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(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

古事記に纏わる副読本(kindle版) その1

古事記の物語を大まかに掴む為の本

 最近、池澤夏樹・現代語訳の『古事記』を読むに当たって何冊かの古事記関連の書籍を読んだ。いずれも中々面白い処のある本だったので、覚書をしておく。

 まず、ここで紹介する古事記関連書籍は全てkindle版のものである。電子書籍に限定しなければ、より多くの参考書籍が存在するのだろうし、例えば西郷信綱の著した書籍は間違いなく必読の書なのだろうが、残念ながらkindle版は存在しなかった。各出版社が早く電子書籍化に踏み切ってくれる事を切に願うのだが、まあ現状無いモノは仕方が無い。と言う訳で、私の個人的事情からkindleで読めるものだけを読んだ。本居宣長の注釈書は一応kindleで読める様なのだが、私の怠惰の為に未読である。

 結局、手頃な新書を中心に10冊程読んだのだが、読んだ中では取り敢えず、こうの史代の『ぼおるぺん古事記』は非常にお奨めだと思った。古事記を読んだ事が無い人はこの漫画を取っ掛かりにしてその世界に触れて行くと良いのではないかと思う。

 この覚書では「古事記の物語を大まかに掴む為の本」3種類について思った処を記しておこうと思う。

 『ぼおるぺん古事記』 こうの史代

 世の中に様々な古事記のダイジェスト版の様な物が存在するが、このこうの史代の『ぼおるぺん古事記』は古事記上巻に親しむ為の本(漫画だけれども)としては最良のモノだと思う。何と言ってもその絵が綺麗に4頭身でデフォルメされており、可愛らしいし、ただ可愛らしいだけでなく、神々の名前の漢字そしてその役割に込められたモノを分かり易く絵にしている処も良い。この、こうの史代と言う作家は最近『この世界の片隅に』のアニメ映画化で有名になるまで全く知らなかったのだが、凄まじく画力の高い方の様で、ボールペンで描いたというこの漫画の描き込みは物凄い。単なる古事記の漫画化というレベルを越えている。

 さて、勿論漫画としてのレベルが高いのはその通りなのだが、それに加えて個人的に良いなと感じた処が、人物達の科白が基本的に古事記の原文の科白をそのまま使用している処である。つまりこの漫画の中では基本的に皆古文調で話している。これが案外に違和感が無く気持ち良くすらすらと読めてしまう。作者の科白の選択が良いのかもしれない。更に、科白が原文のままなのでそれを補うためだろう、注釈の充実ぶりもスゴイ。イザナギとイザナミの会話「あなにやしえをとこを」「あなにやしえをとめを」、これが、注釈ではこうなるのだ「あれまあ立派な男の人!」「おやまあまぶい娘さん!」。堪らない。堪らなく良い。ただ、この漫画の豊富な注釈に関しては所々に色々と異論が出る部分も有ると思うので、この注釈を楽しんだ後にはまた別な注釈を読んで古事記の細部の様々な解釈のバラツキを確認してみると、更にスルメを噛む様な味わいを愉しむ事に繋がると思う。

 漫画部分の前に用意されている物語の概要も分かり易いし、所々で神々の系譜が分かり易く漫画内で示されているのも文句なしである。更に圧巻なのが、3巻の最後に描かれている、全神々の系譜図である。ここに至っては脱帽するしかない。こうの氏の古事記の神々への愛の深さを感じる。因みに、私は古事記自体は最近何度も読んでいるのであるが、この『ぼおるぺん古事記』に於ける、スサノオがオホクニヌシを根の国から送り出す場面では少しうるっと来てしまった。3巻の最後のオマケ漫画も面白うてやがて悲しき的な趣があって良い。

 古事記というものは池澤夏樹も示唆していたが、元々は声に出して語り継がれて来た物語を音を重視した大和言葉で書き記したものだろう。だからこそ、その原点には声に出してそして身振り手振りを交えて演じながら伝えるという演劇的なモノも有ったのではないだろうか? そうやって考えてみると、文章は文字だけであるが、漫画というものは視覚に依る情報が相当に多く、古事記の物語のそもそもの在り方からすれば、漫画中の人物が演じているという形でその原点に近いのかもしれない。実際、歌をキッチリと読まないと情景を思い描きにくいオホクニヌシとスサリヒメの歌交わしや、ホデリが踊った舞等は漫画で読むとその光景が圧倒的に感じ取り易い。

 この『ぼおるぺん古事記』は本当に万人にお奨めの古事記入門書である。古事記の上巻しかカバーしていないのが非常に残念で、今後また機会があるのであれば、残りの部分も描いてくれる事を期待して止まない。第3巻の最後に掲載されている後書きに依れば、中下も描く積りがある様ではある。実現する事を切に願っている。

[まとめ買い] ぼおるぺん古事記
 

 

 『楽しい古事記』 阿刀田高

 古事記のあんちょこ本というモノは世の中に沢山あると思うのだが、変なものを最初に手にしてしまうと、変な解釈が脳内に流れ込んで来て、古事記を誤解してしまいかねない。であるから、最初に読むとなるとまあ無難なモノがお奨めになって来る訳で、そういう意味に於いて、この阿刀田高の『楽しい古事記』はかなり無難な線を行っていると思う。阿刀田高の名前は昔々から良く目にしてはいたのだが、何を書いている人なのか全然印象になかった。今回、古事記のあんちょこ本を探していると、阿刀田氏はどうやら様々な古典の入門書みたいなモノを書いているという事が分かった、のみならず、例えば、最近ネットで見掛けたキリスト教に親しむ為の書籍みたいなリスト*1でも阿刀田高の新約聖書に関する入門書の様な物が挙げられていた。つまり、まあ無難なんだろうと思って購入して読んでみた処、上述した通り正に無難だったわけである。

 この本は基本的には古事記の物語をあっさりと軽快に紹介していく内容であって、まあある意味現代語訳古事記と考えても良いかもしれない。上で紹介した『ぼおるぺん古事記』の場合は古事記の上巻しか漫画化されていないので全体のお話を掴まえる事は出来ない。その点、こちらの阿刀田氏の『楽しい古事記』は上中下全てのお話を簡単にそれでも省略しすぎずに阿刀田氏の言葉で語り直しているので、古事記の全体を捉えるには非常に便利である。まあ、イメージとしては古事記の筋を読者に向かって噛み砕いて説明している感じか、噛み砕いていると言っても注釈的な部分は一般的な解釈にのっとっていると思われるし、変な独自理論みたいなものもないので最初に参考にするには癖が無くて良いと思う。この古事記の説明の部分と実際に宮崎高千穂や島根出雲やらの古事記関連の旧跡を阿刀田氏が訪れた際の旅行記みたいなものとが交互に現れてきてまあこれも飽きずに読める。この本ならではの処はこの旅行記の部分かもしれない。

 当然、本書もkindle版で読んだ。物理書籍に解説やらが付いているかどうかは分からないが、このkindle版には何も付いていなかった。しかし、このkindle版の表紙はもう少し何とか成らなかったのだろうか?幾ら電子書籍で表紙が重要でないとはいえあんまりである。

楽しい古事記 (角川文庫)

楽しい古事記 (角川文庫)

 

 

 『現代語訳 古事記』 福永武彦

 福永武彦は前回、現代語訳を読んだ池澤夏樹の父親である。この人も相当な文筆家だったらしいのだが、どれか読んでみようと思いつつも手が回らなくてまるで読んでいなかった。今回、池澤氏の『古事記』で巻末の参考文献の処にこの現代語訳が載っていたので、おお!、と思い、そして幸運な事にこれにはkindle版が存在したので早速読んでみた*2

 福永武彦の現代語訳は非常に柔らかで丁寧な日本語である。これから比べると、池澤版はやや砕けていると言えるかもしれない。勿論、それぞれ雰囲気の異なる良さがあってどちらも甲乙つけ難い。この福永版の最大の特徴は、古事記を現代語訳した地の文と内容に関する注釈が混ざって連続して綴られている処にある。これはもう言うまでもなく読み易い。地の文の部分だけだと、やはり、現代の我々にとってはさっと理解するには難しい内容がしばしば出てくるのであるが、注釈的内容が不自然無く織り込まれているので、するするするすると読んで行ける。ただし、これは大きな強みであると共に弱点でもある。と言うのも、結局の処、注釈というものに絶対的な正解は無い為、注釈と地の文の部分の区別が一瞥して分からないというのは、それなりに問題なのである。読み易さと引き換えに、情報の偏りも知らずに受け入れる事になってしまう*3。まあそこさえ気を付けて読めば、古事記の現代語訳としては屈指に読み易いものだろうと思う。同様の書籍に田辺聖子訳のものがあるのだけれど、こちらはkindle版は見つからなかった。田辺版もそのうち読んでみたい。

 古事記本文に関しては上述した様に本文と注が一体になっているが、歌に関しては、注釈は別個に施されている。この福永武彦に依る歌の注は中々読み応えがあるので、この部分を楽しみに本書を読むのも良いかもしれない。最近、古事記関連書籍を読み漁っているうちに、大体、こういう古典書籍の場合は注の味わいがかなり大きい事に気付いた。勿論、「ムー」の様な無茶な解釈を披露された場合は非常に困るのだけれども、歌の解釈なんかは福永武彦みたいな信頼できる文筆家の解釈を読んでみたくなるのが人情である。実際、カルノミコとカルノオホイラツメの兄妹悲恋の交わし歌の注釈なんかは非常に丁寧な詩的解説で、こういう処は小説家文筆家による注釈の本当に良い処だと思う。

 この本のもう一つ良い処は、解説がキッチリと収録されている処である。この解説は山本健吉という人が書いている。古事記を訓読みする事について、本居宣長がいかに美しい宇宙を古事記から編み出したのかについて、述べられていて、読んでいて益々古事記の世界に惹き寄せられるし、本居宣長の『古事記伝』も読まにゃいかんなという気分になる。

不完全な古事記の表記法を基にして、宣長によって創り出された、完璧に美しい小宇宙が『古事記伝』であることを、改めて認識することになるのである。それによって古事記は日本人に親しい世界となったのであって、この場合、美しすぎる宣長の訓みでなく、もっと合理的な今日の学者たちの訓みによっては、あれほどの伝達機能を発揮しえたかどうか疑わしい。

こんな風に書かれたら読まずに置いておく訳にはいくまい。心に余裕を作って何とか読んでみたい。しかし、こんなに人を古事記に惹き付ける解説を書く、山本健吉という人はどういう人だろうと思って、調べてみると、折口信夫の弟子でかつ明治の評論家石橋忍月の息子だそうだ。この人の文章も探しておいおい読んでみたくなってきた。

 この福永武彦の『現代語訳 古事記』はその訳の柔らかさ美しさのみならず、歌の注の充実、そして山本健吉の解説も合わせて、古事記をこれから楽しもうという場合に自信を持ってお奨め出来る一冊である。

現代語訳 古事記 (河出文庫)

現代語訳 古事記 (河出文庫)

 

 

*1:キリスト教書100選|日本キリスト教団出版局

*2:今更気付いたのだが、子供の頃に読んだ岩波少年文庫の古事記は福永武彦による再構成ものだった様だ。うーん岩波のセレクションの良さには脱帽である。

*3:池澤版の場合はこの問題を避けるために、現代語訳ではあるが、注釈は別になっている。紙媒体だと注釈形式は可読性を低くする事が多いけれども、電子書籍の場合はそれが左程苦にならないのでまあ技術の進歩というものはなんとも大きい物である。因みに、注釈者によって解釈にバラつきがあるように、解釈以前の読み下し方にも色々な遣り方が存在するし、これも解釈に影響を与える。そこに関しては多数の古事記注釈書を比較するしかないと思う。

『悪人志願』 江戸川乱歩

 乱歩の多趣味が伺える初期随筆集

 江戸川乱歩が日本で最も有名な推理探偵小説作家だと思うのだが、ある時期からは、推理探偵小説のを余り書かなくなって、どちらかと云うと推理探偵小説に纏わる随筆や評論の様なものを良く書くようになった。その本職である推理小説が面白いのは当然なのだけれども、実はこの推理探偵小説に関する随筆がとてつもなく面白い。乱歩はそもそも幻想と怪奇の間を彷徨う様な変格モノを良く書いていただけあって、色々な処に繊細で敏感で、またかつ色々なモノに興味を示す性質だった様だ。『幻影城』に収録されている自伝的随筆でも物事に飽き易いという風に乱歩自身の事を書いていた様な気がするが、まあ、今回読んでみた光文社から出ている乱歩全集24巻である初期随筆集『悪人志願』でもその気紛れで気儘な興味の拡がりを味わえる。この随筆集は『悪人志願』という題となっているが、中味は表題の「悪人志願」、「探偵小説十年」、「幻影の城主」そして「乱歩断章」*1の4種の随筆を収録した物となっている。本当に雑多な物事を記していて取り留めなく話題が散乱しているのだが、その中で、私のどこかに引っ掛かったモノを覚え書きしておく。

 まず、随筆集「悪人志願」最初の序からして乱歩先生の韜晦趣味が溢れ出ていてこちらをニヤつかせてくれる。それは、こんな具合である。

 水谷準氏の勧めにより、恥かしき雑筆類をまとめて本にする。(中略)
 こんなものを読んで下さる人があるかと懸念もするし、又若し多少でも売れて、お小遣が這入ったら、勿体ないことだとも思う。
-「序」(『悪人志願』 江戸川乱歩)

 乱歩のこの変なへりくだった感じは、照れ隠しの様な感じでいつ読んでも微笑ましい。

 「悪人志願」*2は随筆集「悪人志願」の表題となった最初期随筆である。

 私は、一つの探偵小説を書くまでに、頭の中で、まあ幾人の男女を殺すことでありましょう。一晩に一人ずつ殺すとして、一年には三百六十五人、十年には三千六百五十人、そして一生には?それが又、一つ一つ、並大抵の殺し方ではないのであります。出来る限り陰険に、出来る限り残虐に、血みどろに。オオ神様、私は何という恐ろしい人鬼でありましょう。
 それ程に思うなら、探偵小説書きを止せばよさそうなものですが、持ったが病で、どうもあの魅力を捨て去るにしのびないのであります。そして、夜々の悪企みを、益々陰険に、愈々残虐にと、こらして行くのであります。そこで、私の今日此頃の願いは、どうかしてもっと極悪人になり度いということであります。私の歎きは、自分が余りに善人過ぎるということであります。
-「悪人志願」(『悪人志願』 江戸川乱歩)

これまた、乱歩の微妙な韜晦癖が出ていて、何だか乱歩の小説の登場人物の手記に出てきそうな告白である。乱歩の小説の場合はこんな感じで夢想している小説家が実際に犯罪を犯すという感じの展開になるのだが、勿論乱歩の場合は夢想のままに留めていて、善人?とまでは言わずとも悪人には成れなかったが故の「悪人志願」であろうけれども。

 乱歩はこの様に妄想逞しい作家であるから、その辺を歩いていたり、何かを見たりしているだけでも異世界や魔界への扉がどんどんと開いていく。例えば、映画を見ていると不安になるらしい、

 私は活動写真を見ていると恐しくなります。あれは阿片喫煙者の夢です。一吋のフィルムから、劇場一杯の巨人が生れ出して、それが、泣き、笑い、怒り、そして恋をします。スイフトの描いた巨人国の幻が、まざまざと私達の眼前に展開するのです。
-映画の恐怖(『悪人志願』 江戸川乱歩)

こんな具合で、さらに映画の映写機がふと止まってスクリーン一杯に映し出された顔に焦げ跡が出来たりする恐怖などを語っている。何の気になしに映画なんか見ているけど、確かに妄想を逞しくすれば、昭和の時代の映画にはこういう恐怖もあったに違いない*3。この随想で描かれている恐怖は後日、実際に『悪魔の紋章』や『暗黒星』などで使われている。他にもパノラマ館の恐怖や、八幡の藪知らずの恐怖、人形の恐怖、早すぎた埋葬の恐怖*4など本当にそこかしこから非日常の接点を乱歩は見付けてくるものである。これらの恐怖を巧く装飾して、乱歩は彼が描く小説の中に何度も何度もこの白昼夢的な異世界の齎す恐怖・日常の中の非日常を顕現させるのだが、この随筆集でその異界の原点を探るのはこれまたこの随筆集の楽しい味わい方の一つだと思う。

 また、都市の雑踏の魅力も語っている。乱歩にとっての雑踏とは浅草だったのだろう。昔の浅草六区界隈の雑踏は相当なモノだった様で、その雑踏の中に様々な見世物や得体の知れない人々がごった煮になっていて乱歩の想像力を刺激した様である。浅草の妖しい人混みから想像を得たであろう作品に『陰獣』やらがあるし、雑踏に紛れて多数の人の中に孤独感を感じるその気持ちを描いた「群衆のロビンソン」(『幻影の城主』収録)なんかは誰しもが感じる孤独感漂流感を巧みに文章にしている。都市に住む人々は乱歩程ではないにしても皆それぞれの異界を街のどこかに認めているのではないだろうか。

 この随筆集には小酒井不木と乱歩の交流の想い出も多数綴られている。小酒井不木は推理探偵小説の材料になりそうなお話を沢山書いており、乱歩のデビュー作である『二銭銅貨』を非常に褒めちぎって、乱歩を相当に勇気付けたのである。そしてその後には、実際に自ら推理探偵小説を幾つも世に送り出しており、乱歩に依れば、『恋愛曲線』や『疑問の黒枠』は相当の名作の様である。小酒井氏は東北大学(当時は東北帝国大学か)の医学部の教授でもあった人であって、当時、小説の中でも特に俗世的なモノと看做されていた推理探偵小説の地位向上に尽力したという点でも乱歩は氏をかなり敬愛していた様だ。乱歩の小酒井氏に対する思慕敬愛の念は相当に強かった様で、『悪人志願』内の多数の随筆のみならず、他の随筆集でもしばしば小酒井氏に触れている。この『悪人志願』には小酒井不木と乱歩の共作である『ラムール』という中々の幻想的掌編が収録されている。乱歩と不木の共作というだけでも中々に興味をソソルのであるが、その中身も実際に小酒井氏の医学描写と乱歩の幻想風味が非常に奇麗に絡まっていて端麗な美しさがある。この『ラムール』は後に乱歩が改変して『指』として昭和35年に発表しているが、個人的にはこの『ラムール』方に細部で軍配が上がる気がする。

 因みに、乱歩はこの小酒井氏の『疑問の黒枠』の他に、大下宇陀児の『蛭川博士』や浜尾四郎の『殺人鬼』も国産長編探偵小説の優れたものだとしてこの随筆集内で挙げているのだが、実は私は何れも読んだ事がない。ぱっと見た感じ、どれも現在簡単に手には入らない状況の様である。まあ機会を見て図書館巡りでもするしかないのかもしれない。この辺りの文献なんかもどこかの書肆が電子化してくれれば簡単に手に入るのになあ、などと無い物ねだりをしてしまう。

 乱歩を語るに当たって、彼の同性愛研究の側面も重要だと人づてに聞いた事がある。この光文社『悪人志願』中の「幻影の城主」に収録されている幾つかの随想はその辺りの消息を詳しく記している。乱歩の小説では明確に同性愛的なものが示唆されているのは『孤島の鬼』しかないと思うのであるが、こうやって色々と研究していた処を見ると、表層に顕れて来ていない部分で、同性愛的な構造が含まれているのかもしれない。そういう側面から乱歩を研究している人も存在してもおかしくはない気もする。

 

 今回読んだ光文社刊行の『悪人志願』は乱歩の様々な側面が味わえる楽しい楽しい随筆集集である。光文社の江戸川乱歩全集の電子書籍版は注釈が欠けている事があったり解説がない事が残念な場合があるのだけれども、この『悪人志願』の場合は一応解説は収録されている。紙媒体の方が情報量が多いとは思うけれど、手軽に手に入ると言う意味では電子書籍版が存在するのは有難い事である。

悪人志願?江戸川乱歩全集第24巻? (光文社文庫)

悪人志願?江戸川乱歩全集第24巻? (光文社文庫)

 

*1:「悪人志願」は昭和4年刊行。「探偵小説十年」は昭和7年刊行、平凡社乱歩全集の十三巻に書き下ろされた。「幻影の城主」は昭和22年刊行。「乱歩断章」は他の随筆集に収録されていないものを集めたらしい。この光文社刊全集のオリジナルか?

*2:私の記述が拙いせいで分かり憎くなってしまっているのだが、この光文社乱歩全集第24巻『悪人志願』中に「悪人志願」という随筆集が収録されていて、「悪人志願」という随筆が随筆集「悪人志願」の最初に収録されている。

*3:映画館の映写機の故障による火事の不安という物は、かつては一般に存在したようだ。例えば有名な映画『ニュー・シネマ・パラダイス』でも映画の上映中の事故による火災が描かれている。

*4:『蜘蛛男』や『悪魔の紋章』ではパノラマの恐怖、迷路の恐怖、そして人形の恐怖総て揃っている。『吸血鬼』では早すぎた埋葬の恐怖が描かれている。そして『パノラマ島奇譚』では当然の如く、目の眩むパノラマ描写が延々と書き連ねられていくのである。

『古事記』 池澤夏樹 訳

 電子書籍時代の現代語訳古事記

 池澤夏樹=個人編集の日本文学全集が2014年から刊行され始めた。実は池澤氏の世界文学全集の方は以前にえいやっと自分への褒美の積りで全巻セットを購入したのであるが、個人的事情により手元にはなく、遠く離れた処で私を待っている。早く手に取って読んでみたいものだと思っている内に、日本文学全集も刊行が始まってしまったのである。始まってしまったと言ったって、まだまだ絶版には遠い訳でその内購入するかな、なーんて考えている内に、なんとまあ、この池澤夏樹=個人編集 日本文学全集が電子書籍で刊行され始めたのである(2017年3月から)。それも正に、私が『古事記』を再び読んでみたいな、などと思い始めたこのタイミングで、である。これは最早購入しない訳には行かない。と言う訳で、待望の池澤夏樹・現代語訳の『古事記』を読んでみた。

 さて、『古事記』は当たり前の話であるが、非常に古い物語である。だからこそ、現代語訳がこの世に何度も出て来る訳であるが、古さ故に色々と注釈無しには読みにくい部分がある。さてこの部分をまず池澤氏は

(前略)これまでの作家たちの現代語訳は普通の読者が知らないことの説明を本文に織り込んできました。
 しかしそうするとどうしても文体が間延びして温い緩いものになってしまう。また注釈としても不充分で中途半端。そこでぼくは思い切って脚注という方式を採ることにしました(*本電子書籍版では本文と注にリンクを貼っております)。その結果が本文と脚注から成るこのページ構成です。

としている。確かに、例えば池澤氏の父である福永武彦による現代語訳・古事記の場合は注釈が地の文と混在しており、読み易いといえば読み易いのだが、元々の文章がどこからどこまでなのかがまるで分からなくなってしまっている。今回の池澤式現代訳はその問題がクリアされているので注釈を注釈と理解しつつ現代文として読める処が良い処だと思う。この注釈の処理の問題であるが、例えば紙媒体の書籍の場合、注釈と本文をまあ頁をめくって行ったり来たりする事になる。経験した事のある人であれば同意して貰えると思うのだが、これは頗る面倒臭いし、しばしばせっかく施されている注を無視して読み続けるというやや勿体無い読み方になってしまう。

 ここで、電子書籍なのである。紙の書籍に比べて、電子書籍の場合この注釈の参照のし易さ快適さが段違いなのである。注のリンクをポンとタッチするだけで注釈に跳ぶ事が出来、そして戻るをタッチするか、その語を再度タッチするかで、文章の元の位置に容易に戻る事が出来る。何なら、PCの画面に注釈を表示させて置いて本文を追いながら見比べることも可能である。電子書籍は正に『古事記』の様な注釈だらけの古典書籍にぴったりのツールである。我儘な話であるがここまで便利になって来ると、電子書籍ならではの注の組み方なんぞも試みて欲しいとも思い始めた。というのもこの池澤訳の『古事記』でも当然紙媒体を前提にしているので、例えばある神様やある人物についての注釈は登場場面ごとに散逸している。電子書籍の場合はリンクを貼ればいいだけなので、いっそのことwikiの様にそれぞれの項目ごとに注を作り、そしてその注の中にも更にリンクを貼り合ってくれると尚読んで楽しい様な気がする。昔、松岡正剛がインターネットのリンクを貼って情報の網を作ることで様々な新しい編集が出来るのではないか的な事を言っていて、まあ残念ながら松岡氏は別段何にも革新的な事は出来ていないが、これからの発展次第で、電子書籍ならではの新しい小宇宙的な情報呈示も可能ではないかと考えてしまう。池澤氏はどうやら電子書籍の導入に抵抗が無い様で積極的に氏の過去の著作も電子書籍にして発行しているので、電子書籍に於ける表現方法の進化にも興味を持って取り組んでくれるのではないかと結構期待している。

 そうそう、池澤氏が電子書籍に積極的である明確な証拠として、なんとまあこの池澤夏樹=個人編集:日本文学全集の第一巻である『古事記』には池澤氏による解説のみならず、解釈を手伝った国文学者の三浦佑之の解説、そして更に、月報も収録されている。月報の内容は内田樹と京極夏彦による古文翻訳や古事記に関するエッセイでこれが収録されている事は期待していなかったので只々嬉しい。池澤氏の電子書籍にそして文章に対する愛情が感じられて本当に素晴らしい。

 ここまで『古事記』の内容と全然関係の無い事を書いてきてしまったが、『古事記』という物語は私がここでどうこう書くまでもなく、非常に面白い。

 上巻では神々の伝説が語られ、天岩戸やヤマタノオロチ、オホクニヌシの転生にスサノオの激励、ホヲリとワタツミの国など心躍る神話が満載である。中巻になると、サホビココ・サホビメの禁じられた兄妹愛を思わせるエピソードや人気のヤマトタケルの西征東征に死して白鳥となり飛び逝く逸話などこれまた読み処に事欠かない。下巻なんかはまるで記憶に残っていない話ばかりだったのだが、これはこれで人間味溢れる逸話が多くて堪らない。女好きのオホササギと嫉妬深いイハノヒメ、『古事記』中最も短気で暴虐の王オホハツセ、オケとヲケの兄弟天皇の伏龍譚など、下巻もパンチラインの利いたお話ばかりである。

 池澤氏の様々な工夫もこの物語をじっくり味わうのに利いている。柔らかい現代語訳は本当に読み易い、例えば以下の様な調子である。

 イザナミは、
「私の身体はむくむくと生まれたけれど、でも足りないところが残ってしまったの」と答えた。
 それを聞いてイザナキが言うには──
「俺の身体もむくむくと生まれて、生まれ過ぎて余ったところが一箇所ある。きみの足りないところに俺の余ったところを差し込んで、国を生むというのはどうだろう」と言うと、イザナミは、
「それはよい考えね」と答えた。

 「言うには―」と始め「言った」と閉じるのはやや不自然に感じるかもしれないが、原文を尊重しているのである。この辺りの具体的な現代訳方針も前書きで良く説明されている。

 それに加えて、段組みも非常に工夫されていて、読み飛ばしてしまいがちな神々の系譜や王の系統なんかも追い易い*1。池澤氏の遊び心が散見される注釈はこちらをニヤリとさせてくれる。子供の頃に岩波少年文庫で読んだので物語は朧げには覚えていたのだが、『古事記』がこんなに楽しんで読めるものだとは思わなかった。今までちゃんと読んでいなくて損した気分である。

 この物語としての面白さはやはり、単なる皇統記と言うモノとは異なる、様々な方面に支持される神話を作ろうとした当時の太安万侶を代表とする宮廷官僚の人々の苦心と情熱が結晶したからなのだろう。そう、この『古事記』は厳密には「神話」では無い。あくまでも「作られた神話」なのである。『古事記』が誕生する以前にはこの『古事記』に描かれている様な国産みから天孫降臨へと流れる様な統一的な伝承は存在しなかった様である。とは言ってもこれは無から作られた神話でも無い。人々の間で口誦され伝承されて来た様々な物語を元にして、それらのラベルを時には貼り換え時には物語を切り貼りして、そして『古事記』という壮大な神話を創造したのである。レヴィ=ストロースが神話の生成や構造を考える際にブリコラージュ*2という概念を提唱していたようだ。レヴィ=ストロースは南米や北米での実際の調査によって、新しい神話の誕生や神話の伝播は、既存の伝承の組み合わせや個々のラベルの貼り換えなどに依って行われる事が多いという事を発見した。この神話の誕生過程は意識的なモノでは無かったとレヴィ=ストロースは考えていた様だから『古事記』の場合は少し違うかもしれないが、世の中に存在した既存の小さな伝承や物語を切り貼りて大きな神話を作った処は正にレヴィ=ストロースが提唱した神話の産まれ方そのものである。ここで面白いのが、この『古事記』では同時に書き言葉としての大和言葉が生まれている。この大和言葉もまたブリコラージュ的なのである。既存の漢文に存在する漢字を大和言葉の音に当て、象形文字としての機能を剥奪して新たな文章記法を創造した訳である。既存の漢文を切り貼りして一部の機能はそのままにしつつも、新たな記法も織り交ぜて、そしてこれまた既存の物語の切り貼り組み合わせで皇統神話という壮大なものを織りだしたという、非常に不思議な産物が『古事記』という事になる。 

 因みに、『古事記』は記法上まだ発展途上の方法で記されている為、決定論的な読み方は存在しない様だ。であるから、これを解釈し読み下す人々によって少しづつ解釈が異なるし、訳者や注釈者の前書きや後書きには色々な考え方が滲み出ていて、これらを読み比べるのがまたとてつもなく面白い。結局、私なんかの場合自分自身で解釈する程の知識はないので、多数の解釈や注釈の比較で以って、「おお、これが一般的な解釈なのか」だとか「これは一般的でない様だが自分に取っては一番しっくりくるな」となる訳である。最初に読んだ解釈と言う物は宙ぶらりんで、他の解釈などを知る事で、それらの位置付けが私の中で定まって来ると云うのは、単体で意味を持つのではなく関係性で意味が生じて来るという事だから、私の読み方は構造的アプローチなのかもしれない、などとも考えてしまった。今回は池澤氏の解釈による『古事記』を読み*3、そして古事記に関連する書籍もそれなりに読んだのだけれど、先行する多数の注釈書もまた非常に興味をそそられるのでこれからどんどん読んでいこうと思っている。

古事記 池澤夏樹=個人編集 日本文学全集

古事記 池澤夏樹=個人編集 日本文学全集

 

*1:例えば、神の名前の初出は漢字とカタカナで、再登場の際にはカタカナで表記するなど可読性が高い。そして再登場する神や人物は名前が太文字で強調されており意識に留める事が容易である。只、一部この強調が抜けている処などがあってそこは残念ではある。

*2:既存の材料を何かの代用に用い、総体として新たなモノを創造する事らしい。例えば工業製品などはブリコラージュ的でなく最初から合目的な部品の集合で生成されるが、それに対して、寄せ集め等で何か新しい物を作るという行為がブリコラージュに当たるようだ。

*3:因みに、この現代語訳『古事記』は内容も勿論、池澤氏に依る前書き後書きも必読であると思う。文学者小説家ならではの解釈や読み方が滲み出ていて思わず頬が緩む。