(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『途上』 谷崎潤一郎 / 『赤い部屋』 江戸川乱歩

 プロバビリティーの犯罪

 谷崎潤一郎は何でも書く人であって、怪奇幻想がかったものや探偵小説の様なものも時々書いていた。日本の創作探偵小説と言うと、何度も何度も書いているけれども、黒岩涙香の『無惨』が明治の半ばにポンと出た後は細々と何とか続いていたという感じであって、大正に入るまで一般的になって来なかった。その状況を変化させ始めたのが、岡本綺堂の『半七捕物帳』であったり、谷崎潤一郎の一連の探偵犯罪心理を扱った小説群であったりした訳である。そして、江戸川乱歩は勿論、ポオを好んで敬愛していた訳であるのだが、どうやら、日本の作家の中では谷崎潤一郎に最も傾倒していたらしい。

大阪の貿易商は一年ほどで飛び出し、伊豆半島を放浪しているうちに、谷崎潤一郎の小説に初対面したのだが、それは、『金色の死』という短編で、内容がポーの『アルンハイムの領地』や『ランダアの邸』に似ていたので、自然主義小説ばかりだと思っていた日本にも、こういう作家がいたのかと、驚異をさえ感じた。
-「私の履歴書」(『乱歩断章』 江戸川乱歩)

 大正6,7年頃の事らしいが乱歩は上の様に記している。そして、ポオとドストエフスキーと谷崎潤一郎が、乱歩に最も感銘を与えた作家達だと述べている。

 その乱歩の感激した谷崎潤一郎の『金色の死』は他の推理探偵小説家達もしばしば称賛しているので、是非読んでみたいとは思っているのだが、ちょっとぱっと見た限り手に入れるのは簡単では無さそうである。そこで、乱歩がこれまた褒めちぎっている別な犯罪推理短編『途上』(1920年:大正9年)を読んでみた。

 『途上』は探偵と被疑者の二人の男の会話だけで完成する探偵小説である。このお話のトリックはある意味天才的なモノであって推理小説的には色々な処でこの後にも使われていそうな気がする。ネタバレしてしまうと、これはプロバビリティーの犯罪なのである。この遣り方は頗る賢い。何せ、他人任せ不運任せなのだからそうそう簡単に足がつく筈がない。一般的な推理小説なんかでこれが出て来ると、もうちょっと探偵の方ではお手上げで、犯人が何か更なる犯罪を行ってくれないとまず解決が難しい。谷崎潤一郎は探偵趣味はあっただろうけれども、推理の課程よりは犯罪心理の描写の方に興味が強かった様なので、冒頭から登場している探偵が天才的に解決してしまう処が推理小説的にはやや無理があるか。だけれども、流石に、読んでいる内に被疑者の焦りが追い詰められて行く心理が読者の方にもひしひしと伝わって来る描写は流石である。この描写力があるから、別にこのお話が、プロバビリティーの犯罪と知っていても十分以上に楽しめる。ちなみに、この犯罪を見破るのは並大抵のことでは不可能だろうというのは江戸川乱歩も感じた様で、『D坂の殺人事件』にて、かの明智小五郎に以下の様に語らせている。

絶対に発見されない犯罪というのは不可能でしょうか。僕は随分可能性があると思うのですがね。例えば、谷崎潤一郎の『途上』ですね。ああした犯罪は先ず発見されることはありませんよ。
-『D坂の殺人事件』 江戸川乱歩

 江戸川乱歩の感銘振りが伝わって来る様である。しかし、ちょっと思ったのだが、大正の頃の世の中と云うのは現代と比べて相当に物騒だったのだな、と。と言うのも『途上』の犯人はほとんど何も積極的な行動はとらず、流行性感冒だとか自動車事故だとかチブスだとかという本当の偶然に近いモノに頼っているのである。現代であればここまで犯人が直接手を汚さずにプロバビリティーの犯罪を行う事は困難な様に思える。安全な世界と云うのは実際有難い物である。

 さて、この『途上』アイデアは面白いし、探偵趣味の短編としても面白いのだけれども、純粋に娯楽として読むと、谷崎潤一郎の小説の中ではまあ余り面白くない方に入ってしまうと思う。同じ犯罪心理の様な物を描いた小説であれば、『白昼鬼語』だとか『私』の方が面白い様に感じる。まだまだこのプロバビリティーの犯罪というアイデアを巧く料理する余地は残されているだろう。

 だからだろうか、乱歩はこのプロバビリティーの犯罪というアイデアを借用して『赤い部屋』(1925年:大正14年)という短編を書いている。

「赤い部屋」の筋は上京以前から考えていた。これは谷崎潤一郎氏の「途上」をもっと通俗に、もっと徹底的に書いて見ようとしたのだ。
-「楽屋噺」(『乱歩断章』 江戸川乱歩)

 こんな具合に、『途上』を読んで以来アイデアを温めていた様だ。

 『途上』だって面白いけれども、こちら『赤い部屋』は本当に良く出来ている。同じプロバビリティーの犯罪なのだけど、乱歩はそれを娯楽小説の中に包埋するのがとても巧い。まず、犯罪心理に走る、非日常を求める、そういう心の課程が描かれている。日常に飽く事は誰でもあるだろうし、そしてより強い刺激を求める事にもかなりの人が共感できると思う。その窮極の処に「殺人」というモノが存在するというのは確かに想像出来る話である。古来より「殺人」の不可侵性というものは様々な小説で語られていて、「殺人」等と云う行為は毎日そこかしこで生じているというどうしようもない現実は存在するのだけど、理性的人間を自任する人々に取っては、それこそ、理性によって選択できる行動の極北なのである。だからこそ、妄想の産物である小説内に於いてすら、それを行う為に様々な理屈を捏ね繰り回し、自らを超人になぞらえたり、神がいないのであれば「すべては許される」だと言ったりして苦悩する事になる。その行動の極北との断絶を、不思議な柔らかいクッションで包むのがこのプロバビリティーの犯罪なのである。プロバビリティーの犯罪ほど無邪気で恐ろしい物はない。本小説中、自称殺人鬼は外形上敵意悪意無しに確率的に如何に殺人を行い得るかについて滔々と語る。しかし、ふと考えてみれば、外形上殺意悪意が見えないとすれば、罰されるべきは内心なのであろうか?悪意の無い人が外形上この自称殺人鬼と同じ行動結果を経験してしまった場合、結果でなくて内心で裁かれるべきなのだろうか?内心で裁かれるべきであるならば、内心で殺人を犯せばそれは殺人なのであろうか? 我々は自らを理性的であると認識している時に於いては、理性的な行動の帰結の責任は我々自身にあると考えるのであるが、バタフライ効果の様に我々はその先々に起り得る結果など予測し得ないのである。この小説内では、蓋然性を以ってして期待値的に殺人を犯すというお話であって、それが直接手を下すという処から心理的にも離れていて恐ろしいのだが、こうなって来ると、これは単なる確率論的事故誘発では無い。これは意図しなくてもある行為が誰かの死を齎しうるという話と表裏一体とも言える訳である。理知的に自らの行動とその結果が自らに帰属すると無邪気に信じえる無垢の世界は消え去ってしまう。

 『赤い部屋』に於いては、最後の卓袱台返しによって、摩訶不思議な非日常的魅力に充ち満ちた「赤い部屋」は消え失せてしまう、のだが、実は同時に、我々が安住している、この理知的な日常の世界も消え失せ兼ねない事を我々は知るだろう。実の処、我々が自らの行動を理知よって常に制御し得るという考え方は不安定な基盤の上に立っているのである。

 今回、谷崎潤一郎の『途上』は新潮社から出ているkindle版『潤一郎犯罪小説集』に収められているものを読んだ。残念な事に解説は省かれてしまっている。ここが電子書籍の悲しい処である。乱歩の『赤い部屋』に関しては、これはいつもの如く悩みどころだと思うが、挿絵を求めるなら創元推理社の『D坂の殺人事件』に収録の物になるし、乱歩自身の解説の充実であれば光文社の乱歩全集『屋根裏の散歩者』を読む事になると思う。

D坂の殺人事件

D坂の殺人事件

 
潤一郎犯罪小説集

潤一郎犯罪小説集

 

『夏の朝の成層圏』 池澤夏樹

 近代社会からの漂流

 最近、池澤夏樹の現代語訳『古事記』を読んでいる。前々から池澤夏樹=個人編集の日本文学全集を読みたいと思っていたのであるが、遂に電子書籍化が始まったのである。『古事記』の前書きの、池澤夏樹の語り口は優しく、柔らかく、文学への愛に満ち溢れている。ああ、この人の文章は心地良いなと感じながら、そう言えば今まで池澤夏樹の書いた小説は読んだ事が無かったな、と言う訳で、処女小説『夏の朝の成層圏』を読んでみた。

 この『夏の朝の成層圏』は様々な要素が淡い彩りで混淆した不思議な小説である。印象に残った要素を覚書しておこうと思う。

 漂流物と云うのはある種の異世界訪問譚である。この小説ではその異世界が、天国を思わせる南の島となっている。お話の設定ではマーシャル諸島の辺り、環礁が作る美しい熱帯の楽園といった趣、ビキニ環礁もこのマーシャル諸島の一環礁である。熱帯の島々には自然の熱量がある、文明の齎す熱とはまた完全にベクトルの違った熱量が存在していて、それが、当然住む人々の生活や心に強い影響を支配を齎しているのだと思う。最近、文化と言語の関係性を著述した"Through the Language Glass"や『古事記』に関連した書物を読んだりしていると、この辺りの熱帯の原型的生存形態*1が維持されている処には、自然や土地と人々の暮らしとの間に強い紐帯が存在する事、そして文字化されない口誦による伝承がそれを強く密にしている事を改めて感じる。得てして我々は、現在我々が暮らしているこの資本主義×民主主義の世界を基準に考え、この世界の価値観や規則がかつて存在した原型生存形態よりも進歩したものと捉えがちであるが、果たしてそれは進歩なのだろうか? 両者が同じでは無いと云う事は紛れもない事実であるけれども、それは優劣に落とし込まれるものではなく、ただ異なるだけという処に収束するだけなのかもしれない。

 その違いを考えるという意味に於いて、この小説は近代社会とは異なる原型生存形態への適応を見た思考実験を描いている側面がある。座標系が異なる世界に放り込まれた主人公は一度自らを規定していた相対的な関係を失い、新たに自らを原型生存的な座標の中で組み直していく。最初はこの新たな座標空間への侵入が「下方から銃撃されるパラシュート兵」として記されるように、その世界へ闖入する異物として描かれるが、やがて孤島の自然に馴染み、島の椰子やバナナや海辺の貝を食べ、その中で暮らす内に島の精霊に受け入れられていくかの様に見える。しかし、これは正に思考実験的である。何もかもが論理的に進んで行く、蛋白質源はどうするのか、飲み水はどうするのか、と言った課題が文章上淡々と解決されて行く。そこに、この南海の孤島の住人とは異なる、日本という近代化され欧米と均質化しつつある土地から来た「ぼく」の思考実験感が滲み出る*2。主人公はこの南洋の島々の住人とは出会う事は無いし、何と言ってもこの島には熱帯だというのに蚊が存在しないのだ!

 所謂処の近代的文明から来た人間は果たして新たな原型的生存形態の座標空間に再構築され得るのだろうか?我々は素朴に見える原型的生存形態への思慕の様な物を抱く場合がしばしばあるのだが、それは素朴に達成し得るものなのだろうか?最初に辿り着いた島はアサ島と名付けられ、「彼」はやがてヒル島を経てユウ島に移る。そこで、「彼」は西洋風の白い一軒家を見付けるのである。南洋の島に似合わない洋風の家屋、まるで別世界の新しい座標系に見えた島の世界が、「彼」が元居た世界の座標空間の中に少しずつ再定義され始める。「彼」はその家に住む事は違和感ゆえに踏み切れないのだが、家の「便利な道具」は使い始める。思考実験的に南洋の島に放り込まれた「彼」は完全に元の世界から独立して新しい世界に飛び込んだのでは無かった。「彼」には日本や近代化された世界と繋がる細い糸がくっ付いていたのである。これがある意味、地球の引力に支配されつつもその辺縁に漂っている、澄みきった成層圏に居るという事なのかもしれない。ここに来て思考実験は、その思考実験者の立場、つまり近代的社会に属するものとしての立場を明らかにしているように思える。この元の近代的社会との繋がりは、近代化の虚栄の象徴の様なハリウッドの映画俳優マイロンの登場、更に彼の取り巻きの登場、取り巻きの美女とのセックスといった具合に、どんどんと拡大されて行く。マイロンはこの南洋の楽園の快楽に浸るが、「彼」とは異なり原型的生存形態への思慕は示さない、そして、「彼」の中に原型的生存形態への素朴な憧れを見てそれをたしなめるのである*3。このアメリカ人俳優は明らかにある種のジェネラリゼーションの暗示であろうが、対する「彼」もまた近代化された世界から来た人間である以上、南洋の島々の住人の立場や社会に同化してそれを完全に代弁する事は不可能に近い。近代社会からの視点というモノが消え去る事は無いのである。

 これらの出来事を経て、独立した別個の座標系を持つかに見えた島の生活も元の世界の座標系の一部に過ぎない事が明らかになり、主人公もまた元の座標系に再構築されて行く。新たな座標系の中に新たに構築されたかの様に見える定義は、近代化社会との繋がりが明らかになった以上、維持され得ないのである。新たな座標系の中で築いた新たなコードは元の世界の座標系の中へ再変換される、しかしそれは単純に元に戻る変換とは言えないのかもしれない。元のコードとは多少異なったモノに、場合に依っては大きく異なるモノになる事だろう。

 さて、この異世界に思えた南の島はミクロネシアの島であり、現実の世界に存在するマーシャル諸島のいずれかの島を暗示しているのであるが、背後に流れる空気は、真正に異世界だとしてもそれ程問題は無い様に見える。ここでは南の楽園の様な島が描かれており、私自身もこの様な島というものは素晴らしい場所だろうと思うし、ある意味逃避場所として理想的な所かもしれない。逃避場所と言う意味で言えば、人に依ってはどこかのバーという事もあれば、図書館だという事もあれば、それこそ、自室に引き籠ってしまうという場合もあるだろう。これらは総て、南の島ほどドラスティックで無いにしても逃避場所としての異世界であるし、そしてその逃避場所としての異世界には、私達は望まずに行くこともあれば、望んで行くこともあるだろう。神話の世界に於いては異世界譚というものは太古の昔からそこかしこで語られる物語であり、例えば、山幸彦・海幸彦の伝承*4やイザナミの黄泉逝き神話などにそれらが見られる。この神話に於ける異世界というものは望まずに紛れ込んだ場合にはしばしば元の世界へと戻る事が可能らしいが、そうでない場合、望んで異世界に入った場合には元の世界へと戻る事は中々難しいと言われている*5。この小説の場合は、勿論、望んで異世界に漂流して来た訳ではないのであるが、まるで、冥界に連れ込まれたペルセポネが冥界の食物を口にしてしまったが為に地上の世界へ戻れなくなった寓話の様に、異世界に囚われてしまったかの様な感覚を覚える。

 小説の終盤、マイロンが手押しの救命信号の存在を主人公に教え、それを押せば何時でも一時間で南洋の島から救出されると言うのだが、取り巻きの「信じてレバーを引く者を手榴弾はすぐに天国へ運ぶ。救出を信じたまま即死すれば、それはつまり救出と救済が同時に行われたということだ」という冗談が暗示的である。そこに提示された救命信号は本当に「救命信号」なのだろうか?取り巻きのブライアンが言う様に「ある種の死」に依る「南洋の島」からの「救済=脱出」なのかもしれない。それに果たしてこの「南洋の島」は現実なのだろうか?我々はしばしば夢を見る。夢はある種の「異世界=逃避場所」であるし時間の流れはそれこそ現実の時間の流れとは異なったモノになる。この南の島での生活はある意味その不思議な現実感の薄さ切迫感の薄さから夢という異世界の様にも思える。この救命信号を駆動させる事で比喩的な意味での「夢のような生活」が終ると同時に、もしかしたら「夢=異世界」の生活も終わるのかもしれない*6。だからだろうか?主人公は夢の様な南の島での体験を文章化する事でその体験と決別しつつも、島から出る事を決断出来ずにいる。最終章、「彼」は「ぼく」に戻り、第1章で、書かれた事はもう存在しない事と述べたように、もはや「近代社会=現実」から途絶した島の住人としての 「彼」の存在は否定される。「ぼく」は南洋の島の中の「近代化社会=現実」に属する白い一軒家で文章を書いている。だが、「ぼく」はこの島から出て現実に還る事が果たして出来たのだろうか?明日は今日になるのか? 「ぼく」は現実と異世界の間の特異点で永遠に彷徨っているのかもしれない。

 

 池澤夏樹の処女小説は、南洋の楽園のサバイバル生活を、思索を引き出す仕掛けを籠めつつ、淡いパステルカラーで書き上げた傑作だと思う。この小説はレヴィ=ストロース的な思索、文化の違いや近代文明と周辺の原型生存形態への思惟などを込めて書かれた物なのだろうけれども、その視点からうっすらと感じる何かを現時点では上手く言語化する事が出来ないのがもどかしい*7。そういう意味で、文化人類学的な書籍やポストコロニアリズム関連書籍をもっと読んだ後にまた読み返してみたい。

夏の朝の成層圏 (impala e-books)

夏の朝の成層圏 (impala e-books)

 

 

*1:最近読んだ工藤隆・著『古事記の起源』で原始的文化という言葉の代わりにこの言葉が使われていた。「文明は只ひたすらに進歩していくものである」という単純化された価値観からやや距離を置くという意味でこの表現は便利だと思うので使わせて貰う事にした。

*2:池澤夏樹が実際に孤島でサバイバル生活を行った経験があるかどうかは分からない。もしあるのだとしたらこの私の感覚は第三者的な視点で文章を読んでいるが為の誤解かもしれない。

*3:「彼」は自分がこの様な感情を持っている事を否定するが、実際問題として、素朴な憧れの様なものに類する感情が描かれている様に思える。

*4:この神話伝承は同様のモノが、正にミクロネシア、この小説の舞台にも存在するらしい。何か符丁が合う様な気がしないだろうか?

*5:しかし、神話ではない現代の小説の場合、理不尽に閉じ込められ続ける事は良くある事の様な気がする。カフカの『城』しかり、安部公房の『砂の女』しかり。

*6:読んでいる時にふと、実は船から落ちた時に既に溺れていて、これは死ぬ直前の幻想なのかもしれないとも思った。

*7:この小説に於いて、書く事や話す事で内的なモノを具現化する事が必ずしも良い事かどうか分からないと指摘されていたので、これはこれで良いのかもしれない。

“The Greene Murder Case” S. S. Van Dine (『グリーン家殺人事件』 S・S・ヴァン・ダイン)

 陰鬱な館に潜む悪意

 相変わらず、江戸川乱歩の『悪人志願』を読んでいる、のだが、ネタバレのせいでヴァン・ダインに関する随筆が中々読めなかった。それが理由でまず“The ‘Canary’ Murder Case”を前回読み終えたのだが、実は、同じ随筆の中で“The Greene Murder Case”のネタバレも行われていて、これを読まずには前に進めない。と言う訳で“The ‘Canary’ Murder Case”に続くPhilo Vanceシリーズ第3作目の“The Greene Murder Case”(『グリーン家殺人事件』:1928年)を読んでみた。勿論、「乱歩の随筆をネタバレなく楽しむため」というのが本作を読んだ理由であったのだが、前作がかなり面白かったので期待して読んだ処もあり、実際期待を裏切る事の無い名作であった。

 Greene家で深夜、令嬢二人が銃で襲われ、一人は絶命、もう一人も銃創を負うという事件が起きた。Greene家の現在の当主、Chester Greeneはどうやら何かに勘付いている様で、Markham検事に直接事件捜査を依頼しに来る。偶然、同席したVanceは事件に嘴を突っ込み捜査に加わるのだが、彼の悪い予感通り、事件は一筋縄ではいかず、Greene家の人々が次々と何者かに葬られていく。さて、Vanceは犯人を特定する事が出来るのか?と言う、お話である。

 まず、読み終わったおかげで、ネタバレ回避の為に読まずに放置していた乱歩の随筆「ヴァン・ダインを読む」も読む事が出来た。そこでの乱歩の感想が、振っている。

 併し、既読二冊にて申せば、読後の不満は犯人が余りに早く推察されることです。
 「カナリヤ事件」では第一日の現場描写の所で、既に作者の隠している意図が分り、犯人が推定されるし、(但し、作者の示した手係りにて当然分るのではなく、作者の書き方にて、作者の意中が推察出来るのです。これは一層いけないことだと存じます)「グリイン事件」でも最初から作者の考えが分ります。これは大衆的興味からは寧ろいいことかも知れませんが、全体が非大衆的なのだから、この点も非大衆的であり度いと存じます。犯人が目星がついている為に、冗漫な部分が余計冗漫にも見える訳です。
-「ヴァン・ダインを読む」(『悪人志願』 江戸川乱歩)

 乱歩先生の流石の推理はもうまるで2サスを見ながら犯人アテをする暇人の如く、論理と懸け離れた推理探偵小説愛好家視線による狡い推理である*1。これは推理探偵小説の構造的な問題で、こういう読者の裏をかくためにクリスティーなんかが色々と引っ掛け紛いのトリックを産み出して、一部の推理小説作家がもうちょっと理知的な推理小説を称揚したいとか何とか言っていた訳だが、まあ乱歩先生に掛かっては仕方が無い。そもそもヴァン・ダインのお話なんかは乱歩が好む雰囲気重視物語重視の推理探偵モノであってクイーンだとかオースティン・フリーマンとかみたいな所謂の本格推理物でも無いのだ。

 ヴァン・ダインの雰囲気重視の推理探偵物語の中心に鎮座ましますのは名探偵かつ自由人のPhilo Vanceである。そして、Philo Vanceのその外連味溢れる活躍は今回も健在で、色々と自由気儘にかっ飛ばしている。前回同様“Bye-the-bye”とか“Markham old dear”とか色々とふざけた調子なのだが、それに輪を掛けて強烈なのが、蘊蓄披露であって、例えばこんな調子である。

“(前略)It’s a mistaken idea, don’t y’ know, to imagine that a murderer looks like a murderer. No murderer ever does. The only people who really look like murderers are quite harmless. Do you recall the mild and handsome features of the Reverend Richeson of Cambridge? Yet he gave his inamorata cyanide of potassium. The fact that Major Armstrong was a meek and gentlemanly looking chap did not deter him from feeding arsenic to his wife. Professor Webster of Harvard was not a criminal type; but the dismembered spirit of Doctor Parkman doubtless regards him as a brutal slayer. Doctor Lamson, with his philanthropic eyes and his benevolent beard, was highly regarded as a humanitarian; but he administered aconitine rather cold-bloodedly to his crippled brother-in-law. Then there was Doctor Neil Cream, who might easily have been mistaken for the deacon of a fashionable church; and the soft-spoken and amiable Doctor Waite. . . . And the women! Edith Thompson admitted putting powdered glass in her husband’s gruel, though she looked like a pious Sunday-school teacher. Madeleine Smith certainly had a most respectable countenance. And Constance Kent was rather a beauty—a nice girl with an engaging air; yet she cut her little brother’s throat in a thoroughly brutal manner. Gabrielle Bompard and Marie Boyer were anything but typical of the donna delinquente; but the one strangled her lover with the cord of her dressing-gown, and the other killed her mother with a cheese-knife. And what of Madame Fenayrou——?”
“Enough!” protested Markham. “Your lecture on criminal physiognomy can go over a while.(後略)”

  犯罪者は見掛けに依らないと言う事を述べる為にざーーーっと一見善良に思えた過去の犯罪者達*2を列挙する訳なのだが、この面倒臭い野郎な感じが堪らない。合いの手のMarkham検事の「もう十分だ!」という叫びが見事なコントである。

 勿論Vanceの蘊蓄脱線はこれだけに留まらない。物語終盤にて、写真と絵画の相違に関する芸術論を延々とぶちかまし、偶然に頼った犯罪と綿密に計画された犯罪をそれらになぞらえるのである。小説中これを聞かされているMarkham検事はうんざりとしている。そして、これには流石の乱歩もやや食傷気味だった様で、随筆「ヴァン・ダインを読む」中でやや腐している。まあ、とは言っても、このわざと鼻に付く感じに仕上げている処がVanceの魅力を倍倍倍に増幅しているのであって、これ無しにはPhilo Vanceモノとして物足りなくなってしまう。現状Vance中毒中の私としては、読んでいておおVance節大爆発だな、とやんや喝采したものである。

 さて、この様な蘊蓄振りを読んでいると、はて、これもどこかで見た事が読んだ事があるぞ、と、記憶の彼方から蘇って来るモノがある。前回、VanceがPatrick Janeを思い起こすと書いたけれども、この部分はJaneでは無い、そう、小栗虫太郎が生み出した、かの名探偵・法水麟太郎と彼を活躍?を描いた『黒死館殺人事件』である。この小説の最大の特徴は法水麟太郎の留まる処を知らない蘊蓄披露である事は、読んだ事のある人であれば異論の無い処であろう。その大量の衒学的知識が左程事件解決に役に立っていないのが『黒死館殺人事件』のある意味本当に素晴らしい処で、一応、知識がそれなりに役に立っている様にも思える“The Greene Murder Case”とはやや違うのだけれども、この小説に於ける蘊蓄がどんどん肥大していって行き着く先に黒死館が待っているのだろう。

 この怒涛の蘊蓄披露で『黒死館殺人事件』を連想した訳であるが、こうやって連想してみると、そこかしこに共通のモチーフが存在する事に気付いた*3。例えば、Greene家の人々は先代Tobiasの遺産を手に入れるためには遺された洋館に住み続ける事が義務付けられているのだが、これをもっと厳しい条件に変更した物が黒死館に於ける4人の楽士の立場となる訳である。そして、両事件に於ける真犯人の特徴がほぼ合致している処などは似過ぎていると言っても言い過ぎではないだろう。更に、名探偵役が連続殺人の抑止にまるで役に立たなかった処などはある種窮極の喜劇的な類似である。最初に『黒死館殺人事件』を読んだ時にはこんな不思議な迷走物語をどのようにして思い付いたのかと不思議に感じたものであったが、この“The Greene Murder Case”という跳躍台が存在しており、この跳躍台を以ってして小栗虫太郎はあの様な摩訶不思議な迷作を生み出す事が出来たのだと納得した。

 この小説が紛れもなく影響を及ぼした超傑作探偵小説が他にもある。それはかのクイーン(ロス)の名作『Yの悲劇』である。勿論、クイーンはそのまま種を利用した訳では無く、巧みに美味しく料理し直している訳であるけれども、本作の影響無しにあのお話を考え付いたとはとても思えない。上の方で書いた通り、ヴァン・ダインはトリック自体に凝るタイプでは無いので、本小説のトリックもそれ自体はそこまで良く出来たものではないし、乱歩もその既存のモノの組み合わせ感をやや批判しているが、『Yの悲劇』にも使われたこの設定はその批判を上手く躱す要素になっていると思う。やはりヴァン・ダインはプロットがずば抜けて巧い。

 ヴァン・ダインによるPhilo Vanceシリーズの3作目この“The Greene Murder Case”はVance節全快の素晴らしい傑作であった。プロットは勿論、屋敷の雰囲気作りも巧いし、脇役の個性も中々光っている。こうなってくると否応無しに次作『僧正殺人事件』への期待が高まってくる。今回この小説は下に示したkindleのVan Dine全集で読んだ。少なくともこの全集は図入りである。繰り返しになるが、図入りの物を探した方がお話をより楽しむ事が出来ると思う。

*1:因みに私もかつて横溝正史の『八つ墓村』の映画版を見ている時に最も有り得なさそうな人が犯人だろうと考えて予想した処、勘が当たった事がある。この手の推理はあんまり意味の無い犯人当てであるとは思うけれども、しばしば推理小説の犯人当てには上手く行ってしまう。

*2:これらの犯罪者達は調べた限り全て実在の犯罪者である。ヴァン・ダインの面倒臭い野郎感も伝わって来るのだが、それも又堪らなく良い。更にGreene家の開かずの間の図書室に於いて確認された犯罪学書のリストも小説内の注釈で列挙されている。はっきり言って相当語学力がないと、タイトルを追う事すら難しい。こちらも恐らく実在の書籍群であろう。ヴァン・ダインの知識披露欲ここに極まれりである。

*3:これを書いた後にwikiを閲覧してみたのだが、それによると『黒死館殺人事件』でこの“The Greene Murder Case”のネタバレがされているらしい。2回程読んだ筈なのだが、全く記憶に残っていなかった。記憶力が貧弱な事は推理探偵小説愛好家に取っては得な事が多いかもしれない。