飼育』は、戦争末期にある村で黒人兵が捕虜になり、その兵士をある期間、村で監禁やがて軟禁していたというお話である。当然、「飼育」という表題が示すように、村人たちと黒人捕虜には厳然たる壁が存在する、のみならず、主人公である子供達に取っては、この捕虜は人間よりも家畜に属するような存在として描かれるのである。捕虜と村人の間だけではなく、村人と街の間にも見えない壁が存在する。そこかしこに断絶は存在するのである。

 この短編小説群の中で、彼我の壁にまつわる特別に複雑な感情を巧みに描きだしているのは『戦いの今日』であろう。主人公である「かれ」と弟は、反朝鮮戦争のため、アメリカ人兵士にキャンプ脱走を呼びかけるパンフレットを配る、やがて活動自体を滑稽だと考える「かれ」らの処に、パンフレットを真に受けた白人脱走兵が転がり込んでくる。

 この時期の大江健三郎の小説にはしばしば主人公の弟が出てくる、そしてこの弟が見えない壁を時には融和するかのような、もしくは彼我の境を行き来するかのような役割を果たすところが興味深い。この短編に登場する弟にも主人公と対比的な役割を持たせることで主人公の別人格的側面を捕捉し感情の波・彼我の境目の濃淡を描き出している。弟は「かれ」とは異なり白人脱走兵に融和的に働きかける、「友達だ」と呼びかけるのである。

"Not your enemy, friends…… your friends." 弟が息をはずませながら、これはあぶなっかしいやり方でいった。

 弟はある種の人間性を代弁しているのかもしれない、が、このようにして厄介な闖入者である白人脱走兵を受け入れる事で、「かれ」は面倒を抱え込んだ事に消耗し、パンフレットを作った団体は責任を取らず*1、白人脱走兵は黒人を容赦なく差別し、そして日本人達をも嘲っている。匿う側と匿われる側が一見強者と弱者のようでありながら、相互の理解は無く、お互いにただ自己中心的な関係である。

 弟と「かれ」の強烈な対比が描かれる場面がある。白人脱走兵が弟をドブ川に突き落とし、弟はそれに抵抗しない。朝鮮戦争当時、韓国軍や米軍が朝鮮半島で命を懸けていた一方で、日本はその上澄みを美味しく頂いていた、それが大江健三郎や当時の一部知識人にとっての負い目であったのかもしれない。一方で、だからといって屈辱を甘受する訳にもいかない。「彼」は暴力で以って白人脱走兵に屈辱の返報を行う。ここでも弟と「彼」は二重人格的に振る舞っている。

 そうそう、この時期の大江健三郎は小説の中で、私にとっては読んでいて唐突に感じるのだが、しばしば性的衝動しかも同性愛的情動をも絡めた描写をするのである。これは何を意味しているのか?性的情動を生物として生き残る根源的な情動として描いているのであろうか?そうであれば、その場面は生命的に危機に曝されている、もしくは、根源的生存本能が駆動されるような場面なのだろうか? 今の処、私には良く解釈しきれていないが、やがて、この時期の著作を再読し終われば何かを掴めるかもしれない、掴めないかもしれない。

 暴力的な悶着の後、白人脱走兵は自ら逃げ出した共同体の元へ帰る。異邦人の中に匿われ共同体から途絶することで、共同体への郷愁は肥大していたのであろう。恐るべき事に共同体の仲間たるべき憲兵たちは、同じ米兵同士であり遥か極東にまで来ているにも拘らず、白人脱走兵を自らの手で殺せなかった事に不満を漏らしている。ここにも大きな溝がある。この部分は大江の完全な創作だろうか?それとも何処かで仄聞した出来事から思い付いたのであろうか? もし完全な創作だとすれば、大江健三郎の想像力に脱帽すると共に、その人間社会の無邪気な悪意を具現化する底意地の悪さに戦慄せざるを得ない。

 世の中は分かり合えない人々で充ち満ちている。最後に「かれ」は菊栄に言い付けられた憲兵達から、こう言い放たれる。

憲兵たちはかれへ人懐っこい眼で愛想よく笑いかけながら声だけきびしくいった。

「出てゆけ、人殺しのジャップ、お前はおれたちの同胞じゃない」

酒場の女は、勘定をはらおうとするかれに、菊栄を二人がかりで抱きしめている憲兵たちをあごで指し、手をふって優しくいった。

「出てゆけ、人殺しのジャップ、お前はおれたちの同胞じゃない」

 我々は決して分かり合えることはなく、そこいら中に見えない高い壁が聳え立っている。これらのお話は大江健三郎の創作ではあるが、現実に我々の間には無数の断絶が存在するのである。私はまずはこれらを認めることから始めようと思う。

 

死者の奢り・飼育(新潮文庫)

死者の奢り・飼育(新潮文庫)

 

*1:この部分に限らず、他の短編においても大江健三郎は一貫して当時の左翼的運動に関して冷笑的である。大江健三郎自身は積極的に学生左翼運動に関わっていたのであるから、これらの皮肉は自分達の活動への自己批判であったのかもしれない。