(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『浮雲』 二葉亭四迷

 二葉亭四迷による日本文学表現への挑戦

 少し前に『真景累ヶ淵』を読んだ処、どうやら『怪談 牡丹燈籠』の方の様であるが、三遊亭圓朝のお噺の口述筆記本が二葉亭四迷の言文一致活動に影響を与えた事を知り、先行する文学を巧く参考にして書かれている小説も多い事だし、日本の文学の歴史的発展なぞも知れば面白いに違いないという観点からも『浮雲』(1887-1890年)読んでみた。

 この『浮雲』現在では言文一致体小説の嚆矢と見做されていると思う。言文一致とは字の如く、話し言葉で文章を書くというものであって現在の文章は特殊な効果を狙った場合を除いてはまず言文一致体で書かれている。しかし明治のこの時期には書き言葉は書き言葉として明確に存在していた訳であって、書き言葉を記すのに特別な労苦を要さない二葉亭四迷が何故言文一致体を選択したかと疑問に思う人も多いだろう。二葉亭の『余が言文一致の由来』に依れば、文章が書けないから、簡単に書く方便として圓朝の速記本に倣って言文一致で書き記したと述べているが、同時に、それだけが理由ではなくて、旧来の国文作法や漢文作法に囚われない新たな文章を、実際に日本の社会で使われている言葉で以って書き表そうという意気込みもあった事を明らかにしている。

 『浮雲』は言文一致体で書かれたという事で殊更に有名であるのだが、それだけに留まらず、野心に満ちた様々な文学的挑戦が行われている。そもそも『浮雲』当時に於ける大きな特徴の一つとして、まず題材に他愛も無いそこいらにいる人々の交渉を扱っているいう点が挙げられる。例えば『南総里見八犬伝』の様な忠義烈士が奮闘する華やかな物語では無いし、『真景累ヶ淵』の様に奇縁で話が進んでいく訳でもない。平凡な人々の心理的描写に重点を置いているのである。現代でこそ、いや、『浮雲』から10年もすれば、別にこの様な他愛も無い人々の心理的交渉を小説の題材にするという事は何の不自然でも無くなっていた訳であるが、当時の日本の物語作法としてはこれは非常に珍しい事であったらしい。二葉亭四迷としてはロシアの自然主義文学からインスピレーションを得て今までの日本には無かった新しい文学を打ち立てようと心血を注いでこの『浮雲』に取り組んだようだ。

 『浮雲』では、まず不自然な奇縁や偶然と云う類のものを極力排している。例えば、これは渡辺直巳からの受け売りなのだが、話の展開をスムーズにするために偶然誰々が何々しているのを見付けてしまっただとか、誰かと誰かが重要な事を話し合っているのを立ち聞きしてしまった、等という古典的日本の娯楽物語にあるような要素が殆ど出てこない。特に立ち聞きや盗み聞きと云う道具は日本の小説だけでなく、様々な小説で都合良く使われる便利な道具なのだが、二葉亭はそれを完全に排除している。単に小説中に立ち聞き場面が出てこないだけなく、小説内で登場人物が、盗み聞きを牽制する場面すら出てくるのである。日本家屋は密閉性が低く*1、そもそも会話が漏れ聞こえやすい。実際、この『浮雲』執筆時には二葉亭の近隣に住む有名な女学生の会話等が漏れ聞こえるのを路上で立ち聞きして、小説の登場人物にしたという位である*2。にも拘らず、四迷はストイックにも、この便利な道具を使わず、不自然な造形では無く、自然の中に現れる様な心理の綾を文章で掴まえようとしたのである。

 また、物語の語り方、語り手の設定も日本の先行する戯作調文学とは随分と異なり、当時二葉亭四迷が親しんでいたロシア文学のそれに近いようだ。『浮雲』は三編に分かれており、少しずつ時期を空けて発表された。最初に世に出た第一編は坪内逍遥の名の下に連載され、かつ二葉亭の文章に、少なからず逍遥の手が入ったようだ。その為であろう、第二編三編に比べると、かなり語り手役の存在が意識される記述になっている。また多彩な美辞麗句で以って文章に相当な装飾が施されており、現代いや大正辺りの小説と比べてもやや古めかしい感を受ける。この語り手役が物語を進めて行くのだが、段々とその影は薄くなり、やがて第二編に入る頃には、現代の小説などでも良く見受けられる、所謂「神の視点」からの描写を地に、主人公に焦点が当てられその心理的動向が記述される様になる。第三編に入ると、その「神の視点」からの描写は、より主人公の主観に寄り添うようになり、主人公の内心の暴露はより濃厚な密度で描写されるようになる。これは最早ある種の一人称視点で書かれた小説とほぼ同一と言えるかも知れない。

 二葉亭四迷は『浮雲』以前に『小説総論』に於いて、意味を表象する為には形を巧く模写せねばならないという趣旨の事を記していた。その意味に於いては第二編こそが二葉亭の考える小説に於ける心情描写の在り方を最も良く体現していると思われる。この第二編に於いては心理描写に関しては主人公の心理のみの限定されており、これによって人形劇的な平板な記載から逃れる事に成功している。また、心情を描写すると言っても、私小説や独白的なものと異なりこの第二編では主人公の感情描写にそれ程までには立ち入っていかなず、丁度いい塩梅で巧く主人公の内心を描いている。勿論、二葉亭四迷の優れた文章表現がそれを可能にしている部分が大きいのであるが。

 この様に当時としては最先端の工夫を凝らして書かれた小説であるが、では、実際にその中で何を描いていたかと言うと、教養と俗世、金銭と愛情の様な後に良く小説の俎上に載るものを描いていた。これらの変遷を客観的視点と主人公の内心からの視点との両側面から描き、その認識のずれを読者に感じ取らせる事で感情の綾を巧みに表出している。技術と工夫によって構築された新時代の小説であるし、描写の妙からお話自体は楽しめるのだけれども、個人的にはやはり、扱われた題材がやや平凡過ぎたきらいがあると思う。

 実は最初にこの『浮雲』を読み進めている間、これは尾崎紅葉の『多情多恨』とそれ程変わらないのではないか?と感じた。二葉亭四迷は尾崎紅葉の硯友社の文学を下に見ていた訳であるが、『浮雲』から6年で『多情多恨』はこの世に現れ、しかもそれが描く心の綾の繊細さ緻密さは『浮雲』を凌いでいる。そしてそこで表出された曖昧で緩やかに変化する微細な感情は、一言では断ぜられないものであって、文章で小説で初めて表出出来るようなものであった。6年の内に紅葉は四迷の小説を捕まえそして追い抜いて行ったのだとも言える。これを更に推し進めて行くと芥川龍之介が『或日の大石内蔵助』で達成したような、心で感ずれども言葉に纏める事が困難な感情を具現化する事になるのではないか?そしてそれこそが、二葉亭四迷が理想とした小説描写だったのではないだろうかと考えてしまう。惜しむらくは四迷の挫折である。

 内田魯庵によれば、『浮雲』も後に発表された『平凡』も所詮は失敗に終わった小説との事である。二葉亭四迷はその道半ばにして文学的挑戦を放擲してしまった。内田魯庵は「結局二葉亭は日本には余り早く生まれ過ぎた。」*3とも述べている。

 宮本百合子も似た様な事を記しているし、さらに二葉亭の挫折に無念を表している。

彼の悲劇は、あれだけ日本のために文学をもって働きかける力をもっていたのに、周囲のおくれていたことに本質的には敗けて文学の理想は大きく高く懐きながら、その道から逸れて行った心理のうちにある。
-『生活者としての成長』 宮本百合子

 二葉亭四迷は一所に落ち着かない様に生まれ付いた性格だったらしいので、いずれにしても文学界に安住する事は無かっただろうけれども、『浮雲』でその非凡な才を明らかに示した以上、その先にも文学への挑戦を突き詰めて突き詰めて更に新しい何かを生み出す事が可能だったのではないか、と云うのは往時を知る人々の共通の思いだったのかもしれない。

浮雲

浮雲

 

*1:この意味で横溝正史が『本陣殺人事件』において日本家屋での密室状態の殺人事件を巧く構築したのはエポックメイキングな出来事であった。

*2:内田魯庵の『二葉亭四迷の一生』を参照されたし。

*3:この辺りは内田魯庵の『二葉亭追録』に依る。

“The Leavenworth Case” Anna Katharine Green (『リーヴェンワース事件(隠居殺し)』 アンナ・K・グリーン )

 東西ミステリーベスト100と並行して江戸川乱歩の選んだ古典ベストテンを最近読んでいる。そのリストの中に挙げられている小説の内、ドイルの『バスカヴィル家の犬』以外の他の小説は今となっては知名度的にそれ程有名では無くなってしまっている物が多い。例えば少し前に読んだ『月長石』であるが、日本語訳のものは残念ながらkindle版は存在せず、創元推理から出ている邦訳版もそれ程には流通していないようである。他にもガボリオーやボアゴベイも挙げられているのだが、この辺りの邦訳版は少し見渡した限りではkindle版では手に入りそうはないし、原著はフランス語なので手が出ない。読めそうなものを探していると、グリーンの“The Leavenworth Case” が英語の原著なら手に入る事に気付き読んでみた。

  本小説『リーヴェンワース事件』が世に出たのは1878年、以前紹介した『月長石』から10年程経ってから書かれた事になる。この『リーヴェンワース事件』も『月長石』同じく古典的探偵小説の傑作に数えられている訳だが、同じ古典的探偵小説と云っても、その趣は随分と異なる。

 荒筋をざっと紹介すると、主人公である青年弁護士の下へLeavenworth老人の秘書が訪れ老人が拳銃で殺害された事を知らせる。Leavenworth邸に向かった主人公は、顔見知りのGryce刑事から、事件時の状況から犯人は邸内に居た人間である可能性が高い事を知らされる。その邸内には数人の使用人の他に、被害者の姪であり、美人で知られた二人のLeavenworth嬢が暮らしていた。さて犯人は誰なのか?

 まずその探偵小説としての構成のされ方が非常に近代的であり、現在我々が推理探偵小説を読む際にそれらに予め期待するものをこの時点で既に打ち立てる事に成功している。この小説を読み出して、直ぐ気が付いたのはそのテンポの良さである。本小説の舞台はニューヨークであり、登場人物達は既に近代化された人々であり、『月長石』のヴィクトリア朝懐古的な空気感とはそもそもからして全く異なる。物語が始まって直ぐにLeavenworth老人の他殺が告げられ、そして、殺人現場と思われる場所ですぐさま司法による調査が行われる。この構成は多くの近代的推理探偵小説の構成と非常に近いものがある。さあ、事件が起きた、謎を解いていこう!と云う訳である。主人公である青年弁護士Raymondは、今でいう処のワトソンになるのだろう、予断で以って謎の解決に向けて精力的に奮闘し、その予断が読者にある種の暗示を掛けていく訳であるが、物語が進むにつれて、事件の真相は主人公が想像した物からはどんどんと離れていく。探偵役のGryce刑事は論理的に眼前にある証拠を吟味しつつ捜査を進めて行く。捜査の途上幾つかの可能性が想定されうる訳であるが、このGryce刑事はホームズやデュパンの様な演繹的推理は行わない。彼はあくまでも可能性は可能性として保持しておき、新たな証拠の出現と共にその推理を更新して行くのである。これは天才的探偵ではない正に努力型探偵の一類型であり、近代に於ける推理過程に余り重点を置かない現実的探偵小説の原型と言えるかも知れない。

  上述した点は、現在では既に一般的な特徴であって、その構成の嚆矢であるという意味で素晴らしいのだが、それ以外にもこの小説に特徴的な仕掛けが一つある。主人公達が疑いの目を向ける人物達の内、被害者Leavenworth老人の姪である二人のLeavenworth嬢が登場するのであるが、この二人は、対照的な部分もあれば非常に似通った部分もある絶世の美人として描かれている。そして、その文章中しばしば、「Leavenworth嬢」と言う呼称で登場し、もう一人は「彼女の従妹」と表記される。この二人はお互いに従妹なので「Leavenworth嬢」と「彼女の従妹」は鏡像構造にあり、読者は時には二人の「Leavenworth嬢」が錯綜する感を覚えるであろう。この雰囲気作りはこの小説に於いては重要な仕掛けとなっている。

 そして、ここはネタバレになるが、この物語の最大の種は「お節介な殺人」である。通常、殺人事件の捜査の場合、犯行可能性と共に犯行動機が必要となってくる。しかし、「お節介な殺人」の場合はその動機が直接的な物では無い為に、捜査の線上に中々浮かんで来ない。似た様な物に、「交換殺人」もあるのだが、「お節介な殺人」は「交換殺人」と異なり、犯人に客観的な利益が無い分より推理が難しくなって来る。「お節介な殺人」自体は『カラマーゾフの兄弟』で顕れるものが最も有名かもしれない、そして、その犯行が露顕しなかったと言う点においても、この種の殺人犯の推定の困難さが想像できるだろう。本小説に於けるお節介の動機は、お節介を行う事で借りを一方的に拵え、対象を振り向かせたいという処にある。この動機自体は『月長石』に於けるRosannaのそれと非常に酷似している。勿論Rosannaはこの小説で描かれる犯人と比べると善良な存在として描かれてはいるのであるが、同じぐらいの時代の別々な推理探偵小説に於いて、お節介を以って相手を振り向かせようとしている人物が現れているのは興味深い。「お節介な殺人」及びそれに類するものを色々と探してみると面白いかもしれないと思った。

 さて上述したLeavenworth嬢であるが、物語の終盤に壮絶な告白をする。

もし、子供の頃からの贅沢な暮らしなんか人生の単なる付け足しだと思えるのなら。約束を守り愛情を守るために、それを簡単に捨て去れろうと思えるのなら! もし、名声や称賛や優美な品々がそれ程大切ではなくて、愛や友情や家庭の幸せの方が大切であったなら!もし、この億万の財産への欲望の足枷なしに一歩を踏み出すことができるのなら。(拙訳)

 金(富)と愛の天秤に掛けられると言うのは古来から頻繁に出てくる主題であるのだが、この小説で興味深いのは貧困と愛情との狭間で懊悩するのではなく、「巨万の富」と「愛のある比較的裕福な生活」との天秤なのである。探偵小説の筋とは関係無いのではあるが、ここに来て近代資本社会の発展のある種の極致としての富、そしてその富への誘惑の強さが戯画化されている。市民社会に於ける富の影響力の増大が伺えると思う。

 本小説は今でこそ、人々の記憶から消え行きつつある様だが、多くの長編近代探偵小説の雛形の様なものを見事に構築した記念碑的存在だと言える。この小説は大正の頃には『隠居殺し』と訳されていたし、後には『リーヴェンワース事件』という題で訳され、東都書房という処から出版されていた『世界推理小説大系』第6巻に収録されていた様だが、人口に膾炙しなくなってきたからであろう、現在は総て絶版状態の様だ。図書館に行けば手に入るかもしれないが、これは誠に残念な事態である。誰か有名な推理小説作家辺りが音頭を取ってこの小説を称揚してはくれないものだろうか?

The Leavenworth Case (English Edition)

The Leavenworth Case (English Edition)

 

 

『文学とはなにか-現代批評理論への招待』 テリー・イーグルトン 大橋洋一 訳

 小説読み方談義3

 今までに読んだ書物の内容をほぼ総て忘れてしまっている事の虚しさから読後の覚書を書き残し始めたのではあるが、文章を書けば書く程、自らの読みの浅さを思い知り、これではいかん、何とか改善したいと思い、更には他の人の素晴らしい批評を読んだ事で、せめて自らを納得させる事が出来るような読解を身に付けてみたいと思い始めた。

 さて、こういう際には、何か読み方の手引書、理論書みたいなモノが存在する筈だ、と云うのが、私が古来から書物に寄せている信頼であり、実際に探してみると、その様な目的に沿った書籍が散見される、例えばウィトゲンシュタインの『読書について』やナボコフの文学講義、そしてこの『文学とは何か』等が見つかった。最近同時に読んでいる大橋洋一編の『現代批評理論のすべて』に依れば、『文学とは何か』が最初の取っ掛かりとしては良さそうなので、まず、『文学とは何か』(1983、1996年)から読んでみた次第である。

 読んでみて分かったのだが、そもそも本書は「文学とは何か」を考えると言うよりも、それを行う為の方法論を徹底的に議論している。そして、これも後から考えてみれば、ある意味に於いて当然の事に思えてくるのだが、つまり、「文学とは何か」を考える為にはまず、文学という「何か」をある種の方法で検討せねばならないが、その理論や考え方は既に多種提示されており、それらの内の一つを無批判に取り上げるだとか、それらに追加するような並列の理論を単純に打ち立てるだけでは、「文学とは何か」にそう簡単には近付けないのである。であるから、結果的にこの本は、「文学とは何か」を掴む方法論つまり文学理論・文学批評とは実際の処どの様なものなのか?を議論する、メタ文学批評となっている。つまり批評の批評である。これが、私がこの数年間に読んだ書籍の中では飛び抜けてとてつもなく面白いものであった。

 著者イーグルトンはまず、序章に於いて、本書のタイトルの通りに「文学とは何か?」について考察を始めている。虚構が文学なのか?これは違う。言語を独自の方法で使用する、例えば、ロシアフォルマリスト達が提言したような、言葉を日常言語から解き放ち異化したものが文学だろうか?これもそう簡単には行かない。何故なら少し考えてみれば思い当たるように、日常言語と云う概念が常に単一の規範として共有されているという保証は無いからである。さらに異化説のもう一つの問題として異化の定義の曖昧さもある、読み方に依っては何でも異化であると言えなくもない。この事は、文学というものは書物の内容から一方的に規定されるものではなく、読み手にも依るものである事も示唆している。つまり、「文学とは人間と著述との一連の関わり方である」と言えるし、その意味において、

文学は、昆虫が存在しているように客観的に存在するものではないのは、もちろんのこと、文学を構成している価値判断は歴史的変化を受けるものである。そして、さらに重要なことは、こうした価値判断は社会的イデオロギーと密接に関係しているという事だ。

と、イーグルトンは述べている。そして、イデオロギーとは単なる個人的嗜好ではなく社会的集団が権力を行使し維持するために役立つ諸々の前提だとしている。

 ここで、著者の姿勢が決定的に明らかになる、つまり「文学とは一定の形で規定出来るものではない。」と主張するのだ。

 ここから、イーグルトンは様々な文学批評を俎上に載せて、滅多切りにして行く。そもそも、イデオロギーのない文学理論など存在しないのだと、歴代の文学理論を徹底的に検証していくのである。

 高尚であれば文学である、等と言うのは当然ある種の権威主義でイデオロギーに他ならないし、文学に宗教に代わる社会規範浸透装置としての役割を求めるのも当然イデオロギーである。ロマン派的な不可侵の美、神聖な美というものも権威主義と変わりがない。美を解析的に研究する流れには見るべきものはあるが、結局の処、ある種の価値観に合致したエリート主義に繋がる。現象学的批評は現実逃避に過ぎないし、構造主義は個々の経験を無視したアンチヒューマニズム的になりかねない。ポスト構造主義にしても現実とは向き合わない消極的姿勢へと終息してしまう場合もある。消極的姿勢とは結局の処、現状容認であり、現在の社会システムを支えるイデオロギーへの肯定でしかない。様々な新しい文学理論例えば、フェミニズム、ポストコロニアリズム、新歴史主義にしても様々な弱点を内包している。

 面白いのが、イーグルトンがそれぞれの理論を紹介する際に、その理論の概要を纏めて提示するのだが、その部分を読んでいる間は、成程成程と思って読んでしまうのである。しかし、どの理論に関しても、イーグルトンは最後には容赦の無い審判を下していく*1。ただ、イーグルトンはイデオロギー的である事を批判しているのではない、イデオロギーを内包している事に無自覚である事を批判しているのである。イデオロギー的でない公正無私な文学理論などこの世には存在しないのだ。

 読者はこう感じるだろう、公正無私な文学理論が無いのは了解した、と、では結局のところ答えは何なのか?どの文学理論が最も優れているのか?そしてどの文学理論に従えば「文学」を「読む」事が出来るのか? 結局の処、イーグルトンの答えはそんなものは存在しないという事になる。その様な正解や優劣が存在するかの様に思えたのはイデオロギーの所産である「文学制度=ある種の権威」による誤謬である。イーグルトンは統一的な文学理論が存在するという考え方自体も幻想に過ぎないと述べる。

 イーグルトンの主張する処は、「全ての批評はイデオロギー的であり政治的である、批評行為自体はイデオロギーと不可分である。その点に於いて、持てる価値・信念・諸目標の違いによってどの様な理論・方法を採るかは変わってくる。」という事である。イーグルトンの場合は窮極の処、社会を変革して現在の権力構造から解放する事を目的にしている。そしてその信念から重大な提言を行っている。

人間は文化のみに生きるにあらず。大多数の人間はその歴史を通して、文化に接するチャンスすら奪われてきたのであり、そして現在文化的活動を職業としている幸運な少数者たちの生活を保証しているのも、文化に接することのない人びとの労働である。この単純だがもっとも重要な事実から出発し、この事実をその活動のなかで心にとめておかないような文化理論や批評理論は、いかなるものにせよ、私の意見では、存在するに値しない。

 これはイーグルトンの主張には、強く同意せざるを得ない。富の集中と同様に、文化を嗜む事が可能であるという状況自体もある種の収奪なのである。私は幸いにも現在までの日本の社会構造を利用してこれまでそれなりに文化を愉しんできた訳であるが、これを可能にしてきたのは、数多くの人々の労働そしてその存在に他ならない。私にこの幸福を提供した社会構造と謂えども、現状が最善に近いとはとても認められないし、より良い物への変革を望んではいる。ただ、やはり自称リベラルの偏狭な価値観に収束してしまう自分自身の不誠実さも同時に感じざるを得ない。この自称リベラルが陥りがちな狭い思考はイーグルトンが本書で指摘し批判してきたものそのものである。より深く思惟せねばならないだろう、そして思索のみならず、何らかの別な選択肢も視野に入れて行くべきなのかもしれない。

 イーグルトンの懐疑的精神と社会主義的情熱に充ち満ちた本書は、近代の文学批評理論を通覧するのみならず、その背後に隠されていたイデオロギーを白日の下に曝しだした。イーグルトンの個人の思想信念に基づく議論の展開は本書に於いては拙速の感もぬぐえないが、その情熱には私の情動を震わせ興奮へと導くものがあった。本書は文学に興味を持つ総ての人々へお奨め出来る屈指の書物である。

文学とは何か (上)?現代批評理論への招待 文学とは何か?現代批評理論への招待 (岩波文庫)

文学とは何か (上)?現代批評理論への招待 文学とは何か?現代批評理論への招待 (岩波文庫)

 
文学とは何か (下)?現代批評理論への招待 文学とは何か?現代批評理論への招待 (岩波文庫)

文学とは何か (下)?現代批評理論への招待 文学とは何か?現代批評理論への招待 (岩波文庫)

 

*1:とは言え、リベラル・ヒューマニズム、フェミニズム、ポストコロニアリズムには一定以上の共感を示しているように思える。