(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『糞尿譚』 火野葦平

 鮎川哲也の『黒いトランク』は推理小説として佳作なだけではなく、新たな読書の扉も開いてくれる良作であった。その中で紹介されていた二人の作家、火野葦平の『糞尿譚』と石川達三の『青春の蹉跌』を読んでみた。この両者は芥川賞作家であり、当然、文壇では有名人であったに違いないが、私は今年になるまでその存在に注意を払ったことはなかった。読書によって新たな読書が始まるというのはなかなか良い体験である。まずは火野葦平の『糞尿譚』について書いてみようと思う。

 『黒いトランク』の舞台の一つである北九州近辺は火野葦平がその作品の舞台にした地域であり、『黒いトランク』によれば、炭鉱夫たちが荒々しく喧嘩するような地域であったらしい。『黒いトランク』の時代設定は1949年で一応の第二次世界大戦後ということになるが、火野葦平の『糞尿譚』は時代こそ明記されていないものの、恐らく昭和恐慌(1930-31年)の後くらいの時期を設定しているのではないかと思う。

 糞尿というものは都会に住む人間からすれば忌避するモノであるし、本書によれば、当時の北九州近辺でもやはりそれほど歓迎されるようなモノではないようで、汲み取り業を行う主人公は様々な場面でその職業を揶揄されている。私は今でこそそこまでではないが、幼少のころは糞尿に対する不思議な恐怖心があってそれは一種のフォビアのようなものであった。当時の田舎の便所は母屋から離れた場所にあり当然ぼっとん便所で汲み取り式であったので、汲み取り屋ならぬバキュームカーが来て汲み取っていったものである。あれは本当に不思議なもので、その深い穴はある種の忌避感を非常に刺激するものであった。もちろん、普段は下水の配備された都会に普段住んでいたならばこその過剰反応であったのだとは思うのだが。

 つまり、私がこの小説を読むと、それこそ、やや不可侵な部分に踏み込んでいる職業を扱っているような気がして、それだけでも情動的に訴えてくるのものがあるのだが、さてこれは芥川賞受賞作の純文学である。読んでいる間中、どこに罠があるのか、どんな陥穽が待ち受けているのかと、びくびくしてしまうのである。さて、本作の主人公の状況は開始時点からして既に負の勾配の上にある。元々は裕福な豪農であったのにも関わらず、汲み取り業に手を出しその財産をほとんど失った末期状態にあるのだが、未だにその商売が成功するかもしれない微かな期待に縋っている。客観的に見れば、経営能力は著しく低いと言わざるを得ないが、彼は寿限無寿限無を唱えつつ己の底力才覚をどこかで信じている。寿限無寿限無とは落語に出てくる寿限無寿限無で始まる非常に長い名前であり、これを精確に暗記しているという処が主人公の自信の担保となっているのだが、果たして読者はこれを以ってして自信の根拠に相応しいと感じるだろうか? やはり滑稽にしか感じないだろう、そこに主人公の滑稽な無力さもある。

 さて、びくびくしながら読んでいると、第一の罠が訪れる、主人公が人生を懸けているこの汲み取り業を手伝う才覚のある男が現れるのである。これだけでもういけない、事業が掠め取られるのではないかと冷や冷やしたが、どうやらここは特に災禍なくやり過ごすのである。それどころか事業が好転し始める、こうなるとなお良くない、負の勾配から上昇気流に切り替わると尚の事、破綻の危険性が増してくるのである。やがて第二の陥穽が現れ、私はここでやや諦めかけたが、ここも乗り切る。しかし、これは小説なのである、幸福な結末で終わることはまず無いといっていい、果たして最初の悪い予感の通り、やはり人生を懸けた事業は奪い去られてしまうのである。人々から後ろ指を指され、人生を懸けた事業がふいになる、その呆然感。

 本来なら小説の出来事はここで終わりであろう、しかし、この後にさらなる展開が起きるのである。主人公たちが糞尿をいつものように捨てに行くと、付近の住民からの激しい抵抗にあう、そこで主人公の心の何かが弾け、糞尿を柄杓で撒き散らし自らも糞尿を浴びながら

さあ、誰でも来い、負けるもんか、と、憤怒の形相ものすごく、彦太郎がさんさんと降り来る糞尿の中にすっくと立ちはだかり、昴然と絶叫するさまは、ここに彦太郎は恰も一匹の黄金の鬼と化したごとくであった。折から、佐原山の松林の蔭に没しはじめた夕陽が、赤い光をま横からさしかけ、つっ立っている彦太郎の姿は、燦然と光り輝いた。

となるのである、まさに金色の仁王が躍動するかのような字義通りのカタルシス、なのだが、寿限無寿限無を唱えながらのこの噴火には、哀しさが滲み出る。このカタルシスに爽快感は薄い。我々読者は知っているのである、主人公のこの行動の結果は恐らく、歓迎されざるものになることを、そして、主人公の現状は変わりなく、未来への希望も最早ほとんどなくなってしまっていることを。

 主人公の墜落だけでなく小説全体を覆う市井の人々の貧困もまた重くのしかかる。一部の有力者が財産を増やす一方で、貧困に喘ぐ人々は彼ら権力者に都合よく使われ、貧困に喘ぐもの同士で対立し疲弊している。この小説はプロレタリア文学とは見做されていないし、作者にもそういう意図は無かったであろうが、地方の労働の厳しさ、富めるものとそうでないものの格差、などをも描いている点で社会の構造的歪みも図らずも糾弾していたのかもしれない。

 本書は青空文庫で読んだ。講談社文芸文庫から出ているようだが、kindle版は残念ながらまだ出ていないようだ。

糞尿譚

糞尿譚

 
糞尿譚・河童曼陀羅(抄) (講談社文芸文庫)

糞尿譚・河童曼陀羅(抄) (講談社文芸文庫)