(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『幽霊塔』 黒岩涙香 / 江戸川乱歩

 涙香が描き、乱歩が愛した怪美人と幽霊塔 

 一時期、江戸川乱歩は小酒井不木や甲賀三郎と共に涙香的な筋や描写を持った娯楽探偵小説への復古を称揚していた。そして、その黒岩涙香への敬愛の念の現れか、涙香小史の翻案輸入物の内、推理探偵風味の強い『白髪鬼』と『幽霊塔』を乱歩はリメイクしているのである。勿論、翻案元がある訳で、『白髪鬼』の場合はMarie Corelliの“Vendetta!”であり、『幽霊塔』はAlice Muriel Williamson (Mrs. C. N. Williamson)の“A Woman in Grey”(1898年)である*1。どうも、『幽霊塔』に関しては、黒岩涙香が出典を示す際に敢えて誤魔化したようで、その理由に関しては商売敵に先に筋をバラされないようにだとか、当時持ち上がって来ていた、外国文献の翻訳に関する諸権利の問題を逃れるためだとか、その辺りは判然としないけれども、その元ネタを“The Phantom Tower”としていた。その所為で、乱歩は原作を探し当てることが出来ず、『幽霊塔』に関しては、涙香版から翻案したとの事である。それが理由か、かなりの部分において涙香版と乱歩版とでは明瞭な差がない*2。そんなもの普通は差が出ないので当たり前だと思われる方も居られるかも知れないが、江戸川乱歩の翻案もの、例えば『緑衣の鬼』だとか『三角館の恐怖』などはかなりの変更が加えられていて、本当に乱歩の作品の様に仕上がっているのである。それらから比べると、これはほぼ完全に涙香版を踏襲している内容であり、個人的には読んでいてややがっかりしたし、全体の出来は涙香版の方に軍配が上がると思う。涙香の描写は冒険心探険心を巧みに煽るものであって、ああこれこそが江戸川乱歩の通俗探偵物や南洋一郎のルパン翻案物の原点なのだなと得心した。

 さて、この『幽霊塔』のお話は、涙香版ではロンドン郊外に、乱歩版では長崎郊外に、主人公の叔父が曰く付きの古びた屋敷を手に入れた処から始まる。その屋敷に纏わる曰く話というものはこうである。かつて、この屋敷の主であった大金持ちは屋敷の中に隠し迷路を作り財宝を隠したのではあるが、その迷路が余りに精巧に出来ていたが為に本人もそこから抜け出せず、闇に彷徨い飢死したというのである。更に、その塔の直近の持ち主は、その養女に殺害されており、その殺害犯である養女は既に獄死している。この様な状況の下、主人公は叔父のためにこの曰く付き屋敷の検分に赴く訳であるが、そこで屋敷の謎を知る怪美人と知遇する事になった。ここからその怪美人の正体とお宝とを探り、そしてそのお宝を狙う悪党達と戦うという怪奇冒険小説が展開されていくのである。

 涙香版ではイギリスが舞台で屋敷はロンドンの郊外という設定なのに登場人物の名前は総て日本人名になっているという不思議な状態になっているのが何とも面白い。乱歩は流石にこれは不自然だと思った様で、ロンドンを長崎に、パリを東京に、そしてアメリカを香港に変更してそれ程不自然ではないようにしている。しかし、この現代に読み直すと、涙香版の不思議な違和感が逆に読者への刺激になって却って面白いのではないかとも思う。ある種の異化作用と言っても良いかもしれない。

 さて、この小説の謎の中心に居るのは何と言っても準主人公である怪美人の松谷秀子(涙香版)である。この怪美人は、この小説が描かれた時代にしては珍しい毅然とした気丈な独立した女性として描かれており*3、これにはオリジナル版であった“A Woman in Grey”の著者が女性であったという事もあるのだろうが、段々と強い女性像と云うものがこの19世紀末の社会に於いて受け入れられ出して来たと云うのもあるかもしれない。弱音も吐かず、美貌に群がる男性達にも簡単には靡かず、そして謎の密旨に使命を捧げるという処に新鮮な女性ヒーロー像を発見するのである。

密旨を捨てて安楽を得るよりも、密旨の為に殺されるのが初めからの願いです、最う此の密旨も様々の所から思わぬ邪魔ばかり出て遂に果し得ずに終るだろうと此の頃は覚悟を極めて居ますから、何と威されても恐ろしくは有りません、密旨に忠義を立て通して密旨と共に情死をする許りです
-『幽霊塔』 黒岩涙香

 この様に謎の密旨に忠義立てする怪美人は、それに加える仕掛けとして、常に怪異な手袋もしている。気丈な性格、謎の密旨、そして謎の手袋と、非常に魅力的な設定で、『幽霊塔』においては、この怪美人が事実上の主役と言っても良いかもしれない。

 それに加えて、塔における迷路内の宝探しもいいし、虎との対決や蜘蛛屋敷での奮闘等冒険譚にも事欠かない、更に、ポール・レペル先生*4による人間改造の秘儀なんかは正に怪奇譚の骨頂といった感じで、乱歩を含む当時の少年達が熱狂したのが良く分かる。因みに、この博士の秘儀に関しては乱歩版の描写が一番雰囲気が出ていると思う。乱歩の思い入れが炸裂した乱歩節全開の描写となっていて主人公の動悸が伝わって来る様で堪らない。さて涙香版に乱歩が感激し、後に乱歩版を出した訳であるが、かの宮崎駿がこの乱歩版をいたく愛読していたそうで、人気作であるルパン三世の『カリオストロの城』は乱歩版の『幽霊塔』からかなりのインスピレーションを受けたらしい。もう『カリオストロの城』の内容なんかはすっかりと忘れてしまっているのであるが、こういうエピソードを聞くと又その内見直してみないといかんな、と思ってしまう。

 この宮崎駿のエピソード自体はそれだけで聞くとまあ眉唾っぽい感じもしないではないのだけれども、乱歩の『幽霊塔』にちなんだ展示をジブリの美術館でやったのみならず、宮崎駿がイラストを担当した乱歩版『幽霊塔』まで発刊されたので、どうやら事実の様だ。ただ、このイラスト中、怪美人である野末秋子(乱歩版での名前)が笑う場面で「クスクス」となっているらしいのだが、これは個人的にはちょっと頂けないなと感じでしまう。やはり、この『幽霊塔』の怪美人は「ホホホ」だとか「オホホホ」といった感じで振る舞って欲しいのである。宮崎アニメに良く出て来るちょっと気の強いカワイイ女性というのよりも、毅然とした芯の強い謎の女性という方が、お話の雰囲気に合致していると私は思う。

 さて、この『幽霊塔』、涙香版はkindle版を手に入れるのであれば、現状青空文庫のものしか選択が無い様に見える。乱歩版はかなり選択肢が多くて悩み処かもしれない。光文社からのものは全集なので全小説を集めるという目的には一番合理的かもしれないが、挿絵は無い。オリジナルの挿絵が好みであれば東京創元社から出ているものになるだろう。そして宮崎駿のイラストや絵コンテを希望する場合には岩波書店から出ているものを選ぶ事になるのだが、これはkindle版は存在しない様だ。

幽霊塔

幽霊塔

 
幽霊塔

幽霊塔

 
幽霊塔

幽霊塔

 

*1:涙香の『幽霊塔』は1899年なので原著が出た途端翻案している事になる。そのアンテナの敏感さに驚かざるを得ない。因みに、乱歩版は1937年に出版されている。

*2:乱歩は装飾的なエピソードは削って話をやや縮約し、その分、乱歩が気に入っていたと思われる場面の描写に力を入れている。

*3:『シャーロック・ホームズの冒険』に登場するアイリーン・アドラーが推理探偵物に於ける強い女性の登場としては最初期のものかもしれない。

*4:涙香版の登場人物なのであるが、何故かこの人物だけは和名に直していない。考えるのが面倒になったのか、それとも英国から見れば仏国は外国なので、片仮名でも構わないと思ったのか、その辺りは良く分からない。

『舞姫』 森鴎外

 近代的自我なる聖杯を求めて 

 先だって二葉亭四迷の『浮雲』を読み、日本文学の黎明期の苦心と工夫とその発展とを目の当たりにした訳であるが、最近読んでいる渡辺直巳の『日本小説技術史』に於いて、『浮雲』の次に森鴎外の『舞姫』が紹介されていた。当然『舞姫』なんぞは中学生位の頃には国語の授業に於いて副読本で以って読まされている訳であり、また、森鴎外は何度か読み直そうとしたので、『舞姫』も中学以降も何度か読み返している。只、余りじっくりと読んだ記憶はなかったので、せっかくだから『日本小説技術史』の中の解説を読む前に、この際、久し振りに丁寧に読んでみることにした。

 以前に『舞姫』を読んだ時には、不器用な学者肌の男が幾つかの不運な歯車の狂いの重なり故に愛する女性を見捨てて、ドイツから日本に帰って来るというお話で、ある意味人生の奇遇を描いているのだな、という印象を抱いていた。まあ何の事は無いというと変な話だが、物語らしい起伏のある話だな位にしか思わなかった。

 この『舞姫』短編であるし、美文でもあるし、様々な起伏も存在するしで、高校の教材にも使われたりもしていて、多数の解釈が存在していて面白い。

 例えば、少し昔にtwitterで見かけた意見なのだが、「この主人公の行動は女性に対して人非人であり、非常にけしからん」、と言うモノがあった。これは当然非常に首肯できる感覚であって、更に、何故この様な行動が許容されたのか、等を考えるとそれなりに深い解釈が出来そうである。また、当時のドイツは日本よりも先進国と看做されていた訳であって、その国の女性を日本人が蹂躙したという出来事をポストコロニアル的に捉える事も不可能ではなさそうだ。一番多く受け入れられている解釈は、ドイツに滞在中の主人公は「近代的自我」とやらに覚醒し、封建的価値観から解放されたかに見えるが、最後にはやはり封建的価値観に捉えられ挫折を味わうという解釈の様である。これも中々良く出来た解釈だと思うのだが、私はまた少し違った解釈を提示してみたいと思う。

 まず、そもそも主人公の行動様式に関して、主人公自身が記している処を紹介したい。

余は幼き比より厳しき庭の訓を受けし甲斐に、父をば早く喪ひつれど、学問の荒み衰ふることなく、

皆な自ら欺き、人をさへ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、唯だ一条にたどりしのみ。

棄て難きはエリスが愛。わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、姑く友の言に従ひて、この情縁を断たんと約しき。

恥かしきはわが鈍き心なり。余は我身一つの進退につきても、また我身に係らぬ他人の事につきても、決断ありと自ら心に誇りしが、此決断は順境にのみありて、逆境にはあらず。我と人との関係を照さんとするときは、頼みし胸中の鏡は曇りたり。

以上から覗えるのは、主人公は基本的に「外部に依ってその行動を規定されてきた」という事である。別な表現を行えば、主体的な自己決定を行わないとも言える。恋人となるエリスとの交渉に関してもそれは同じである。

その見上げたる目には、人に否とはいわせぬ媚態あり。この目の動きは知りてするにや、又自らは知らぬにや。 

兎角思案する程に、心の誠を顕はして、助の綱をわれに投げ掛けしはエリスなりき。かれはいかに母を説き動かしけん、余は彼等親子の家に寄寓することとなり、エリスと余とはいつよりとはなしに、有るか無きかの収入を合せて、憂きがなかにも楽しき月日を送りぬ。

この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日毎に書を寄せしかばえ忘れざりき

 この様に主人公の述べる処は、常にエリスによって関係は進捗していったのであって、主人公が積極的に推し進めたものでは無いという事である。

 更に、主人公に取って価値が在ったのは何なのか、自らの価値を如何に評価していたか、を文中から拾ってみると、常に成績が一番であったとか、同胞の日本人よりもドイツ語の理解が良いとか、他の誰よりもフランス語を巧く使えたとかであって、これらは総て他との比較に依って規定されるものである。その能力を使って何をしたのかではない処からも、主人公の価値観が自己の内部に存在するのでは無く外部との相対的な関係に依って規定されていた事が分かる。

 上述した一般に広く受け入れられているドイツ滞在時に「近代的自我」に目覚めたと云う解釈に対する反駁も行ってみよう。免職になってからの主人公の行動は大学にも行かずにカフェで新聞を読み通信社の社員として糊口凌ぐと同時に、エリスとの生活を楽しんでいた訳である。真にドイツ文化を学んだのであれば、ドイツ人との交流があって然るべきであるが、エリス以外との交流はまるで描かれていない。この生活自体は一時の享楽としては申し分なかったであろうし、この様な生活自体は近代化以前の日本にも十分見受けられた行動であって、数年この行動を続ける事が「自我=主体性」の成熟に繋がるとはとても思えない。ここにどうやって近代的自我とやら見出す事が出来るのだろうか?

 纏めると、主人公は結局の処、能力は高いのではあるが、空虚な人間であり、自己の必然たる自我(=主体性)を内部に十分に持ち合わせてはいない人間であると言える。総ての選択の責任を他人や外部に付託し、為すが儘に流されて、時には不遇をかこち、時には享楽に耽る。手記の最後には、友人をも恨むという形で徹底的に自己責任からの逃避を行っている訳である。そうして、総ての責任を自分から引き剥がす事により現在の自らの在り方を幾分か正当化しようと試みているかの様にも見える*1

 つまり、『舞姫』は「西洋的な意味での自我」というものが存在しない行動様式が描かれたものであって、「近代的自我」とやらは描写されていない、と主張したい*2。私が、ここで強調したいのは、自己の意思を中心に据えての行動はせず、外部に行動や価値を規定されるという在り方は、自己の主体としての自我が薄弱な前近代的在り方であり、現代の我々は、それを観察する事に依って、近代市民社会に誕生した自我と云うものを朧げに掴めるのではないか?という事でもある。

 しかし、ここでもう一つ問題が浮かび上がってくる。所謂、日本文学的な意味での「近代的自我」とは何なのかと?それは確かに存在するものだったのか?西洋への憧れの中に見出した単なる聖杯に過ぎなかったのではないか? 実際の処、調べてみた限り、明治期の文筆家で「近代的自我」を主張した人は見当たらない。どうやら太平洋戦争後に新たな精神的近代化への必要を求めて生まれた文学用語の様である。日本は明治時代に近代化に成功したとは謂え封建的価値観は強く残っていた様だし、太平洋戦争敗戦までの10年間程は全体主義国家になってしまっていた訳であって、明治の文学に「近代的自我」を見付けるという事は、全体主義からの個人尊重への流れを支える思想的潮流でも在ったのだろう。

 ここら辺りの必然性は分からなくもないのではあるが、文学的な文脈で「近代的自我」と言われるとどうにも何か広い範囲のものを無理矢理一つに纏めてしまったような感じがしてどうにもピンと来ない。そもそも、朧げに感じられる自己意識とやらが、自分自身という境界の曖昧なものの最高決定機関なのか?最高決定機関足り得るのか?自我というものが自己を支配する必然的な根拠はそこまで強固なものなのか?などと、考え出すと、自我とか言うあやふやなものをそんなに大切にしていいのかしらん?と思ってしまう。勿論、封建的価値判断に身を委ねたり、外部評価に行動を規定されるよりは、自己を頼りにした方が良いように思えるのは確かではあるのだが。

 文学用語としての「近代的自我」を持ち出した荒正人と同人であった埴谷雄高が『死霊』に以下の様に記している。

それは一般的にいって愚かしいことに違いなかったが、《俺は──》と呟きはじめた彼は、《──俺である》と呟きつづけることがどうしても出来なかったのである。敢えてそう呟くことは名状しがたい不快なのであった。誰からも離れた孤独のなかで、胸の裡にそう呟くことは何ら困難なことではない──そういくら自分に思いきかせても、敢えて呟きつづけることは彼に不可能であった。主辞と賓辞の間に跨ぎ越せぬほどの怖ろしい不快の深淵が亀裂を拡げていて、その不快の感覚は少年期に彼を襲ってきた異常な気配への怯えに似ていた。
-『死霊』 埴谷雄高

私はこの文章に非常な共感を抱くし、この文章に示されるような懊悩の狭間に囚われるのが当然ではなかろうかと考える。デカルトの信頼した、「思考している私」と云う意味での自己意識・自我は確かに存在しているのだろう。だけれどもその自我は私という存在の内どれくらいの部分を占めて居るのだろうか?、また自我は私の存在の内に完全に内包されているのだろか?それとも重なり合わない部分も存在しうるのだろうか? 日本の知識人の一部がその中に自我の存在を夢見た欧米人といえども、この辺りの思惟に関してはまだ追求を続けているのではないかと思う。

 そもそも、完全に外界から独立した自我と云うものも冷静に考えればなかなか想像するのは難しい。「自己=主体」を中心にした規範と外部からの規定との間のどこかに存在するのが自我ではないかとは思う。まあ『舞姫』で「近代的自我」を持ち出すお話が昔から多いので、それはちょっと違うのでは無いか?との思いから、だらだらと自我云々を捏ね繰り回してしまったのだけれども、又その内きちんと考えてみようとは思っている。

  処で、実際問題として個人単位の生活で言えば、どんな価値観・行動原理を保有していようが余程極端なものでない限り、日々の生活には大して差は無いだろうとは思う。ただし、社会共同体の一員として考えた場合には、やはり、個々人の自我を認め、個々人の内部から生まれる行動原理を尊重しておいた方が、総体としての社会が人々にとって望ましい物へと変化していく可能性が高くなるのではないかとは、漠然と考えている。私の個人的イデオロギーとしては、懐疑的な部分がかなり存在する事を留保しつつも、近代に於ける自由意志の尊重と自己意識への信頼は称揚したいとは思っているが、窮極の処、個人の在り方は人それぞれであろう。

舞姫

舞姫

 

*1:ここに関しては主体性の芽生えを感じなくも無い。

*2:鴎外自身は随筆『妄想』に於いて、欧米人が有難がる自我と云うものが良く分からない、という趣旨の事を記している。勿論、鴎外は自己意識と言う意味での自我と云うものは理解していただろうが、外部から構築される価値観から完全に離れた、「自己=主体」を至上の物とする思考には余り共感を感じなかった様に見える。

『日本ミステリー小説史 黒岩涙香から松本清張へ』 堀啓子

 お手軽な日本推理小説小史

 どんなものでも、その歴史を調べるのは面白い。そして当然小説群にもその歴史的経緯が存在する。例えば、ポーの『モルグ街の殺人』、この小説が現代の推理小説界にポンと跳び出てきたとして、必読の書と看做されるようになるかという点については疑問符が付く様に思うのだが、世界最初の探偵小説と思うと有難味が一気に増してくる。また江戸川乱歩の探偵小説群に於いては西洋の探偵小説から拝借したトリックが散見されるが、これまた江戸川乱歩を先に読んでから、西洋の古い探偵小説を読むと、乱歩の方が巧く使っているなと魅力がやや減じて感ずる部分もあれば、ああこれが元の種だったのかとトリックの輝きが2割増しに感じる事もある。小説群は歴史的関連性をもって順行性にその影響を及ぼしているので、歴史的経緯を知る事はしばしば、古い小説の魅力を増幅させる事に繋がるし*1、また同時に、先行する小説からの影響を後の小説に確認する事も、しばしば、その小説の味わいを深める事に繋がる。

 と云う様な訳で、ふと日本の推理探偵小説のざっとした歴史を知りたいと思い、どんな書籍が存在するかを調べたところ、中島河太郎著『日本推理小説史1-3巻』、伊藤秀雄著『明治の探偵小説』、『大正の探偵小説』、『昭和の探偵小説』、郷原宏著『物語日本推理小説史』等が見つかったのだが、残念ながらどれもkindle版は存在しなかった。そんなもの紙媒体で購入すれは良いではないかと言われるかもしれないが、私は書籍を一度購入すると捨てられない売れない性質なので、現在の個人的な事情からなるべく電子書籍で購入したいのである。そこで、Amazonで適当に検索を掛けてみた処、この『日本ミステリー小説史』に行き当たった。中公新書なのでまあ当たり外れはあるだろうが、大して高価でもないし、Amazonの批評はやや厳しめだが、そこはこの手の推理探偵小説を好む人々は手厳しいので割り引いて考えて、えいやと購入して一読してみたのである。

 タイトルには「黒岩涙香から松本清張へ」と云う副題が付けられているが、本書が詳しく述べている推理小説史は主に江戸川乱歩達の活躍した大正期の前までだと言って良いだろう。そもそも、本書の記述が江戸川乱歩に辿り着いた時点で、既に内容の7割に達しているのである。勿論、推理小説通史の様な物を最初から近代まで通底して書き上げる事が可能であれば、それに越した事は無いのであるが、本書は新書であるし、ページ上限の都合上、何処かに重点を置かざる得なかったのだろう。そして本書において重点が置かれているのは主に推理探偵小説勃興の少し前から、明治期に掛けてだと思う。

 最初に焦点を当てているのは、江戸時代に読まれていた『大岡政談』そして井原西鶴作とされる『本朝桜陰比事』の裁判説話ものである。この様な裁判説話物が何故推理探偵小説の先祖になるのか、と、不思議に思ったのだが、まあ言われてみれば確かに、裁判というものは罪咎の詳細を改める訳であって、ある種の探偵的行為と言えなくもない。さらに『鎌倉比事』が紹介されている。ここでは青砥藤綱という人物の活躍が描かれており、これもまた確かに大岡越前と並んである種探偵的傑物というものの先駆けになるのかもしれない。これらの江戸時代に編まれた「比事=裁判物」は中国の古典や日本の古典などからその元の骨子を借用している事も多い様で、それこそ、殺人の謎などは古来よりあるものなのだから遡りだせばキリがないのだろう。

 どうも江戸川乱歩もこの手の裁判物等を探偵小説の類縁と見做していた様で『悪人志願』中にこれらに関して触れている。

東洋で云えば、日本の大岡政談風のも、元祖が西鶴の桜陰比事で、その又元祖が支那の棠陰比事、詐欺の話では、支那の杜騙新書、騙術奇談、日本では昼夜用心記、世間用心記、随分古くから探偵小説らしいものがあった。
-探偵趣味(『悪人志願』 江戸川乱歩)

 黒岩涙香に関する記述以降は、須藤南翠、そして著者の専門分野である硯友社と尾崎紅葉達の探偵小説への関わりが記されている。恐らく、この新書で一番の読み処はこの硯友社関係が行った春陽堂の『探偵小説』シリーズに関わる仕事と、泉鏡花の初期の探偵小説もどき、尾崎紅葉の推理小説風味の一連の仕事、そして同じく春陽堂の『鉄道小説』に関する部分だろう。この辺りを読むと当時文壇で名を馳せていた硯友社の面々が探偵小説にも軽蔑を持ちつつも興味を持って関わっていた事が分かる。この辺りが、著者の愛を最も感じる部分であって、下手に推理探偵小説通史に纏めるよりも、この部分に全てを注いだ方が、書籍としてはもっと面白い物になったかもしれない。

 江戸川乱歩以降の記載はまあ誰が書いても大して変わらないだろう。Amazonの評を見ると誰が抜けているとか、誰への言及がないとか、翻訳物への言及が足りないとか指摘されていて、それは確かにそうなのだが、全てを一冊の新書に求めるのは無理難題である。

 ざっと読んだ感じでは淡白な部分が多いとは感じたが、推理小説小史をさっと学ぶのには手頃な書籍だと感じた。ただ余りに淡白なので、この本で得られる知識位ならネットで適当に検索するだけでも事足りるかもしれない。ちなみにこの書籍は科研費基盤Cによる研究の成果物の一つのようだ。それなりの研究者であれば、科研費を獲得していて何の不思議も無いし、それで以って書籍の刊行に至るとは立派な話である。しかしそれにしても公費で文献を研究して新書刊行とは...... 羨ましい話である。

日本ミステリー小説史 黒岩涙香から松本清張へ (中公新書)

日本ミステリー小説史 黒岩涙香から松本清張へ (中公新書)

 

*1:オリジナルの方を有難がってしまうと云う私個人の性質にも依るのかもしれない。勿論、人に依っては、歴史的経緯なんぞに注意を払う意味はなく、独立した小説として味わうべきという立場もあるだろうけど。