(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『刺青殺人事件』 高木彬光

 妖艶な刺青の魔力

 この覚書blogは元々は文藝春秋の東西ミステリーベスト100に選ばれた推理小説をどんどん読んでその感想を書き残しおこうと思って始めたのだけれど、そう言えば最近日本の推理小説でそのベスト100に入っているものを余り読んでいなかったなと、リストをつらつらと眺めたところ、たまたま上位に選ばれている高木彬光の『刺青殺人事件』(1948年)が目に入ったので早速kindle版を購入して読んでみた。

 この『刺青殺人事件』は実は江戸川乱歩が気に入って「宝石選書」の第一号として出版された小説である。乱歩は「刺青殺人事件」(『城外散策』収録*1)に於いて以下の様に評している。

本格物の得意な作者の常として高木君も小説は決して巧みとは云えない。普通小説としての新鮮味は感じられない。しかし謎の構成に可なり大きな独創があり、その解決の叙述が甚だ巧みであって、論理的興味は十二分に盛られている。これを読んだ当時、私は友人の誰彼にその話をし、謎の独創性では英米の著名作の水準に近く、筋だけで云えば「本陣殺人事件」「高木家の惨劇」もこれには及ばないと語ったほどである。
-「刺青殺人事件」(『城外散策』 江戸川乱歩)

 本格派の推理小説家の文章が今一つと言われるのは昔から変わりない様だけれども、文章面はともかくとして、その推理小説的側面に関しては、乱歩は高く評価した様だ。

 最近、西洋のやや大雑把な古典探偵モノ*2を何冊か読んでいただけに、この高木彬光に依る処女探偵小説は中々キリっと引き締まった味わいがあった。推理小説を愛読していた坂口安吾がこの小説の文章をまずいまずいと言っているが、坂口が言う程そんなに酷いとも思わない。中々引き締まった妖艶な空気感を醸し出す事に成功していると思う。

 何と言っても、絢爛華麗な「刺青」の非日常性、「刺青」に依って異端に生きる傾奇者、「刺青」を隠す事で顕れる捻じれた倒錯美等が作品の背後に暗渠の様に流れていて、単なる謎解きに日常からの逸脱を付加している処が美しい。「刺青」に纏わる禁忌、例えばこの小説で紹介される、不動明王を彫ると発狂するだとか、蛇の刺青は切れ目を入れておかないとその人を絞め殺すだとか、そして大蛇丸・綱手姫・自雷也の三竦みの呪いだとか言った類の禁忌は、刺青が持つ作用──しばしばそれを纏った人間を主客逆転してその優位性を変転させる作用──が、刺青を背負う人間、刺青を施す人間、そして刺青に心を魅かれた人間達に無意識に共有されていた事の証左だろう。この人の運命すら狂わせ兼ねない刺青を巡って行われているかに見える連続殺人がこの小説の肝なのだけれども、出だしの辺りの妖しく薫る描写が最高潮で、段々とその緊張が減弱していき普通の本格推理小説に落ち着いていってしまう処はやや残念な感がある。

 さて、小説の梗概を記すと以下の様になる。密室の中、妖艶な大蛇丸の刺青を背負う美女が胴体を除く頭と手足のバラバラ死体で発見された。そして、その美女の愛人である土建屋の社長も自殺を装って殺された。疑わしいのは被害者達と面識のある、刺青偏執狂の大学教授、土建屋の社長の弟、美女に横恋慕していた土建屋の支配人である。この犯罪の真犯人特定に苦戦する警察の前に、天才探偵神津恭介が現れる。さて天才神津は如何にしてこの謎を明かすのか?

 この小説に於ける肝腎のトリックは大きく分けて2つ有ると言えるだろう。まず最初にバラバラ死体の被害者は誰なのか?そして何故密室で殺人が行われたか?である。この謎の提示がまずいと坂口安吾が不平たらたらである。安吾の云う処はもっともであって、双子の片方がバラバラ死体で発見されれば、これは探偵小説である以上、もう、一見した処被害者に見える方が被害者な訳がない。現実の世界であれば、そうそうトリックなんかはないだろうけれども、小説の世界で双子を提示して、こういう殺人を描いてしまうと、ちょっとこれは苦しい。もう一つの密室殺人も、密室殺人を行う意義という点で非常な苦境に追い込まれている。以前にも書いた事があるのだけれども、密室にすると犯人候補が狭まってしまって、大抵の場合犯人にとってのメリットが薄い。これは安吾も正に指摘している処で、残念ながら本作に於いても「天才的犯罪者」が行った奇術としては今一つと言わざるを得ない。一応、エクスキューズとして犯行現場の推察を心理的に拘束するというアイデアが使われていてこれは筋は良い面白いアイデアだとは思うけれども、この一連の流れの中ではそれ程巧い効果を出してはいない。更に、メインのトリックのオマケ的に描かれている社長の自殺偽装に至っては小説内の警察ですら偽装と見破ってしまうのであるから、これはもう蛇足感が拭えない。

 坂口安吾はこんな風に批評している。

 刺青殺人事件は、すぐ犯人が分ってしまう。それを、いかにも難解な事件らしく、こねまわしているから、後半が読みづらい。三分の二が解決篇みたいなもので、その冗漫が、つらい。
-『「刺青殺人事件」を評す』 坂口安吾

 この作者は、よいトリックをもち、性本来ケレンがなく、論理的な頭を持っているのだが、つまり、読者に提出して行く工夫に、策が足りなかった。そして、文章もまずい。まずいけれども、さのみ不快を与えるほどの文章でもないから、これから筆になれゝば、これで役に立つだけの文章力はある。大切なことは、トリックを裏がえしにして、読者に提出して行く場合の工夫に重々細心の注意を払うことを知ることである。
-『「刺青殺人事件」を評す』 坂口安吾

 かなり辛口の評なのだが、工夫が足りないだけで未来があるとも後段で述べていて、実際高木彬光は推理小説家として大成した訳だから安吾の嗅覚は結構鋭かったのかもしれない。因みに、乱歩が良いと思った処を安吾は丸で良いとは思わず、逆に乱歩が特別評価しなかった処を安吾は評価した様だ。乱歩は割と空気感重視の推理小説を好む人であり、逆に安吾は所謂本格好みだったので、評価する部分がまるで異なるというのもまあ当然かもしれない*3

 純然たる本格派推理への試みが表れてはいる本作だけれども、安吾が評した通り本格推理小説としては工夫今一歩及ばずといった感があるのは確かである。だが、不思議と読ませる。安吾が幼稚だとか冗漫だとか言っても読ませるモノがある。続きが気になる。多分トリックはこんな感じで犯人は誰々だろうなと思っても続きを読みたくなる。これは本当に不思議な魅力で、結局この辺りの推理小説愛好家を惹き寄せる「何か」というモノは天性の授かりモノなのかもしれない。上にも挙げた様な欠点から、読者は割と早い内に犯人にもトリックにも気付いてしまうのだけれども、それでも続きを読みたくなる様なそういう「何か」の魅力がこの推理小説には潜在している様に感じる。それはやはり刺青が醸し出す妖しい魔力なのかもしれない。高木彬光はこの後も刺青に纏わるお話は幾つか著している様だ。処女作で刺青に触れた高木氏もまた刺青の魔力に囚われたのかもしれない。

刺青殺人事件?新装版? 名探偵・神津恭介1 (光文社文庫)

刺青殺人事件?新装版? 名探偵・神津恭介1 (光文社文庫)

 

 

*1:光文社刊、江戸川乱歩全集の26巻『幻影城』に収録されている。

*2:乱歩の古典ベストテンの『月長石』やら『リーヴェンワース事件』やら『ルルージュ事件』などは面白いのだけれども、ラブロマンス的な寄り道も多くて読んでいてやや緩く感じる事があった。

*3:推理探偵小説批評に於ける姿勢が、乱歩は一般に甘口で、安吾が大体に於いて辛口といった具合に、これ又まるで逆なのも面白い。

『LGBTを読み解く-クィア・スタディーズ入門』 森山至貴

 クィア・スタディーズの「今」を知る

 最近、フェミニズムを解説する書籍やセクシャルマイノリティの理論に関する言説を読んでいる。その理由は、これらの理論はマイノリティが如何にしてマジョリティと渡り合うか、そして、如何にして多様性と自由を尊重しながら公正な平等を実現するか、という所に直結していると考えられるからである。

 さて、実際にLGBTやクィア・スタディーズに関する書籍をkindle版で探してみると、ほぼ選択肢が存在しない。勿論、英語書籍を視野に入れればかなりの書籍が選択肢に上がってくるのだけれども、最初に物事を学ぶにはやはり日本語の方が圧倒的に適している。と言う訳で、kindle版で日本語で読む事が出来たのがこの森山至貴・著『LGBTを読み解く』である。本書を読んで色々と考えた事を覚書しておく。

 本書は全8章からなっており、著者は1-4章を準備編、5,6章を基本編、7章を応用編、そして8章を現実の世界との橋渡しとしている。8章の内半分以上を準備と基本が占める事からも分かる様に、本書はこれからクィアの視座を学ぼうとする人達への正に入門書という位置付けになっていると言って良いと思う。

 最初に、セクシャルマイノリティの大まかな定義が示されている。その定義は「セクシャルマイノリティとは社会の想定する「普通」の性からはじき出され、「普通」の性を生きろという圧力によって傷つく人々」という様に纏められる。

 ここで現状の「社会=マジョリティ」の想定する「普通」の性は何か?と考えると、本書を読んで理解した範囲では、男と女というジェンダー(=性別*1によって社会が割り当てる性的規範)という事になるだろう。つまり、セクシャルマイノリティはこの「社会=マジョリティ」が規定してきた男か女というジェンダーから異なる人々という事になる。この、男女のジェンダーとは、性別と性的志向の組み合わせを異性愛に限定したものであり、かつ、性別と性自認が同一である事を前提としたものだと理解する事が出来る。しかし、ジェンダーは男と女だけと規定して良いのだろうか*2? ジェンダーというものが定義的に男女のみと限定するのか、そうではなく多様なジェンダーを想定しうるのか、本書の著者は明確には定義していないが、現実の問題として多様なジェンダーが現れつつあるのではないかと思う。

 そもそも、性自認という意味での男女は恐らく社会的に形成された部分が大きいだろう。勿論性別的な意味で言えばXXかXYという異なる染色体構成であるから生物的に異なる点が多々あるのだけれども*3、思考や行動にその生物的差異がどの程度の強い影響力を持つのかはそれ程明確には分かってい無い筈である。例えば、男女の脳の解剖学的差異や機能的差異を報告する研究例が散見されるが、少なくとも近年行われたmeta-analysisでは海馬や扁桃体の形態に男女の差異は認められない様だ*4。機能的差異に関してもmeta-analysisを行えば差異は有意差を持たないか相当小さいかのではないかと想像している。考えるに、社会が存在しない状況では性自認は男か女というbinaryな物ではなく幅広いガウス分布が2つ重なりあった様な物になるのではないだろうか*5。性的志向に関しても同様の事が推察し得るだろう。つまり、社会がジェンダーを形成し、人々の性自認やそれが引き起こす行動様式を制約している側面はかなりあるのだろうと、私は考えている。

 社会が男女というジェンダーを概念的に規定したが、概念の登場に依ってその輪郭が形成されたのは男女だけではない様だ。著者は異端としての「同性愛」という概念が現れたのはこの150年くらいの事であり、それと共に「同性愛者」という概念が生まれたと指摘している*6。この概念の誕生に依って、「自分は同性愛者」という自己認識を持つ人々が現れ、やがて連帯し、現在の様な社会運動に繋がった。同様に、初期においては同性愛者と同一視されたり逆に同性愛者から差別されたりしていた現在のトランスジェンダーも、トランスジェンダーという概念の普及と共に、同性愛者との差異化が進みまた新たな形での連帯も形成されて行った。本書ではおおよそこの様に概念の誕生とセクシャリティの新たな自己認識の歴史を説明している。

 この様なセクシャルマイノリティのアイデンティティの変遷、多様なセクシャリティの差異と連帯、それらを捉え直す為にクィア・スタディーズは有効な視座であると著者は述べている。そして、本書で説明されているクィア・スタディーズの観点を学べば、確かに、セクシャルマイノリティとは均質な集まりではなく、マイノリティという点で連帯が可能ではあるが、様々な異なる軸の多様性を持つという事が良く分かる*7。上で述べたように性自認や性的志向がbinaryではなさそうな事を考慮すれば、この多様性は、恐らく既存の男女のジェンダー割り当てられた人々の内にも存在する物であろうし、やがて均一視されていた既存のジェンダーも細分化され多数の軸を持つものとして捉え直されていくのかもしれない*8

 最後に本書中興味深い文章があったので引用する。

<前略>パートナーと生きているわけではない人は必ず一定数存在します。何もかもをパートナーシップの権利保障の枠内で解決しようとすれば、「独り身」の人の権利が侵害されることになりかねません。
 そもそも、性的指向や性自認を固定的で永続的なものと前提してしまうことを、クィア・スタディーズは批判してきました。端的に言って、人は変わるし、変わってよいのです。
 そのクィア・スタディーズの視座を貫徹するなら、特定のパートナーとの永続的で固定的な関係を前提とする人間観も、また誤りです。もちろん、性的指向にかかわらず多くの人が特定のパートナーとの永続的な関係を望んでいることは確かでしょう。でも、婚姻を含む社会の制度がそれを前提にせず、もっと開かれた人間観に基づく平等なものになりうるのならば、それを拒む必要はありません。
-『LGBTを読み解く-クィア・スタディーズ入門』 森山至貴

 これはクィア・スタディーズの視点から様々な性愛の形を考慮しているから書き記された文章なのだろう。ホモノーマリティの項でも著者は触れていたが、例えば、同性婚を単に称揚するのみであれば*9、それは結婚という形で社会構造に組み込まれ、ジェンダーを規定してきたマジョリティと単純に同化し抑圧構造を強化してしまいかねない。上記引用に示される様に、「独り身」の姿勢も当然認められるべきであるし、単婚至上主義もマジョリティが規定する「普通」で「正常」の一部であって、それ以外の形態も考慮すべきだろう。そして、その次に書かれている様に、永続的かつ固定的な関係のみを「普通」で「正常」とする事にも疑義を抱くのが当然だと思われる。性愛の多様性をロジカルに考えて行けばこの様な思考に帰結する事は頗る妥当であり、心から首肯できるものである*10

 この書籍はかなり最近、2017年に刊行された書籍であり、本書で紹介されている理念の「今」を知るという意味においても、最適の一冊だと思う。著者は本書で説く様々な要素を学び知り考える事で、偏見や差別から脱するのは勿論、単なる「なんでもあり」的な態度からも脱却することを称揚している。私が全てを正しく理解出来たかどうかは分からないが、その説明は丁寧な言葉で分かり易く思えるし、多様な視点が紹介されており、入門書として申し分ない。その上最後に説明付きで豊富な読書案内が付いている。この読書案内を道標にこの分野をもっと勉強してみたい*11

LGBTを読みとく ──クィア・スタディーズ入門 (ちくま新書)

LGBTを読みとく ──クィア・スタディーズ入門 (ちくま新書)

 

 

*1:生物学的な意味での性が「性別=セックス」という事になる。

*2:そもそも以前読んだ“Through the Language Glass”に依ればgenderと云う単語は元々はその使用を性的区別に限定するものではなくジャンルだとかタイプだとかと同義だった様だ。同書には以下の様な“gender”の使われ方も記されている。
In English, both senses of “gender”— the general meaning “type” and the more specific grammatical distinction— coexisted happily for a long time. As late as the eighteenth century, “gender” could still be used in an entirely sexless way. When the novelist Robert Bage wrote in 1784, “I also am a man of importance, a public man, Sir, of the patriotic gender,” he meant nothing more than “type.”

*3:現実にはXXorXYだけではなく各種Inter Sexualも生まれ得るのだけれども、そこに関してはまだ考えが及ばない。

*4:Tan et al. 2016 Neuroimage; Marwha et al. 2017 Neuroimage. つまり、私は散見される、人に於ける認識や思考の性差を強調する報告を余り信頼していない。勿論、齧歯類に於ける信頼できる研究に於いて、脳に於ける性ホルモンの作用の性差やら幾つかの情動的行動に於ける性差やらが多数報告されているので、異なる点がある事自体は事実だろうけれども。

*5:もしかしたらもっと多次元的な物かもしれないが、現状それを巧く表現できない。

*6:これに関しては、本書の著者だけではなく多くの研究者が同様の指摘を行っており、広く受け入れられている考え方である。

*7:例えば、同性愛者による両性愛者・トランスジェンダー差別や、セクシャルマイノリティカップル間でのDVなど、セクシャルマイノリティ間でも権力勾配が生じる場合は当然ある。

*8:逆説的にゲイコミュニティに於いてゲイジェンダーが固定化していく可能性もある。

*9:勿論、選択としての同性婚が認められるべきであるというのはその通りである。

*10:ただ、ここまで突き詰めて考えれば、「普通」に安住する人々が多様性のone of themに引き摺り降ろされる事に抵抗を感じる事も想像できる。

*11:早速、この読書案内で紹介されている『現代思想2015年10月号 特集=LGBT 日本と世界のリアル』を読んでみた処、多様な議論論考が掲載されており、非常に興味深かった。

『813』 モーリス・ルブラン 保篠龍緒 訳

 怪盗ルパンが欧州を揺るがす謎に挑む

 私が小学生の時分、ポプラ社から出ている少年探偵団シリーズと怪盗ルパンシリーズは非常にポピュラーな子供向け怪奇冒険譚シリーズとして皆愛読していた。私は当時はもっぱらルパンものを読んでいたのだけれど、いい年になって思い返すに、シリーズの翻訳者南洋一郎のやや煽ったような訳は中々名調子だった。只、南洋一郎の訳は素晴らしいのだけれども残念ながら、お話が子供向けに縮約版になっている。勿論、縮約版でも手に汗握る面白みはあるのだけれども、全訳版を読んでみたくなるのが当然と言えば当然であって、さてルパンシリーズの邦訳版で現在簡単にkindle版で手に入るものはと調べてみると、そこそこのタイトルが利用可能であった。ではどれから読んでみようか、と考えるに、実は、江戸川乱歩が黄金時代ベストテンというものをリストにしていて、その中に「別格」として『813』を挙げている*1。と言う訳で、まず保篠龍緒訳の『813』から読んでみた。

 因みに、この別格というのはベストテンよりも優れているという訳ではなくて、乱歩先生曰く「格外」という事らしい。これは実際その通りで、ルブランのルパンの長編物は余り推理探偵の興味を惹き付けるタイプの小説では無い事が多い。ルパンシリーズは乱歩の言葉を借りれば、通俗的探偵冒険小説としては屈指の傑作揃いだけれども、謎を解いていく論理的興味には主眼が置かれていない。ただ、ひたすらに謎又謎、そしてそれに立ち向かう超人ルパンの活躍が巧みに描かれているのである。

 ルパンシリーズの探偵冒険小説として良く出来ている処は、主人公である大怪盗アルセーヌ・ルパンが、物語の謎を解き明かす探偵役であると同時に、社会から疎まれ恐れられる悪党だという点にある。ルパンには義賊的な側面もあるのだけれども、この設定の御蔭で、敵役との激しい闘争のみならず、官憲との駆け引きという要素も加わってお話に緊張感が否応なしに増加されるのである。敵役はルパンに取っても強敵である事が多いし官憲とも鎬を削らなければならない、となると、自然、大怪盗アルセーヌ・ルパンは超人的なダーク・ヒーローとなってくる。

 そのルパンの登場は、保篠氏の訳であればこんな風になる。

 しかるに彼は、ふたたび猛然として社会にその怪奇な姿を現わした!*2 社会にたいして傍若無人の闘争を再開した!アルセーヌ・ルパンはいぜんたるアルセーヌ・ルパンとなって再現したり。変幻自在、幽鬼のように捉えどころなく不触不縛、魔神のように縦横無敵、猛獅子のように剛胆敏速、天才的怪人物アルセーヌ・ルパンが再現した。
-『813』 ルブラン 保篠龍緒 訳

 この大怪盗ルパンが本作で挑むのが、欧州を揺るがす一大機密を巡る謎である。ルパンはこの謎を解き明かす事で、その愛娘に莫大な財産を与え、ドイツの大公を傀儡にし、そしてフランスの対ドイツ政策に貢献しようというのである。この、単純に秘宝を追い求めるだとかだけではなくて、愛国心に燃えて欧州に揺さぶりを掛けようという所が本作『813』のスケールのドデカイところだろう。小説内には当時のドイツ皇帝ウィルヘルム2世が登場し、ルパンに振り回されるし、英国からはかのシャーロック・ホームズが前作『奇厳城』に引き続きちょっかいを出してくる。

 この様な大舞台を前にしてルパンはその鋭敏な頭脳を駆使するのみならず、怪盗と呼ばれるに相応しいその変装の才を以ってして多重人格的に立ち振る舞うのであるが、ここが怪盗紳士の本領発揮と言った処で特別ワクワクする部分かもしれない。この様々な立場を利用しつつ、巨大な機密に迫るルパンを待ち受けるのは黒衣の暗殺者*3である。この黒衣の暗殺者こそが本作に於けるルパンの最大の敵であって、その冷酷な殺人能力と怜悧な頭脳でルパンを度々追い詰める。この何度も訪れる危機にはこの後に冒険物で定番となる様なピンチの類型がふんだんに盛り込まれている。捕縛されて河に投げ込まれるだとか、地下で水攻めに遭うだとかの、手に汗握る展開は江戸川乱歩の幾多の小説や現代のサスペンス映画などに今となっては欠かせない場面だと思う。

 さて、この様にルパンを幾度となく窮地に陥れる黒衣の暗殺者が誰なのか? ルパンものは基本的には推理小説的ではないのだけれども、この点こそがこの小説での推理探偵的興味の焦点と言ってもいいかもしれない。乱歩は「探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く径路の面白さを主眼とする文学である。*4」と探偵小説を定義していた。この『813』は論理性こそ乏しいものの、「黒衣の暗殺者は誰なのか?」という難解な秘密が「徐々に」解かれていく、この「徐々に」の塩梅が素晴らしい。推理小説を読んでいて最も気になる処は「犯人は誰なのか?」という点なのだけれども、これが読者の我儘な処で、犯人が簡単に目星が付いても詰まらないし、かと言って最後の種明かしまで全然分からない様だとこれも面白くない。ここの匙加減というものは天性の才に頼る様なものであるが、ルブランはどうやらその天賦の才に恵まれた人であった様で、『813』に於いて読者の脳内に徐々にその真犯人像が浮かび上がって来るその感覚は中々他では味わえないものだろう。

 今回読んだ『813』は保篠龍緒の訳に依るものなのだが、この保篠氏はルパンシリーズを数多く翻訳して日本に紹介したルブラン翻訳の第一人者として知られている。かの探偵小説雑誌「新青年」にルパンものの翻訳を載せており、大正7年にはルパンの翻訳全集を刊行している。この人の訳は本当に名調子で、読んでいる感覚からすると、黒岩涙香をもう少し煽りの利いた俗っぽい調子に仕上げている感がある。乱歩の明智小五郎通俗ものやら南洋一郎ルパンやらの文章の調子はこの保篠氏の文章に多いに影響を受けている処があるのではないだろうか。今読むと胸が熱くなる様なちょっと恥ずかしい様な、やや子供っぽい感も無きにしも非ずといった感じだが、保篠氏を始めとするこの煽りの利いた名調子はいつ読んでも良い物である。因みに、この『813』の英訳版(原著は仏語ゆえ読めないのである......)と保篠訳を読み比べてみた処どうやら、保篠氏は所々勝手に文章を弄っている様である。まあ保篠節はそれくらい勝手にやらないと勢いが出てこないだろうなというのは読んでいて何となく察せられたのでそれはそれで味わいとしておこう。現状、本書『813』を含む保篠ルパンシリーズは紙媒体では今一つ手に入りにくい様だ。電子書籍版で読めるのは有難い事なのだが、せっかくなのでどこかの書肆が物理書籍化してくれる事を期待して待っている。

813(上) 813

813(上) 813

 
813(下) 813

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*1:この『813』は文藝春秋から出ている東西ミステリーベスト100の1985年版では41位に選ばれていて、根強い人気が伺える。

*2:前作である『奇厳城』事件の後4年間、ルパンは姿を晦ませて居たのでこの様な表現「ふたたび」となっている。

*3:因みに黒衣の暗殺者の名前はルイ・マルライヒという事になっているのだが、この名を目にしてある人物を思い出す人も多いだろう。そう、かの名作漫画『パタリロ!』に登場する美青年暗殺者マライヒである。魔夜峰央氏は推理小説趣味もあって『パタリロ!』内でもしばしば探偵エピソードが出てきておりチェスタトン等へのオマージュが伺える。であるからして、マライヒがこのマルライヒから採られたのは間違いないだろう。ついでに言えばバンコランはカーの小説に登場する探偵である。

*4:『幻影城』の「探偵小説の定義と類別」参照。